「紅也に高校へ行くよう勧めてよかった。最近楽しそうなんだ……」
 我先に膝へ乗ろうとする猫を順番に腕に抱えながら、蒼ちゃんはしゃがんだ体勢のまま呟く。 蒼ちゃんの口から紅君の話が出るたびドキリとする私は、彼が背を向けていることに内心ほっとしながら、いつものように短い返事をした。
「そう……」
「友達もできたみたいだし……でも紅也の友達一号は、なんといっても千紗ちゃんだけどね……ありがとう」
 何の疑いもなく、いや、優しい蒼ちゃんのことなので、何か感じるものがあったとしても、敢えて気がつかないふりをしてくれているのかもしれないが、向けられる感謝の言葉を素直に受け取ることは、私には難しかった。 
(……だって私は、蒼ちゃんに大きな秘密を抱えている)
 紅君に会ったのは初めてではないと、昔住んでいた街で同級生として同じ学校にも通っていたと、彼を紹介されてからひと月が経った今でも、まだ蒼ちゃんに伝えられていない。
 私と紅君が単なる同級生だったら、躊躇しなかったのかもしれない。昔はこんな様子だったと紅君本人に話し、彼が記憶をとり戻す手助けもできていただろう。けれど紅君が記憶を失くすきっかけになった事故に直接関係している私は、平気な顔をして当り障りのない話だけを彼らに伝えることなどできなかった。
 昔の紅君の生活に深く関わっていたことも、なおさら私の口を重くしている。記憶をとり戻した紅君がもう一度会いたいと願っても、あの優しかった園長先生はもうどこにもいないのだ。彼が大切に守っていた『希望の家』の子供たちも、今はバラバラになっている。その事実を知った時、紅君がどれほど悲しみ、どれほど傷つくか、実際に自分が苦しい思いを抱えている私にはよくわかる。だから――。
(いっそ……思い出さないままのほうが、紅君にとっては幸せかもしれない……)
 彼の意志や思いを確かめず、私は勝手に結論づけていた。楽しかった思い出も全て失くしてしまったことは悲しいが、辛い事実を知ることと天秤にかければ、仕方がないと思える。
(きっと傷つくから……今でも悲しげな紅君の笑顔が、もっと悲しくなってしまうから……)
 昔の自分たちの関係と共に、辛い事実も全て封印してしまおうと、私は心に決めていた。自分勝手に決めていた。
「千紗ちゃん……そろそろ時間だよ?」
 地面をじっと見つめたまま考えこむ私を、蒼ちゃんが呼んだ。 
「お迎えがきちゃうよ。学校の準備しなくちゃ……」
 冗談めかして笑う蒼ちゃんの笑顔が胸に痛い。再会したばかりの頃よりは表情が和らいだが、それでもこれほどの笑顔とはほど遠い紅君の笑顔を思い出すと、なおさら痛かった。 
「ほら……来た……!」
 まだ遥かに遠い人影を見て、蒼ちゃんは立ち上がる。自分と同じようにすらりと背の高い弟へ、猫を片手に抱いたまま、大きくもう片方の手を振る。 
「紅也!」
 顔も見えないほど遠い人影が、微かに身じろぎしたように見えた。ゆっくりと一歩ずつ近づいてくる歩みは、通常の人の二倍ほど遅い。よく見なければわからない程度左足をひきずって歩く紅君は、片足が不自由だとなるべく目立たないよう、歩く速度をかなり遅くしていた。 
 傾きかけた夕陽に、薄い色の髪が輝く。真っ直ぐに前を向き、鞄を何度も左右の肩にかけ直しながら、一歩一歩地面を踏みしめて近づいてくる姿を見ると、私はいつも泣きそうな気持ちになる。確かにもう一度会えたのだと、何度も確認し、それでも一目見るごとに、やはり毎回熱いものがこみ上げた。 
「兄さん……」
 紅君は決して私の名前を呼ばない。真っ直ぐに見るのは蒼ちゃんだけ。それでもよかった。ぎこちない笑顔を浮かべながら、心から信頼するように蒼ちゃんを見つめる紅君の姿を目の当たりにすると、私はほっと安堵する。この四年間、新しい環境で私に叔母たちがいてくれたように、紅君には蒼ちゃんがいたのだと、確認できて嬉しくなる。
「いってらっしゃい」
 蒼ちゃんが私をふり返り、笑った。ぶ厚い眼鏡の奥の優しい瞳が、夕陽よりも眩しく輝く。
「いってきます」
 目にうっすらと浮かんだ涙を、太陽が眩しいからだと自分に言い訳し、私は蒼ちゃんの笑顔に頭を下げた。今はまだ、私も紅君と同じくらい笑うことが苦手だ。だけどいつかは、昔のように笑えるようになるだろうか。なれるかもしれない。こうして自分に向けられる蒼ちゃんの笑顔がある限り、遠くから見ているだけで幸せな気分になれる紅君の姿を、また見られる限り。 
 蒼ちゃんの前に到着した紅君が、私を見て首を傾げる。
「行こうか……」
「うん」
 隣に並ぶのではなく、少し離れ、一見すると連れなのか判断に迷う程度の距離を置き、私と紅君は一緒に歩く。彼にあわせてゆっくりとした歩調で、駅へ向かって歩くこのひと時が大切だった。あの頃と変わらずに、とても大切だった。

「さくら……もう終わりだね……」
 どこからか飛んできた白い花びらを指で摘み、紅君が呟く。その姿に小さな頃の彼の姿が重なり、私は息が止まりそうになる。
「お花見……行った?」
 懸命に平静を装って尋ねたら、苦笑交じりに頷かれた。
「行ったよ……別にいいって言ったのに、兄さんに何度も連れて行かれた……」
「蒼ちゃんらしい……」
 不思議だ。私はどんな気分の時でも、蒼ちゃんの話になると温かい気持ちになれる。笑顔になることはまだ難しいが、それと同じくらい幸せな思いにはなれた。 
「さくら、好きなの?」
 紅君に記憶がないことはわかっていて、それでも何かしらの答えが返ってくるのではないかと期待して、問いかける。彼にとって桜の木は、とても特別なものだった。
「よくわからない……なんだか気になって開花するかしないかの頃からずっと見てるけど……満開になっても何かが違う気がして、すっきりしない気持ちばかりが残るんだ……」
「そう……」
 ポツポツと語られる紅君の言葉に、耳を傾けながら歩き続けていた私の足が、ふと止まった。
「どうしたの……?」
 すぐにふり返った紅君の顔を、ドキドキと胸を弾ませながら見上げた。 
(ひょっとして……!)
 桜を見上げるたびに紅君が違和感を覚えるわけを、私はおそらく知っている。 
『さくらはこうやって見るんだ!』
 子供の頃に彼が私に教えてくれたその独特の方法を、私ならば彼に教え返すことができる。 
「紅君! 来て!」
 私は夢中で、彼の先に立って歩き始めた。紅君が無理なくついてこられる速度を心がけながら、まだ花が残っている桜の木を懸命に探す。 
「何……?」
 少しとまどいながらもあとをついてくる紅君と、気がつけばいつもの通学路を外れていた。 
「さくら……さくらの木を探してるんだけど……」
 なかなか思うように見つからない。道路脇に植樹されている木では、その下に寝転ぶことはできない。しかも四年前のあの日と同じに、本来はもう花が終わる時期なのだ。花びらが舞い散るほどに咲いている木などない。 
(どうしよう……見つからない……!)
 勢いこんで歩きだしたはいいものの、目的のものが見つからず気持ちばかりが焦る私の腕を、紅君がふいにうしろから掴んだ。 
「だったらこっち……!」
 逆に私の手を引き、今度は先に立って歩きだす。まるで当たり前のように握られた手に驚いた。あまりにも緊張して、何が起こっているのか考える余裕もなかった。
「ほら……ここ! ……ね?」
 指で示されて目を向けた光景に、胸が熱くなる。大きく枝を左右に広げ、いまだに満開の花に覆われている桜は、見上げるほどの巨木だった。空き地の隅にひっそりと咲いているのだが、かつては誰かの家の庭で、毎年開花を心待ちにされていた木だったのだろう。それはとても立派な、大きな桜の木だった。 
「綺麗……」
 当初の目的も忘れるほどに感動し、思わず呟いた私に、紅君が囁く。 
「うん。きっとそう言ってくれると思った。本当は見せたかったんだ……だからよかった……」
 驚いて、隣に立つ彼の顔を仰ぎ見た。 
「紅君……?」
 彼は私のことを覚えていない。昔を思い出したわけでもない。それなのになぜ、私が大切に胸にしまっている思い出と、重なるような言葉をかけてくれるのだろう。懐かしいばかりの優しい表情で、私を見つめるのだろう。 
「また変なこと言ってるって、自分でもわかってる……ごめん……でも本当にそう思ったんだ」
 謝罪の言葉に静かに首を振り、私は桜の木へ歩み寄った。 
(ひょっとしたら私が今からやろうとしていることで、紅君の記憶が戻るかもしれない……)
 その可能性に思い当たり、緊張しながら地面に膝をつく。
「紅君……さくらはこうやって見るんだよ……」
 柔らかな草が茂る上へ横になり、桜の木を見上げた私に、紅君は何も言わなかった。横になった状態では、彼がどういう顔をしているのか。ひょっとして失くした何かをとり戻したのか。何もわからない。
(でも……わからなくて良かった……)
 矛盾ばかりの自分の想いを痛く自覚しながら、私は自分の上にハラハラと舞い落ちてくる桜の花びらを見上げた。花びらの向こうに見えるのは、夕陽の金色が混ざる淡い青色の空。それを背にし、背の高い男の人が、ふいに私の視界の中へ姿を現わす。 
(紅君!)
 彼の綺麗な瞳には、涙が浮かんでいた。それが見る見るうちに膨らみ、精悍な頬を伝って一筋、私が横たわるすぐ横の地面へと落ちた。 
「え? あれ? ……どうして……?」
 自分の目から涙が溢れたことに、紅君自身がとまどっていた。彼の表情は、普段よりもかえって穏やかなほどだ。まったく悲しそうではないし、むしろ瞳は輝いている。それなのに涙は止まらない。幾筋も紅君の頬を伝い、次々と地面へ落ちる。
「紅君……」
 私は彼に手をさし伸べた。涙をグイッと腕で拭った紅君は、それに導かれるように膝を折る。 なんの躊躇もなく、私の隣にゴロンと横になった。 
「ほんとだ……」
 すぐ隣から聞こえる呟きは、微かに震えている。
「こうやって見上げたほうが、立ったまま見るより、何倍もしっくりくる……なんだか納得する……でも、どうして……?」
その方法を私が知っていることが、どうやら不思議だったようだ。 
(やっぱり……こんなことぐらいで、記憶が戻ったりはしないね……)
 彼に悲しい事実を知らせずに済み、ほっと安堵する。しかしそれと同時に、それに負けない勢いで、私の胸には悲しい思いが広がった。
(やっぱり……本当に覚えてないんだ……)
 私にとっては宝物のように大切な彼との思い出が、自分の心の中にしか存在しないことが悲しい。やはり悲しい。
「昔、教えてもらったの……私も……ある人に……」
「そう……」
 なんの感慨もない声が胸に痛い。それはあなただと――あの頃の私にとって何よりも大切で大好きだったあなただと――伝えられない言葉は心の中だけで呟く。苦しく隠す。
 頭を寄せあった幼い頃とは違い、距離を置いて寝転んだ私と紅君の上に舞い落ちる桜の花びらは、私の視界の中で涙に霞む。どうしても零れ落ちる涙で、やはり見えなくなった。