私の肩を抱く紅君の手は、温かいより熱いくらいだ。背中から肩にかけ、これまでで一番近くに彼の気配を感じる。ズシリと肩にのしかかってくるような重みは、決して私を逃がさないという意思表示のようにも感じた。 
(紅君……)
 それは彼が記憶をとり戻したからなのか。それとももっと他の理由からなのか。答えが知りたい。でも知りたくない。 
 笑顔のまま翔太君と話をしている紅君の様子は、まるでいつもどおりに見える。冗談を言いあい、簡単に近況を報告しあい、だが、だからこそ普通ではないのだと痛感する。 
(だって……本当なら紅君は翔太君を覚えてないはずで……もちろん昔の話なんてできないはずで……なのに!) 
 私の中の『もしかして』という思いが、次第に『きっと』という確信へ変わっていく。
(思い出したんだ……! 紅君!) 
 もしまちがっていたなら大きく落胆することになる。それでも期待せずにはいられなかった。しかし本人にそれを確認することは、なかなかできなかった。

 私と紅君の手を引いて牧師の住居へと招待してくれた翔太君は、たまりにたまった五年分の報告を、一度に紅君に伝えようとしているかのようだった。 
「火事のあと、俺と鈴は隣町の施設に移ったんだ……和真と奏美は、それぞれお母さんが迎えにきた。他のみんなはバラバラに違う施設に……でも今でも時々電話したりするよ」
「そうか」 
 紅君がほっとしたように息を吐いた。あの頃のように、いかにもみんなの『お兄ちゃん』の顔になる。
「みんな元気か?」 
「うん」
 大きく頷いてからすぐ、翔太君は視線を足元へ移した。自分と向かいあって椅子に座る紅君の足の辺りを見ながら、ポツリポツリと言葉を繋ぐ。 
「俺さ……みんなも……園長先生も……もうここにはいないってわかってるんだ。でも『よかったらここで暮らさないか?』って小野寺牧師に聞かれた時、すぐに『はい!』って答えた……だってやっぱりここが俺の家だから……違う? こう兄ちゃん……」 
 ハキハキと元気のいい翔太君の声が、次第に途切れがちになっていく。反応を窺うように、翔太君が上目遣いで紅君の顔を見上げた瞬間、紅君は立ち上がって彼に近づき、子供の頃いつもそうしていたようにぎゅっと抱きしめた。それには翔太君が面食らってしまった。
「兄ちゃん! こう兄ちゃん! 俺、もうチビじゃないんだからさ!」
 慌てて抗議の声を上げても、紅君は翔太君の頭を抱きしめる腕を緩めない。 
「ありがとう翔太……俺はさんざん回り道して……ここまで帰ってくるのにずいぶん長い時間がかかったのに、その間、みんなのことも、この場所のこともちゃんと見ててくれたんだな! ……俺が留守の間は、翔太がみんなを守れって……それがお前との約束だったもんな……」
「うん……! うん……!」 
 強がってはみても、やはりいくつになっても紅君の弟分の翔太君は、浮かんだ涙を隠すように、いったんは抜け出ようとしていた紅君の腕の中にもう一度ひっこんでしまった。
「よくがんばったな。偉いぞ翔太」
「うん」
 テーブルを挟んだ向かいの席で、二人を見ていた私も、涙が止まらなかった。

 牧師の住宅を出たあと、小さな石碑の前で、紅君はずいぶん長い間しゃがんでいた。 
 以前『希望の家』があった場所に作られた花壇には、よく見ると中央に小さな墓標が設けられていた。その下に眠るのはもちろん、私たちに惜しみない愛情を注いでくれ、この場所で生涯を閉じた園長先生だ。 
 私も翔太君も牧師も、紅君が再び立ち上がるまで静かに彼を待った。長い祈りと対話のあと、ようやくその場に立って私たちをふり返った紅君の目は、真っ赤に染まっていた。暮れ始めた空の色を反射しているからばかりではなく、深い悲しみに満ちていた。 
「園長先生は、俺を怒ってなかったかな……? 焦って無茶をして、その結果、みんなのところに辿り着けなかった……先生の手助けもできなかった……」
「それは紅君のせいじゃないよ!」 
 気がつけば、私は誰よりも真っ先にそう叫んでいた。
「私のせいだもの! もとはといえば、全部私のせいだもの!」 
 五年間、いつも心の中に抱え続けてきた自責の念は、いったん口に出してしまえば止まらない。私のせいで紅君が失ってしまったものは多すぎる。あまりにも大きすぎる。
「私が『希望の家』にいなかったら! ううん……みんなに関わらなかったら、そしたら園長先生だって……!」
「ちい!」
「ちい姉ちゃん!」 
 紅君の必死の声にも負けないくらい大きな声で、翔太君が私の名前を叫んだ。――それは『希望の家』で暮らしていた小さな子供たちが、心からの親愛の情をこめ、私を呼んでくれた愛称だった。 
「変なこと言うなよ! ちい姉ちゃんも『希望の家』の子だからって……園長先生はそう言っただろ!」 
 そうだった。澤井の暴力から逃れ、私が『希望の家』に一時避難した時、園長先生は確かに私のことを、『今日からちいちゃんもここの子供です』と言ってくれた。だが――。 
「でも、あんなに力になってもらって……助けてもらって……それなのに肝心の時に私はここに辿り着けなかった! 園長先生の力になれなかった!」 
 悔しくて悲しくて、もしもう一度やり直せるのなら、今度こそきっと無事に辿り着くのに、 夢の中でさえその願いは一度も叶わなかった――尽きることない私の後悔の思い。
 唇を噛みしめて深く俯いた紅君も、きっと同じ思いを抱えている。 
「怒ってなんかおられないし……きっとあなたたちが無事だったことを喜んでらっしゃると思いますよ」 
 穏やかな小野寺牧師の声が、私たちを慰めようとしてくれる。同じ神に仕える者として、園長先生の心を静かに代弁してくれる。 
「大切にしていた子供たちが、こんなに心優しく成長してくれて、きっと喜んでらっしゃるはずです」
「でも……」 
 それでも自分を責めずにいられない私に向かい、翔太君がキリッと真っ直ぐな視線を向けた。五年生の頃の紅君にも負けない、それは綺麗に澄んだ、迷いのない目だった。 
「ちい姉ちゃんも、こう兄ちゃんも……ちゃんと俺たちのところへ来たよ!」 
 はっと私は、翔太君に驚きの目を向ける。紅君も同じように顔を上げたのがわかった。 
「火事の時! ……いろんなところが炎で止められて、通れる場所がなくなって、困ってる俺たちに園長先生が言ったんだ……『コウとちいちゃんが助けに来てくれたから、ちゃんとあとをついて、歩ける人は歩きなさい』って……それで俺は、兄ちゃんたちのうしろ姿を追っかけて、家の出口まで辿り着いた……他のみんなだってそうだ! 嘘じゃない!」 
 驚きのあまり、私は瞬きさえ忘れていた。
(どういう……こと……?)
 頭がひどく混乱して、考えがまとまらない。その時、私たちは酷い交通事故に遭い病院に搬送されていたはずで、どう足掻いても『希望の家』にいたはずはない。それなのに――。 
 真顔で訴える翔太君はあまりにも真剣で、疑う隙などまったくない。 
「本当か翔太……?」
 紅君が静かに確かめた。翔太君に負けない真摯な瞳で、真っ直ぐに彼を見つめてからゆっくりと尋ねた。 
「うん。本当」
 翔太君が頷いた瞬間、紅君の綺麗な瞳から、ぽろりと一粒涙が零れ落ちた。きゅっと唇を真一文字にひき結んだ紅君が、今どういう思いでいるのか。この世界の誰よりも、私は理解できる。誰にも負けない。 
(――だって、たぶん……私もまったく同じことを考えている……) 
 それはおそらく、園長先生の優しい嘘だったのかもしれない。くじけそうになっていた子供たちの心を鼓舞するための、いちかばちかの狂言だったのかもしれない。
 だが純粋な心で私たちの帰りを待っていたみんなには、私たちの姿が見えたのだ。それはなんと嬉しいことだろう。不可能を可能にするほどの思いが、あの時、あの場所で生まれていたのだとしたら、翔太君の言うとおり、私たちは本当にその場にいたのかもしれない。どうしても駆けつけたかった場所に、心だけ、魂だけ、やっとの思いで辿り着いたのかもしれない。 
(だったら嬉しい……! こんな……こんな嬉しいことはないよ!)
 ぽろぽろと零れ落ちる涙を、必死に両手で拭う私とは対照的に、紅君はにっこり笑った。それはそれは嬉しそうに笑った。 
「ありがとう翔太」
 それから翔太君に向かい深々と頭を下げる。翔太君は紅君にVサインを作り、にかっと大きな口を開けて笑った。いつまでも心に焼きつけておきたい光景さえ涙で滲んでしまい、次第に見えなくなっていく自分が、私は少し悔しかった。