かわいさ余って憎さ百倍。
私が勝手に心配して不安で走ってきただけでも、のんきに「どうしてここに?」
そりゃないでしょう。
「私のせいで胃に穴が開いたって、平塚から聞いて飛んできたのに」
「胃? ちょっと、落ち着こうか……ユイ」
水樹は小さく万歳をしてタジタジだ。だから締め上げた手を離そうとしたのに、長い黒髪をひとつに束ねた女が割って入ってきた。
「ちょっと、あんた。カナ兄ぃは病人なのよ」
「カナ……にぃ?」
「ユイ、その人は僕の妹。香奈恵だ」
妹……。
水樹の妹と言えば、
「あ、あのすごくおいしい、お弁当の人!」
「え?」
香奈恵さんが驚いたように目を見開いた。でもすぐに眉間にしわを寄せて、険しい表情になっていく。
なにかまずいことを言ってしまった?
目で水樹に尋ねてみたけど、私に胸ぐらをつかまれたときより、「ここから逃げ出したい」と顔に書いてある。
「カナ兄ぃ酷い! 完食するようになった喜んでつくっていたのに。こんなガキに食わせてたの?」
「あ、いや。香奈恵の弁当は量が多いから……、その……」
「いつから食べてないの?」
「ちゃんと食べてた。しっかり食べてたって。なあ、ユイ」
「えっ、えっと……、んー」
目が泳ぐ。
すがるような声で助けてくれと、言わんばかりの顔をされても、お弁当はほとんど私が食べていた。
サラダを少し食べて、リンゴをかじる水樹しか覚えていない。
「にぃちゃん、もうちょっと静かにしてくれや」
隣のベッドから野太いオッサンの声がした。
ここは病室なのに、ついカッとなってうるさく騒いでしまった。
しゅんとして下を向いていると、
「そろそろ検査の時間だから、ユイも香奈恵もまた明日な」
水樹は手をふっている。
まだまだ聞きたいこと、知りたいことがたくさんある。もっと話がしたくて顔をあげたけど、水樹は隣のオッサンに謝っていた。申し訳なさそうに、困った顔をして。
正しいことをしても、すみませんでしたと謝る気持ち、おまえにはわからない。平塚からの言葉が頭に浮かんだ。
私はすぐ頭に血がのぼってしまうから、怒ったり、反論したり。水樹は悪くないのに、いつも迷惑をかけてしまう。
「お騒がせしてすみませんでした」
香奈恵さんも静かな声で謝ると、私の腕をつかんだ。
「あたしたちは帰りましょう」
「うん……。ねえ、水樹。明日もここに……、いいかな?」
「もちろん。また明日」
形のいい目を朗らかに緩ませて、水樹が嬉しそうな顔をしてくれた。
大好きな笑顔を見てしまうと、不安も一気に消し飛んでしまう。
明日も平塚の補習授業があるけど、その帰りに会えるなら、苦手な英語もドーンとこい! なんだか無敵になった気分。
軽い足取りで病室を出ると、香奈恵さんが私の顔をのぞき込んだ。
「もしかして、あなたが久遠寺さん?」
「はい、そうです。私が久遠寺ユイです。えっと、水樹……さん? 香奈恵さん? どう呼んだらいいですか?」
「香奈恵でいいわよ」
名前の呼び方に困っている私を見て、クスッと笑った。その顔が水樹にそっくり。
なめらかな黒髪はひとつに束ねてもサラサラで、額はすっきり出してある。
くっきりとした大きな瞳で、形のいい鼻と唇も最高のバランスで並んでいた。
今まで、ファッション雑誌から飛び出たような陽菜が、一番かわいい人だと思っていた。でも今川さんが現れて、控えめで上品な美しさを知ってしまった。
ところが水樹の妹。
香奈恵さんはあきらかに目を引く美人顔。
水樹が日なたの匂いがする太陽のような人なら、香奈恵さんは漆黒の暗闇に浮かぶ月のような美しさ。
ひとりだけ、神秘的な月光を浴びているような感じ。
ポーッと見とれていると、この世でもっとも憎い敵を見るかのような目で、睨まれた。
「ハッキリ言うけど、もうここには来ないで。とっても迷惑なの」
クスッと笑った美しい顔から一変して、怖い。
「病室で騒いで、水樹にも迷惑かけて、悪かったと思います。でも……」
「あたしはトモ兄ぃと約束したの。カナ兄ぃを絶対に守るって。あんたは邪魔なの。お願いだから、これ以上カナ兄ぃに近づかないで」
「そんなこと言われても、約束したし」
「それなら大丈夫よ。明日から来ない。もう二度と会いに来ないって、あたしからカナ兄ぃに伝えておくから」
「勝手に決めないでよ!」
「ほら、またうるさい。ギャンギャン吠えるから、迷惑なの」
水樹と同じ顔をして、鋭く、冷たく、責めてくる。
「あたしも帰るけど、あなたと一緒に帰る気ないから。さようなら」
プイッと背を向けて、非常階段をおりていく。
「ちょっと、ここ五階だよ」
階段の上から香奈恵さんに声を掛けたけど、艶やかな黒髪は立ち止まることなく消えていく。
「あれが水樹の妹?」
見とれてしまうほどの美人なのに、性格に難あり。
心優しい水樹とは正反対の冷酷人間で、ずいぶんと失礼な奴。
じわじわと怒りが胸に広がってくる。
エレベーターが上の階で止まったまま、なかなかおりてこないので、何度もカチカチとボタンを押した。
「あー、あれがブラコンか。はじめて見た、ムカつく」
酷い言い方をされると、なにかが心の奥底から湧いてくる。
絶対に負けるもんか。
きつく冷たくあしらわれたけど「明日も見舞いにいってやる」と心の中で叫んだら、体中の血液が沸々と熱くたぎるようだった。
だから香奈恵さんに来るなと言われても、補習が終われば病院へ走った。
澄んだ青空から力をもらって、病院の自動ドアをくぐる。薄暗い病院内は、空調がききすぎて少し肌寒い。そして消毒液のような匂いと子どもの泣き声に、ふと昔のことを思い出した。
ここよりも、もっと大きな病院で迷子になったことがある。
まだ幼かったとはいえ、そのときの不安な気持ちは今もよく覚えている。
迷子になったのは、今と同じ。セミの鳴き声がうるさい夏休みだった。
母が大量の薬を飲んで救急車で運ばれたから、一緒に病院へいった。
私はおばあちゃんとプールにいくはずだったのに、その楽しみを奪われてふてくされていた。
ことの重大さがわからないほど幼くて、「死にそうなのよ!」と言われても、母が死ぬわけない。そんなことばかりを考えていた。
でも、父のかわりに様子を見に来たマネージャーらしき人と、おばあちゃんが激しい言い争いをはじめて、怖くなった。
おばあちゃんはいつもの優しさを失った目で、姿を見せない父への不満を爆発させていた。
喧嘩は大嫌い。
母が元気になれば、おばあちゃんも笑ってくれる。プールに連れて行ってくれる。単純にそう考えて、母を探しにいった。でも、右も左もわからない病院だから、あっという間に迷子になった。
母はどこにもいない。おばあちゃんのところにも戻れない。
薄暗い廊下なのに、非常灯の緑だけがやけに明るく光って不気味に感じた。すると不安で胸がいっぱいに。
心細くて泣き出しそう……、ううん、すでに泣いていたのかもしれない。
だから知らない人に声をかけられた。
『どうしたの?』
温かい声をかけてくれたけど、「お母さんが」しか言えなかった。
『一緒に探してあげる』
柔らかくて温かい五本の指が、私の手のひらを握った。そっと包み込むような温もりを感じると、不安でいっぱいだった心が落ち着いた。
さらに自動販売機の前を通ると、オレンジジュースを買ってくれた。
私が物欲しそうな顔をしたのかもしれない。
それから名前を聞かれた。
『私は、ユイちゃんッ!』
左手を高くあげて元気よく答えると、なぜか笑われた。
そのあとはナースステーションにいって、名前を聞いて、……あとはよく覚えていない。
ずっと私の手を離さないでいてくれた、とても親切な人。
どんな人だったのか思い出そうとしても、ぼんやりと靄がかかったようになる。
オレンジジュースのおいしさは今でも覚えているのに……。
「確か、助けてくれたのは……ナカちゃん、だったかな?」
エレベーターの前で考え込んでいると、肩をちょんちょんと突かれた。
軽く振り返ると、濃紺色のルームウェアを着た水樹がいる。
「ナカちゃんって、誰?」
「うわわ、えっ、水樹。どうしてここに?」
てっきり病室にいると思い込んでいたから、予想外の場所で出会うとワタワタしてしまう。
水樹はいつも通りなのに、恥ずかしい。
「検査が終わったから、なにか飲もうかと。ここの一階においしいコーヒーショップがあるんだ」
「病院にコーヒーショップ?」
「そうだよ」
水樹が歩き出したから、ついていく。
病院の入り口から遠く離れた一角に、外の日差しが差し込む店があった。
店内は、ヒーリングミュージックが静かに流れて、落ち着いた空気に包まれている。ここが病院の中だということを忘れそうな雰囲気だった。
「僕はココアにするけど、ユイは?」
「コーヒーじゃないの?」
「入院中は飲めなくて、ここの香りだけで我慢してる」
「それって……」
大好きなコーヒーも飲めないほど、病状が悪いの? そう聞きたかったけど、私のせいで……と考えると、また聞けなくなった。
オレンジジュースを注文して、別の話題を探した。
「あ、そうだ。水樹には、お兄ちゃんがいるの?」
「えっ」
水樹の目が瞬いた。
とても驚いている様子に首を傾げたけど、昨日のことは話したい。
「香奈恵さんが、トモ兄ぃとの約束でカナ兄ぃを守るって、ものすごく息まいてたけど?」
「香奈恵が?」
「うん」
「そっか。三つ上の兄貴がいたけど、かなり前に死んだ」
「あ……、ごめんなさい。余計なこと、聞いて……」
「いやいや、気にするな。それより、どうしていつも制服なんだ? もう夏休みだろ」
「うッ」
言葉に詰まった。
数学以外の勉強も、水樹は根気強く教えてくれた。それなのに補習授業。水樹の頑張りをすべて無駄にしてしまったようで、できることなら秘密にしたい。
言い訳を考えていたら「バカだからよ」と、冷たい声がふってきた。
「あたしの母校は県内でもトップレベルだったのに、頭が悪いのが増えたのかしら?」
バカを憐れむような顔をした香奈恵さんが、仁王立ちで私を睨んでいる。
どこかにいると、覚悟はしていた。そしてやっぱり、最悪なタイミングで現れた。
心の中でチッと、舌打ちをした。
「カナ兄ぃ、主治医の先生が呼んでる」
「えー、ココアを頼んだばかりだぞ」
「あたしがいただくから、早くいって」
「なんだろ? ユイ、ごめん。またな」
私の頭を軽くなでて、水樹はいってしまった。
そして香奈恵さんはテーブルにドンッと手をついて、低い声を出す。
「二度と来るなって、言ったよね。昨日のことも忘れちゃうバカなの?」
「バカ、バカ、言わないでください。水樹に会うも、会わないも、あんたには関係ないでしょう」
「生意気ね」
「よく言われます」
にっこりほほ笑むと、綺麗な瞳に怒りが浮かんだ。
あ、ヤバい。喧嘩になると本能が察したけど、ココアとオレンジジュースがやってきた。
香奈恵さんはココアを一気に飲み干して、「くそガキ」と酷い言葉を吐いていってしまった。
昨日は「ガキ」で今日は「くそガキ」
美人なのに、口が悪い……。
私はひとり取り残されたテーブルで、シャリシャリの氷がたっぷり入ったオレンジジュースを飲む。
ほのかな酸味がのどを通ると、あとからオレンジの爽やかな香りと甘さがあふれてくる。
「おいしい」
ぽつりとつぶやいても返事はない。
ひとりで座るテーブルが広すぎて、切なくなった。
「水樹にお兄さんがいたこと、知らなかったなぁ」
もちろん亡くなっていたことも。
「病気のことも聞けないし、私はなーんにも知らないなぁ」
ストローをカラカラ回しながら、また水樹が戻ってこないかなぁ、と淡い期待を寄せた。
再びここに、来るはずないのに……。
私が勝手に心配して不安で走ってきただけでも、のんきに「どうしてここに?」
そりゃないでしょう。
「私のせいで胃に穴が開いたって、平塚から聞いて飛んできたのに」
「胃? ちょっと、落ち着こうか……ユイ」
水樹は小さく万歳をしてタジタジだ。だから締め上げた手を離そうとしたのに、長い黒髪をひとつに束ねた女が割って入ってきた。
「ちょっと、あんた。カナ兄ぃは病人なのよ」
「カナ……にぃ?」
「ユイ、その人は僕の妹。香奈恵だ」
妹……。
水樹の妹と言えば、
「あ、あのすごくおいしい、お弁当の人!」
「え?」
香奈恵さんが驚いたように目を見開いた。でもすぐに眉間にしわを寄せて、険しい表情になっていく。
なにかまずいことを言ってしまった?
目で水樹に尋ねてみたけど、私に胸ぐらをつかまれたときより、「ここから逃げ出したい」と顔に書いてある。
「カナ兄ぃ酷い! 完食するようになった喜んでつくっていたのに。こんなガキに食わせてたの?」
「あ、いや。香奈恵の弁当は量が多いから……、その……」
「いつから食べてないの?」
「ちゃんと食べてた。しっかり食べてたって。なあ、ユイ」
「えっ、えっと……、んー」
目が泳ぐ。
すがるような声で助けてくれと、言わんばかりの顔をされても、お弁当はほとんど私が食べていた。
サラダを少し食べて、リンゴをかじる水樹しか覚えていない。
「にぃちゃん、もうちょっと静かにしてくれや」
隣のベッドから野太いオッサンの声がした。
ここは病室なのに、ついカッとなってうるさく騒いでしまった。
しゅんとして下を向いていると、
「そろそろ検査の時間だから、ユイも香奈恵もまた明日な」
水樹は手をふっている。
まだまだ聞きたいこと、知りたいことがたくさんある。もっと話がしたくて顔をあげたけど、水樹は隣のオッサンに謝っていた。申し訳なさそうに、困った顔をして。
正しいことをしても、すみませんでしたと謝る気持ち、おまえにはわからない。平塚からの言葉が頭に浮かんだ。
私はすぐ頭に血がのぼってしまうから、怒ったり、反論したり。水樹は悪くないのに、いつも迷惑をかけてしまう。
「お騒がせしてすみませんでした」
香奈恵さんも静かな声で謝ると、私の腕をつかんだ。
「あたしたちは帰りましょう」
「うん……。ねえ、水樹。明日もここに……、いいかな?」
「もちろん。また明日」
形のいい目を朗らかに緩ませて、水樹が嬉しそうな顔をしてくれた。
大好きな笑顔を見てしまうと、不安も一気に消し飛んでしまう。
明日も平塚の補習授業があるけど、その帰りに会えるなら、苦手な英語もドーンとこい! なんだか無敵になった気分。
軽い足取りで病室を出ると、香奈恵さんが私の顔をのぞき込んだ。
「もしかして、あなたが久遠寺さん?」
「はい、そうです。私が久遠寺ユイです。えっと、水樹……さん? 香奈恵さん? どう呼んだらいいですか?」
「香奈恵でいいわよ」
名前の呼び方に困っている私を見て、クスッと笑った。その顔が水樹にそっくり。
なめらかな黒髪はひとつに束ねてもサラサラで、額はすっきり出してある。
くっきりとした大きな瞳で、形のいい鼻と唇も最高のバランスで並んでいた。
今まで、ファッション雑誌から飛び出たような陽菜が、一番かわいい人だと思っていた。でも今川さんが現れて、控えめで上品な美しさを知ってしまった。
ところが水樹の妹。
香奈恵さんはあきらかに目を引く美人顔。
水樹が日なたの匂いがする太陽のような人なら、香奈恵さんは漆黒の暗闇に浮かぶ月のような美しさ。
ひとりだけ、神秘的な月光を浴びているような感じ。
ポーッと見とれていると、この世でもっとも憎い敵を見るかのような目で、睨まれた。
「ハッキリ言うけど、もうここには来ないで。とっても迷惑なの」
クスッと笑った美しい顔から一変して、怖い。
「病室で騒いで、水樹にも迷惑かけて、悪かったと思います。でも……」
「あたしはトモ兄ぃと約束したの。カナ兄ぃを絶対に守るって。あんたは邪魔なの。お願いだから、これ以上カナ兄ぃに近づかないで」
「そんなこと言われても、約束したし」
「それなら大丈夫よ。明日から来ない。もう二度と会いに来ないって、あたしからカナ兄ぃに伝えておくから」
「勝手に決めないでよ!」
「ほら、またうるさい。ギャンギャン吠えるから、迷惑なの」
水樹と同じ顔をして、鋭く、冷たく、責めてくる。
「あたしも帰るけど、あなたと一緒に帰る気ないから。さようなら」
プイッと背を向けて、非常階段をおりていく。
「ちょっと、ここ五階だよ」
階段の上から香奈恵さんに声を掛けたけど、艶やかな黒髪は立ち止まることなく消えていく。
「あれが水樹の妹?」
見とれてしまうほどの美人なのに、性格に難あり。
心優しい水樹とは正反対の冷酷人間で、ずいぶんと失礼な奴。
じわじわと怒りが胸に広がってくる。
エレベーターが上の階で止まったまま、なかなかおりてこないので、何度もカチカチとボタンを押した。
「あー、あれがブラコンか。はじめて見た、ムカつく」
酷い言い方をされると、なにかが心の奥底から湧いてくる。
絶対に負けるもんか。
きつく冷たくあしらわれたけど「明日も見舞いにいってやる」と心の中で叫んだら、体中の血液が沸々と熱くたぎるようだった。
だから香奈恵さんに来るなと言われても、補習が終われば病院へ走った。
澄んだ青空から力をもらって、病院の自動ドアをくぐる。薄暗い病院内は、空調がききすぎて少し肌寒い。そして消毒液のような匂いと子どもの泣き声に、ふと昔のことを思い出した。
ここよりも、もっと大きな病院で迷子になったことがある。
まだ幼かったとはいえ、そのときの不安な気持ちは今もよく覚えている。
迷子になったのは、今と同じ。セミの鳴き声がうるさい夏休みだった。
母が大量の薬を飲んで救急車で運ばれたから、一緒に病院へいった。
私はおばあちゃんとプールにいくはずだったのに、その楽しみを奪われてふてくされていた。
ことの重大さがわからないほど幼くて、「死にそうなのよ!」と言われても、母が死ぬわけない。そんなことばかりを考えていた。
でも、父のかわりに様子を見に来たマネージャーらしき人と、おばあちゃんが激しい言い争いをはじめて、怖くなった。
おばあちゃんはいつもの優しさを失った目で、姿を見せない父への不満を爆発させていた。
喧嘩は大嫌い。
母が元気になれば、おばあちゃんも笑ってくれる。プールに連れて行ってくれる。単純にそう考えて、母を探しにいった。でも、右も左もわからない病院だから、あっという間に迷子になった。
母はどこにもいない。おばあちゃんのところにも戻れない。
薄暗い廊下なのに、非常灯の緑だけがやけに明るく光って不気味に感じた。すると不安で胸がいっぱいに。
心細くて泣き出しそう……、ううん、すでに泣いていたのかもしれない。
だから知らない人に声をかけられた。
『どうしたの?』
温かい声をかけてくれたけど、「お母さんが」しか言えなかった。
『一緒に探してあげる』
柔らかくて温かい五本の指が、私の手のひらを握った。そっと包み込むような温もりを感じると、不安でいっぱいだった心が落ち着いた。
さらに自動販売機の前を通ると、オレンジジュースを買ってくれた。
私が物欲しそうな顔をしたのかもしれない。
それから名前を聞かれた。
『私は、ユイちゃんッ!』
左手を高くあげて元気よく答えると、なぜか笑われた。
そのあとはナースステーションにいって、名前を聞いて、……あとはよく覚えていない。
ずっと私の手を離さないでいてくれた、とても親切な人。
どんな人だったのか思い出そうとしても、ぼんやりと靄がかかったようになる。
オレンジジュースのおいしさは今でも覚えているのに……。
「確か、助けてくれたのは……ナカちゃん、だったかな?」
エレベーターの前で考え込んでいると、肩をちょんちょんと突かれた。
軽く振り返ると、濃紺色のルームウェアを着た水樹がいる。
「ナカちゃんって、誰?」
「うわわ、えっ、水樹。どうしてここに?」
てっきり病室にいると思い込んでいたから、予想外の場所で出会うとワタワタしてしまう。
水樹はいつも通りなのに、恥ずかしい。
「検査が終わったから、なにか飲もうかと。ここの一階においしいコーヒーショップがあるんだ」
「病院にコーヒーショップ?」
「そうだよ」
水樹が歩き出したから、ついていく。
病院の入り口から遠く離れた一角に、外の日差しが差し込む店があった。
店内は、ヒーリングミュージックが静かに流れて、落ち着いた空気に包まれている。ここが病院の中だということを忘れそうな雰囲気だった。
「僕はココアにするけど、ユイは?」
「コーヒーじゃないの?」
「入院中は飲めなくて、ここの香りだけで我慢してる」
「それって……」
大好きなコーヒーも飲めないほど、病状が悪いの? そう聞きたかったけど、私のせいで……と考えると、また聞けなくなった。
オレンジジュースを注文して、別の話題を探した。
「あ、そうだ。水樹には、お兄ちゃんがいるの?」
「えっ」
水樹の目が瞬いた。
とても驚いている様子に首を傾げたけど、昨日のことは話したい。
「香奈恵さんが、トモ兄ぃとの約束でカナ兄ぃを守るって、ものすごく息まいてたけど?」
「香奈恵が?」
「うん」
「そっか。三つ上の兄貴がいたけど、かなり前に死んだ」
「あ……、ごめんなさい。余計なこと、聞いて……」
「いやいや、気にするな。それより、どうしていつも制服なんだ? もう夏休みだろ」
「うッ」
言葉に詰まった。
数学以外の勉強も、水樹は根気強く教えてくれた。それなのに補習授業。水樹の頑張りをすべて無駄にしてしまったようで、できることなら秘密にしたい。
言い訳を考えていたら「バカだからよ」と、冷たい声がふってきた。
「あたしの母校は県内でもトップレベルだったのに、頭が悪いのが増えたのかしら?」
バカを憐れむような顔をした香奈恵さんが、仁王立ちで私を睨んでいる。
どこかにいると、覚悟はしていた。そしてやっぱり、最悪なタイミングで現れた。
心の中でチッと、舌打ちをした。
「カナ兄ぃ、主治医の先生が呼んでる」
「えー、ココアを頼んだばかりだぞ」
「あたしがいただくから、早くいって」
「なんだろ? ユイ、ごめん。またな」
私の頭を軽くなでて、水樹はいってしまった。
そして香奈恵さんはテーブルにドンッと手をついて、低い声を出す。
「二度と来るなって、言ったよね。昨日のことも忘れちゃうバカなの?」
「バカ、バカ、言わないでください。水樹に会うも、会わないも、あんたには関係ないでしょう」
「生意気ね」
「よく言われます」
にっこりほほ笑むと、綺麗な瞳に怒りが浮かんだ。
あ、ヤバい。喧嘩になると本能が察したけど、ココアとオレンジジュースがやってきた。
香奈恵さんはココアを一気に飲み干して、「くそガキ」と酷い言葉を吐いていってしまった。
昨日は「ガキ」で今日は「くそガキ」
美人なのに、口が悪い……。
私はひとり取り残されたテーブルで、シャリシャリの氷がたっぷり入ったオレンジジュースを飲む。
ほのかな酸味がのどを通ると、あとからオレンジの爽やかな香りと甘さがあふれてくる。
「おいしい」
ぽつりとつぶやいても返事はない。
ひとりで座るテーブルが広すぎて、切なくなった。
「水樹にお兄さんがいたこと、知らなかったなぁ」
もちろん亡くなっていたことも。
「病気のことも聞けないし、私はなーんにも知らないなぁ」
ストローをカラカラ回しながら、また水樹が戻ってこないかなぁ、と淡い期待を寄せた。
再びここに、来るはずないのに……。