その後、『希望の家』へ帰る途中、何台ものパトカーや消防車が私たちの乗った赤い自転車を追い越していった。
「何かあったのかな……? 火事かな?」
「うん……」
 妙な胸騒ぎを覚えながら紅君と囁きあった時、前から来た軽自動車が私たちの前で、急ブレーキをかけて止まった。運転席から顔を出したのは、母と同じ工場で働く冨田さんだった。
「あんた千紗ちゃんじゃないの? ああやっぱりそうだ! 千紗ちゃんだね!」
 母より少し年配の面倒見のいいおばさんは、ずいぶん青い顔をしていた。
「てっきり火事に巻きこまれたんだと思ってたけど……会えて良かった! お母さんがたいへんだよ! 今、救急病院に搬送されたところだ!」
「救急病院⁉」
 紅君の背中に掴まる私の手に、自然と力がこもった。息を呑んだまま口も開けない私の代わりに、紅君が冨田さんに次々と質問をし、必要な情報を手に入れる。
「どうしたんですか?」
「あの男だよ! あの男に刺されたんだ!」
「刺……された?」
「ああ。別れ話についカッとなってやったらしいけど……刺した男は奈美さんを放ったまま逃げて、今度は千紗ちゃんがいる福祉施設に火を点けたって!」
「………………!」
 紅君が緊張したことが、背中越しでもよくわかった。私は堪らず叫ぶ。
「紅君!」
「ちい!」
 紅君が自転車のペダルに足を掛け直した。大きく漕ぎだそうとして一瞬、私をふり返る。
「ちいは、お母さんのところに……」 
 全部言い終わられる前に、私は必死で首を振った。
「お母さんはもう病院だもん! 私にできることは祈ることだけだもん! そうでしょ?」
「でも、ちい!」
「いいから行こう! みんなのところへ早く!」 
 あどけない笑顔が次々と頭に浮かぶ。翔太君、綾芽ちゃん、鈴ちゃん、和真君、奏美ちゃん、要君、一葉ちゃん。まだ小学校へ入学していない幼稚園組は、この時間『希望の家』にいるはずだ。いつものようにそれぞれの係に精を出しながら、私たちの帰りを待っているはずだ。
「くそおおっ!」
 これまで聞いたことのない紅君の叫びに、私は唇を噛みしめ、冨田さんをふり返った。
「みんなの無事を確かめたら、私もすぐに病院へ行きます! だからどうかそれまでお母さんを……!」
 冨田さんは真っ青な顔のまま頷いた。
「うん、うん、わかった。気をつけてね!」
「はい!」
 私の返事と共に、紅君が自転車を漕ぎだした。今までで一番のもの凄いスピードで――。
(私のせいでごめんなさい! 私が『希望の家』にいたばっかりにみんなを巻きこんでしまって……ごめんなさい!)
 まるでそんな言葉を私に言わせまいとするかのように、紅君はどんどん自転車のスピードを上げていく。遠くに見えてきた黒煙に、更にスピードを上げようとしたのか、紅君がブレーキから手を放したのが見えた。
 目の前に近づく車の多い国道。頭の中に残る「気をつけてね!」という冨田さんの声。それらに何故かとてつもなく背筋が冷えた瞬間、私たちに向かい、大きなトラックが横滑りにつっこんできた。
 紅君の背中越し、トラックの運転席に座る男性がハンドルにぶら下がるようにして意識を失っている姿が、まるでスローモーションのようにゆっくりと私には見えた。
(…………!)
 ノーブレーキの大型トラックにほぼ真正面からぶつかり、空高く舞い上がった赤い自転車。 道路脇のガードレールに背中からしたたかに打ちつけられた私は、道路の真ん中に倒れた紅君に向かい、トラックが再びつっこんでいく光景を、為す術もなく見ていた。
「いやあああああっ! 紅君!!!」
 さし伸べようとした腕が、自分の意志では動かない。叫んだはずの言葉も、実際に音になっていたのかよくわからない。音も感覚もなく、ただ映像ばかりになった私の世界が、次第に真っ赤に血塗られ、たった一つだけ残されていた視覚――見ることさえできなくなっていく。
(やだ! やだよ! お母さん! 園長先生! みんな! ……紅君! 紅君!!紅君!!!)
 体と心を貫く激痛に抗う術もなく、私は意識を手放した。深い闇の中へ、たった一人で落ちていった。