僕は寝付きがよくて、体力の回復も早いほうだ。
 それなのに疲れがとれない。
 食欲が落ちて、体重も減っている。

 難しい勉強をしながらでも、おいしそうにパクパク食べるユイが羨ましかった。
 そしていつも以上に疲れているのは、突然やってきた今川のせいだと思い込んでいた。

 香奈恵が『カナ兄ぃが結婚したら、お嫁さんを刺しに来るわよ』なんて言うから、数学研究室に今川とユイがいるのを目撃して、心臓が止まりそうだった。

 幸い、殺傷事件は起こらなかった。だが、やはり今川は今川。
 いきなりの行動になすすべがなく、不本意ながら……今川の唇が……。

 ユイは床に向かって「うわああああああぁぁぁぁッ」と叫んでいたが、叫びたいのは僕も同じ。今川はユイの前で……いや、生徒の前でとんでもないことをしてくれた。

 それからユイは数学研究室に来なくなった。 
 喜怒哀楽の激しいユイだから、姿を見せないことは度々あった。でも、今回の出来事はいつもと違う。

 勉強は大丈夫か? 
 しっかり飯は食ってるか? 
 いくら心配しても、合わせる顔がない。おそらくユイも僕に会いたくないだろう。

 今川のせいで色々なことがありすぎた。だからゆっくり休んでも、疲れがとれない。そのうちもとに戻るだろう。
 僕は軽く考えていた。
 突然、体が悲鳴をあげるまで。
 
 とても寝苦しい夜に、激しい息切れと胸の動悸に襲われた。
 今まで感じたことのない息苦しさに焦ったが、気休め程度の対処方法なら知っている。

 僕は仰向けになって目を閉じた。
 胸に手を置いて心臓の音を感じながら、できる範囲で深呼吸を繰り返す。「大丈夫」と自己暗示を入れながら……。

 気がつくと朝だった。
 動悸も息切れも、夢のように消えている。まるでキツネにつままれたよう。それでも、いつもと変わらない朝を迎えてホッとした。

「智也に助けられたかな」

 兄の智也は血液の(がん)で、入退院を繰り返していた。
 時々発作を起こして、親が智也の背中をさすっていた。

 ゆっくりと深呼吸するようにうながして、手のマッサージもする。
 息を整える姿を覚えていたから、助かった。そう考えて起きあがると、倦怠感に包まれる。

 元気だった智也が急に「疲れた」と言って、横になる姿が頭に浮かんだ。
 首にあるリンパ腺が腫れていたから、何気なく伝えると、おそるおそる首に手を当てて、さらに顔色を悪くした。

 そして今、僕もおそるおそる首に手を当てて目を閉じる。すると指先が真っ先に異変を感じ取った。
 智也とまったく同じ場所に、複数の腫れがある。

「……まさか」

 手が震えた。
 早く病院にいった方がいいのに、ユイのことを考えてしまった。

 ――私は、水樹を先生だと思ってる。

 もちろん僕もユイは生徒のひとりだ。
 それなのに、なんだろう。落ち込んでいるのか寂しいのか。よくわからない感情が胸の中に渦巻いていた。

 病院で症状を訴えると、ずんぐりした医師が「夏風邪かな?」と首を傾げる。その態度があまりにものんきだから、智也の話をした。すると念のため、血液検査をすることになった。

 血液検査の結果に視線を落とした医師は、すぐに「骨髄穿刺(マルク)」と看護師に告げる。
 え? と驚いても、医師は僕の顔を見ない。かわりに看護師さんが説明をしてくれた。

「血液検査の結果、汎血球減少(はんけっきゅうげんしょう)が見られますので、骨髄穿刺(こつずいせんし)をします。処置室まで案内しますね」
「血中細胞成分が全体的に少ないんですか?」

「あら、詳しいんですね。血液中の赤血球、白血球、血小板、すべてが若干減少してるようなので、骨の中にある骨髄液を少し抜いて観察します」
「痛い……ですか?」

 智也は、胸骨または腰にある腸骨に針をぶっ刺す、骨髄穿刺が嫌だと言っていた。それを覚えているから、つい逃げ腰になる。

 看護師さんは「大丈夫ですよ」とほほ笑んで、処置室の扉を開けた。
 処置室にはベッドがずらりと並び、一台ずつ仕切りがある。

「手前のベッドでうつ伏せになってください」

 まだ心の準備ができていない。それでも指示通りに従う。
 先程のずんぐりとした医師がやってくると、看護師さんは僕の真横で注射器の準備をはじめた。

 ガチャガチャと金属がこすれる音を耳にしながら、今まで見たこともない太い針の注射器がトレイに並んでいく。
 逃げ出したいと思ったとき、背骨のあたりをヒヤッとした感触が走り抜けた。

「あ、冷たかったですか? 今、背中の消毒をしてますので我慢してください」

 先に言ってくれたら驚かなくてすんだのに……。
 そして僕が「わかりました」と返事をする前に、ずんぐりとした医師が「いきますよー」と。
 
「水樹さん、麻酔をします。チクッとしますが我慢ですよ」

 僕はもう、まな板の上の鯉。普通の注射と同じ程度の痛みを感じた。
 これからもっと痛くなるのか?

 憂うつな気持ちで身構えたのに、まったく痛くならない。「骨の方に針が入っていきますよー」と言われても、余裕だった。
 これなら楽勝。
 智也が入院していた昔と違って、今は医療技術がよくなったのだと安心していたが、本番はこれからだった。

 骨髄液の吸引がはじまった。
 ズズズッと、内臓を引っ張られるような感覚に襲われる。背中の骨もバキバキに砕かれて、そのまま吸引されそうな気持ち悪さ。

 麻酔のおかげで痛みはないが、それを超えたとても不思議な感覚に支配される。
 まるで魂を吸い取られているようで気持ち悪い。

「はい、終わりました」

 処置室に入ってから十分程度で骨髄穿刺が終わった。
 あっという間だったのに、ぐったりしていた。

「検査結果はいつ頃、わかりますか?」

 僕の問いに、ずんぐりとした医師はチラッと骨髄液を見た。それから看護師さんになにか指示をしている。

「あの……」

 もう一度声をかけると、

「今日は家に帰ってもらって、明日は二、三日分の着替えを持ってきてください」

 早口な回答が返ってきた。そして僕の顔を見ることなく、ずんぐりとした医師は処置室を出ていった。
 
「入院ですか?」

 背中の止血をしている看護師さんに尋ねた。

「そうですね。早ければ三日、長くても二週間ぐらいの入院になります。今はしばらく安静にしてから、いったんお家に帰りましょう。翌日は十時から診察がありますので、それまでに入院手続きをすませて――」

 看護師さんの言葉が耳に入ってこなかった。
 抜き取った骨髄液を一目見ただけで、入院が決まったことにショックを受けている。

 健康な人の骨髄液は濁らない。
 おそらく僕の骨髄液が濁っていたのだろう。これも智也と同じ。

 兄に続いて僕までも……。
 家族の悲しむ顔しか思い浮かばなかった。

 翌日、入院手続きをすませてから診察室に入ると、ずんぐりとした医師はいなかった。
 白髪の老婦人が、難しい顔をして座っている。
 血液の病気に詳しい医師らしい。

「水樹さんの症状と検査結果から、白血病の可能性は低いと思われます。ですが……骨髄液に濁りがありますし、よくない病気の可能性も考えられますね」

 奥歯にものが挟まったような言い方だ。
 さらに詳しい検査が必要とかで、また採血。

 CTスキャンや胸部エックス線調査で、他の場所に異常がないかをくまなく調べた。それなのに結果は、骨髄の血液をつくる力が弱くなっている。白血球、赤血球、血小板のすべてが減少している。

 初期の診断と変わらず、疲労だけが蓄積されていく。
 病名がハッキリしないので、具体的な治療方法が決まらないことも不安だった。

「病院、変えた方がいいよ」

 毎日見舞いに来る香奈恵が、静かに言った。
 ずんぐりとした医師よりも、白髪の老婦人の方が親身に話を聞いてくれた。

 血液の病気に詳しい医師だから、質問にもよく答えてくれる。
 看護師さんたちもいい人で、居心地は悪くない。ただ医療設備が古い。もっと大きな病院なら、より詳しい検査ができる。

 悩んでいると、ユイが病室に来た。
 元気そうなので少しホッとしたが、なぜか怒っている。

 荒々しい靴音を立てて、かなり激しく怒っている。なぜだ?
 一瞬、まだ今川のことで怒っていると思ったが、そうではなかった。

 僕の胸ぐらをつかんだ、ユイの小さな手が震えていた。
 平塚先生からデタラメなことを聞いたようで、責任を感じている様子だった。僕の胃に穴は開いていないのに……。

 その日はゆっくり話す時間がなかった。
 ユイが「明日もここに……、いいかな?」と、はにかみながらお願いする姿は、ほほ笑ましかった。
 香奈恵の陰にちょこんと隠れていたから、母親の後ろからチラッとこっちを見ている子どものようで和んだ。

 翌日もユイは来てくれた。
 エレベーターの前で首を傾げて、なにか考え事をしている。
 僕も同じように首を傾げた。

 もう夏休みに入っているから、私服姿が見られると思ったのに、いつも制服だ。
 ちょっぴり残念な気持ちになったが、あの制服を見ていると、僕はまた教師に戻れそうな気がしてくる。
 荒波がすっと静まり返るような落ち着きを感じていた。

 考え込んでいるユイの肩を突くと、これまた面白い反応が返ってきた。
 ワタワタと慌て顔になって、左右を見回す。それからもう一度、僕をじっと見て「本物だ!」と言いたそうな目をする。
 思わず噴き出しそうになるが、くるくる変わる表情は見飽きない。

 昨日話せなかった分を、取り戻したい気持ちにかられた。しかし、病室に戻れば香奈恵がいる。病で苦しむ入院患者も。
 そしてここは病院。生と死がとても近い場所。
 幸い、死のうとするユイの顔は一度しか見ていなくても、またいつスイッチが入るかわからない。

 死、というものからユイを遠ざけたかった。だからユイをコーヒーショップに誘った。
 あそこなら病院らしさはない。楽しい時間を過ごせると考えたが、甘かった。
 
 香奈恵が現れて、邪魔された。
 まだココアを飲んでいないと、ささやかに抵抗しても白髪の老婦人が呼んでいるなら、いくしかない。
 おそらく新たな検査結果が出たのだろう。

 それは最悪な結果かもしれない。恐れもある。だが、病名がハッキリして治療がはじまれば、転院する必要もない。
 遠くの病院に移ってユイに会えなくなるより、ここで入院していた方がいい気がする。そのようなことを考えながら診察室に入ると、いきなり白髪の老婦人が頭を下げてきた。

「水樹さん、すみません」

 医師が患者に頭を下げるなんて、よっぽどのことだ。
 漠然とした不安に襲われた。

「水樹さんの骨髄検査の結果を知り合いの医師に渡して、意見をうかがいました。個人情報なのに、勝手なことをしてすみません」
「いえ……。それでなにかわかりましたか?」

「顕微鏡検査で異常細胞の有無と、芽球(がきゅう)……もっとも幼若な血液細胞のことで、白血病の可能性が高い細胞なのかを調べてます。水樹さんの場合は白血病ではない可能性が高く」
「それは前にも聞きました」

 少し苛立つ声が出た。
 
「お知り合いの医師は僕の検査結果に目を通して、どのような意見をおっしゃっているのですか?」
「血液の癌である可能性は捨てきれません。血液の癌には白血病以外にも、悪性リンパ腫や多発性骨髄腫などがありまして、あとは染色体検査、遺伝子検査などの結果をふまえて総合的な判断が必要だと」

「それじゃ、その検査をお願いします」
「……ここから少し遠いですが、紹介状を書きました」

「えっ?」
「残念ながら当院では十分な施設がありません。骨髄移植を視野に入れた治療ができる病院へ、転院してください」

「今すぐ……ですか?」
「できれば、今すぐ。救急車を呼んでもいいですよ。どうしますか?」

「歩けるので、大丈夫です」
「そうですか。ですが、水樹さんの免疫機能は落ちていると考えてください。病気やケガにも注意してください。鼻血や歯茎からの出血があればすぐに病院へ。安静にしてくださいね」

「わかりました」

 一礼をして診察室を出た。
 僕は普通に歩いている。体に痛みはない。それなのに、今すぐ転院。
 
 救急車を呼んでもいいって、一刻を争うようなことなのか?

 泥のような不安が足もとから広がると、のどの奥から酸がせり上がってくる。
 吐きそうだ。
 口に手を当てて、その場にしゃがみ込んだ。

「カナ兄ぃ!」

 見上げると、泣き出しそうな顔をした香奈恵がいる。
 気が強いくせに昔っから泣き虫で、いつも僕の心配をして弱気になれば「ひとりじゃないよ」と支えてくれる妹だ。

 ユイはいつもひろりで、支えを持っていない。
 凍えるような寒い日に、ひとりでパンをかじっていた、ユイ。鼻先も手も、真っ赤にしながら、とても孤独な姿だった。
 孤独は人を強くする場合と、人を狂わせる場合がある。

「大丈夫、少し目まいがしただけだ」

 香奈恵の手を借りて立ちあがった。
 人の手は温かい。ユイにそれを教えたい。

 できることなら僕が――。
 
 目を閉じて、考えるのをやめた。今は目の前のことを淡々とこなすだけ。

「今すぐここを退院して、別の病院にいくことになった。悪いが手伝ってくれ」

 老婦人の医師から告げられたことを、香奈恵にも話した。
 有名大学の医学部に通う香奈恵は、顔を真っ青にして現実を受け止めきれない様子だった。

「どうしてカナ兄ぃまで……こんなことに……」

 どうして、それは僕が一番聞きたい。

「大丈夫。なんとかなるさ」

 軽くおどけて見せたが、正直、複雑な気分だ。

「病室に戻る前に、なにか飲んでいいか?」
「いいけど、大丈夫?」
「そんなに心配するな。平気だって」

 僕はウソつきだ。
 不安で、不安でたまらない。すべてが夢で、これは現実ではないと、心が無駄に抵抗して苦しい。
 それでも僕は笑っている。

「あっ……」
 
 コーヒーショップの前で足が止まった。
 ユイがいる。
 テーブルに頬杖をついて、空っぽになったグラスの氷をストローで突きながら、時間を持て余している。

「カナ兄ぃ、どうしたの?」
「えっ? あ、ごめん。ちょっと待ってて、ユイがいる」

 安静にしろと言われていたが、駆け出していた。

「ユイ、まだここにいてくれたんだ」

 ほんの少し走っただけで、息切れをしていた。 

「わわわ、水樹!?」

 ユイは驚いた顔で勢いよく立ちあがると、テーブルに並んだ小皿を隠そうとした。
 おそらくケーキを三つは食っている。相変わらずの食欲なので、作り笑いではない笑みがこぼれた。
 同時に張り詰めていたものが、消えていく。

「主治医の先生は、なんて言ってたの?」
「退院していいって。これから退院の手続きをして……、あ、夏休み中に一度、学校へいくことにした」
「やったね、退院おめでとう。悪い病気じゃなくてよかったね!」

 なにも知らないユイは、僕とハイタッチをして無邪気に喜んでいる。
 その小さな手から伝わる温もりと、喜びに満ちた顔に胸が痛い。

「ユイに報告できてよかった。待っててくれてありがとう。でも、遅いから気をつけて帰れよ」
「わかった。また学校でー」

 笑顔で手をふり、途中で何度も振り返りながらユイは病院を出る。

「カナ兄ぃ、いいの? ウソついて」
「ウソ? これから退院するのは本当だろ? 学校にも挨拶にいかないといけないし、ウソなんかついてないぞ」
「再入院の話は? あの子、勘違いしたまま帰ったわよ」

 答える気になれなかった。
 今後のことを考えると不安で、想像以上に動揺している。それなのに冷静なふりをして、かっこうをつけて。
 もう二度と会えないかもしれないユイに、勘違いさせたまま帰らせた。

 それがいいことなのか悪いことなのか、言われなくてもわかっている。
 でも、これ以上僕にどうしろと。

 ユイには支えが必要で、できることなら――、一緒にいたい。
 正直な気持ちに気がついても、僕は智也のように死ぬかもしれない。

 怖いと、言えばいいのか?
 どうして僕がこんな目に遭うんだと、誰かを責めればいいのか?
 ユイに、僕の命が消えかかっていると伝えればいいのか? ……そんなことできるはずがない。

 屋上ではじめて言葉を交わした日、ユイの泣きはらした目は光を失い暗く沈んでいた。今の状況を話したら、ユイがまた暗い海の底に沈んでしまいそうでゾッとする。

 守りたかった。
 幼子のように笑う顔。
 苦手な勉強もウンウンとうなずいて頑張る、ひたむきな姿。
 小さな手の温もり。そのすべてを。

「ユイにとって僕はただの先生だから、急にいなくなっても、そのうちきっと忘れるだろ」

 ただの教師が夢を見すぎた。
 今川が数学研究室に来たとき、ユイはハッキリと言ったじゃないか。
 
 ――水樹は、先生だ。私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで

 それが答え。
 いい先生と思われているうちに離れられるなら、それはそれでよかったのかもしれない。