約束した土曜日の午後、みんなは予定どおり紅君の家へやって来た。呼び鈴の音に転がるように玄関へ出た私は、ずらりと並んだ懐かしい顔に、精一杯の笑顔で呼びかけた。 
「いらっしゃい」
 泣かないと決めていたのに、私を見た女の子たちの顔がくしゃっと歪み、一斉にしゃくりあげ始めるから、ついつられてしまいそうになる。だが――。 
「ほら! ちい姉ちゃん、元気だろ! こう兄ちゃんだって、すぐに目を覚ますんだからな!」
 みんなを励ますように、軽く頭を叩いてまわった翔太君の言葉に、女の子たちは顔を上げた。
「お姉ちゃん!」
「ちい姉ちゃん!」
 私などをあれほど慕ってくれた懐かしい子たちが、一目散に私に駆け寄ってくる。大きく両手を広げてみんなをいっぺんに抱きしめながら、泣かないようにするのは、ひと苦労だった。
(翔太君……綾芽ちゃん、鈴ちゃん、和真君、奏美ちゃん、要君、一葉ちゃん……) 
 本当に誰一人欠けていないのが、心から嬉しかった。南向きの暖かい部屋で眠る紅君を、みんなはとり囲んで見つめる。誰も泣いたりはしなかった。真剣な顔で、これまでのこと、これからのことを順番に語った。 
「こう兄ちゃん。僕、サッカー部に入ったんだ……あの頃の兄ちゃんより、もううまいかもしれないよ?」
「ええーっ、要がぁ? ないない。それはない……!」
「なんだよ、翔太!」 
 紅君をそっちのけで喧嘩を始めそうな男の子たちをくすくすと笑い、綾芽ちゃんがそっと紅君の耳元に口を寄せる。 
「あのね、こう兄ちゃん……私、新しい家族ができたの。生まれたばっかりの弟もとっても可愛いよ。きっと仲良くするからね……」 
『そうか。頑張れよ』という紅君の返事が、聞こえたような気がした。私ははっとして、ベッドに横たわる紅君の様子を覗き見る。しかしやはり彼は、微動だにしていない。 
「私のいる施設は『希望の家』みたいに小さい子が多いから、私が最年長なの。昔、ちい姉ちゃんに教えてもらったみたいに、今は私がみんなにお料理を教えてる……」
 誇らしげに笑う一葉ちゃんに、私も笑い返した。私の隣に、すっと和真君が寄ってきた。 
「ちい姉ちゃん……僕、今なら姉ちゃんの気持ちがわかるよ……僕が何をしたって新しいお母さんは気に入らないんだ……叩かれて、思わずやり返しそうになる時もあるけど、姉ちゃんを思いだしたら、我慢できる。姉ちゃんだって耐えてたんだから、僕にもできるはずだって……僕にも仲間がいるから、いつか家を出る日まで、我慢できる……!」 
「和真君……」
 思わず言葉に詰まった。昔、紅君がそうやっていたように、元気づけるつもりで和真君を抱きしめようとしたら、翔太君に先を越された。
「和真! あんまりひどい時は、俺のところへ逃げてこい! 俺は『希望の家』があったあの場所にもう一度『希望の家』を作る! 小野寺牧師だって、絶対賛成してくれる!」
 翔太君の腕の中でうんうんと頷く和真君の肩は震えている。
「翔ちゃん……また勝手にそんなこと決めて……大丈夫なの?」
 心配げに彼を見上げる鈴ちゃんに、背後から奏美ちゃんが囁いた。 
「ふふっ、そんなこと言って、もし本当にそうなったら、一番入り浸るのは鈴のくせに……今だって、誰かさんに会えなくなって寂しい寂しいって、しょっちゅう言ってるじゃない……」 
「奏ちゃん!!」
 大慌てて奏美ちゃんの口を塞いだ鈴ちゃんは、真っ赤な顔で、眠る紅君の顔を見下ろした。 
『なんだ? 鈴は今でも翔太のことが好きなのか?』と紅君が笑い混じりでからかう声が、私にも聞こえそうな気がした。 
(紅君……ねえ紅君……嬉しいね……) 
 みんなが変わっていなくて。そのくせ心も体も大きく成長していて。あの頃の私たちのように、いろいろなことに悩んで傷つき、それでもしっかりと前を向いて歩いている。みんなが慕ってくれるほどには、私自身は成長していないような気がし、それが心苦しいほどだ。 
(だめだね。みんなのお姉ちゃんなんだから、私もしっかりしないと……!) 
 無理ではなく、精一杯の痩せ我慢ではなく、本当に笑って歩きだしたい。いつか紅君が目を覚ました時に、胸を張って「待ってたよ」と笑って言える自分でありたい。 
(うん。がんばる……私もがんばるよ……!) 
 いつまでも続く、紅君を取り囲んでの会話は、私にも元気を与えてくれた。本当に今にも、『おーい。みんなの声がうるさくって、ゆっくり寝ていられないぞ?』と紅君まで起き出してきそうだった。だが、そういう奇蹟は起きなかった。みんながどれだけ話しかけても、やはり紅君は目を覚まさなかった。わかっていたのに、期待すると落胆が大きいからと、始めから諦めていたつもりだったのに、やはり私は、がっかりした。 
(しかたない……本当に、その時を待つしかない……みんなに負けないように、私も自分の目標に向かってがんばりながら、いつかはわからないその時を待とう……!) 
 昨日までより前向きになった心で、みんなを駅まで送っていったあと、帰り着いた弁当屋の前には、蒼ちゃんが立っていた。 
「どうしたの? 今日の夕ご飯にはまだ早いよ?」 
 つい先ほど決心したとおり、明るい笑顔で話しかけた私に、青ざめた蒼ちゃんは、真剣な顔で告げた。
「千紗ちゃん……紅也がいなくなった!」 
(え? ……どういうこと……?) 
 頭で言葉を理解するよりも先に、私の足は駆けだしていた。毎日、学校へ行く前に辿る紅君の家までの道のりを、手にしていた荷物も全部放りだし、全力疾走していた。
 
 辿り着いたのは、いつもどおりの静かな庭。つい先ほどまで七人の子供たちの訪問を受けて賑わっていた家は、今はすっかり通常の静けさをとり戻している。点々と庭に配置された敷石を辿るのももどかしい思いで、庭へ面したいつもの掃き出し窓へと駆け寄ったら、そこはいつになく大きく開け放たれ、真っ白なカーテンが風にはためいていた。窓のすぐ横にあるいつも紅君が眠っていたベッドの上には、本当に誰の姿もない。 
「紅君……!」
 悲鳴のような声で彼の名前を呼び、その場にしゃがみこんでしまわないように、震える体を自分で抱きしめるのが、その時私にできる精一杯だった。 
「紅君!!」
 私の叫びは、まだ早い春の夕暮れの冷たい風に、巻き上げられて消えていった。