水樹が退院する。
これはとても嬉しい。でも、補習のあとのお楽しみが消えた。
学校に来るようなことも話していたけど、それがいつなのか。
肝心なことを聞き忘れた私はバカだ。
「久遠寺、次はこのテキストだ」
広い教室に、今日も平塚とふたりっきり。
水樹に会えるなら補習授業も真面目に受けて、さっさと終わらせることができた。
水樹に会えなくなったら、英語まみれのこの時間はただの苦行でしかない。
ダラダラと問題を解いて、確認テスト。
確認テストで点数がとれないと、再びテキストと睨めっこ。それの繰り返しで飽きてきた。
しかも平塚が納得するまで、英語、英語、英語。
ああ、日本語が恋しい。国語の教科書が読みたい。
机に突っ伏していると、いきなり教室の扉がガラリと開いた。
「平塚先生、水樹先生が来ましたよー」
知らない先生がノックもせずにやってきた。
「わかりました。久遠寺、このテキストができたら職員室に持ってきてくれ」
パタパタと走り去る後ろ姿を、ポカンと見送った。
「今、水樹……って」
水樹が学校にいる。
もたもたしてたら、帰ってしまう。
制服のポケットからスマホを取り出して、アプリを起動。難しい長文も一発で日本語変換だ。
厳しい視線を投げつけてくる平塚がいなければ、テキストも楽勝だった。
「よし、できた!」
テキストを突き上げて、雄叫びを上げる。
水樹に会えるのが嬉しくて、嬉しくて仕方がない。
セミの鳴き声が響く廊下を走って、職員室をのぞき込んだ。
「あれ?」
普段、職員室にはいない購買のおばちゃんや、用務員のおじさんが水樹と話をしている。保健の先生もいる。
机や棚がぎっしりと並ぶ職員室にたくさんの人が集まって、水樹に近づけない。
「平塚ぁー。テキスト、全部できたよー」
私はここにいる。
それを水樹に伝えたくて、わざと大きな声を出した。
「久遠寺、テキストはそこに置いて、今日は帰っていいぞ」
「え、もう帰っていいの?」
答え合わせも、小テストもしていない。呼び捨てにしたことも怒っていない。ただ、「さっさと帰れ」と言いたそうな目をしている。
「はい、はい、帰ります。さようなら」
と言いつつ、つま先立ちになって両手を大きくふった。
そこでようやく、たくさんの教職員に囲まれていた水樹が、私に気づいてくれた。
形のいい目を優しくして、こっちに来てくれそうだったのに、平塚が水樹に話しかけて邪魔をする。
「もう! ムカつくな」
もう一度つま先立ちをすると、水樹がすっと人さし指を天井に向けた。
なんだろう? と思って天井を見上げた。
所々になぞの染みがある、汚い天井に私は首を傾げた。でも水樹は、口角をしっかりあげてニッと笑っている。
「あっ!」
短い声をあげて、職員室を出た。
暑苦しい廊下には、吹奏楽部の音が響いている。どこかで聞いたことのある曲だから、鼻歌交じりで階段をのぼっていく。
【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を越えて、久しぶりに屋上に出た。
「空が近くてまぶしいなぁ」
青空は、ちっぽけな私を吸い込んでしまいそうなほど広い。
吸い込まれたらすべてが青になってしまいそうなほど、濃い。
私はここから飛び降りて死のうとした。
でも水樹が「ようこそ、僕の学び舎へ」と言って、両手を広げてくれた。
あの日のことを思い出すと、心が温かい。
先生と生徒。
ただそれだけの関係んあおに、好きになってしまった。
空回りして、みっともない姿をさらしても、目を閉じて最初に浮かぶのは水樹。そして聞こえる。熱い胸の鼓動が。
かなわないのは知ってるけど。
「……辛いなぁ」
「どうした? 悩みでもあるのか?」
「ひぁえ?」
真後ろに水樹が立っていた。
「驚かせるつもりはなかったが、ごめん。びっくりさせたな」
「心臓を吐きそうになった」
「そんなに驚くなよ。さっき屋上にって指で合図したの、わかってくれた?」
「……なんとなく。だからここにいるでしょう」
水樹に会えて嬉しいけど、きっと目が合っただけで真っ赤になってしまう。
プイッと顔を背けて、空を見上げた。
青が輝いて、前髪をゆらす風も爽やかで心地いい。心が躍る素敵な空だ。
私は思わず目を細めたのに、水樹は意外なことを口にした。
「時々、青すぎる空が苦手になるんだ」
水樹は右手をのばして、空をつかもうとする。でも空には届かない。
綺麗な指先が虚空をさまよって、静かにおりた。
「兄貴が入院していた病院がものすごい坂の上にあって……。壁みたいな坂なのに、僕は自転車で。無謀だろ? 死にそうなぐらい苦しい思いをしながら、自転車をこいで、バカみたいなことをしていた」
「私もあるよ。坂道に出くわしたら、なぜか挑戦したくなるの。自転車をおりずに、てっぺんまでのぼってやるって」
「そうそう、最初は僕もそんな感じだった。でも、この坂を攻略したら兄貴の病気が治るような気がしたから、何度も挑戦して、失敗して。そのことを兄貴に話したら、大笑いされた」
水樹は楽しそうに話をしている。だけど、水樹のお兄さんは――。
「あのとき、兄貴から空を見るようにすすめられた。だから見上げたら、坂と青い空しかなくて。ずっと続く坂道が空へと続いて、僕は青に吸い込まれていくようだった。気持ちよくて病気のことも、悩みも、すべて忘れそうになったのに、坂道を登り切ると現実が待ってるだろ。……兄貴は病を克服できなかった」
私は目を泳がせて、かける言葉を探したけど見つからない。
「空はこんなにも青くて美しいのに、大切な人が消えても変わらない。青すぎる空の色が残酷に思えた。それでも僕はこの空を綺麗だと思ってしまう。いいことも、嫌なことも、すべて受け止めてくれるから。あ、ユイにもあの坂道と空を見せてやりたかったな」
「水樹……、さっきから変だよ?」
朗らかな笑みを浮かべて楽しそうなのに、形のいい目に悲しみが浮かんでいる。
「なにかあったの?」
水樹はなにも答えてくれない。
両手を腰に当てて、気落ちしたようなため息をつく。それから再び息を吸って、「まいりました、降参です」と言いたげな表情で、信じられないことを口にした。
「僕はこの学校を辞める。というか、もう辞めてきた」
え? と聞き返しても、水樹の顔が「ごめん」と言っている。
「……どうして?」
そっとふれるように尋ねた。
「僕は今、人生の岐路に立ってて……。親父は医者で、母親は新薬の開発に命をかけている。妹の香奈恵も医学部だ」
「先生を辞めて、お医者さんになるの?」
「そういうわけじゃないけど、しばらくは病院かな」
水樹は大きく背伸びをした。
私はその広い背中を眺めることしかできない。
今日でお別れ。だから職員室にはたくさんの人が集まって……。また私はなにも知らなかった。
水樹に会える嬉しさだけを抱えてここに来たのが、バカみたいだ。
涙ですべてがにじむけど、青すぎる空を仰ぐ水樹は気づいてくれない。
「真っ暗な空に浮かぶ秋の名月を眺めて、冬はからりとした青空の下で、まぶしく光る雪景色を歩いて、春には空に咲く桜を……。ユイと一緒に見たかったなぁ」
「……見ればいいじゃん」
鼻をすすって、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「私はどこにもいかない。この学校にいる。学校を辞めても、空ぐらい見れるよ。私と一緒に見たいなら、誘ってくれれば……。違う、私が誘う。水樹と一緒に夏祭りにいきたい。花火が見たい。満月を眺めて、雪遊びもしたい。空に咲く桜も見てみたい」
手をギュッと強く握りしめて、のどが痛くなるほどの大声を水樹にぶつけたのに、背中を向けたままだ。
私はこんなときでも、水樹を困らせている。
最悪な女だとわかっていても、言葉が止まらなかった。
「そっか。学校を辞めたら……、私は生徒じゃない。水樹には関係ない人になるんだ」
「そうじゃない」
ようやく水樹が振り返ってくれた。
「だってそうでしょう。私が生徒だから、いじめを見過ごさなかった。留年しそうなほどバカだから、手を貸してくれた。お弁当だって、ひとりでパンをかじっていたから、憐れんだ? 全部、知ってる。わかってる。それでも……水樹と……」
離れたくない。
ただの生徒でいいから、傍にいてほしい。
大粒の涙がひとつこぼれたら、次から次へとあふれてもうダメだった。
「悪かった。僕の言い方が悪かったから、泣かないでくれ」
水樹は泣きじゃくる私の背中を、あやすように優しくさすってくれた。
「確かに最初は同情していたのかもしれない。でも、今は違う。ユイは特別なんだ」
「……どういうこと?」
「そう聞かれると……、んー……まいったなぁ」
少しはにかみながら口元に手を当てて、深く考え込んでいる。でも、口元に当てた手を離すと、水樹の目が見開く。
じっと手のひらを見つめたまま、固まっていた。
「水樹、血が。口から」
「えっ、あぁ……、うん」
水樹らしくない、空返事が返ってきた。
手のひらにも血がついている。
「わわわ、大変」
ポケットからハンカチを取り出して、血を拭き取った。
唇の端から流れる血も拭き取ろうとしたら、手首をつかまれた。
びっくりして思わず手を引こうとしたけど、水樹は片手で軽々と私を引き寄せる。
柔らかい風に揺れる水樹の前髪と、私の前髪がふわりとふれた。
顔が近すぎて、心臓がドドドドッとただ事ではないリズムで大暴れ。
頭の中がパニックになった瞬間、ゴンッと鈍い音が。
「いったーいッ!」
おでこに頭突きされた。
「意地悪なことばっかり言うから、お仕置きだ」
水樹はあらっぽく血を拭うと、いたずらが成功した少年のように笑っている。
そして――。
「同情も憐れみもない。僕はユイが好きだから、一緒に弁当を食べて、勉強して。それが答え。それよりも見ろ、あっちの雲は白くてふわふわだ。肉まんみたいだろ?」
「は? 夏の雲といえば、綿菓子だよ。この暑い日に肉まんって……ないわー」
まだヒリヒリするおでこをさすりながら、笑った。
「ねえ、水樹。また会える?」
「そうだなぁ、順調にいけば四月……かなぁ。できる範囲で頑張るから、ひとつ、約束してくれ」
水樹は消えかかった赤い線を指さした。
前に、この赤い線から外に出ると、下から見える。屋上に人がいるのがバレてしまう、と言っていた。
「僕がいなくなっても、絶対にこの赤い線から外に出るな」
そう言って、小指を差し出した。
「あれから一度も出てないよ。指切りなんかしなくても、線より外には出ないよ」
「本当か?」
「うん。絶対に出ません」
「よかった。これで安心だ」
肩の荷がおりたようにホッとするから、私は確信した。
ここから飛び降りて死のうとしたことを、水樹は知っている。だから手を差し伸べてくれた。
それは先生と生徒だから?
――ユイが好きだから。
さっき確かにそう言ってくれた。
大人はみんなずるくて気まぐれだけど、水樹の言葉は信じよう。
うまそうな雲みっけ。と、のんきに空を眺めている水樹は、誰よりも私の近くにいてくれた。
ジリジリと焼けるような胸の痛みと、モヤモヤした暗い気持ちが晴れ渡ると、心が弾む。
輝く夏空のように、爽やかで大胆になれる。
「えいッ!」
私は水樹に抱きついた。
すべての温もりを全身で感じながら、しばらく会えなくなる寂しさを封じる。
「大丈夫だよ、私は死なない。約束する。四月になったら、お花見にいこうね」
相変わらず返事がない。でも、頭をそっとなでてくれたから、それが返事だと……私は勘違いした。
これはとても嬉しい。でも、補習のあとのお楽しみが消えた。
学校に来るようなことも話していたけど、それがいつなのか。
肝心なことを聞き忘れた私はバカだ。
「久遠寺、次はこのテキストだ」
広い教室に、今日も平塚とふたりっきり。
水樹に会えるなら補習授業も真面目に受けて、さっさと終わらせることができた。
水樹に会えなくなったら、英語まみれのこの時間はただの苦行でしかない。
ダラダラと問題を解いて、確認テスト。
確認テストで点数がとれないと、再びテキストと睨めっこ。それの繰り返しで飽きてきた。
しかも平塚が納得するまで、英語、英語、英語。
ああ、日本語が恋しい。国語の教科書が読みたい。
机に突っ伏していると、いきなり教室の扉がガラリと開いた。
「平塚先生、水樹先生が来ましたよー」
知らない先生がノックもせずにやってきた。
「わかりました。久遠寺、このテキストができたら職員室に持ってきてくれ」
パタパタと走り去る後ろ姿を、ポカンと見送った。
「今、水樹……って」
水樹が学校にいる。
もたもたしてたら、帰ってしまう。
制服のポケットからスマホを取り出して、アプリを起動。難しい長文も一発で日本語変換だ。
厳しい視線を投げつけてくる平塚がいなければ、テキストも楽勝だった。
「よし、できた!」
テキストを突き上げて、雄叫びを上げる。
水樹に会えるのが嬉しくて、嬉しくて仕方がない。
セミの鳴き声が響く廊下を走って、職員室をのぞき込んだ。
「あれ?」
普段、職員室にはいない購買のおばちゃんや、用務員のおじさんが水樹と話をしている。保健の先生もいる。
机や棚がぎっしりと並ぶ職員室にたくさんの人が集まって、水樹に近づけない。
「平塚ぁー。テキスト、全部できたよー」
私はここにいる。
それを水樹に伝えたくて、わざと大きな声を出した。
「久遠寺、テキストはそこに置いて、今日は帰っていいぞ」
「え、もう帰っていいの?」
答え合わせも、小テストもしていない。呼び捨てにしたことも怒っていない。ただ、「さっさと帰れ」と言いたそうな目をしている。
「はい、はい、帰ります。さようなら」
と言いつつ、つま先立ちになって両手を大きくふった。
そこでようやく、たくさんの教職員に囲まれていた水樹が、私に気づいてくれた。
形のいい目を優しくして、こっちに来てくれそうだったのに、平塚が水樹に話しかけて邪魔をする。
「もう! ムカつくな」
もう一度つま先立ちをすると、水樹がすっと人さし指を天井に向けた。
なんだろう? と思って天井を見上げた。
所々になぞの染みがある、汚い天井に私は首を傾げた。でも水樹は、口角をしっかりあげてニッと笑っている。
「あっ!」
短い声をあげて、職員室を出た。
暑苦しい廊下には、吹奏楽部の音が響いている。どこかで聞いたことのある曲だから、鼻歌交じりで階段をのぼっていく。
【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を越えて、久しぶりに屋上に出た。
「空が近くてまぶしいなぁ」
青空は、ちっぽけな私を吸い込んでしまいそうなほど広い。
吸い込まれたらすべてが青になってしまいそうなほど、濃い。
私はここから飛び降りて死のうとした。
でも水樹が「ようこそ、僕の学び舎へ」と言って、両手を広げてくれた。
あの日のことを思い出すと、心が温かい。
先生と生徒。
ただそれだけの関係んあおに、好きになってしまった。
空回りして、みっともない姿をさらしても、目を閉じて最初に浮かぶのは水樹。そして聞こえる。熱い胸の鼓動が。
かなわないのは知ってるけど。
「……辛いなぁ」
「どうした? 悩みでもあるのか?」
「ひぁえ?」
真後ろに水樹が立っていた。
「驚かせるつもりはなかったが、ごめん。びっくりさせたな」
「心臓を吐きそうになった」
「そんなに驚くなよ。さっき屋上にって指で合図したの、わかってくれた?」
「……なんとなく。だからここにいるでしょう」
水樹に会えて嬉しいけど、きっと目が合っただけで真っ赤になってしまう。
プイッと顔を背けて、空を見上げた。
青が輝いて、前髪をゆらす風も爽やかで心地いい。心が躍る素敵な空だ。
私は思わず目を細めたのに、水樹は意外なことを口にした。
「時々、青すぎる空が苦手になるんだ」
水樹は右手をのばして、空をつかもうとする。でも空には届かない。
綺麗な指先が虚空をさまよって、静かにおりた。
「兄貴が入院していた病院がものすごい坂の上にあって……。壁みたいな坂なのに、僕は自転車で。無謀だろ? 死にそうなぐらい苦しい思いをしながら、自転車をこいで、バカみたいなことをしていた」
「私もあるよ。坂道に出くわしたら、なぜか挑戦したくなるの。自転車をおりずに、てっぺんまでのぼってやるって」
「そうそう、最初は僕もそんな感じだった。でも、この坂を攻略したら兄貴の病気が治るような気がしたから、何度も挑戦して、失敗して。そのことを兄貴に話したら、大笑いされた」
水樹は楽しそうに話をしている。だけど、水樹のお兄さんは――。
「あのとき、兄貴から空を見るようにすすめられた。だから見上げたら、坂と青い空しかなくて。ずっと続く坂道が空へと続いて、僕は青に吸い込まれていくようだった。気持ちよくて病気のことも、悩みも、すべて忘れそうになったのに、坂道を登り切ると現実が待ってるだろ。……兄貴は病を克服できなかった」
私は目を泳がせて、かける言葉を探したけど見つからない。
「空はこんなにも青くて美しいのに、大切な人が消えても変わらない。青すぎる空の色が残酷に思えた。それでも僕はこの空を綺麗だと思ってしまう。いいことも、嫌なことも、すべて受け止めてくれるから。あ、ユイにもあの坂道と空を見せてやりたかったな」
「水樹……、さっきから変だよ?」
朗らかな笑みを浮かべて楽しそうなのに、形のいい目に悲しみが浮かんでいる。
「なにかあったの?」
水樹はなにも答えてくれない。
両手を腰に当てて、気落ちしたようなため息をつく。それから再び息を吸って、「まいりました、降参です」と言いたげな表情で、信じられないことを口にした。
「僕はこの学校を辞める。というか、もう辞めてきた」
え? と聞き返しても、水樹の顔が「ごめん」と言っている。
「……どうして?」
そっとふれるように尋ねた。
「僕は今、人生の岐路に立ってて……。親父は医者で、母親は新薬の開発に命をかけている。妹の香奈恵も医学部だ」
「先生を辞めて、お医者さんになるの?」
「そういうわけじゃないけど、しばらくは病院かな」
水樹は大きく背伸びをした。
私はその広い背中を眺めることしかできない。
今日でお別れ。だから職員室にはたくさんの人が集まって……。また私はなにも知らなかった。
水樹に会える嬉しさだけを抱えてここに来たのが、バカみたいだ。
涙ですべてがにじむけど、青すぎる空を仰ぐ水樹は気づいてくれない。
「真っ暗な空に浮かぶ秋の名月を眺めて、冬はからりとした青空の下で、まぶしく光る雪景色を歩いて、春には空に咲く桜を……。ユイと一緒に見たかったなぁ」
「……見ればいいじゃん」
鼻をすすって、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「私はどこにもいかない。この学校にいる。学校を辞めても、空ぐらい見れるよ。私と一緒に見たいなら、誘ってくれれば……。違う、私が誘う。水樹と一緒に夏祭りにいきたい。花火が見たい。満月を眺めて、雪遊びもしたい。空に咲く桜も見てみたい」
手をギュッと強く握りしめて、のどが痛くなるほどの大声を水樹にぶつけたのに、背中を向けたままだ。
私はこんなときでも、水樹を困らせている。
最悪な女だとわかっていても、言葉が止まらなかった。
「そっか。学校を辞めたら……、私は生徒じゃない。水樹には関係ない人になるんだ」
「そうじゃない」
ようやく水樹が振り返ってくれた。
「だってそうでしょう。私が生徒だから、いじめを見過ごさなかった。留年しそうなほどバカだから、手を貸してくれた。お弁当だって、ひとりでパンをかじっていたから、憐れんだ? 全部、知ってる。わかってる。それでも……水樹と……」
離れたくない。
ただの生徒でいいから、傍にいてほしい。
大粒の涙がひとつこぼれたら、次から次へとあふれてもうダメだった。
「悪かった。僕の言い方が悪かったから、泣かないでくれ」
水樹は泣きじゃくる私の背中を、あやすように優しくさすってくれた。
「確かに最初は同情していたのかもしれない。でも、今は違う。ユイは特別なんだ」
「……どういうこと?」
「そう聞かれると……、んー……まいったなぁ」
少しはにかみながら口元に手を当てて、深く考え込んでいる。でも、口元に当てた手を離すと、水樹の目が見開く。
じっと手のひらを見つめたまま、固まっていた。
「水樹、血が。口から」
「えっ、あぁ……、うん」
水樹らしくない、空返事が返ってきた。
手のひらにも血がついている。
「わわわ、大変」
ポケットからハンカチを取り出して、血を拭き取った。
唇の端から流れる血も拭き取ろうとしたら、手首をつかまれた。
びっくりして思わず手を引こうとしたけど、水樹は片手で軽々と私を引き寄せる。
柔らかい風に揺れる水樹の前髪と、私の前髪がふわりとふれた。
顔が近すぎて、心臓がドドドドッとただ事ではないリズムで大暴れ。
頭の中がパニックになった瞬間、ゴンッと鈍い音が。
「いったーいッ!」
おでこに頭突きされた。
「意地悪なことばっかり言うから、お仕置きだ」
水樹はあらっぽく血を拭うと、いたずらが成功した少年のように笑っている。
そして――。
「同情も憐れみもない。僕はユイが好きだから、一緒に弁当を食べて、勉強して。それが答え。それよりも見ろ、あっちの雲は白くてふわふわだ。肉まんみたいだろ?」
「は? 夏の雲といえば、綿菓子だよ。この暑い日に肉まんって……ないわー」
まだヒリヒリするおでこをさすりながら、笑った。
「ねえ、水樹。また会える?」
「そうだなぁ、順調にいけば四月……かなぁ。できる範囲で頑張るから、ひとつ、約束してくれ」
水樹は消えかかった赤い線を指さした。
前に、この赤い線から外に出ると、下から見える。屋上に人がいるのがバレてしまう、と言っていた。
「僕がいなくなっても、絶対にこの赤い線から外に出るな」
そう言って、小指を差し出した。
「あれから一度も出てないよ。指切りなんかしなくても、線より外には出ないよ」
「本当か?」
「うん。絶対に出ません」
「よかった。これで安心だ」
肩の荷がおりたようにホッとするから、私は確信した。
ここから飛び降りて死のうとしたことを、水樹は知っている。だから手を差し伸べてくれた。
それは先生と生徒だから?
――ユイが好きだから。
さっき確かにそう言ってくれた。
大人はみんなずるくて気まぐれだけど、水樹の言葉は信じよう。
うまそうな雲みっけ。と、のんきに空を眺めている水樹は、誰よりも私の近くにいてくれた。
ジリジリと焼けるような胸の痛みと、モヤモヤした暗い気持ちが晴れ渡ると、心が弾む。
輝く夏空のように、爽やかで大胆になれる。
「えいッ!」
私は水樹に抱きついた。
すべての温もりを全身で感じながら、しばらく会えなくなる寂しさを封じる。
「大丈夫だよ、私は死なない。約束する。四月になったら、お花見にいこうね」
相変わらず返事がない。でも、頭をそっとなでてくれたから、それが返事だと……私は勘違いした。