四年前に紅君と過ごした日々は、今になって考えればそう長い期間ではなかった。だから私はなんとなく、十六歳になった紅君とも次の季節を一緒にいられるとは思っていなかった。 
「この時間になってもまだ暑いね……」
「うん」
 あいかわらずの短い会話を、時々思い出したように交わしながら向かう夕方からの学校。少し前を歩く紅君は半袖姿で、淡い色の髪も短く切ってしまっている。彼の言うとおり、太陽が傾く時間になってもまだ気温は高かった。でもそれを感じさせないほど、白いシャツ姿の紅君は涼しげだ。まるで背中に羽根があるかのように、いつも元気に駆けていた子供の頃とは、歩く速度はかなり違ってしまったが、私は彼の周りにいつも風を感じていた。暗く沈んだ私の心を吹き飛ばしてくれるような、爽やかで優しい風を感じていた。 
「夏休みになったら、夜もお店を手伝うの?」
 ふいに問いかけられるので、遠い場所へ馳せていた意識を今に戻し、慌てて返事する。
「うん」
「そっか……」
 そのまま会話が終わってしまいそうな気配に、私は少し勇気を出した。自分から紅君に話しかけることはしないいつもの習慣を、わずかに変えた。
「紅君は? 夏休みの間どうするの……?」 
 突然彼が足を止めた。いったいどうしたのだろうと、つられて立ち止まった私をゆっくりふり返る。紅君の肩越し、遠くの川面に反射した太陽の光がキラリと揺れた。
「ほとんどは家にいる。でも兄さんと休みが重なる間だけは、ちょっと出かけるかな……」
 すっかり身長差のついた私を見下ろし、紅君は小さく笑う。
「自分探しの旅……って言ったら、まるで学生の一人旅の常套句みたいだけど、俺のは本当にそうなんだ……忘れてしまった昔の自分を探しに行くんだから……」
 ドキリと胸が跳ねた。真っ直ぐに私を見下ろす紅君に、激しく動揺していることが伝わらないように、なんでもない顔をしようと努力する私に、紅君は困った顔で首を傾げる。
「ごめん……その間しばらくは、兄さんを連れていっちゃうけど……」
 先ほどよりもっと胸が痛んだ。
「ううん。大丈夫……」
 浮かびそうになる涙を必死に堪え、短い返事をするのが精一杯だった。紅君にとって、私は結局蒼ちゃんの知り合いで、彼に言われたからこうして一緒に学校へ行っているに過ぎない。学校の行き帰りの間、二人でいるのが当たり前になり、私はそのことを失念しがちになる。 
(四年前とは違う……今の私たちの関係は、間に蒼ちゃんがいてようやく成り立っている)
 そう実感すると、手を伸ばせば届く距離にいる紅君が遠かった。とても遠かった。
「会えなくて大丈夫じゃないほうが、兄さんは嬉しいかも……」
 少し悪戯っぽく笑い、また私に背を向けて歩きだした背中にほっとする。こちらを見られていると、いつ本心が漏れてしまうか緊張してばかりなので、うしろ姿を追いかけているくらいの位置が、やはり私にはちょうどいい。 
「俺も……嬉しいかも……」
「…………紅君」
 思いがけない呟きに、再び私の足が止まった。紅君はこういうふうに、時々驚くような言葉を吐く。ひょっとすると冗談かもしれない、社交辞令かもしれないひと言に、私はどうしようもないほど動揺し、そのたびに彼が自分にとってどれだけ特別な存在なのかを思い知らされる。
(しばらく会えなくなって……私が寂しいと思うのはどっち? 蒼ちゃん? 紅君?)
 心の中で二人を比べる自分が嫌いだった。蒼ちゃんの存在にあれほど救われ、彼を傷つける人間は許せず、何か力になりたいと心の底から願っていたはずなのに、私という人間の根幹は結局変わらない。紅君が世界の全てだった四年前から、少しも揺らいでいない。たとえ紅君と再会しなくても、相手が蒼ちゃんではなくても、おそらく変わらなかっただろう。
 遠くから紅君を見ているだけでいい――幼い頃から変わらない願い。だからこそ、罪悪感を抱かずにはいられない。自分には何の利益もないのに私をいつも守ってくれる蒼ちゃんと、その蒼ちゃんを介しての繋がりしか私との間にはないと信じている紅君に、申し訳ない。 
(紅君が探したい『自分』だって……本当は私が一番ヒントをあげれるのに……)
 わかっていてそうしない自分、しないほうがいいのだと勝手に決めてしまった自分が、酷く卑怯な人間だとはわかる。 
(でも……!)
 あとをついてこない私を不審に思い、紅君がもう一度ふり返る前に、私は再び歩きだした。意志の力でなんとか足を踏みだした。
(なんて思われたっていい……万が一紅君が記憶をとり戻した時に、酷い人間だって思われても……それでもいい!)
 私にとっては胸を切り裂かれるほどに辛い状況さえ、甘んじて受け入れるほどの大きな決意を、また心に刻みつける。
(紅君に悲しい思いをさせたくない。今だってたくさんのことに傷ついている紅君に、私はやっぱりあの悲しい事件を思い出してほしくない……)
 だからいい。私は卑怯者でいい。紅君の微かな笑顔を守るためならそれでいい。大切な背中を、少し距離を置いて追う私は、同じ思いを蒼ちゃんも抱えていることを、まだ知らなかった。

「紅也と? うん、出かけるよ。でも旅行なんていいものじゃないんだ……」
 数ヶ月前に初めて見た頃より、弁当屋の裏に集まる猫たちは毛並みもよく、丸くなった。たっぷりの食事と愛情を注いでくれる蒼ちゃんに、我先にと群がる様子を見ていると、自分も同類だと再確認する。紅君には短い言葉しか返せないのに、蒼ちゃんの前だと私は饒舌になる。 
「自分探しの旅だって言ってた……」
「うん。我が弟ながらうまいこと言うなー。まさにそのとおりだよ」
 猫に囲まれながら、蒼ちゃんが笑った。その屈託のない笑顔にほっとする。笑い返すことはまだ難しいが、蒼ちゃんの前でだけ私の肩の力が抜けることには、おそらく本人も気がついているだろう。その証拠に、可愛がっている猫たちにも負けないほど、一番多く私に笑顔を向けてくれる。たとえ悲しい言葉を紡いでいる時でも、いつも――。
「事故で失くした記憶を、とり戻したいらしいんだ……僕はあまりさせたくないんだけど……」
「……蒼ちゃん?」
 心の中に秘めている私の思いを、蒼ちゃんが代弁したのかと驚いた。呼びかけた私に真っ直ぐ顔を向けたまま、表情さえ笑顔のままで、蒼ちゃんは言い切る。
「紅也には言ってないんだけど……事故の前にあいつがお世話になっていた人は、あいつの事故と前後するようにして、ちょっと気の毒な亡くなり方をしてるんだ。思い出しても辛くなるだけだろうし、正義感の強い奴だから、きっと自分を責めると思う……だから僕は、紅也に思い出してほしくない……」
 顔が蒼白になっていないことを祈りながら、私は頷いた。紅君と再会し、彼が記憶を失くしたと知ってから、私が抱えていたのと同じ気持ちを、蒼ちゃんも抱いていたことに驚いた。 
「自分勝手だってわかってる……でもやっぱり僕は紅也が大切だし……今よりもっと幸せになってほしい……あいつ自身は過去を知りたいと願っているのに……酷い兄だね」
「そんなことない! 蒼ちゃんは優しい! 優しくって、本当に紅君が大切だから、そう思うんだもの……酷くなんてない! 絶対ない!」 
 不思議だ。蒼ちゃんを庇う時の私にはまったく迷いがない。頭で考えるのが追いつかないほど、次から次へと言葉が口から出てくる。その上、相手がたとえ本人であっても、蒼ちゃんを悪く言われるのは我慢がならないらしい。涙がこみ上げそうになる。
「まいったな……幻滅されたっておかしくないのに、そんなふうに言うから……自重しようって思ってるのにどんどん調子に乗る……」
 いつもとは少し違った笑い方で、しゃがんだ体勢のまま私を見上げた蒼ちゃんに、ドキリとした。蒼ちゃんの瞳は、どうしても忘れられない面影を私に思い出させる。今は本人を目の前にしても思い出せない『俺もちいが好き』と告げてくれた時の紅君の眼差しだ。
「前に言ったでしょ? 僕は誰に何を言われたって、それが君以外からだったら傷つかない。本当に図太い人間だから……僕を諌めることができるのは千紗ちゃんだけなのに……許すの?」
 複雑な想いが絡んだ蒼ちゃんの表情に、心臓が激しく脈打ち、思考も真っ白になり、何も考えられないのに、私の口は私自身の判断など待ちもせず、即答する。
「許す。こんな偉そうなこと言える立場じゃないけど……蒼ちゃんが私に判断を託すのなら、私はいくらだって許す。許すよ。そして手伝う! 蒼ちゃんが紅君を守るのを、私も手伝う!」 
 ふわりと蒼ちゃんが笑った。それは私の大好きな、紅君に――そして亡くなった私の父によく似ている笑顔だった。
「ありがとう……」
 次の瞬間には蒼ちゃんはいつもの満面の笑顔になり、私の心臓も少しずつ落ち着きをとり戻したが、しばらくは忘れられなかった。私を真っ直ぐに見上げた、蒼ちゃんの真摯な瞳が頭から離れなかった。
(紅君……)
 その瞳の向こうに、幼い頃の紅君の姿を重ね見ている私のほうが、自分を卑下して『酷い』と言う蒼ちゃんより、よほど酷い人間だ。その自覚はあった。涙が浮かぶほどに強く、私はいつでも自責の念に駆られていた。