翌日の日曜日。叔父と叔母に頼み、一日店を休ませてもらった。生まれ育ったあの街へ行ってみると告げた私に、蒼ちゃんは「僕も行く」と言ってくれたが、丁重に断わった。そこに紅君がいるという確証があるわけではないし、蒼ちゃんには大学の研修がある。
「とにかく、一度行ってみるだけだから……」
くり返す私に、蒼ちゃんは膝を折り曲げて目線の高さを合わせ、念を押した。
「もし紅也が見つからなくても、この町に帰ってきて……いい? 叔父さんも叔母さんも、もちろん僕も、千紗ちゃんの帰りを待ってるってことだけは忘れないで……いい?」
「どうしたの蒼ちゃん……? なんだか変……」
あまりにも真剣な顔に、思わず発した質問にも答えてくれず、蒼ちゃんは何度も念を押す。
「いいから……帰ってくるんだよ」
「うん……」
返事をしないことには行かせてもらえない雰囲気を察し、私はやむなく頷いた。
蒼ちゃんにはおそらくわかっていたのだろう。思い出の場所を一つ一つ巡っても、紅君を見つけられなかった時、私がどういう気持ちになるのかが――。
昼過ぎに辿り着いた懐かしい街は、二ヶ月前に紅君と一緒に来た時と、何も変わっていなかった。あの時は凍えそうに冷たい風が吹いていたのに、今は温かい春の風が吹いていることだけが違っている。紅君と一緒に過ごした、一番思い出深い季節に、またこの道を歩くことになったのが、不思議な気もしたし、当然のようにも思えた。
真っ先に訪れた『希望の家』があった教会では、翔太君が私の姿を見て、ひどく驚いた。
「ちい姉ちゃん? どうしたの?」
その反応を見ただけで、ここには紅君が来ていないことがわかる。
「うん。ちょっと用があって……」
苦しまぎれの言い訳にも、翔太君は変な顔をせず、私を信頼しきった目で見つめる。
「ひょっとして……こう兄ちゃんと一緒? ……なんてことはないか……」
キョロキョロと私の周りに視線を廻らし、私が一人きりなことを確認すると、翔太君は少し照れたように頭を掻く。
「俺たちがお見舞いに行ったら、兄ちゃん、目を覚ますかもなんて……本当は思ってたんだ……そうならなくってごめん、姉ちゃん……」
「ううん! そんなこと気にしなくっていいの!」
みんなのおかげで紅君が起き上がったと、本当は言ってしまいたかった。だができなかった。紅君がどこにいるのかもわからない今の状況では、翔太君を心配させるだけだ。それに――。
「また会いに行くから! 今度こそきっと目を覚ましてくれるよ、なっ!」
そう言って笑う翔太君が、もう一度紅君に会える保証はない。
(私だけじゃない……紅君のことを大切に思っている人はたくさんいる……その人たちをみんな置き去りに……いったいどこへ行っちゃったの? 紅君!)
これ以上話したら、平気な顔を作れなくなりそうで、私は急いで教会をあとにした。
「こう兄ちゃんが目を覚ますほうが先だったら、また二人でここに来てくれよなっ!」
笑顔で手を振る翔太君に別れを告げ、別の場所を目指した。
二人で歩いた土手の道にも、問題の国道にも、紅君の姿はなかった。柔らかな春の陽射しが次第に傾き、西の空へと沈みかけ、タイムリミットが近いことを私に教えている。母と暮らしたアパートにも、紅君も通っていた小学校にも、足を運んでみたが収穫はない。限界を越えて歩き回ると、本当に足が痛くて歩くことも困難になるのだと、身を以って初めて知った。
(やっぱり……この街じゃなかったんだ……)
そもそもどうしてここだと思ったのか。その根拠でさえ今は、危うい。
(目を覚まして……それでまだ紅君に記憶があったなら……今度こそは私のことも思い出してくれそうな気がした……)
だからこの街へ来た。二人の思い出が詰まったこの街を巡りながら、欠けた記憶を確かなものにし、それから私のところへ帰って来てくれるような気がした。
(だから、先回りして追いかけてくるなんて……やっぱりこんなの……私の勝手な思いこみだ)
落胆してその場にしゃがみこんだら、もう一歩も動けなくなった。気力だけを頼りに動かし続けた足は、とうに限界を超えている。紅君に会いたい、もうすぐ会えるはずだと、信じる気持ちをなくしてしまったら、動くはずもない。
(やっぱり会えない……もう会えないかもしれない……!)
私の想像もつかないような理由で、紅君が動きだしてしまったのなら、いったい何を信じて待てばいいのだろう。もう一度会おうと、私は約束を交わしたわけでもないし、彼が私を覚えているのかさえわからない。
「紅君!」
項垂れた私の頬を伝った涙が、ポツリと地面に黒い染みを作った瞬間――風が吹いた。伸ばしっぱなしの私の長い髪を巻き上げるように、夕焼けに染まった空に向かって一直線に風が駆け上がったので、つられて顔を上げた。
涙で滲んだ視界の中で、小さな何かが、私に向かってヒラリヒラリと降りてくる。今は夕陽に染まって赤く見えるその小さな『何か』が、淡いピンク色の花びらだと見て取り、私の目から涙が零れ落ちた。いくつもいくつも零れ落ちた。
「さくら……」
あの遠い春の日。紅君と二人で見た景色のように、空から降ってくる花びらを、そっと両手で受ける。握り潰してしまわないように、大切に受け止める。気がつけばいつの間にか、私は桜の大木のすぐ近くにいた。どこをどう歩いて辿り着いたのかさえ、記憶にない。大きな桜の木の傍に、しゃがみこんでいた。
瞬間、背後で声がした。
「いつも見てたんだ……気がつくとその子のことばっかり見てた。あまり目立つ子じゃなかったし、男の子と話すタイプでもなかったから、なかなか話すタイミングが見つからなくて……そうこうしているうちに、その子がある日、パッタリと学校に来なくなった……」
聞き違えようのないその声に、ふり返ろうと思うのにできない。一気に駆け上ってきた震えるような驚きに、大きくしゃくりあげて咽び泣いているような状態では、とてもふり向けない。
「……義理の父親に殴られて、大怪我をしたって聞いた……事実、数日後に学校に出てきたその子は松葉杖で……顔にもいっぱい怪我してた……」
必死に嗚咽を堪えていると息を吸うことさえ難しい。頭も胸も、たった一つの思いで満たされているのに、それを口に出すことができない。ただぽろぽろと涙を零し、彼の言葉を背中で聞き続けるしかない。
「なんで守ってやれなかったんだろうって、すごく後悔した。恥ずかしいとか、みんなにからかわれるかもとか、そんなちっぽけな思い……あの子が傷つくことに比べたら、なんでもなかったのに!」
背中からふわっと私の肩を包むように回された両手が、座りこんだままの私の体を抱きしめた。先ほどまでよりずっと近く、私の頭のすぐうしろで、優しい声が聞こえる。
「守りたいって思った。他の誰からも、何からも、俺が絶対守るんだって自分に誓った。それなのに、その思いさえ忘れて……一番大切な君のことを忘れて……!」
力をこめて自分を抱きしめる腕に、私は恐る恐る指先で触れた。確かに感触があっても、背中で彼の体温を感じても、夢じゃないかと疑う気持ちがどうしても拭えない。もう六年間も、何度も何度もくり返し見てきた、優しくて残酷な夢の続きなのではないかと思える。だが――。
「ゴメン、ちい……それでも好きだよ……誰よりもやっぱり……君が好きだよ」
私の頭に自分の頭を押しつけるようにして、一番近い場所で彼が囁いた言葉だけは、嘘にしたくない。夢でも幻でもいい。彼が私を思い出してくれたのがたとえ今この一瞬だけでも、私にとっては一番大切な宝物として、ずっとずっと心の中にしまっておきたい。
「紅君――!」
叫ぶように名前を呼んだ私を、彼はかき抱くようにもう一度強く背後から抱きしめた。もう決して放さないという意思表示のように、自分は確かにここに居るということを私に知らしめるかのように。
(この腕を信じる……抱きしめる強さを信じる……たとえ運命が、もう一度彼から私の記憶を奪っても、私だけは決して忘れない!)
その思いをこめ、私は萎えていた足に力を入れて体を捻り、自分から彼の腕に飛びこんだ。
「紅君!」
夢でも幻でもなく確かに夕焼けの中に、大好きな人は存在していた。
「ちい……ただいま」
(ああ、紅君だ……本物の紅君に……もう一度会えた……!)
溢れる涙は、やはり止まらなかった。
「とにかく、一度行ってみるだけだから……」
くり返す私に、蒼ちゃんは膝を折り曲げて目線の高さを合わせ、念を押した。
「もし紅也が見つからなくても、この町に帰ってきて……いい? 叔父さんも叔母さんも、もちろん僕も、千紗ちゃんの帰りを待ってるってことだけは忘れないで……いい?」
「どうしたの蒼ちゃん……? なんだか変……」
あまりにも真剣な顔に、思わず発した質問にも答えてくれず、蒼ちゃんは何度も念を押す。
「いいから……帰ってくるんだよ」
「うん……」
返事をしないことには行かせてもらえない雰囲気を察し、私はやむなく頷いた。
蒼ちゃんにはおそらくわかっていたのだろう。思い出の場所を一つ一つ巡っても、紅君を見つけられなかった時、私がどういう気持ちになるのかが――。
昼過ぎに辿り着いた懐かしい街は、二ヶ月前に紅君と一緒に来た時と、何も変わっていなかった。あの時は凍えそうに冷たい風が吹いていたのに、今は温かい春の風が吹いていることだけが違っている。紅君と一緒に過ごした、一番思い出深い季節に、またこの道を歩くことになったのが、不思議な気もしたし、当然のようにも思えた。
真っ先に訪れた『希望の家』があった教会では、翔太君が私の姿を見て、ひどく驚いた。
「ちい姉ちゃん? どうしたの?」
その反応を見ただけで、ここには紅君が来ていないことがわかる。
「うん。ちょっと用があって……」
苦しまぎれの言い訳にも、翔太君は変な顔をせず、私を信頼しきった目で見つめる。
「ひょっとして……こう兄ちゃんと一緒? ……なんてことはないか……」
キョロキョロと私の周りに視線を廻らし、私が一人きりなことを確認すると、翔太君は少し照れたように頭を掻く。
「俺たちがお見舞いに行ったら、兄ちゃん、目を覚ますかもなんて……本当は思ってたんだ……そうならなくってごめん、姉ちゃん……」
「ううん! そんなこと気にしなくっていいの!」
みんなのおかげで紅君が起き上がったと、本当は言ってしまいたかった。だができなかった。紅君がどこにいるのかもわからない今の状況では、翔太君を心配させるだけだ。それに――。
「また会いに行くから! 今度こそきっと目を覚ましてくれるよ、なっ!」
そう言って笑う翔太君が、もう一度紅君に会える保証はない。
(私だけじゃない……紅君のことを大切に思っている人はたくさんいる……その人たちをみんな置き去りに……いったいどこへ行っちゃったの? 紅君!)
これ以上話したら、平気な顔を作れなくなりそうで、私は急いで教会をあとにした。
「こう兄ちゃんが目を覚ますほうが先だったら、また二人でここに来てくれよなっ!」
笑顔で手を振る翔太君に別れを告げ、別の場所を目指した。
二人で歩いた土手の道にも、問題の国道にも、紅君の姿はなかった。柔らかな春の陽射しが次第に傾き、西の空へと沈みかけ、タイムリミットが近いことを私に教えている。母と暮らしたアパートにも、紅君も通っていた小学校にも、足を運んでみたが収穫はない。限界を越えて歩き回ると、本当に足が痛くて歩くことも困難になるのだと、身を以って初めて知った。
(やっぱり……この街じゃなかったんだ……)
そもそもどうしてここだと思ったのか。その根拠でさえ今は、危うい。
(目を覚まして……それでまだ紅君に記憶があったなら……今度こそは私のことも思い出してくれそうな気がした……)
だからこの街へ来た。二人の思い出が詰まったこの街を巡りながら、欠けた記憶を確かなものにし、それから私のところへ帰って来てくれるような気がした。
(だから、先回りして追いかけてくるなんて……やっぱりこんなの……私の勝手な思いこみだ)
落胆してその場にしゃがみこんだら、もう一歩も動けなくなった。気力だけを頼りに動かし続けた足は、とうに限界を超えている。紅君に会いたい、もうすぐ会えるはずだと、信じる気持ちをなくしてしまったら、動くはずもない。
(やっぱり会えない……もう会えないかもしれない……!)
私の想像もつかないような理由で、紅君が動きだしてしまったのなら、いったい何を信じて待てばいいのだろう。もう一度会おうと、私は約束を交わしたわけでもないし、彼が私を覚えているのかさえわからない。
「紅君!」
項垂れた私の頬を伝った涙が、ポツリと地面に黒い染みを作った瞬間――風が吹いた。伸ばしっぱなしの私の長い髪を巻き上げるように、夕焼けに染まった空に向かって一直線に風が駆け上がったので、つられて顔を上げた。
涙で滲んだ視界の中で、小さな何かが、私に向かってヒラリヒラリと降りてくる。今は夕陽に染まって赤く見えるその小さな『何か』が、淡いピンク色の花びらだと見て取り、私の目から涙が零れ落ちた。いくつもいくつも零れ落ちた。
「さくら……」
あの遠い春の日。紅君と二人で見た景色のように、空から降ってくる花びらを、そっと両手で受ける。握り潰してしまわないように、大切に受け止める。気がつけばいつの間にか、私は桜の大木のすぐ近くにいた。どこをどう歩いて辿り着いたのかさえ、記憶にない。大きな桜の木の傍に、しゃがみこんでいた。
瞬間、背後で声がした。
「いつも見てたんだ……気がつくとその子のことばっかり見てた。あまり目立つ子じゃなかったし、男の子と話すタイプでもなかったから、なかなか話すタイミングが見つからなくて……そうこうしているうちに、その子がある日、パッタリと学校に来なくなった……」
聞き違えようのないその声に、ふり返ろうと思うのにできない。一気に駆け上ってきた震えるような驚きに、大きくしゃくりあげて咽び泣いているような状態では、とてもふり向けない。
「……義理の父親に殴られて、大怪我をしたって聞いた……事実、数日後に学校に出てきたその子は松葉杖で……顔にもいっぱい怪我してた……」
必死に嗚咽を堪えていると息を吸うことさえ難しい。頭も胸も、たった一つの思いで満たされているのに、それを口に出すことができない。ただぽろぽろと涙を零し、彼の言葉を背中で聞き続けるしかない。
「なんで守ってやれなかったんだろうって、すごく後悔した。恥ずかしいとか、みんなにからかわれるかもとか、そんなちっぽけな思い……あの子が傷つくことに比べたら、なんでもなかったのに!」
背中からふわっと私の肩を包むように回された両手が、座りこんだままの私の体を抱きしめた。先ほどまでよりずっと近く、私の頭のすぐうしろで、優しい声が聞こえる。
「守りたいって思った。他の誰からも、何からも、俺が絶対守るんだって自分に誓った。それなのに、その思いさえ忘れて……一番大切な君のことを忘れて……!」
力をこめて自分を抱きしめる腕に、私は恐る恐る指先で触れた。確かに感触があっても、背中で彼の体温を感じても、夢じゃないかと疑う気持ちがどうしても拭えない。もう六年間も、何度も何度もくり返し見てきた、優しくて残酷な夢の続きなのではないかと思える。だが――。
「ゴメン、ちい……それでも好きだよ……誰よりもやっぱり……君が好きだよ」
私の頭に自分の頭を押しつけるようにして、一番近い場所で彼が囁いた言葉だけは、嘘にしたくない。夢でも幻でもいい。彼が私を思い出してくれたのがたとえ今この一瞬だけでも、私にとっては一番大切な宝物として、ずっとずっと心の中にしまっておきたい。
「紅君――!」
叫ぶように名前を呼んだ私を、彼はかき抱くようにもう一度強く背後から抱きしめた。もう決して放さないという意思表示のように、自分は確かにここに居るということを私に知らしめるかのように。
(この腕を信じる……抱きしめる強さを信じる……たとえ運命が、もう一度彼から私の記憶を奪っても、私だけは決して忘れない!)
その思いをこめ、私は萎えていた足に力を入れて体を捻り、自分から彼の腕に飛びこんだ。
「紅君!」
夢でも幻でもなく確かに夕焼けの中に、大好きな人は存在していた。
「ちい……ただいま」
(ああ、紅君だ……本物の紅君に……もう一度会えた……!)
溢れる涙は、やはり止まらなかった。