学校が夏休みに入るとすぐ、以前から宣言していたとおり、蒼ちゃんと紅君は旅に出た。紅君が十二歳までを過ごしたあの街を二人で訪れるのは、実はもう四度目らしい。
「毎年夏休みになると行ってるんだ……俺がお世話になってた福祉施設は、今はもうないけど、当時を知ってる人から少しでも話を聞けないかと思って……」
 終業式の日に、電車で揺られながら紅君が話してくれた時、やはり私は名乗りを上げられなかった。誰よりも私が詳しい話をできるのに、そうすることは恐い。
(本当のことを知ったら、紅君がどんなに傷つくだろう)
 その思いがどうしても頭から消えない。 
「やっぱり……思い出したいの?」
 恐る恐る尋ねると、迷いのない目を向けられた。それは私が怯みそうになるほど、昔から変わらない、強い意志を感じさせる眼差しだった。 
「うん。そうしなくちゃいけない気がする。このまま、自分の中に大きな空洞を抱えて生きていくのは辛い……でもそれ以上に、絶対に忘れちゃいけないことが俺にはあったはずなんだ……きっと誰だってそうなんだろうけど……」
 飛ぶように過ぎる窓の向こうの風景へと、視線を移した横顔から目が離せない。紅君にとって、忘れてはならなかったもの――園長先生や『希望の家』の子供たち。学校のみんな。そしてたった一つだけのお母さんの思い出。多くの失くしものの中に、私は含まれているだろうか。二人で交わしたあの小さな約束は――。
 力任せに握り潰されたかのように胸が痛くなり、私は紅君の横顔から視線を逸らした。
(確かに……できればとり戻してほしい! でもやっぱり……悲しい事実は知らせたくない!) 
 私の中で渦巻いている感情は、ずいぶん身勝手なものだ。覚悟を決めて口にしてしまえば、ものの数分もかからず終わる説明なのに、それは実行されない。以前蒼ちゃんも言っていたとおり、そこに『思い出したい』という紅君自身の思いが反映されることはない。
(ごめんね……紅君……)
 自然と私の頭は下がり、彼の少し不自由な左足に視線が落ちた。その時、頭上から声がした。
「……一緒に行く?」
 はっと息を呑み、すぐに顔を上げた。紅君は少し困ったように私を見下ろしていた。
「ごめん……また変なこと言ってる……なんでだろう。全然そんなつもりないのに勝手に言葉が出てくるんだ……いつも悪い……ほんとごめん……」 
 私は必死に首を横に振った。
(謝らなきゃいけないのは私なのに! いつだって紅君の気持ちなんかおかまいなしで、自分の思いばっかり優先してる私のほうなのに!)
 顔を上げると不自然なほど動揺していると伝わりそうで、私は俯いたまま頭を振り続けた。 
「ひょっとして……俺が記憶を失くす前にも会ったことがある? ……新幹線で三時間もかかるあの町にいたなんて……あるはずないか……」
 ドキリとこの上なく心臓が跳ね、思わず動きが止まってしまった。あまりのタイミングで首を振るのを止めた私を、紅君がどう解釈したのか、確認することが恐い。顔を上げられない。
 ガタンと電車が揺れ、聞き慣れた車内アナウンスが、じきに次の駅へ到着することを告げる。
「次は……。……。降り口左側となっております。お忘れもののないように……」
 永遠とも思える一瞬の沈黙を、とても現実的な声によって打ち砕かれ、私はほっと安堵した。緊張に強張っていた全身から力が抜ける。
「行こう……」
 紅君はまるで蒼ちゃんのように、俯いたままの私の頭を軽く叩き、座席から立った。
「うん」
 慌ててその背中を追いながら、私は頬に一筋零れ落ちた涙を、ぐいっと手の甲で拭った。 
(よかった……紅君に嘘を吐かずにすんで……よかった!)
 深く問い詰められず助かった思いより、その些細な事実に涙が零れるほど、彼は私にとって特別だった。やはりどうしようもなく特別だった。

「千紗、そろそろ時間だよ。もう上がりな……時計よりも正確な蒼ちゃんが来ないと、やっぱり調子がおかしくなっちゃうねぇ……」
 厨房からかけられた叔母の声にはっと時計に目を向ければ、もう七時が回るところだった。
 学校は休みなのでこのまま店を手伝うことに支障はないが、「休みの間くらいゆっくりと過ごしな」と笑う叔母の好意に甘え、私は短い夏休みの間も、普段の時間に弁当屋での仕事を終えることにしている。ぼんやりしていて今日はいつもより遅くなってしまった。目を向ければ、ガラス扉の向こうの町はもう暮れゆこうとしている。 
「うん。じゃあ、帰るね……」
 のろのろとエプロンを外し、いつものように弁当を一つ下げ、裏口の扉を開いた。高い塀の前でひょろっと背の高い人影が、私を待っていないことが、これほど寂しいとは自分でも思っていなかった。扉の開く音にどこからともなく集まってきた野良猫たちも、大好きな蒼ちゃんを探し、キョロキョロととまどっているようだ。 
「まだ帰ってこないよ……寂しいね……」
 まるで自分の心に話しかけるかのように呟き、しゃがみこんで手をさし伸べたら、猫たちは代わる代わる私の手や足に体をすり寄せる。いつも蒼ちゃんがそうしていたように食事を準備してあげてから、自分も壊れかけた椅子に座り、弁当を開いた。
 叔母が私のために詰めこんでくれた特製弁当には、今日も美味しそうなおかずが並んでいるのに、なかなか箸が進まない。普段より時間が遅いからばかりではなく、夕暮れの町も、薄闇に包まれ始めた空も、今日はやけに暗い気がした。
 蒼ちゃんや紅君に会っていない上、学校の友人たちとも顔を会わせていないからだろうか。ふいにとてつもなく寂しくなり、誰からも背を向けられて一人ぼっちだった放課後の教室を思い出す。小学校の教室。机に突っ伏して、泣くのを必死に堪えていた私に声をかけてくれたのは、紅君だった。 
(紅君……)
 蒼ちゃんの笑顔を思い出した時とはまた違った痛みが、私の胸を切り裂いた。紅君に会えなかった四年間、思い出を辿るように反芻していた彼の子供の頃の笑顔ではなく、最近のどこか寂しそうな笑い顔が頭に浮かんだことが、自分でも意外だった。 
 私の心の中で、大好きだった少年の面影を大切にしまっている場所には、今一緒に蒼ちゃんの笑顔が輝いている。それは宝物のように大切で、私をいつでも優しい気持ちにする。 
 だが今の紅君は違う。再会してから初めて見た、これまで知らなかったような彼の様々な表情は、心の中の違う場所に焼きついている。思い出すと瞼の裏が熱くなるほど、どうしようもなく息が苦しくなるほど――。
 毎日彼を見るたび、どうにかして昔の笑顔をとり戻してほしいと願う。それ以上に、昔彼が私にしてくれたように、今度は私が彼を助けたいと思う。何ができるだろう。何をしたらいいのだろう。それすらわからないのに、湧きあがる思いだけは固くて強い。こういう深くて暗い思いは迷惑だとわかるのに、抑えられない。自分の中の静かな情熱を、無視することは難しい。
(紅君にとって私は、もう単なる蒼ちゃんの知りあいでしかないのにね……)
 自分を戒めるように、何度も心の中でくり返しておかなければ、望む資格もない夢を見てしまいそうだった。守られるはずのない約束を、また大事に抱えこんでしまいそうだった。
(遠くで見ているだけでいい……昔みたいに、ただそれだけでいいから……どうかもっと幸せになってほしい……あの笑顔をとり戻してほしい……)
 まるで味のしない弁当を少しずつ口へ運びながら、一人きりでそういうことを考えていた。 暗くなった空に輝き始めた星を見上げながら、強く願った。
 その時ふいに――どこか遠くで車が急ブレーキをかける音と、タイヤの軋む音がした。驚いて顔を跳ね上げた瞬間、両手が震えだし、弁当を落としてしまった。
「あっ……いけない……」
 慌てて椅子から降り、その場にしゃがみ、すぐに拾いたいのに体が動かない。風に乗って聞こえてくる人々の騒めきや悲鳴や叫び声に、体中の神経が集中してしまっている。 
(違う! 違う! 違うから!!)
 弁当を諦めた私は、両手で自分の耳を塞ぎ、強く首を振った。 
「ここはあの街じゃない! 今はあの時じゃない!」
 呪文のようにくり返し、自分自身を抱きしめる。急にズキズキと痛みだした背中の傷のせいか、次々と脳裏に甦る無残な光景のためか、溢れだした涙を拭いもせず、ただ首を振り続けた。 
 事故に遭ったあの日から、車の音や大通りは私のトラウマになっており、時折こうして恐くて堪らなくなる。叔母や叔父が傍にいてくれ、根気強く言い聞かせてくれたおかげで、最近ではあまり気にならなくなっていたが、どうやら事故が起きたらしい気配は、私の記憶の蓋を強引にこじ開けてしまったようだ。嫌だと心が拒否しているのに、足が勝手に立ち上がる。黒煙が上がり人々の騒めきが聞こえるほうへ、ふらふらと歩きだす。 
(嫌だ! 嫌だ!)
 頭では力の限り拒絶しているのに、まるで自分の体ではないかのように、私の足はまったく止まらない。様子のおかしな私を心配してか、ニャーニャーと鳴きながらまとわりついてくる猫たちにも、見向きできない。 
 前にも何度かこういうことがあった。自分で思っているよりも根深く、私はあの事故の時、最後まで紅君を見守れなかったことを後悔として心に残しているらしい。事故の現場など恐くて堪らないのに、ひき寄せられるようにそちらへ向かってしまう。そこに紅君がいるはずないということは、今ではいっそう深く理解しているのに、体は私の指示に従わない。 
「嫌だ……嫌だよ!」
 声をふり絞ることもできず、小さな声で呟きながら、止めどなく涙を流して事故の現場へ向かう女の子など、誰が見ても奇妙だろう。自分でもおかしいと思う。止まることができるものならば、とうにそうしている。でもできない。
「誰か……! 誰か止めて……!」
 泣きながら小さな悲鳴を上げた時、私の足が向かっている大通りとは反対から声がした。
「千紗ちゃん?」
 見えない糸で操られていたかのような体が、まるで糸が切れたように、ふいに自由になった。私はゆっくりと首だけで背後をふり返る。私に手を振る蒼ちゃんと、その横に立つ紅君の姿を目にし、まるで呪いが解けたかのように、ぴたりと足も止まった。 
「どうした? 何かあったの?」
 心配げに問いかけてくる蒼ちゃんへ向かい、私は踵を返し、助けを求めるように歩みだす。いつも私の心を救ってくれる眩しいほどの笑顔に、無我夢中で駆け寄る。だが――。 
 ガタガタとまだ震えが止まらない両手で、縋るように私が掴んだのは紅君の手だった。自分に向かって大きく広げられた蒼ちゃんの腕ではなく、その隣でとまどうようにさし伸べられていた紅君の手だった。 
「千紗ちゃん……?」
 驚いたように掠れた声で、蒼ちゃんに名前を呼ばれた瞬間、思い知った。四年ぶりに触れた紅君のあの頃とは比べものにならないほど大きな手が、私の手をふり払ったりせず、しっかりと握り返してくれた時に、痛いほどわかった。 
(何年経ってもやっぱり変わらない……私が好きなのは紅君だ! 何があったって……どんなに離れていたって、結局全然変わらない……変わるはずがない!)
 この上なく残酷に、我が儘に、胸の中では蒼ちゃんへの抱えきれないほどの罪悪感を覚えながら、それでも私は自覚した。苦しくて堪らなかった。