この時、私に僅かでも冷静さが残っていたら、蒼ちゃんの腕をとったのだろう。もしそうできていたら、何の不自然さもなかったし、誰を傷つけることもなかった。私たちの優しい関係も、まだ続いていたのだろうか。たとえひた隠しにした私の本音が、誰へ向かっていたとしても――。だけどそれは許されない、許されてはならない裏切りだったのだと、自分でも思う。

「千紗ちゃん……?」
 蒼ちゃんが私を呼び、紅君がはっとしたように私の顔を見直した。ひどく驚いたような、呆然とした表情だった。握りしめていた私の手を放し、そのまま身を引く。まるで蒼ちゃんに場所を譲るかのように、私の前から二、三歩後退る。再会した時からずっと、紅君はそれぐらいの距離を置いていたのに、今はその動作の全てに、胸を抉られるかのようだった。 
「大丈夫?」
 いつもどおりの笑顔を浮かべ、蒼ちゃんは私へ問いかける。きっとこれ以上ないほど酷い顔色をしているはずの私に、それでも優しく声をかけてくれる。しかし私の脳裏には、先ほど一瞬だけ見た凍りついたような蒼ちゃんの表情が、しっかりと焼きついていた。私が紅君の手を取った瞬間の、静かな驚愕の表情――。
(ごめんなさい……蒼ちゃん……!)
「うん……大丈夫……」
 実際はまったく大丈夫などではない心理状態で、無理に口を開いたら涙が零れた。ぽろぽろと零れ落ちる涙を必死に拭いながら、私は懸命に、目の前にいる人の名前を呼ぶ。
「蒼ちゃん……」
「なに?」
 呼べばすぐに笑顔で返事をするこの人が、どれほど私を大切にしてくれているのか。私はよく知っている。 
「蒼ちゃん……」
「うん?」
 分不相応なほど大切にされていると、自分でも思う。 
「……お帰りなさい」
 本当は真っ先に言うつもりだった言葉、言いたかった言葉、ぐちゃぐちゃになった感情をどうにか鎮め、せめてそれだけを伝えたら、やはり笑顔が返ってきた。 
「うん。ただいま」
 蒼ちゃんは少し身を屈め、私と目の高さをあわせ、眩しいほど笑ってくれた。だが両手を膝に置いたその格好では、いつものようにポンと私の頭を叩くことはできない。そう感じた瞬間、これまで自分へ広げられていた温かな両腕が、故意にか無意識にか閉じられたことを悟った。 
(蒼ちゃん……)
 あれほど無防備に、大きく開かれることはもうないだろう。そうわかり、胸が痛かった。

「結局、これという収穫はなかったなぁ……毎回話を聞かせてくれる人たち以外には、新しい人とも出会わなかったし……」
「そうなんだ……」
 私がいつも弁当を食べる店裏の狭い場所で、今日は蒼ちゃんと紅君も、叔母さんが作ったお得弁当を食べた。蒼ちゃんは今回の旅行について色々と語ってくれたが、紅君は時々「うん」とか「そうだね」と相槌を返すばかりで、ほとんど話さなかった。弁当を食べ終わったあとも、しゃがんだ体勢のままこちらには背を向け、猫たちと戯れている。 
 私は極力そちらへ目を向けないようにし、蒼ちゃんの顔ばかり見ていた。だが視線は向けずとも、体中の意識が紅君へ向かっている自覚はある。それだけはもう、どれほど止めようとしても無理だった。
「千紗ちゃんは……? 何も変わったことはなかった?」
 二人が現われた時、私があきらかにおかしな様子で大通りへと向かっていたことを、蒼ちゃんは訊いているのだろう。事故の気配や喧騒を思い出すと、またぶるぶると震えそうな両手をぎゅっと握りあわせ、私は精一杯笑顔を作った。
「うん……大丈夫……」
「そう……」
 蒼ちゃんとの間に、これまでとは異なる空気が流れる。他の人には口を噤んでしまうことも、これまで不思議と蒼ちゃんにだけは話せた。滅多に主張しない自分の考えも、言葉が溢れるように口にすることができたし、みっともないほど何度も泣き顔を見せた。蒼ちゃんはいつもそれらを、あの眩しい笑顔で受け止めてくれ、私はますます安心し、一緒にいればあれほど自然で気持ちが楽だったのに、今は苦しい。 
 慣れない笑顔を懸命に浮かべ、本当の気持ちは何ひとつ言い表せない私など、まったく私らしくないと、おそらく蒼ちゃんも思っている。だが彼はそれを口にしない。私の予期せぬ行動により、私たちの関係だけではなく蒼ちゃんの反応まで変えてしまったことが、余計に私を辛い気持ちにさせた。 
「じゃあ……また……」
 笑顔で手を振り去っていく背中に、頭を下げた。深々と下げた。これまでは何度も私をふり返り、大きく手を振ってくれていた人が、決してふり返らないことが悲しい。その上――。
 少し離れて蒼ちゃんの横を歩く紅君は、ついに一度も私へ目を向けようとしなかった。さよならの挨拶の時も、蒼ちゃんの陰に姿を隠し、ただ伏し目がちに俯いていた。 
(馬鹿だ、私……)
 自分の本心から目を背けることで、かろうじてバランスを保ち続けていた私たちの微妙な関係は、私のたった一度の失敗のせいで脆くも崩れた。 
『千紗ちゃん……今までと同じでいいから、これからも僕の傍にいてよ……ずっといてよ……傍にいてくれるだけでいい……僕が邪魔になったら、いつでもそう言ってくれていいから!』 
 いつか蒼ちゃんが私にくれた言葉が、胸に浮かぶ。
(いくら蒼ちゃんがそう望んだからって、やっぱりこんなずるいこと……まちがってた!) 
 優しい蒼ちゃんを傷つけたくなかった。そのくせ紅君の姿から目が離せなかった。狡い私が蒼ちゃんの提案に甘えた結果、ぎりぎりに心を追いつめられた時に本音が漏れた。それもこの上なく残酷な形で――。
(ごめんなさい! ごめんなさい蒼ちゃん……紅君……!)
 二人が角を曲がって見えなくなる最後の瞬間、紅君がこちらをふり返った。真っ直ぐに私を見つめる瞳に射竦められ、身動きできなくなる。永遠とも思える一瞬のあと、すぐに目を逸らして彼はまた歩き始めたが、私は動けなかった。知りたいような知りたくないような何かが、その視線には含まれている気がして、妙な胸騒ぎがし、なかなか動きだせなかった。

「学校……これまでみたいに一緒に登下校するのは、もう終わりにしたいんだ……」
 短い夏休みが終わり、新しい学期が始まった初日。いつもの駅のホームで紅君から切りだされた時、悪い予感が的中したと思った。悲しいより寂しいより、そう言ってもらえたことにほっとした。私が蒼ちゃんの目の前で紅君の手を取った以上、今までのように二人で過ごすわけにはいかない。もともと蒼ちゃんがひきあわせてくれた二人だからこそ、なおさらだ。本当は私から言わなければならなかったことを、先に言ってくれた紅君の優しさに感謝する。
「うん。わかった。ごめんなさい」
「いや、俺こそごめん……」
 お互い、何に対して『ごめんなさい』なのかは、言及しなかった。確かめあうことが恐いので、私は先にその場から逃げだす。 
「じゃあ私……こっちの車両に行くから……」
「ああ……」
 背中を向けあい、私たちは別々の車両へ乗りこんだ。夕暮れ時の電車は普段ならば学校帰りの学生で賑わっているが、今はまだ普通の学校は夏休み中なので、比較的人がまばらだ。四人がけのボックスシートに一人で座り、頬がつくほど窓に顔を近づけ、外の景色を見ようとすると、今にも泣きだしそうな自分の顔が見えた。 
(なによだらしない……紅君と再会する前に戻っただけじゃないの……)
 半年前までは毎日一人で乗っていた電車なのに、今はそれが寂しい。特に会話を交わすわけではないが、紅君はいつも私から見える範囲の場所にいてくれた。それが自分にとってどれほど大切なことだったのかを、失って初めて思い知らされる。 
(悪いのは私なんだから……! 傍にいたいなんて……もともとそんなこと望める立場じゃなかったのに、蒼ちゃんと紅君の優しさに甘えてただけなんだから……!)
 自分を戒め、俯いて唇を噛みしめていたら、頭上から声をかけられた。
「ここ空いてる? ……ねえ君、隣座ってもいい?」
 はっと顔を跳ね上げると、若い男の人が三人、狭い通路を塞いで立っていた。四人がけの席に知らない男の人三人と座るのは嫌で、私は慌てて立ち上がる。
「どうぞ……私は移動しますから……」
 他にも空いている席はたくさんあるのにと嘆息しながら、自分がその空席へ移動しようとしたら腕を掴まれた。 
「いなくなっちゃったら意味ないじゃん。一緒に座ろうよ」
「いえ……! 私は……」
「いいからいいから」
 大きな体で進路を塞がれ、焦る。ふり解こうとした腕も、ますます力を入れられてしまい、なかなかとり戻せない。 
「放してください……!」
 きりっと睨みつけたら、馬鹿にしたように鼻で笑われた。
「いいじゃん仲良くしようよ」
 これは車掌に気づいてもらうしかないと、男たちの間から隣の車両へ目を向けると、淡い色の髪が見えた。その髪が太陽の光を受けてきらきらと輝いていた頃から、私は気がつけば、いつも彼を見ていた。どれほど遠くからでも、一目で他の子とは見わけがつく相手を、やはりこういう時でも真っ先に見つけてしまい、そういう自分に困惑する。
 彼の綺麗な色の髪が、私は子供の頃から大好きだった。髪だけではない。彼の全てが――。
(紅君……)
 声に出して呼んだわけではないのに、ふり返ってこちらを見た紅君は、次の瞬間には立ち上がっていた。走ることはできない足で、それでも彼にとっては最速の速さで、瞬く間に私のところへ駆けつけるから、泣きそうな気持ちになる。 
「放せ! 嫌がってるだろ」
 ぐるりと周りをとり囲まれた時は、とても逃げられないと観念しそうになった男たちだったが、並ぶと紅君よりは背が低かった。しかもかなりの怒りをこめた目で睨みつけられ、あきらかに萎縮してしまったのが私にもわかった。
「こっちに来て」
 ぐいっと反対の腕を紅君に引かれ、よろめきながら歩きだした私から、男たちは手を放した。そのまま何もせず私たちを見送っているのに、紅君は歩みを止めない。先頭車両まで手を引いたまま私を連れていき、強引に一人がけの席へ座らせた。そして、まるで私の姿を隠すかのように、すぐ目の前に立ち塞がる。 
「目を放したら、次の瞬間にはもうこれなんて……冗談じゃない」
 怒ったような声に、私はうな垂れた。
「ごめんなさい」
「違うよ、ごめん……自分に腹が立ってるんだ……いや……呆れてるのかも……」
 先日からのよそよそしい態度と比べれば、あきらかに親しい調子をとり戻した声音に、私は恐る恐る顔を上げた。紅君は本当に困り切った表情で、私を見下ろしていた。
「兄さんが大切にしてる子だってことは、わかってる……だから俺だって守ってやんなきゃ、兄さんがいない時は俺が傍にいてやんなきゃって思ってたはずなのに……それはいったいなんのためだったのか……本当に兄さんのためだったのか……自分でももう、全然わからない!」 
「紅君……?」
「なんで俺のことをそう呼ぶの? なんでその声を聞いたら……遠くからでも姿を見つけたら……どんなに自制しようとしたって、俺の体は勝手に動きだすの……?」
「紅君……!」
「ごめん。やっぱり変なこと言ってる……無理だよ……これ以上傍にいるなんてやっぱりできない。でも目を放すことだって、本当は一瞬だってできない……!」
 私が座る座席の背もたれを、指先が真っ白になるほどギュッと掴んだまま、紅君は顔を伏せた。心臓を鷲づかみにされたかのように胸が痛く、つうっと一筋、私の目から涙が零れ落ちる。今にも零れそうに溢れだし、先ほどからずっと我慢していた涙が、やはり我慢できずに零れ落ちた。紅君は何の迷いもなく私に手を伸ばし、指先でその涙をすくう。
「泣き顔なんて見たくない。いつも笑っててほしい……いろんなことをたくさん抱えこんで、きっと一人で泣いてるんだろうななんて思ったら……頭ではわかってるつもりでも、やっぱり放っておけない……!」 
 頬を撫でるように涙の跡を拭っていた大きな手が、私の頭のうしろへ廻った。力強くひき寄せられ、そのまま紅君の胸に抱きしめられる。 
「兄さんが好きならそう言って! もう二度と会わないし、学校だって辞める! 大好きな兄さんの幸せなら……たとえ今すぐは無理でも……きっといつかは祝えるはずなんだ……!」 
 涙で濡れた顔のまま、恐る恐る彼の背中へ手を廻し、私は首を振った。懸命に振った。
(無理だ! 紅君に嘘を吐くなんて私にはできない! たとえ紅君自身がそれを望んでも……私のほうから突っぱねることを望んでるってわかってても……やっぱりできない!)
 決して言葉にできない本当の気持ちを、紅君に伝えようとするかのように、無我夢中で彼にしがみついた。 
(私が好きなのは紅君だから! いつになっても、何があっても、ずっとずっと紅君だから!) 
 ぎゅっと一瞬力をこめ、私を強く抱きしめてから紅君は腕を解いた。床に置いたままにしていた鞄を持ち上げ、踵を返す。 
「ごめん……帰る……やっぱりもう会えない……」
 私は慌てて席から立ち上がる。足をひきずりながら電車から降りていく背中を、急いで追おうとした瞬間、プシューッと扉の閉まる音がした。 
「紅君!」
 出口に駆け寄った私の目の前で、重たい鉄の扉は静かに閉じた。 
「紅君! 紅君!」
 周りの目も気にしないで、拳で扉を叩く。ホームに降り立った紅君はこちらをふり返り、苦しそうに顔を歪めて首を振った。「ごめん」と呟くように、小さく唇が動く。
『さよなら……』
 彼の唇の動きだけで、私がその言葉を読み取った瞬間、電車が静かに動きだした。 
「待って! やだ……待って、紅君!」
  みっともなく叫びながら、窓に貼りつき、遠くなっていくホームを見る。紅君は微動だにせず、同じ場所に立っていた。私の乗った電車を、静かに見送っていた。
「やだよ紅君!」
 届くはずのない声をふり絞り、懸命に首を捻り、見つめるホームが次第に見えなくなっていく。私の視界から消えていく。彼と私の僅かな繋がりが、確かに分断されていく感覚があり、私はその場に崩れ落ちるように座りこんだ。 
「いやだよ!」
 良心の呵責や罪悪感や後悔や苦悩。胸に渦巻く様々な感情を全て取り払えば、私の中に残るのは結局ただ一つ――紅君を想う気持ちだけなのに、それこそが一番許されない、望むべくもない願いだということが辛かった。