私にとって、五年前のあの出来事は心がひき裂かれるように辛い記憶だった。だからつっかえつっかえ、時には涙で話せなくなりながら、全てを語り終わるまでには長い時間が必要だった。
夜間学校の帰りに立ち寄った、蒼ちゃんの大学近くの公園。昨年、四年ぶりに紅君と再会したその場所で、私はついに彼に全てをうち明けた。紅君は私の話に一度も口を挟むことなく、深く俯いたまま、長い告白をただ黙って聞いてくれた。
「だから、私と紅君はこの町で初めて出会ったんじゃない……『はじめまして』じゃないの」
恐くなかったわけではない。私が話すことで紅君の記憶が揺さぶられ、また以前のように倒れてしまったらと思うと、恐くて堪らなかった。だが強く両手を握りしめたまま、深く顔を伏せ、全てを受け入れようと戦っている紅君の姿を見ていたら、途中で言葉を濁すことも、もうやってはいけないと感じた。これまで全てを黙り、そ知らぬ顔で紅君の傍に居続けた私の罪を、これ以上ごまかしてはいけない。
「ごめん……ごめん紅君……」
(五年前のあの事件も……私のせいで紅君が失った様々なものも……悪いことだと知りながら、それでもやっぱり何度も紅君の手を取った――それだけは諦めきれなかった私の想いも……みんなみんな……)
「ごめんなさい……!」
くり返す懺悔の言葉に、ストップをかけたのは紅君ではなく、告白に立ちあってくれていた蒼ちゃんだった。紅君にもしものことがあった時や、私が途中で話せなくなった時のため、少し離れたところから私たちを見守っていた蒼ちゃんは、身動き一つしない紅君を心配げに見ながら、私の前に走りこんできた。
「もういいよ! もういいって! 千紗ちゃんが悪いんじゃないんだから! そうだろ紅也?」
『いつものお前だったら、すぐにそう言い出すだろ?』と言いたそうに、珍しく苛立たしげに蒼ちゃんが紅君をふり返る。それでも紅君は俯いたまま、ぴくりとも動かなかった。
「でも……! ごめんなさい……」
紅君と並んでベンチに座っていることが辛く、転げ落ちるように彼の前の地面に座りこみ、足元に蹲るように頭を下げた私を、蒼ちゃんが抱え上げて立ち上がらせようとする。
「千紗ちゃん!」
「いいの! ……いいの!」
その優しい手をふり払い、地面に突っ伏した私の上に、誰かがふっと屈みこんだ気配がした。
(…………?)
恐る恐る顔を上げて確かめようとした瞬間、息もできないくらいに強く抱きしめられた。
「ちい!」
私の頭をかき抱くように自分の胸に抱きしめ、地面から起こした人物が紅君だと気がつき、一気に涙が溢れた。
(紅君……!)
全てを話すことで紅君との間に溝ができても、これまでのように私に好意を示してくれなくなっても、それで構わないと決意していた。してはいたがやはり、そう思うと辛くて悲しく、新たな傷を負いそうになっていた心が、ただ一人、紅君の言葉だけで行動だけで救われる。
「ちい……ちい! ……どうして今まで……!」
苦しい息を吐くように切れ切れに話す紅君が、そのあとに言ってくれようとしている言葉がわかり、いっそう涙が溢れる。
(いいの! 私が黙っていることで紅君が傷つかないんなら……笑っていられるんならそれでいいと思ったの! ……だけど……だけど!)
伝えたい言葉は、もう何一つ声にならない。嗚咽を堪えて泣き続ける私を、紅君は上向かせ、瞳を覗きこむようにして見つめる。
「ごめん。俺のほうこそごめん! ……ちい一人に辛い思いをさせてごめん!」
溢れんばかりに涙を湛えた紅君の瞳は、子供の頃と少しも変わらず、綺麗な澄んだ色をしていた。強くて優しい、私の大好きな紅君そのもののように、私が全てを語り終えても、曇りひとつなかった。
「守ってやりたいって……何からも絶対俺が守るんだって、強く思ってた気持ちは覚えてる! ……その相手がちいだってことは、記憶がなくてもわかるよ。俺の全部で確かにわかる! だけど……! だから……! ごめん! 一番辛い時に、一番ちいの心を守ってやらないといけなかった時に、傍にいてやれなくてごめん……!」
(ああそうだ、そうだね……私の大好きな紅君は、こんなにも優しく……そして強い人だった)
もう一度かき抱くように紅君の胸に抱きしめられながら、私は五年ぶりで本当にあの頃の紅君が帰ってきたように感じていた。
事件のことを知ったら紅君が傷つくかもしれないとか、知らないほうが幸せなのではないかとか、そういう理由は全て、紅君に真実を伝えることを恐れた私が、あとになって作りだした言い訳だ。
紅君はそういうことで絶望したり、後悔したり、これからの人生をだいなしにしてしまう人ではない。どういう時でも前を向き、真っ直ぐに進む人だ。それを誰よりも知っていたはずなのに、私は紅君と再会してからの一年、いやその遥かに前、おそらくあの事故の直後から、全てを話したら彼に嫌われるかもしれないという妄執に怯えていた。ただそれだけだった。
言葉もなくお互いを抱きしめあったまま、地面に座りこむ私と紅君の上に、フワリと柔らかなストールがかけられる。私がベンチに置き去りにしていたそのストールを、寒くないようにとかけてくれたらしい蒼ちゃんは、わざわざ私たちと目線の高さをあわせるためにしゃがみこん、眼鏡越しににっこりと笑う。
「そろそろ立ち上がらないと風邪引いちゃうよ……なんなら千紗ちゃんだけでも僕が抱き起こそうか?」
「蒼ちゃん!」
腕の中で小さく叫んだ私を、紅君がなおさら胸に抱きこんだ。
「いくら兄さんでも渡さないよ……ちいだけは」
「ハハハッ。わざわざ言われなくたって知ってるよ。そんなことは……」
蒼ちゃんはすぐに立ち上がり、私たちへ背を向けて歩きだす。
「でも紅也が自分の後悔だけで頭がいっぱいになって、今の千紗ちゃんを気遣ってやれなくなったら、いつだって僕が横からさらっていくよ」
笑いながら去って行く背中に、私は慌てて呼びかける。
「蒼ちゃん!」
「ハハハッ。冗談、冗談……」
うしろ手に手を振りながら遠くなっていく蒼ちゃんの、それは本当に冗談なのか、それとも本気なのか、私には判断がつかないが、紅君はすぐさま地面から立ち上がった。
「わかってる。ちいが傷つかなくてもいいように……これ以上泣かなくてもいいように……俺にとってだって、それがあの頃からの変わらない願いなんだ!」
私の腕を引いて立ち上がらせながら、紅君が蒼ちゃんに向かって放った言葉に胸が鳴った。
(あの頃からのって……? 紅君? ……まさか?)
驚いたように彼の顔を見上げる私に気がつき、紅君は小さく笑う。
「思い出したわけじゃないよ。ごめんちい……でも一緒にいた頃に自分がどんなにちいを好きだったのかは、わかる。理屈じゃなくわかる……一番真っ先に、それも一度じゃなく二度も……忘れてしまった記憶なのに……ごめんね」
私は慌てて、否定の意味で首を振った。それは紅君に謝られることではない。むしろ――。
(嬉しい……! 他の誰でもない、大好きな紅君が、自分をそんなふうに言ってくれることが嬉しいよ!)
ぽろりと私の頬を伝って落ちた涙を、紅君が指ですくった。
「泣かないで。もう忘れないから……何があっても、もうちいのことは忘れない! 失った記憶だって、きっといつかとり戻すから……」
無理はしなくてもいいと、言いかけた唇は、紅君の冷たい唇でそっと塞がれた。
「俺。この冬の間に、もう一度あの街へ行こうと思う。きっと今だったら、夏に行った時よりいろんなことを感じるんじゃないかな……ひょっとしたら記憶だって戻るかもしれないよ?」
満面の笑みで私に語りかける紅君につられるように、私の頬も緩んだ。自分でも思ってもみなかった言葉が、自然と口から出てくる。
「紅君。私も……」
一緒に行きたいというのは図々しすぎるだろうか。日帰りでは帰って来られないあの街に、二人で旅をしたいというのは――。
一瞬言い淀んだ私に、紅君はますます晴れやかな笑顔を向けた。ぶ厚い冬の雲も吹き飛ばしてしまいそうなほどの、眩しい笑顔だった。
「一緒に来てくれる、ちい? ちいと一緒だったら、きっと、もっと可能性があると思う!」
勇気を出して口にする前に、先に言われてしまい、ほっとすると同時に緊張する。
(本当に? 思い出がいっぱいのあの街を一緒に廻ったら、紅君は記憶をとり戻すかな……?)
少しの期待と。
(でも……無理をしたらまた倒れてしまったりしない……?)
少しの不安。
相反する二つの思いを胸に抱き、その数日後、私は五年ぶりに、生まれ育ったあの街を訪れた。紅君と二人で――。
夜間学校の帰りに立ち寄った、蒼ちゃんの大学近くの公園。昨年、四年ぶりに紅君と再会したその場所で、私はついに彼に全てをうち明けた。紅君は私の話に一度も口を挟むことなく、深く俯いたまま、長い告白をただ黙って聞いてくれた。
「だから、私と紅君はこの町で初めて出会ったんじゃない……『はじめまして』じゃないの」
恐くなかったわけではない。私が話すことで紅君の記憶が揺さぶられ、また以前のように倒れてしまったらと思うと、恐くて堪らなかった。だが強く両手を握りしめたまま、深く顔を伏せ、全てを受け入れようと戦っている紅君の姿を見ていたら、途中で言葉を濁すことも、もうやってはいけないと感じた。これまで全てを黙り、そ知らぬ顔で紅君の傍に居続けた私の罪を、これ以上ごまかしてはいけない。
「ごめん……ごめん紅君……」
(五年前のあの事件も……私のせいで紅君が失った様々なものも……悪いことだと知りながら、それでもやっぱり何度も紅君の手を取った――それだけは諦めきれなかった私の想いも……みんなみんな……)
「ごめんなさい……!」
くり返す懺悔の言葉に、ストップをかけたのは紅君ではなく、告白に立ちあってくれていた蒼ちゃんだった。紅君にもしものことがあった時や、私が途中で話せなくなった時のため、少し離れたところから私たちを見守っていた蒼ちゃんは、身動き一つしない紅君を心配げに見ながら、私の前に走りこんできた。
「もういいよ! もういいって! 千紗ちゃんが悪いんじゃないんだから! そうだろ紅也?」
『いつものお前だったら、すぐにそう言い出すだろ?』と言いたそうに、珍しく苛立たしげに蒼ちゃんが紅君をふり返る。それでも紅君は俯いたまま、ぴくりとも動かなかった。
「でも……! ごめんなさい……」
紅君と並んでベンチに座っていることが辛く、転げ落ちるように彼の前の地面に座りこみ、足元に蹲るように頭を下げた私を、蒼ちゃんが抱え上げて立ち上がらせようとする。
「千紗ちゃん!」
「いいの! ……いいの!」
その優しい手をふり払い、地面に突っ伏した私の上に、誰かがふっと屈みこんだ気配がした。
(…………?)
恐る恐る顔を上げて確かめようとした瞬間、息もできないくらいに強く抱きしめられた。
「ちい!」
私の頭をかき抱くように自分の胸に抱きしめ、地面から起こした人物が紅君だと気がつき、一気に涙が溢れた。
(紅君……!)
全てを話すことで紅君との間に溝ができても、これまでのように私に好意を示してくれなくなっても、それで構わないと決意していた。してはいたがやはり、そう思うと辛くて悲しく、新たな傷を負いそうになっていた心が、ただ一人、紅君の言葉だけで行動だけで救われる。
「ちい……ちい! ……どうして今まで……!」
苦しい息を吐くように切れ切れに話す紅君が、そのあとに言ってくれようとしている言葉がわかり、いっそう涙が溢れる。
(いいの! 私が黙っていることで紅君が傷つかないんなら……笑っていられるんならそれでいいと思ったの! ……だけど……だけど!)
伝えたい言葉は、もう何一つ声にならない。嗚咽を堪えて泣き続ける私を、紅君は上向かせ、瞳を覗きこむようにして見つめる。
「ごめん。俺のほうこそごめん! ……ちい一人に辛い思いをさせてごめん!」
溢れんばかりに涙を湛えた紅君の瞳は、子供の頃と少しも変わらず、綺麗な澄んだ色をしていた。強くて優しい、私の大好きな紅君そのもののように、私が全てを語り終えても、曇りひとつなかった。
「守ってやりたいって……何からも絶対俺が守るんだって、強く思ってた気持ちは覚えてる! ……その相手がちいだってことは、記憶がなくてもわかるよ。俺の全部で確かにわかる! だけど……! だから……! ごめん! 一番辛い時に、一番ちいの心を守ってやらないといけなかった時に、傍にいてやれなくてごめん……!」
(ああそうだ、そうだね……私の大好きな紅君は、こんなにも優しく……そして強い人だった)
もう一度かき抱くように紅君の胸に抱きしめられながら、私は五年ぶりで本当にあの頃の紅君が帰ってきたように感じていた。
事件のことを知ったら紅君が傷つくかもしれないとか、知らないほうが幸せなのではないかとか、そういう理由は全て、紅君に真実を伝えることを恐れた私が、あとになって作りだした言い訳だ。
紅君はそういうことで絶望したり、後悔したり、これからの人生をだいなしにしてしまう人ではない。どういう時でも前を向き、真っ直ぐに進む人だ。それを誰よりも知っていたはずなのに、私は紅君と再会してからの一年、いやその遥かに前、おそらくあの事故の直後から、全てを話したら彼に嫌われるかもしれないという妄執に怯えていた。ただそれだけだった。
言葉もなくお互いを抱きしめあったまま、地面に座りこむ私と紅君の上に、フワリと柔らかなストールがかけられる。私がベンチに置き去りにしていたそのストールを、寒くないようにとかけてくれたらしい蒼ちゃんは、わざわざ私たちと目線の高さをあわせるためにしゃがみこん、眼鏡越しににっこりと笑う。
「そろそろ立ち上がらないと風邪引いちゃうよ……なんなら千紗ちゃんだけでも僕が抱き起こそうか?」
「蒼ちゃん!」
腕の中で小さく叫んだ私を、紅君がなおさら胸に抱きこんだ。
「いくら兄さんでも渡さないよ……ちいだけは」
「ハハハッ。わざわざ言われなくたって知ってるよ。そんなことは……」
蒼ちゃんはすぐに立ち上がり、私たちへ背を向けて歩きだす。
「でも紅也が自分の後悔だけで頭がいっぱいになって、今の千紗ちゃんを気遣ってやれなくなったら、いつだって僕が横からさらっていくよ」
笑いながら去って行く背中に、私は慌てて呼びかける。
「蒼ちゃん!」
「ハハハッ。冗談、冗談……」
うしろ手に手を振りながら遠くなっていく蒼ちゃんの、それは本当に冗談なのか、それとも本気なのか、私には判断がつかないが、紅君はすぐさま地面から立ち上がった。
「わかってる。ちいが傷つかなくてもいいように……これ以上泣かなくてもいいように……俺にとってだって、それがあの頃からの変わらない願いなんだ!」
私の腕を引いて立ち上がらせながら、紅君が蒼ちゃんに向かって放った言葉に胸が鳴った。
(あの頃からのって……? 紅君? ……まさか?)
驚いたように彼の顔を見上げる私に気がつき、紅君は小さく笑う。
「思い出したわけじゃないよ。ごめんちい……でも一緒にいた頃に自分がどんなにちいを好きだったのかは、わかる。理屈じゃなくわかる……一番真っ先に、それも一度じゃなく二度も……忘れてしまった記憶なのに……ごめんね」
私は慌てて、否定の意味で首を振った。それは紅君に謝られることではない。むしろ――。
(嬉しい……! 他の誰でもない、大好きな紅君が、自分をそんなふうに言ってくれることが嬉しいよ!)
ぽろりと私の頬を伝って落ちた涙を、紅君が指ですくった。
「泣かないで。もう忘れないから……何があっても、もうちいのことは忘れない! 失った記憶だって、きっといつかとり戻すから……」
無理はしなくてもいいと、言いかけた唇は、紅君の冷たい唇でそっと塞がれた。
「俺。この冬の間に、もう一度あの街へ行こうと思う。きっと今だったら、夏に行った時よりいろんなことを感じるんじゃないかな……ひょっとしたら記憶だって戻るかもしれないよ?」
満面の笑みで私に語りかける紅君につられるように、私の頬も緩んだ。自分でも思ってもみなかった言葉が、自然と口から出てくる。
「紅君。私も……」
一緒に行きたいというのは図々しすぎるだろうか。日帰りでは帰って来られないあの街に、二人で旅をしたいというのは――。
一瞬言い淀んだ私に、紅君はますます晴れやかな笑顔を向けた。ぶ厚い冬の雲も吹き飛ばしてしまいそうなほどの、眩しい笑顔だった。
「一緒に来てくれる、ちい? ちいと一緒だったら、きっと、もっと可能性があると思う!」
勇気を出して口にする前に、先に言われてしまい、ほっとすると同時に緊張する。
(本当に? 思い出がいっぱいのあの街を一緒に廻ったら、紅君は記憶をとり戻すかな……?)
少しの期待と。
(でも……無理をしたらまた倒れてしまったりしない……?)
少しの不安。
相反する二つの思いを胸に抱き、その数日後、私は五年ぶりに、生まれ育ったあの街を訪れた。紅君と二人で――。