「今日は特別にキャットフードだぞ……栄養バランスを考えたらたまにはこういうのも食べなきゃなんて、千紗ちゃんは優しいよな……感謝しろよ、お前ら」
いつものように猫に話しかけながら、順番に撫でている細身の背中に、私は思わず叫んでしまう。
「優しいのは……私じゃなくて、蒼ちゃんだよ!」
しゃがんだままゆっくりと、彼が私をふり返った。
「いや、千紗ちゃんは優しいよ……」
満面の笑顔でくり返され、泣きそうな気持ちになる。弁当屋から叔母たちの家へと帰る夕暮れ。裏口で蒼ちゃんと一緒に野良猫にご飯をあげるのが、私の日課になりつつあった。
毎日決まった時間に決まった弁当を三つ買いに来る蒼ちゃんと、夜間の高校へ通うため、昼間働いている弁当屋からいったん家へと帰る私の帰宅時間は同じ。特に約束をしたわけでもなかったが、自然と毎日ここで少しの時間を共に過ごすようになった。
一人で食べる夕食は寂しいので、私は店の裏に放置された古い椅子に座り、猫たちと一緒にここで弁当を食べる。蒼ちゃんは、自分が買った弁当を塀の上へ置き、いつもニコニコしながら私たちを見ていた。
「早く持って帰らなくていいの?」
塀の上の弁当を箸で指すと、彼は困ったようにボサボサの髪をかき上げる。
「ほんとはまだ、父は時間外診療中なんだ……だからもうちょっとしてから、あっため直して食べる。ごめん……出来たてが美味しいってことはわかってるんだけど……」
私は大慌てで顔の前で手を振った。
「ううん。そんなつもりじゃないの! ごめんなさい……でも……だったらもう少し遅い時間に買いに来たらいいんじゃ……」
蒼ちゃんがクルリと私に背を向けた。キャットフードを食べ終わり、その場に丸くなろうとしていた猫を一匹、腕に抱き上げる。
「それじゃ千紗ちゃんには会えない……」
ドキンと、私の心臓が小さく跳ねた。
(それって……どういう意味だろう……?)
焦る私の様子がわかったかのように、蒼ちゃんはふり向く。
「こいつらが寂しがるだろ?」
腕に抱えていた猫を顔の近くまで高く掲げ、にっこりと笑った。蒼ちゃんのぶ厚い眼鏡に夕陽が反射し、キラリと眩しい。その輝きよりも、彼の笑顔はさらに眩しい。
真っ直ぐに見ているのが辛く、私は膝に抱えた弁当に視線を落とした。私のためにと、叔母があれもこれもと詰めてくれたスペシャル弁当。店のメニューにはないものだが、本当は一番安価なはずの蒼ちゃんのお得弁当の中身も、限りなくこれに近いことを私は知っている。
「お父さんは遅いんだったら、蒼ちゃんも今、ここで食べたらいいのに……」
再び弁当に箸を伸ばしながら呟くと、彼が私の前にしゃがみこんだ。
「うん。いつかそうできたらいいなって、僕も思う。でも今はまだ……弟と一緒に食べてやらないと……」
私ははっと顔を上げた。
「弟さんが待ってるの? だったらすぐに帰らなきゃ!」
彼の口調から、まだ小さな子なのだろうと思った。しかし私の予想は外れていた。
「大丈夫だよ。弟って言ってももう中三で、今度高校生になるんだ……それに僕、ここにはいつも三十分もいないだろ? 千紗ちゃんとこいつらが夕ご飯を食べる間ぐらい、弟だって待っててくれるよ……ひょっとしたら僕が帰らなくて、一人きりのほうがいいって思ってるかも」
「蒼ちゃん……?」
いつもの笑顔が少し寂しそうになった気がし、私は首を傾げた。ぶ厚い眼鏡の奥の蒼ちゃんの瞳が、これまで見たことのない色に揺れる。
「変なこと言ってごめん……中三って言ったけど、あいつ、年は千紗ちゃんと同じなんだ……小学生の頃に事故に遭って、一年ブランクがあるから……」
「そう…………」
普段は痛みなどまるで感じない背中の傷が、ふいに疼いたような気がした。
「ずいぶんひどい怪我で、長い間入院してて……それに他にも……他にもいろんなことがあって……弟はあんまり食事に対する意欲がないんだ。僕が一緒じゃないとご飯を食べない」
「………………!」
何も言えずに息を呑んだ私に、蒼ちゃんが慌てて笑いかける。まるでそんなことなどなんでもないというふうに、今度の笑顔には一点の曇りもなかった。
「大丈夫! ほんとに、一時期よりはずいぶんマシになったんだ! この町に来て、無理に勧めなくってもあいつが自分から食べてくれる美味しいお弁当屋さんも見つけたし!」
大きな声できっぱりと言いきりながら、叔母たちの店を指差す笑顔に、一瞬、小さな少年のそれが重なる。胸に痛い面影を、首を横に振って追い払っていると、頭の中に甦る言葉があった。『希望の家』に初めて行った日、私を送る車の中で、園長先生がかけてくれた言葉。
『自分が辛い思いをした子は、他の人に優しいデス……あなたやコウもそう……』
(そうか……そうなんだね……)
蒼ちゃんの優しさは――猫にも私にも区別なく発揮される優しさは――きっと彼がこれまで、辛い思いをしてきたからだ。彼の母親は、彼がまだ小さな頃に亡くなったと、噂好きの近所の小母さんが教えてくれた。父親は睡眠時間も休日も削り、医師として懸命に働いている。そういう中で大怪我をした弟を、おそらく蒼ちゃんが守ったのだ。ひょっとすると落ちこんだり、自暴自棄になったりしたかもしれない弟の心を、この笑顔でずっと守ってきたのだ。
『大丈夫。大丈夫だよ。きっとよくなるよ』
私と彼はついこの間、親しく話すようになったばかりで、よく知っていると言える仲ではない。ましてや私は、その場にいたわけでもない。それなのに蒼ちゃんのそういう姿は、ありありと想像ができた。優しい声まで、実際に聞こえてきそうだった。
「千紗ちゃん……?」
呼びかけられて初めて、自分が泣いていることに気づく。慌てて手の甲で頬を拭った。
「ごめん、蒼ちゃん……」
泣きたいのは私ではない。蒼ちゃんのほうだろう。きっと彼はこれまで涙など誰にも見せず、いつも笑い、実際心の中では一人で泣いてきたのだろう。
『我慢しなくってもいいんだ。辛かったら、悲しかったら泣いていいんだ』
紅君にかけてもらった大切な言葉が心に甦る。そう言ってもらい、紅君にギュッと抱きしめられ、十一歳の私は生まれて初めて人前で声を上げて泣いた。
(私……!)
できるならば、蒼ちゃんに同じ言葉をかけたい。紅君が私の心を軽くしてくれたように、私も蒼ちゃんのためにできることをしたい。しかし蒼ちゃんへ手を伸ばすには、十六歳の私はもう大人で、他意なく抱きしめてしまうには、彼に対する感情が複雑で、そして絶対に叶わないとわかっていても、忘れられない大切な約束を、私はやはり手放せなかった。
(紅君……!)
必死に記憶の欠片を繋ぎあわせなければ、今では思い浮かべることすら難しくなりつつある面影を、心の中で抱きしめる。
(紅君!)
俯いた私の頭を、蒼ちゃんがポンと軽く叩いた。顔を上げると優しい笑顔が私を見下ろしており、その笑顔のおかげでまた紅君の顔を思い出せた。
(私は酷い人間だ……身勝手だ……)
それなのにそういう私のことでさえ気遣い、蒼ちゃんは笑ってくれる。
「ごめん……この話はもうおしまい! いつか千紗ちゃんも、弟に会わせてあげるから。そしたらもうそんなに心配することないって、わかると思うから! だから大丈夫だよ……」
夕焼けに染まる空を笑顔で見上げた蒼ちゃんの横顔は、凛と輝いていて強かった。「僕は頼りないから」などといつも自分を卑下して笑っている蒼ちゃんの強さを、私は胸に刻んだ。
その強さに、私も『彼』も大きく守られていたことには、その時はまだ気づかなかった。
いつものように猫に話しかけながら、順番に撫でている細身の背中に、私は思わず叫んでしまう。
「優しいのは……私じゃなくて、蒼ちゃんだよ!」
しゃがんだままゆっくりと、彼が私をふり返った。
「いや、千紗ちゃんは優しいよ……」
満面の笑顔でくり返され、泣きそうな気持ちになる。弁当屋から叔母たちの家へと帰る夕暮れ。裏口で蒼ちゃんと一緒に野良猫にご飯をあげるのが、私の日課になりつつあった。
毎日決まった時間に決まった弁当を三つ買いに来る蒼ちゃんと、夜間の高校へ通うため、昼間働いている弁当屋からいったん家へと帰る私の帰宅時間は同じ。特に約束をしたわけでもなかったが、自然と毎日ここで少しの時間を共に過ごすようになった。
一人で食べる夕食は寂しいので、私は店の裏に放置された古い椅子に座り、猫たちと一緒にここで弁当を食べる。蒼ちゃんは、自分が買った弁当を塀の上へ置き、いつもニコニコしながら私たちを見ていた。
「早く持って帰らなくていいの?」
塀の上の弁当を箸で指すと、彼は困ったようにボサボサの髪をかき上げる。
「ほんとはまだ、父は時間外診療中なんだ……だからもうちょっとしてから、あっため直して食べる。ごめん……出来たてが美味しいってことはわかってるんだけど……」
私は大慌てで顔の前で手を振った。
「ううん。そんなつもりじゃないの! ごめんなさい……でも……だったらもう少し遅い時間に買いに来たらいいんじゃ……」
蒼ちゃんがクルリと私に背を向けた。キャットフードを食べ終わり、その場に丸くなろうとしていた猫を一匹、腕に抱き上げる。
「それじゃ千紗ちゃんには会えない……」
ドキンと、私の心臓が小さく跳ねた。
(それって……どういう意味だろう……?)
焦る私の様子がわかったかのように、蒼ちゃんはふり向く。
「こいつらが寂しがるだろ?」
腕に抱えていた猫を顔の近くまで高く掲げ、にっこりと笑った。蒼ちゃんのぶ厚い眼鏡に夕陽が反射し、キラリと眩しい。その輝きよりも、彼の笑顔はさらに眩しい。
真っ直ぐに見ているのが辛く、私は膝に抱えた弁当に視線を落とした。私のためにと、叔母があれもこれもと詰めてくれたスペシャル弁当。店のメニューにはないものだが、本当は一番安価なはずの蒼ちゃんのお得弁当の中身も、限りなくこれに近いことを私は知っている。
「お父さんは遅いんだったら、蒼ちゃんも今、ここで食べたらいいのに……」
再び弁当に箸を伸ばしながら呟くと、彼が私の前にしゃがみこんだ。
「うん。いつかそうできたらいいなって、僕も思う。でも今はまだ……弟と一緒に食べてやらないと……」
私ははっと顔を上げた。
「弟さんが待ってるの? だったらすぐに帰らなきゃ!」
彼の口調から、まだ小さな子なのだろうと思った。しかし私の予想は外れていた。
「大丈夫だよ。弟って言ってももう中三で、今度高校生になるんだ……それに僕、ここにはいつも三十分もいないだろ? 千紗ちゃんとこいつらが夕ご飯を食べる間ぐらい、弟だって待っててくれるよ……ひょっとしたら僕が帰らなくて、一人きりのほうがいいって思ってるかも」
「蒼ちゃん……?」
いつもの笑顔が少し寂しそうになった気がし、私は首を傾げた。ぶ厚い眼鏡の奥の蒼ちゃんの瞳が、これまで見たことのない色に揺れる。
「変なこと言ってごめん……中三って言ったけど、あいつ、年は千紗ちゃんと同じなんだ……小学生の頃に事故に遭って、一年ブランクがあるから……」
「そう…………」
普段は痛みなどまるで感じない背中の傷が、ふいに疼いたような気がした。
「ずいぶんひどい怪我で、長い間入院してて……それに他にも……他にもいろんなことがあって……弟はあんまり食事に対する意欲がないんだ。僕が一緒じゃないとご飯を食べない」
「………………!」
何も言えずに息を呑んだ私に、蒼ちゃんが慌てて笑いかける。まるでそんなことなどなんでもないというふうに、今度の笑顔には一点の曇りもなかった。
「大丈夫! ほんとに、一時期よりはずいぶんマシになったんだ! この町に来て、無理に勧めなくってもあいつが自分から食べてくれる美味しいお弁当屋さんも見つけたし!」
大きな声できっぱりと言いきりながら、叔母たちの店を指差す笑顔に、一瞬、小さな少年のそれが重なる。胸に痛い面影を、首を横に振って追い払っていると、頭の中に甦る言葉があった。『希望の家』に初めて行った日、私を送る車の中で、園長先生がかけてくれた言葉。
『自分が辛い思いをした子は、他の人に優しいデス……あなたやコウもそう……』
(そうか……そうなんだね……)
蒼ちゃんの優しさは――猫にも私にも区別なく発揮される優しさは――きっと彼がこれまで、辛い思いをしてきたからだ。彼の母親は、彼がまだ小さな頃に亡くなったと、噂好きの近所の小母さんが教えてくれた。父親は睡眠時間も休日も削り、医師として懸命に働いている。そういう中で大怪我をした弟を、おそらく蒼ちゃんが守ったのだ。ひょっとすると落ちこんだり、自暴自棄になったりしたかもしれない弟の心を、この笑顔でずっと守ってきたのだ。
『大丈夫。大丈夫だよ。きっとよくなるよ』
私と彼はついこの間、親しく話すようになったばかりで、よく知っていると言える仲ではない。ましてや私は、その場にいたわけでもない。それなのに蒼ちゃんのそういう姿は、ありありと想像ができた。優しい声まで、実際に聞こえてきそうだった。
「千紗ちゃん……?」
呼びかけられて初めて、自分が泣いていることに気づく。慌てて手の甲で頬を拭った。
「ごめん、蒼ちゃん……」
泣きたいのは私ではない。蒼ちゃんのほうだろう。きっと彼はこれまで涙など誰にも見せず、いつも笑い、実際心の中では一人で泣いてきたのだろう。
『我慢しなくってもいいんだ。辛かったら、悲しかったら泣いていいんだ』
紅君にかけてもらった大切な言葉が心に甦る。そう言ってもらい、紅君にギュッと抱きしめられ、十一歳の私は生まれて初めて人前で声を上げて泣いた。
(私……!)
できるならば、蒼ちゃんに同じ言葉をかけたい。紅君が私の心を軽くしてくれたように、私も蒼ちゃんのためにできることをしたい。しかし蒼ちゃんへ手を伸ばすには、十六歳の私はもう大人で、他意なく抱きしめてしまうには、彼に対する感情が複雑で、そして絶対に叶わないとわかっていても、忘れられない大切な約束を、私はやはり手放せなかった。
(紅君……!)
必死に記憶の欠片を繋ぎあわせなければ、今では思い浮かべることすら難しくなりつつある面影を、心の中で抱きしめる。
(紅君!)
俯いた私の頭を、蒼ちゃんがポンと軽く叩いた。顔を上げると優しい笑顔が私を見下ろしており、その笑顔のおかげでまた紅君の顔を思い出せた。
(私は酷い人間だ……身勝手だ……)
それなのにそういう私のことでさえ気遣い、蒼ちゃんは笑ってくれる。
「ごめん……この話はもうおしまい! いつか千紗ちゃんも、弟に会わせてあげるから。そしたらもうそんなに心配することないって、わかると思うから! だから大丈夫だよ……」
夕焼けに染まる空を笑顔で見上げた蒼ちゃんの横顔は、凛と輝いていて強かった。「僕は頼りないから」などといつも自分を卑下して笑っている蒼ちゃんの強さを、私は胸に刻んだ。
その強さに、私も『彼』も大きく守られていたことには、その時はまだ気づかなかった。