カナ兄ぃの転院先は、安心できる場所だった。
前の病院ではできなかった、染色体検査や遺伝子検査などを行って、治療への道筋も見えてきた。
ただひとつ問題なのは、すぐ無理をするカナ兄ぃ。
この前もそう。
退院と言っても、一時帰宅。絶対安静、無理はしない。
口酸っぱく言ったのに、カナ兄ぃは学校へいってしまった。
学校をやめる挨拶も、荷物の回収も、全部あたしに任せてほしかった。もう心配で心配で授業にも身が入らない。
そして予想通り、
『香奈恵、ごめん。血が止まらない』
ヘラヘラと笑って報告してきた。
カナ兄ぃは酸素を運ぶ赤血球だけでなく、外敵から身を守る白血球も、止血の働きをする血小板も減少している。血が止まらないと言うことは、病状が悪くなった証拠。
あたしはハンマーで頭を殴られた気分だったのに、カナ兄ぃは平然としていた。
学校で、なにかあったな。
女の勘がピーンと働く。
厳しく問い詰めてやろうと思っても、カナ兄ぃの血小板は計測不可能なぐらい減っていた。これは大変だと、血小板の輸血が決まる。
ゆっくり会話をする暇がない。
「あ、輸血も心配だな」
ほとんどの輸血は問題なく、安全に行われている。
でも初回の輸血は怖い。
どのようなアレルギーが出るのか、出ないのか。輸血してみないとわからないから。
もしアレルギー反応が出たら、それを抑える点滴をしてくれる。だから大丈夫と思っても、血小板製剤は、ほかの輸血製剤と比べて副作用が出やすい。
アレルギーを抑える点滴をしてから、輸血の流れだといいのに、はじめての輸血ではそれができない。よほどの理由があれば別だけど……。
医師の娘だから生まれたときから医療に関わって、医学部に進んで、中途半端な知識がたくさんあるから心配だらけ。
カナ兄ぃはいつも「大丈夫、心配のしすぎ」って笑うけど、心配でたまらない。
「本格的な治療がはじまったばかりなのに、胃が痛いよ」
命を脅かす危険はこの先に待っている。
骨髄移植だ。
カナ兄ぃの体は大切な血球をつくることができない。正常な骨髄細胞を移し植える必要がある。
あたしが骨髄細胞を提供する、血縁者間ドナーになれるのか。血を抜かれたり、なにかを入れられたり。もう十回ぐらい注射をしている。
たくさんの検査を受けてドナーになれそうだけど、精神的な不安に耐えられないときがある。
あのくそガキは?
久遠寺ユイとかいう女。
再入院の話も、カナ兄ぃが難病を患っていることも話していない。
ただの生徒だから?
いや、きっと違う。病で苦しむ姿を見せたくない、と強がっているだけ。
前の病院で転院が決まり、無理して笑っていたカナ兄ぃ。
ほろ苦いコーヒーの香りが漂う店の前で、あのくそガキを発見したときの顔。
あたしには絶対に見せない表情だった。
許せない。
今までカナ兄ぃに近づく女はすべて排除してきた。
幼く見えないように早くから化粧を覚えて、週末はカナ兄ぃと買い物したり映画を観たり、とにかく外へ連れ出す。
するとカナ兄ぃには美人の彼女がいる、という噂が勝手に流れてくれた。
料理が得意だという彼女を連れてくれば、それはあたしへの挑戦状。
プロ級の手料理でお出迎えをしてあげたら、泣き出したわ。ざまーみろッ。
今度の相手は高校生?
バカじゃないの。あたしは認めないよ。
トモ兄ぃと約束したもん。
『奏人は優しすぎるから、香奈恵が守ってやるんだぞ』
『任せて!』
『香奈恵も幸せにな』
それが最期の言葉。
あたしは幼くて、無菌室には入れない。だからトモ兄ぃの壮絶な闘病生活を知らないけど、あの日のトモ兄ぃはとても穏やかな口調で、柔らかく優しい笑顔だった。
最期になるなんて、思いもしなかった。
だからあたしがカナ兄ぃを守って、幸せになる。
トモ兄ぃがいない今、カナ兄ぃを守れるのはあたししかいない。
「それでは水樹香奈恵さん、弁護士の先生が来ましたので最終同意書をお渡ししますね」
「はい」
病院の相談室で、骨髄移植についての説明を聞いていた。
どのような検査が必要で、どのような副作用があるのか。実際にする医療行為のことや、入院期間のこと。過去に死亡例があることまで。
カナ兄ぃの治療には骨髄移植が不可欠だと、医師に言われた。それから数日、検査と骨髄移植の話ばかり。三度目の説明を聞いて、やっと最終同意書を受け取った。
これにサインをすれば、骨髄を提供するドナーになれる。
さっさとサインしようとしたのに、死亡や障がいが残るリスクについて、あたしの意思を尊重して医師が説明をしているか、弁護士が口を挟んで確認してくる。
ドナーには手術直前までキャンセルを言う権利がある。やめてもいいと言ってくる。
そんなことをしたら、カナ兄ぃが死んでしまう。バカじゃないのと思いながら、適当に受け答えをした。
二時間近くリスクの説明を受けて、それでも腹をくくって同意するのか。
弁護士さん立ち会いのもと、あたしは無理強いされていない。自らの強い意志で最終同意書にサインします! ということをアピールするための儀式に参加していた。
くだらない。
最悪、死んでも文句を言わないでね。と念を押されているようで、あまりいい気がしない。
そして、あたしの名前は水樹香奈恵。
最終同意書にサインした名前を見て、嫌でも思い出す。
骨髄移植しか助かる道がなかった、トモ兄ぃ。兄弟ではドナー適合者になる可能性が高いのに、カナ兄ぃはドナーになれなかった。
だからあたしが生まれた。
願いをかなえ! そんなつもりでつけられた名前。
それなのに、家族の願いをかなえられなかった。
カナ兄ぃは家族間のドナーをずっと嫌がっていた。その理由はわかるよ。
もし、あたしがドナーになってカナ兄ぃを救えなかったら……。
考えただけでも背筋が凍る。
カナ兄ぃは、外界から隔離された無菌室にいる。
無菌室の患者は、孤立感や拘束感を抱きやすい。ストレスを感じやすいので、精神的なケアを重視して看護をするように言われた。それなのにカナ兄ぃは、あたしを気遣ってばかりだ。
洞察力にたけているから、ちょっとした変化もすぐ察してくる。だから悪い検査結果が出ると、落ち込むより先にあたしのメンタルを立て直そうとする。
時々イラッときて喧嘩になるけど、もめごとは極力避けたいみたい。
優しい性格なのは昔からでも、病人なんだからわがままのひとつやふたつ、言えばいいのに。
「カナ兄ぃ、入るよー」
空中の雑菌や病原菌を極力少なくした無菌室には、特別な空調設備があってクリーンな空気を循環させている。空気の流れを乱さないように、静かに入るとカナ兄ぃは眠っていた。
このまま休ませたいけど、最終同意書にサインしたことを伝えなくては。
「カナ兄ぃ、起きて」
ゆっくりと目が開いた。この瞬間はホッとする。
「……香奈恵?」
「そうだよ。さっき、最終同意書にサインしてきた。これであたしはカナ兄ぃのドナーだよ」
「骨髄移植より、さい帯血移植がよかった……」
「はあ? ふざけないで! さい帯血からは採取できる量が少ないの。貴重なものなのよ。カナ兄ぃには、HLA型が一致したあたしがいるのに」
「それじゃ、免疫抑制療法で頑張る」
「血球減少の程度が軽かったら、それも選択肢のひとつだけど」
免疫抑制療法を試しても、血球値があがってこない。これ以上続けても辛いだけだった。
「とにかく、兄弟が四人いてドナーになれるのはひとり、いるかどうか。カナ兄ぃの兄弟はあたしだけ。そのたったひとりの兄弟でHLA型が一致するのは奇跡なんだよ。先生たちもびっくりするぐらい、白血球の型が近いって」
赤血球の型にはA型、B型、O型、AB型があって、白血球にもHLA型と呼ばれる型がある。それが一致して、はじめて骨髄移植の道が開ける。その大当たりを引いたのに……。
「僕の白血球が、智也と同じ型ならよかったのに」
「また昔の話?」
「智也の気持ちがわかりそうな気がして」
「あーもう、辛気くさい顔しないで。はい、はい、そうですね。HLA型が一致してればよかったね。そうしたらトモ兄ぃは死ななかった。それなのに自分は……なんてバカなこと考えてないよね?」
カナ兄ぃは気まずそうに顔を伏せた。
「それとも、こうかしら? HLA型が完全一致でも、あたしの骨髄がカナ兄ぃを殺すかもしれない。重い負担や十字架を背負わせるかもしれない。自分のことより、あたしへのリスクを恐れているなら本気で怒るよ」
別に……と口ごもったけど、カナ兄ぃはあたしの地雷を踏んだ。
「カナ兄ぃとトモ兄ぃのHLA型が一致しないで、お父さんもお母さんも絶望しただろうなぁ。藁にもすがる気持ちであたしを産んで、さらにどん底に突き落とされた。ふたりの白血球が同じ型なら、あたしはこの世にいませんよーだ。この気持ちわかる?」
「ああ、もう悪かった。その話はやめよう」
「やめるわけないでしょう。喧嘩を売ってきたのはそっちよ。売られた喧嘩は全部買って、たたきつけてあげる」
病人だろうと、なんだろうと手加減しない。
カナ兄ぃには生きてほしい。
「助かる方法と手段があるのに、それを手放すのはバカ。大バカよ。移植した結果、なにが起こってもあたしは後悔しない。カナ兄ぃのお葬式で「やれることはすべてやった」って胸を張ってあげる」
きつい冗談でも、本気をぶつけないと誤った選択をしてしまう。
「香奈恵は強いな」
「カナ兄ぃが軟弱なだけよ」
トモ兄ぃが病気にならなかったら、あたしは生まれてこなかった。
「家族の願いをかなえなかったあたしが、やっと願いをかなえるチャンスがきたのに、それを手放すわけないでしょう。カナ兄ぃは黙って、あたしの自己満足に付き合ってくれればいいの。難しく考えないで」
「骨髄を採取するのに三泊四日の入院で、全身麻酔だろ? 死亡するリスクだって……」
「その話はさっき散々してきました。二時間近くリスクの話ばっかりで、みっちり脅されてきたわよ」
ドナーにはリスクがつきまとうけど、それはまれなことだと思っている。死にそうなのはカナ兄ぃなのに、またあたしの心配をしている。
「とにかく、あたしはなんでもするよ。カナ兄ぃも覚悟を決めて、あたしをこき使うぐらいになってもらわないと」
「香奈恵を? あとが怖そうだな」
やっと笑ってくれた。
でもすぐにカナ兄ぃの笑みが怪しく光る。
「……それじゃひとつ、頼んでいいか?」
「なになに? おいしいものが食べたい? 退屈なら一緒にゲームをする?」
「いや、そうじゃなくて――」
静かな声で頼み事を口にした。
カナ兄ぃのためなら、どんなことでもする。
その覚悟があったけど……。
「その願いは却下!」
「さっき、こき使えって言ったくせに」
「言ったけど、絶対に嫌ッ。だいたい、顔も覚えてないもん」
ぷくっと頬をふくらませてそっぽを向いた。
ここに入院してからはじめての頼み事が、あのくそガキに本を渡せだって?
「僕の机に置いてある本なんだ。袋に入ったままだから、すぐわかると思う」
「あたしは忙しいの!」
直近の言葉もひっくり返す。
あきれた顔つきをされても、あのくそガキに会うくらいなら、大学にいって勉強する。
「英語の平塚先生を覚えてるか? 去年、旅行にいったとき、会ってるだろ。その先生でもいいから渡してきてほしい。職員室の場所はわかるな」
うーんと唸って返事を渋る。
あのくそガキがいる学校は母校だから、職員室ぐらいわかる。そこに本を置くぐらいなら平気だけど、ばったり出会ったら……。
「わかった、もういい。頼まない。嫌なら僕がユイに渡してくる」
「ダメ、ダメ。絶対にダメ!」
「どうせまた一時帰宅があるだろ。そのときに渡すよ」
背中を向けられた。
あたしが本を届けないと、カナ兄ぃが無理をする。
一時帰宅のときは車で移動。外出は禁止。他人に会うなんてもってのほか。
「わかりました! 平塚先生に本を預ければいいのね。明日、行ってきます」
しおらしくあたしの心配をしておきながら、カナ兄ぃはずるい!
前の病院ではできなかった、染色体検査や遺伝子検査などを行って、治療への道筋も見えてきた。
ただひとつ問題なのは、すぐ無理をするカナ兄ぃ。
この前もそう。
退院と言っても、一時帰宅。絶対安静、無理はしない。
口酸っぱく言ったのに、カナ兄ぃは学校へいってしまった。
学校をやめる挨拶も、荷物の回収も、全部あたしに任せてほしかった。もう心配で心配で授業にも身が入らない。
そして予想通り、
『香奈恵、ごめん。血が止まらない』
ヘラヘラと笑って報告してきた。
カナ兄ぃは酸素を運ぶ赤血球だけでなく、外敵から身を守る白血球も、止血の働きをする血小板も減少している。血が止まらないと言うことは、病状が悪くなった証拠。
あたしはハンマーで頭を殴られた気分だったのに、カナ兄ぃは平然としていた。
学校で、なにかあったな。
女の勘がピーンと働く。
厳しく問い詰めてやろうと思っても、カナ兄ぃの血小板は計測不可能なぐらい減っていた。これは大変だと、血小板の輸血が決まる。
ゆっくり会話をする暇がない。
「あ、輸血も心配だな」
ほとんどの輸血は問題なく、安全に行われている。
でも初回の輸血は怖い。
どのようなアレルギーが出るのか、出ないのか。輸血してみないとわからないから。
もしアレルギー反応が出たら、それを抑える点滴をしてくれる。だから大丈夫と思っても、血小板製剤は、ほかの輸血製剤と比べて副作用が出やすい。
アレルギーを抑える点滴をしてから、輸血の流れだといいのに、はじめての輸血ではそれができない。よほどの理由があれば別だけど……。
医師の娘だから生まれたときから医療に関わって、医学部に進んで、中途半端な知識がたくさんあるから心配だらけ。
カナ兄ぃはいつも「大丈夫、心配のしすぎ」って笑うけど、心配でたまらない。
「本格的な治療がはじまったばかりなのに、胃が痛いよ」
命を脅かす危険はこの先に待っている。
骨髄移植だ。
カナ兄ぃの体は大切な血球をつくることができない。正常な骨髄細胞を移し植える必要がある。
あたしが骨髄細胞を提供する、血縁者間ドナーになれるのか。血を抜かれたり、なにかを入れられたり。もう十回ぐらい注射をしている。
たくさんの検査を受けてドナーになれそうだけど、精神的な不安に耐えられないときがある。
あのくそガキは?
久遠寺ユイとかいう女。
再入院の話も、カナ兄ぃが難病を患っていることも話していない。
ただの生徒だから?
いや、きっと違う。病で苦しむ姿を見せたくない、と強がっているだけ。
前の病院で転院が決まり、無理して笑っていたカナ兄ぃ。
ほろ苦いコーヒーの香りが漂う店の前で、あのくそガキを発見したときの顔。
あたしには絶対に見せない表情だった。
許せない。
今までカナ兄ぃに近づく女はすべて排除してきた。
幼く見えないように早くから化粧を覚えて、週末はカナ兄ぃと買い物したり映画を観たり、とにかく外へ連れ出す。
するとカナ兄ぃには美人の彼女がいる、という噂が勝手に流れてくれた。
料理が得意だという彼女を連れてくれば、それはあたしへの挑戦状。
プロ級の手料理でお出迎えをしてあげたら、泣き出したわ。ざまーみろッ。
今度の相手は高校生?
バカじゃないの。あたしは認めないよ。
トモ兄ぃと約束したもん。
『奏人は優しすぎるから、香奈恵が守ってやるんだぞ』
『任せて!』
『香奈恵も幸せにな』
それが最期の言葉。
あたしは幼くて、無菌室には入れない。だからトモ兄ぃの壮絶な闘病生活を知らないけど、あの日のトモ兄ぃはとても穏やかな口調で、柔らかく優しい笑顔だった。
最期になるなんて、思いもしなかった。
だからあたしがカナ兄ぃを守って、幸せになる。
トモ兄ぃがいない今、カナ兄ぃを守れるのはあたししかいない。
「それでは水樹香奈恵さん、弁護士の先生が来ましたので最終同意書をお渡ししますね」
「はい」
病院の相談室で、骨髄移植についての説明を聞いていた。
どのような検査が必要で、どのような副作用があるのか。実際にする医療行為のことや、入院期間のこと。過去に死亡例があることまで。
カナ兄ぃの治療には骨髄移植が不可欠だと、医師に言われた。それから数日、検査と骨髄移植の話ばかり。三度目の説明を聞いて、やっと最終同意書を受け取った。
これにサインをすれば、骨髄を提供するドナーになれる。
さっさとサインしようとしたのに、死亡や障がいが残るリスクについて、あたしの意思を尊重して医師が説明をしているか、弁護士が口を挟んで確認してくる。
ドナーには手術直前までキャンセルを言う権利がある。やめてもいいと言ってくる。
そんなことをしたら、カナ兄ぃが死んでしまう。バカじゃないのと思いながら、適当に受け答えをした。
二時間近くリスクの説明を受けて、それでも腹をくくって同意するのか。
弁護士さん立ち会いのもと、あたしは無理強いされていない。自らの強い意志で最終同意書にサインします! ということをアピールするための儀式に参加していた。
くだらない。
最悪、死んでも文句を言わないでね。と念を押されているようで、あまりいい気がしない。
そして、あたしの名前は水樹香奈恵。
最終同意書にサインした名前を見て、嫌でも思い出す。
骨髄移植しか助かる道がなかった、トモ兄ぃ。兄弟ではドナー適合者になる可能性が高いのに、カナ兄ぃはドナーになれなかった。
だからあたしが生まれた。
願いをかなえ! そんなつもりでつけられた名前。
それなのに、家族の願いをかなえられなかった。
カナ兄ぃは家族間のドナーをずっと嫌がっていた。その理由はわかるよ。
もし、あたしがドナーになってカナ兄ぃを救えなかったら……。
考えただけでも背筋が凍る。
カナ兄ぃは、外界から隔離された無菌室にいる。
無菌室の患者は、孤立感や拘束感を抱きやすい。ストレスを感じやすいので、精神的なケアを重視して看護をするように言われた。それなのにカナ兄ぃは、あたしを気遣ってばかりだ。
洞察力にたけているから、ちょっとした変化もすぐ察してくる。だから悪い検査結果が出ると、落ち込むより先にあたしのメンタルを立て直そうとする。
時々イラッときて喧嘩になるけど、もめごとは極力避けたいみたい。
優しい性格なのは昔からでも、病人なんだからわがままのひとつやふたつ、言えばいいのに。
「カナ兄ぃ、入るよー」
空中の雑菌や病原菌を極力少なくした無菌室には、特別な空調設備があってクリーンな空気を循環させている。空気の流れを乱さないように、静かに入るとカナ兄ぃは眠っていた。
このまま休ませたいけど、最終同意書にサインしたことを伝えなくては。
「カナ兄ぃ、起きて」
ゆっくりと目が開いた。この瞬間はホッとする。
「……香奈恵?」
「そうだよ。さっき、最終同意書にサインしてきた。これであたしはカナ兄ぃのドナーだよ」
「骨髄移植より、さい帯血移植がよかった……」
「はあ? ふざけないで! さい帯血からは採取できる量が少ないの。貴重なものなのよ。カナ兄ぃには、HLA型が一致したあたしがいるのに」
「それじゃ、免疫抑制療法で頑張る」
「血球減少の程度が軽かったら、それも選択肢のひとつだけど」
免疫抑制療法を試しても、血球値があがってこない。これ以上続けても辛いだけだった。
「とにかく、兄弟が四人いてドナーになれるのはひとり、いるかどうか。カナ兄ぃの兄弟はあたしだけ。そのたったひとりの兄弟でHLA型が一致するのは奇跡なんだよ。先生たちもびっくりするぐらい、白血球の型が近いって」
赤血球の型にはA型、B型、O型、AB型があって、白血球にもHLA型と呼ばれる型がある。それが一致して、はじめて骨髄移植の道が開ける。その大当たりを引いたのに……。
「僕の白血球が、智也と同じ型ならよかったのに」
「また昔の話?」
「智也の気持ちがわかりそうな気がして」
「あーもう、辛気くさい顔しないで。はい、はい、そうですね。HLA型が一致してればよかったね。そうしたらトモ兄ぃは死ななかった。それなのに自分は……なんてバカなこと考えてないよね?」
カナ兄ぃは気まずそうに顔を伏せた。
「それとも、こうかしら? HLA型が完全一致でも、あたしの骨髄がカナ兄ぃを殺すかもしれない。重い負担や十字架を背負わせるかもしれない。自分のことより、あたしへのリスクを恐れているなら本気で怒るよ」
別に……と口ごもったけど、カナ兄ぃはあたしの地雷を踏んだ。
「カナ兄ぃとトモ兄ぃのHLA型が一致しないで、お父さんもお母さんも絶望しただろうなぁ。藁にもすがる気持ちであたしを産んで、さらにどん底に突き落とされた。ふたりの白血球が同じ型なら、あたしはこの世にいませんよーだ。この気持ちわかる?」
「ああ、もう悪かった。その話はやめよう」
「やめるわけないでしょう。喧嘩を売ってきたのはそっちよ。売られた喧嘩は全部買って、たたきつけてあげる」
病人だろうと、なんだろうと手加減しない。
カナ兄ぃには生きてほしい。
「助かる方法と手段があるのに、それを手放すのはバカ。大バカよ。移植した結果、なにが起こってもあたしは後悔しない。カナ兄ぃのお葬式で「やれることはすべてやった」って胸を張ってあげる」
きつい冗談でも、本気をぶつけないと誤った選択をしてしまう。
「香奈恵は強いな」
「カナ兄ぃが軟弱なだけよ」
トモ兄ぃが病気にならなかったら、あたしは生まれてこなかった。
「家族の願いをかなえなかったあたしが、やっと願いをかなえるチャンスがきたのに、それを手放すわけないでしょう。カナ兄ぃは黙って、あたしの自己満足に付き合ってくれればいいの。難しく考えないで」
「骨髄を採取するのに三泊四日の入院で、全身麻酔だろ? 死亡するリスクだって……」
「その話はさっき散々してきました。二時間近くリスクの話ばっかりで、みっちり脅されてきたわよ」
ドナーにはリスクがつきまとうけど、それはまれなことだと思っている。死にそうなのはカナ兄ぃなのに、またあたしの心配をしている。
「とにかく、あたしはなんでもするよ。カナ兄ぃも覚悟を決めて、あたしをこき使うぐらいになってもらわないと」
「香奈恵を? あとが怖そうだな」
やっと笑ってくれた。
でもすぐにカナ兄ぃの笑みが怪しく光る。
「……それじゃひとつ、頼んでいいか?」
「なになに? おいしいものが食べたい? 退屈なら一緒にゲームをする?」
「いや、そうじゃなくて――」
静かな声で頼み事を口にした。
カナ兄ぃのためなら、どんなことでもする。
その覚悟があったけど……。
「その願いは却下!」
「さっき、こき使えって言ったくせに」
「言ったけど、絶対に嫌ッ。だいたい、顔も覚えてないもん」
ぷくっと頬をふくらませてそっぽを向いた。
ここに入院してからはじめての頼み事が、あのくそガキに本を渡せだって?
「僕の机に置いてある本なんだ。袋に入ったままだから、すぐわかると思う」
「あたしは忙しいの!」
直近の言葉もひっくり返す。
あきれた顔つきをされても、あのくそガキに会うくらいなら、大学にいって勉強する。
「英語の平塚先生を覚えてるか? 去年、旅行にいったとき、会ってるだろ。その先生でもいいから渡してきてほしい。職員室の場所はわかるな」
うーんと唸って返事を渋る。
あのくそガキがいる学校は母校だから、職員室ぐらいわかる。そこに本を置くぐらいなら平気だけど、ばったり出会ったら……。
「わかった、もういい。頼まない。嫌なら僕がユイに渡してくる」
「ダメ、ダメ。絶対にダメ!」
「どうせまた一時帰宅があるだろ。そのときに渡すよ」
背中を向けられた。
あたしが本を届けないと、カナ兄ぃが無理をする。
一時帰宅のときは車で移動。外出は禁止。他人に会うなんてもってのほか。
「わかりました! 平塚先生に本を預ければいいのね。明日、行ってきます」
しおらしくあたしの心配をしておきながら、カナ兄ぃはずるい!