それから私は、放課後は小田君と一緒に帰るようになり、毎日『希望の家』へも遊びに行くようになった。施設で暮らしているのは十五人の子供たちで、五年生の小田君が最年長だった。
「小学校を卒業するまでに、みんな行き先を見つけてここを出て行くんだ。だから俺が一番古株。なんてったってここは園長先生がほぼ一人でやってる園だからさ……万年人手不足で、これ以上は手が回らない……」
 小田君はあっけらかんと笑いながら、私にそう教えてくれた。ここではみんな自分のことは自分でやるし、小さな子もそれぞれに係を持っている。難しいことはお互いに助けあい、励ましあってなんとかしている。小さな頃から母の帰りを一人で待ち、食事の準備をしていた私は、自然と小さな女の子たちに料理を教えることが日課になった。
「それで、これを煮ている間に、こっちを切っちゃうでしょう……」
「あっそっか! ちいちゃんねえちゃんすごい! これでいつもよりはやくできる!」
「うん。料理は手際が大切だからね……あとは、これも先に炒めちゃおう」
「すっごーい! えんちょうせんせいのより、こうにいちゃんのより、ずっとおいしそう!」
 素直な賛辞が嬉しかった。向けられる笑顔が眩しかった。学校ではやはり誰も私に声をかけず、まるで存在しない人間のように扱われていたので、放課後『希望の家』へ行くことだけが、いつの間にか私の心の支えになっていた。
「ちいねえちゃん、もうここにすんじゃえよ! そしたらあさごはんもおいしくなるからさ!」
 いつも元気な翔太君の頭を、小田君が軽く小突いた。
「馬鹿言うな……長岡にはちゃんと帰る家があるんだから……」
 チクリと胸が痛んだ。私を慕ってくれるこの子たちにも、小田君にも、家と呼べる場所はここしかない。私のように中途半端に出入りしている人間を、みんな嫌だと思わないのだろうか。
「あっ! ちいねえちゃんがかなしそうなかおしてる!」
「こうにいちゃんが、いじわるいうからだぞ!」
 私が考えこんだせいで、小田君がすっかり悪者にされる。私は慌てて手を振った。
「ちがう、ちがう! 小田君のせいじゃないよ!」
「おだくん……? ぼくも『おだくん』だよ?」
「ぼくも!」
「ぼくも!」
 あちこちで連呼され始めた声に、もっと慌てた。
「そうじゃなくって……ええっと……紅君だよ……!」
 口に出して言うには、かなりの勇気が必要だった。彼を名前で呼ばなければと思っただけで、私の心臓はどうしようもなく暴れた。ドキドキしながら視線を彷徨わせた先で、その『紅君』と目があい、なおさら焦る。紅君は少し驚いたように目を見開き、それからすぐに笑顔になった。私の大好きな――あのお父さんとよく似た笑顔になった。
「じゃあ俺も……『ちい』って呼ぼうっと!」
 とてもいいことを思いついたとばかりに、大きな声で宣言され、私の頬は熱くなっていく。まるで体全体が心臓になったかのように、鼓動が私の中心で、大きく大きく鳴り響いていた。

 澤井が私を殴ったあの事件で、母は『あの人とはもう別れる』と言ってくれたが、実際には簡単にいかなかった。警察に捕まった翌日、澤井は他ならぬ母の迎えで釈放された。『もう二度とあんなことはしない』と泣いて謝り、結局今までと同じように私たちと暮らしている。
 私は家にいるのが嫌で、『希望の家』に通いつめていった。母が工場で働いている間、狭いアパートの一室で澤井が寝転んでテレビを見ている光景を、見たくなかった。『ここから出て行ってよ!』と叫びたい気持ちを必死に堪え、その男のぶんまで食事の用意をしなければならないことが、嫌で堪らなかった。
 自然と『希望の家』にいる時間が長くなってゆく。それでも澤井は私に何も言わなかった。母のいないアパートでも、学校の教室と同様、私はまるでいない人間のように扱われていた。

「いったいどういうことなのよ!」
 昼休みの女子トイレで、五、六人の女の子たちにとり囲まれたのは、私が『希望の家』へ通うようになり二週間が過ぎた頃だった。つまりは、私が紅君と共に下校するようになり二週間。
「なんであんたが毎日、紅也君と一緒に帰るわけ?」
「そうよ! なんなのよ!」
 やっかまれるのは当然のように思えた。紅君は本当にみんなから好かれている。いつも元気で、明るくて優しく、なんでもできて――。そういう女の子の憧れそのもののような男の子だった。女の子たちが楽しそうに紅君の話をしているのを、私も何度も耳にしたことがある。だから、「なんであの子と!」とみんなが私に腹を立てるのは当たり前だと思った。
「ごめんなさい……」
 何か申し開きをするでもなく、ただ頭を下げた私に、女の子たちはすっかり鼻白んだ。
「謝られたって……ねえ?」
「そうよ! 特別な理由がないんだったら、もう紅也君に近づかないでよ!」
「そうよ、そうよ!」
 彼に近づくとか近づかないとか、彼女たちに指図されることではないし、私が決めることでもないと思う。しかし私は素直に頷いた。何故ならここで反論でもした場合、私がどうなるかは改めて考えるまでもない。集団になった女の子の強さ、恐さは、私もよく知っている。
「はい……もう近づきません……」
 口に出して言ってから、後悔しても遅かった。
(これでもう『希望の家』にも行けなくなるのかな……?)
 それはない。彼女たちはそこまで知っているわけではないし、それに文句を言っているのでもない。だから今までどおり、学校帰りに寄ることは問題ない。ただ――今までのように、紅君と一緒には行けない。並んで歩きながらいろんな話ができない。そう思った瞬間、胸が痛み、自分が今までそのわずかな時間をどれほど楽しみにしていたのかを、思い知った。
(でももう遅いよ……約束しちゃったもん……) 
 それがどんなに理不尽なとり決めでも、一度した約束は撤回できない。
(馬鹿だな……私って馬鹿だ……!)
 泣きたいくらいの気持ちでそう思った。

 放課後、いつものように「帰ろう」と誘ってきた紅君に、私は首を振った。
「ごめんなさい……もう一緒には帰らない……」
 どうしようもなくズキズキする胸を必死に我慢しながら、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「うん。わかった」
 短く言って私に背を向けた紅君がどんな顔をしていたのか、見ることはできなかった。顔を上げると、目に涙がいっぱい浮かんでいることが彼にわかってしまうので、私は紅君が教室を出ていくまで、決して頭を上げなかった。

『希望の家』へと向かう道を、松葉杖をつきながら一人で歩いた。川沿いの土手の道。川を挟んだ向こう岸では、今日も母が働く工場の煙突から黒煙が立ち上っている。二週間前までは一人で歩いていた道なのに、無性に寂しかった。少し前を歩く紅君の背中がそこにないだけで、とても寂しい。浮かんだ涙を私が手の甲でグイッと拭いた時、思いがけないほうから声がした。
「ちい」
 土手の下のほう。確かに私を呼ぶ紅君の声がしたのに、彼がどこにいるのかわからない。
「こっちだよ。こっち」
 笑い含みの声に促されるまま、あちらこちらと視線を彷徨わせ、ようやく背の高い草の中にその姿を発見した。
「どうしたの?」
 精一杯普通を装って返事したつもりなのに、どうしようもなく声が震える。そんなことになどまるで気がつかず、紅君はいつもどおりに笑う。
「もういいだろ? もう学校から帰ってるんじゃなくて……家へ向かってるところだよな?」
「……え?」
 言葉の意味がよくわからなくて首を捻る私に向かい、紅君は土手を上ってくる。
「いいよ……これは俺の屁理屈だから……薄情者のちいへの仕返しだから!」
 草むらの中から赤い自転車をひっぱり出し、押しながらやってくる。土手の上まで辿り着くと、私が背負っていたランドセルも手にしていた荷物もあっという間に取り上げてしまった。
「紅君! 私ね……」
 もう紅君に近づかないなどと、おかしな約束を女の子たちとしたのだ。それが自分にとってどれほど辛いことなのか自覚なく、簡単にしてしまったのだ。それをどう伝えたらいいか困る私に、やはり彼はにっこり笑った。そして――。
「いいから……乗って!」
 自分が乗った自転車のうしろをポンポンと叩く。
「えっ?」
 とまどう私の手を引き、松葉杖をさっさとハンドルへかけてしまう。
「園長先生に借りたんだ……ちいをビックリさせようと思って! そしたら一緒に帰らないなんて言い出すから……なんでバレたんだろうって焦った!」
 いつも楽しいことや面白いことを見つけては、きらきらと輝いている紅君の目が、鮮やかに輝きだす。きっと私が楽できるようにと考え、喜ばそうと思い、こっそり準備してくれたのだろうに、そうとも知らず私はずいぶん自分勝手をした。
「……ごめんなさい」
 また頭を下げると、今度はその頭をポンと叩かれる。
「うん。いいから。もういいから乗って!」
 朗らかな声に促されるまま、私は自転車のうしろに座った。
「行くよ? しっかり捉まっててよ? ……しゅっぱーつ!」
 紅君がグンと力をこめてペダルを踏みだした途端、風がさあっと私の頬を撫でた。伸ばしっぱなしの長い髪が、風に攫われ、どんどんうしろへ流れていく。
「落っこちないでよ、ちい」
 すぐ目の前で半分だけふり向いた笑顔が眩しく、背中に掴まる指に自然と力がこもった。
「うん」
 少しバランスを崩したら紅君の背中に頬がついてしまいそうなほど、私たちの距離は近かった。近すぎた。これほど近いと、ドキドキとうるさい私の心臓の音まで聞こえてしまう。
「見て、ちい! 飛行機雲!」
 春が目前の青空を切り裂くように、小さな飛行機が飛んでいく。ぐんぐん伸びる一直線の白い雲さえ、紅君に教えてもらえば私にとって特別になる。二人で見上げればもっと特別だった。