「大丈夫? 千紗ちゃん……」
 繁みの陰に蹲る私と、その前に座りこんだ紅君の姿を見つけた蒼ちゃんは、少しとまどうような声で問いかけてきた。顔を上げて見なくても、ザッと紅君が立ち上がった気配がする。まるで自分が今までいた場所を蒼ちゃんに譲るかのように、おそらく私から二、三歩遠退いた。 
「ちょっと……なんて言って突然走り出すなよ、紅也……驚くだろ? お前はいつも言葉が足りなさ過ぎ……何? 千紗ちゃんがどうかしたの?」
「いや……俺にもよくわかんないけど……なんとなく……」
 紅君は困ったようにそれきり沈黙した。蒼ちゃんが私の前にしゃがみこんだ気配がする。
「どうした? ……紅也がなんかした?」
 私は慌てて顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔だ。だが蒼ちゃんにはいつも泣き顔ばかり見せているので、どれほど酷い顔でも呆れたりせず、真っ直ぐ見つめてくれるとわかっている。やはり今も、優しい眼差しを注いでくれていた。 
「ううん! 違う! そんなんじゃない!」
 言葉が足りないのは私だ。いつも自分の気持ちの一番大まかな部分しか相手に伝えられない。 それなのに紅君は、不思議なほど私の気持ちをわかってくれた。そして蒼ちゃんも、まるで全てを理解したかのように、にっこり笑い、私の行動の何もかもを受け入れてしまう。 
「送るよ、お店まで。『でも……』とか、『ごめんなさい』はなしね。僕が……それから紅也も千紗ちゃんが心配だから」
 背後をふり返った蒼ちゃんにつられるように、私も紅君へ目を向けた。私たちから目を逸らし、少し離れた木の下に所在なげに立っている背の高い男の子。会えなかった四年の間に、ずいぶん背が伸びた。並んだらおそらくもう私は肩のあたりぐらいまでしか身長がない。
 自転車のうしろに座りドキドキしながらしがみついていた背中も、まるで知らない人のように大きくて広い。だが私たちの視線に気がついてこちらを向いた瞳を見たら、やはり懐かしくて泣きそうになった。『ちい』と、彼がつけてくれた私の愛称を口にしながら、さし出されていた小さな掌が、今も目の前に見えるようだ。
(紅君……)
 また涙が浮かんできたので、私は慌てて顔を伏せた。心配そうに私を見ていた紅君から、目を逸らした。
「帰ろう、千紗ちゃん」
 今私に向かってさし出されるのは、蒼ちゃんの手。いつでも優しく私の頭を撫でてくれる手。これが今の私が生きている現実だ。しかし私は、自分に向かってさし伸べられた蒼ちゃんの手を、とっさに掴むことができなかった。一瞬のためらいを蒼ちゃんがどう解釈したのかはわからない。執拗に迫ったりする人ではないので、すぐに違う形で私を助けようと考えるような、聡い人なので――。
「早く帰らないと、小母さんたちのお店がたいへんだよ?」
 腕時計の文字盤を私に示しながら、少し悪戯っぽく笑う蒼ちゃんの笑顔に救われる。どう考えてもおかしな私の態度も、こんなところで隠れるようにして泣いていたことも、さし出された蒼ちゃんの手を取らなかったことも、全てをなかったことにし、それでも私に笑いかけてくれる優しい人。どうしてこういう人が、私などを大切にしてくれるのだろう。
「うん」
 涙を手の甲でぐいっと拭い、立ち上がった私の先に立ち、蒼ちゃんは歩き始めた。 
「早く行って、帰って来ないと……今度は僕が午後の講義に間にあわなくなっちゃうからね」
「蒼ちゃん!」
 それなら私を送らなければいい――と言おうとした私の思考など、まるでお見とおしなのだろう。蒼ちゃんはハハハッと朗らかに笑った。 
「千紗ちゃんの叔母さんの店でお得弁当を買って、公園で食べるから大丈夫だよ。どっかに行くよりそのほうがいいって、紅也の顔に書いてあるんだから、千紗ちゃんは気にしないで……」
「兄さん!」
 私と同じように、咎めるような口調で紅君も叫ぶので、蒼ちゃんは笑いながら今度は紅君へ目を向ける。 
「何? 桜の下で食べたいんだろ? ちょっと気が早い花見だけど……いいよ。つきあうよ」
 またくるりと私たちに背を向けて踊るように歩きだした背中を見ながら、紅君が呟いた。 
「まったく兄さんは……」
 言葉とは裏腹に嬉しそうな声。思わず隣に並んだ彼の顔を仰ぎ見る。蒼ちゃんに負けないほど優しい顔で、紅君は蒼ちゃんを見ていた。 
「凄いよ……」
「うん……」
 四年ぶりに初めて、紅君との会話が成立した。おそらくその時私たちは、同じ気持ちだった。蒼ちゃんへの抱えきれないほどの感謝の気持ち。その思いを大切に抱きしめながら、私たちはようやく一歩を踏み出した。