翌日のクリスマスの弁当屋は、いつもとはまるで違った忙しさだった。パーティー用のオードブルやチキンバスケットなど、予約や店頭販売を合わせると、叔父と叔母と私の三人で休みなく働いても、とても終わりそうにはない。昨日のイブは学校へ行かせてもらったのだから、せめて当日ぐらいはもっと働きたいと、私も朝から厨房へ入った。
 今日の店内は、来店があった時だけ誰かが店頭に立つという繁忙期スタイル。目が回るほどに働き、疲れもピークにきた夕方、ドアの開く音に店頭へ出た叔母が、ふいに私を呼んだ。 
「千紗……出ておいで!」
 揚げ終わったばかりのフライドチキンを箱に詰め、呼ばれたほうへ顔を向けると、カウンターの向こうに蒼ちゃんが立っていた。 
「忙しそうなのに、すいません」
 眼鏡の前で手をあわせる蒼ちゃんに弁当を渡しながら、叔母さんが思いがけないことを言う。
「いいんだよ気にしないで。千紗、ちょっと休憩しておいで……」 
「えっ? でも……」
 この状況の時にいいのかと、私が躊躇する前に、叔母はさっさと私のぶんの弁当も蒼ちゃんへ渡した。 
「いいから。早く行って帰ってきて、それから私と交代だよ」
 せかせかとそう言われれば、あとはもう急ぐしかない。
「うん」
 エプロンを外しながら頷き、私は蒼ちゃんと共に店を出た。春から夏にかけ、蒼ちゃんが毎日店へ通っていた時刻と同じ頃なのに、外はもう真っ暗だった。明かりの消えた商店街。薄暗い外灯が所々にポツンと建っている程度なので、目を凝らせば夜空の星も見える。
 昨夜、紅君と共に歩いたネオンの輝く街とはあまりにも違い、それに安堵した。自分が本来いるべき場所へ戻ったような、不思議な安心感に包まれた。
(ひょっとしたら、昨夜のあれは夢だったんじゃないかな……?)
 私がそういうことを考えた瞬間、先に立って歩いていた蒼ちゃんが突然口を開いた。 
「みんな元気だよ……毎日ご飯をもりもり食べてる……千紗ちゃんに会えなくて寂しがってるから、そろそろ会いにおいで」
 誰がと言われなくても、蒼ちゃんが何の話をしているのかはわかった。私は急いで頷く。
「うん。私も会いたい!」
 吹き抜ける風が頬に気持ちいいよりも冷たく感じるようになる頃、弁当屋の裏で毎日ご飯をあげていた野良猫を、蒼ちゃんは全部自分でひき取った。『本格的に寒くなる前に屋根のある所へ移す』とか、『一日一食じゃそろそろ足りなくなってきたみたいだ』とか、理由はいろいろ語られたが、私と毎日顔を会わせないようにというのが一番の理由だとわかっていた。 
 それまで当たり前のように二人で過ごしていた時間を失うのは寂しかったが、当然だと思った。誰といても何をしていても、結局紅君のことしか想えない私が、これ以上蒼ちゃんの優しさに甘えるわけにはいかない。
 ただただ申し訳ない気持ちで、蒼ちゃんの決断に感謝するしかなかったあの日から三ヶ月。こうして蒼ちゃんのほうから、『会いにおいでよ』と口にしてもらえるようになったことが、やはりありがたかった。蒼ちゃんの優しさをよく知る猫たちは、いつも彼にまとわりついていた。蒼ちゃんは猫たちをとても可愛がっていた。私はその光景を見ているのが大好きだった。 
(きっと蒼ちゃんに甘やかされて、丸々と太ったろうな……どんなに大きくなったろう?)
 そういうふうに考え、初めてはっとした。 
(蒼ちゃんの家に行くって……それって紅君の家に行くってことじゃ……?)
 ふと足を止め、困ったように顔を見る私を、蒼ちゃんは以前と変わらない笑顔で見つめる。 
「大丈夫……そんなに自分を責めなくていいんだよ。気にしなくっていい。紅也は、千紗ちゃんを思い出そうとしたから倒れたんじゃない……それに、どんなに千紗ちゃんが逃げたって、僕の弟も僕以上になかなか諦めが悪い……」
 屈託なく笑いながら蒼ちゃんが視線を向けた先に、私も目を向け、泣きそうな気持ちになった。そこだけ場違いにライトアップされた、ケーキ屋の大きなクリスマスツリーの前に、紅君が立っていた。私と蒼ちゃんの姿を見つけると、満面の笑顔になる。その笑顔を目にすると、やはりどうしようもなく胸が苦しくなる。 
「千紗ちゃんのこと、僕は何も話さなかったよ……でも紅也が自分から聞いてきた。どんな子なんだ、いくつなんだ、兄さんとどんな関係なんだって散々尋ねるから、『僕が好きだった子だよ』って答えたら、ほっとしたみたいに笑った……」 
 ドキリと胸が跳ね、蒼ちゃんの顔を見直した。『好きだった』という表現に、私の胸の中の一部が、妙にざわついた。蒼ちゃんはふわりと笑い、私の目を見つめたまましっかりと頷く。
「『好きだった』んならよかったって……過去形でよかったって……ああ、これが紅也の本音だったんだって、初めてわかった……その気持ちを封じこめようと、あいつに無理をさせてたのは千紗ちゃんじゃない……僕だよ」
「蒼ちゃん!」 
 それではまるで蒼ちゃんが悪いかのようだ。そんなこと私は納得がいかない。声に出して抗議しようとした瞬間、大きな手が私の頭をポンと叩いた。以前よくそうされていたように、宥めるように頭を撫でられ、自分が蒼ちゃんにそうやってもらうのがどれほど好きだったかを、やはり思い出した。 
「僕は紅也に、千紗ちゃんを好きな気持ちで負けたとは思ってない……今だって君が大好きだし、幸せになってほしいと思ってる」 
 だめだ、涙が零れる。蒼ちゃんが優しくて、優しすぎて、それが胸に痛い。 
「でも……自分の弟ながら……ううん、自分の大切な弟だからこそ、紅也は凄いと思う。褒めてやりたいと思う。だってあいつは、何度千紗ちゃんを忘れたって、必ずまた好きになるんだ! もし気持ちの深さや強さを測れるなら、これ以上の強さはないと思うよ……違う?」 
 言葉は違うが、蒼ちゃんが言わんとしていることは、昨夜美久ちゃんにくり返し言われたこととよく似ている。だからなおさら涙が零れる。 
「悔しいとか、苦しいとか……僕の中のいろんな感情を一つつずつ整理していったら、素直に『凄い』と思う気持ちが最後に残った。紅也の諦めの悪さ……いや、想いの確かさに感動した。千紗ちゃんは? 千紗ちゃんはどう思う?」 
(どうって……)
 頬を濡らす涙を掌で拭い、私は恐る恐る顔を上げる。紅君のほうをふり返り、こちらを真っ直ぐに見ている姿を見たら、それだけでまた涙が浮かんだ。 
「私は……紅君に笑っててほしい……それを遠くから見ていられるなら、私はそれだけでいい」
 ふっと苦笑するように、蒼ちゃんが笑った気配がした。 
「まったく……強情なところがそっくりだ……よく似てるね、紅也と千紗ちゃんは……」
 思いがけない言葉に、蒼ちゃんの顔をふり仰ごうとすると、両肩を掴まれ、逆に紅君のほうを向かされる。 
「紅也が好き?」
 これ以上ないほど優しい声で尋ねられ、どうしようもなく動揺した。
「…………!」 
「『だけど』とか『でも』はなしね……好き?」
 複雑に絡まった私の感情を解きほぐすように、蒼ちゃんの声が穏やかに問いかける。少し離れた場所に立つのは、いつも私が知らず知らずのうちに視線をひき寄せられていたたった一人の人。何度も諦めなければと思い、忘れようとし、それでも絶対に私の心から消えなかった人。
 明るい色の髪も、綺麗で澄んだ瞳も、満面の笑顔も、私を呼ぶ声も、大好きだった。ずっとずっと大好きだった。溢れる想いを我慢できず、私はこれまで紅君本人にしか伝えたことのない気持ちを、初めて彼以外の人の前で口にした。
「うん……紅君が好き……」 
 私の肩から手を離した蒼ちゃんが、ポンともう一度私の頭を優しく叩いた。
「だったら他のことは考えなくていい。遠くからじゃなくすぐ近くで、紅也だけ見てたらいい」 
 まるであと押しするかのように、背中を軽く押し出され、私は慌ててふり返ろうとした。
「千紗ちゃん!」
 しかし蒼ちゃんの穏やかだがきっぱりとした制止の声は、私にその行為を許さなかった。 
「紅也だけ見てればいいって……ね……?」
 次第に細くなる声が胸に痛く、ふり返りたいけれどもできない。『紅君が好き』と言い切ってしまった私は、蒼ちゃんの言うとおり、もう前だけ向いて進むしかない。怖かった。本当にこれでいいのか、私が傍にいるとまた紅君が酷い目に遭うのではないか――。
 不安に押し潰されそうになった瞬間、こちらを見ていた紅君が身じろぎした。まるで私を呼ぶように、ほんの少しだけ左手をさし伸べ、首を傾げて笑った人へ向かい、私は駆けだした。 
 迷いや憂いを全部置き去りにしたら、蒼ちゃんの言うようにもう紅君の姿だけしか目に入らなかった。近づくごとにはっきりとしてくる紅君の笑顔が、私に『おかえり』と言ってくれているかのようで、それが堪らなく嬉しかった。 

「どうしても今日中に会いたくて、兄さんに呼んできてもらうなんて……俺って酷いよね」
 駆け寄った私の乱れた長い髪を、指ですくって直しながら、紅君は笑って言った。
「兄さん、何か言ってなかった? あいつは鬼だとか、血も涙もないとか……」
 冗談めかして笑う紅君の顔を見上げながら、私は首を振る。蒼ちゃんは紅君を『凄い』と褒めはしたが、そういうことは言わなかった。どうして紅君がこういうことを尋ねるのかと、疑問に思う。私の気持ちを察したかのように、また少し紅君が笑った。
「自分がフラレた相手を『俺も告白したいから呼んできてくれ』なんて言われたら、俺だったらきっと怒ると思うんだけどな……やっぱり兄さんって不思議な人だ……」 
「…………!」
 心臓が止まるような思いで、私は息を呑んだ。 
「ごめん。ほとんどしゃべったこともないのに、変なこと言ってるって自分でもわかってる。正直自分でもよくわからないんだ……でもずっと気になってる。初めて会った時から、ずっとずっと気になってる!」
「紅君……!」
「クリスマスの日に一緒にいたかったなんて言ったら、ずいぶん俗物的に聞こえるかもしれないけど……いろんな物を一緒に見たくて……」
 とりとめもなく話しながら夜空を見上げた紅君の横顔が、ふいに輝く。先ほど私へさし出した左手を空へと掲げ、私の目の高さに下ろしてくれる。
「すごい! 寒いと思ったら、ほら! やっぱり降ってきた!」 
 大きな掌の上で見る見るうちに形を失い、水滴へと変わってしまう小さな白い結晶。
「雪……?」 
 呟いた私の顔を覗きこみ、紅君がとても嬉しそうに笑った。
「そう! 一緒に見れてよかった。クリスマスの街も、冬の星空も、今年一番の雪も……他の誰でもなく君と一緒に見たかった」
「紅君!」 
 思わず漏れそうになった嗚咽を堪えるため、私は自分の口と鼻を両手で覆った。でも目は隠せない。私はもう、自分を真正面から見つめてくれる紅君から、目を逸らしたくない。 
「他にもまだいっぱいある。見せたいもの、これから初めて一緒に見たいもの。数えきれないくらいいっぱいある!」 
 私のことは全て忘れてしまっているはずなのに、何故紅君は、昔私にくれたのと同じ言葉を、また私にくれるのだろう。そういう奇蹟を目の前で見せられるから、『運命』とか『想いの強さ』とか、美久ちゃんや蒼ちゃんが囁いてくれた身震いするほど嬉しい表現が、耳の奥に甦る。 
「おかしなこと言ってるって、自分でもそう思う。でもなんだか焦るんだ。君を見てると、自分の想いを早く言葉にしなくちゃ、伝えておかなくちゃって……妙に焦る」
「紅君……」
「俺……」 
 照れたように笑い交じりだった紅君が、ふいに表情をひき締めた。真っ直ぐに私を見つめ、意を決して口を開こうとする。だから私は、彼が次の言葉を発する前に無我夢中で呼んだ。
「紅君!」
「何?」
 迷いなく返事をもらえることが嬉しく、それだけで満足してしまいそうになる自分を、必死に奮い立たせる。
「紅君……!」
 心臓が口から飛び出してしまいそうなほど緊張した。息を吸うのも忘れ、頭がクラクラする。そういう自分を励まし、私はもう二度と言うことはないと諦めていた言葉を、五年ぶりに、彼より先に口にした。 
「好きだよ。紅君。大好き」 
 大きく目を見開いた紅君の前に、震える手をさし出す。私の顔から視線を下ろした紅君が、まるで宝物でも手にするかのように、私の手を両手でそっと包みこんだ。 
「うん。俺も大好き」
 私の上にもう一度降ってきた、私のためだけの大切な言葉は、昔よりずっと低い声だった。だけど昔より遥かに大きくなった紅君の手は、昔と同じように温かかった。傷ついて、悩み、迷い、それでもこの手を離さずにいるためなら、どれほど苦しいことでも乗り越えていこうと、私に決意を新たにさせるほどの愛しい温もりだった。 
 固く繋ぎあった手に、紅君の腕に、肩に、明るい色の髪に、白い雪が舞い降りる。あの春の日の桜の花びらのように、絶え間なく降りしきった。