事務室に弁当を届け、まちがったたほうを返してもらい、私は急いで大学をあとにした。ちょうどお昼を食べに外へ出る予定だったという蒼ちゃんと、一緒に歩く。
「よかったら……これ、いる?」
 回収した弁当を持ち上げて見せた私に、蒼ちゃんはにっこり微笑んだ。 
「ありがたくって言いたいところだけど、今日はこれから弟と待ちあわせてるんだ、ごめん」
 私は慌てて蒼ちゃんから一歩飛び退いた。 
「私こそごめんなさい! 蒼ちゃん、急いでたんじゃないの?」
 ぱっと光が射すように、蒼ちゃんが満面の笑顔になった。 
「いいや。約束の時間にはまだ早いから……とはいえ、時間なんてあんまり関係ない人間なんだけどね、うちの弟は……」
「……………?」
 よく意味がわからなくて首を傾げた私の顔を見て、蒼ちゃんはもう一度笑った。
「会えばわかるよ……せっかくだからちょっと会ってって……急いでるのにごめんね」
「ううん。私こそごめんなさい……」
 謝りあってばかりの自分たちがおかしかった。蒼ちゃんもそう思ったのだろうか、笑い含みの声で話題を変える。
「弟はさ……小学生の頃に事故に遭ったって言っただろ? その時に、それまでの記憶を失くしちゃったんだ……だから過去は関係ない、未来のことも考えない、今ここにいる自分だけが全てっていう変わった奴なんだよ……自分の弟ながら、格好いいなとも、強いなとも思う……っていっても事故までは別々に住んでたから、あいつがもともとそういう奴だったのか、事故に遭ってから変わったのか、僕にはわからないんだけどね……」
 カチリとどこかで、これまでバラバラだったジグソーパズルのピースが咬みあうような音がした。事故。失くした記憶。別々に住んでいた弟。蒼ちゃんの紡いだ言葉が、私の頭の中で、他の人には到底予想できない形に結びついていく。 
(まさか……そんな……)
 そういうことがあるはずないと思う一方で、進行方向へ目を向け直した蒼ちゃんがどうやら大学横の公園へ向かっているらしいと知り、どうしようもなく鼓動が速くなる。 
(そんなはずない! そんなはずないよね?)
 泣きたいほどの期待と不安に、何も言葉を返せないまま、私がただもう一度彼のシャツの裾を縋るように掴んだ瞬間、蒼ちゃんが片手を高く上げ、朗らかな声を発した。 
「紅也! お待たせ」
(紅也!)
 やはりと思う気持ちとまさかと思う気持ちが混同したまま、私は蒼ちゃんの背中に半分隠れた位置から視線を上げた。一本だけ花をつけた桜の下に、彼は先ほどと同じように立っていた。
(紅君! やっぱりそうだったんだ……)
 そうに違いないと思った私の予想は当たった。会いたくて会えず、それでも心から消えることはなかった人が、確かにそこにいた。無事だったと聞き、少しずつ回復に向かっていると教えられ、それでも心配で堪らなかった心が、彼がそこにいる姿を見て、ようやく安堵する。
 しかし先ほど蒼ちゃんに聞かされた『それまでの記憶を失くした』という話が、紅君の身に起こったことなのだと改めて思い返され、ヒヤリと背筋が冷えるのを感じた。 
(じゃあ、全部覚えてないの?『希望の家』のことも、みんなのことも、園長先生も、私に聞かせてくれたお母さんの話も、学校も……?)
 いつでもみんなの中心で、光り輝くように笑っていた紅君。私の心の中に今でも変わらず住んでいる憧れの少年は、本当にもう二度と会えない幻になってしまった。そして――。
(私のことも……? あの約束も……覚えてない……?)
 叶うはずはないとわかっていた。事故に遭った日から、もう絶対に叶わないと何度も自分に言い聞かせた。それでもどうしても諦めることのできなかった、私にとってのたった一つの約束が、春の霞空の下で、大きな音をたてて砕けて消えた。 
「兄さん……!」
 私の知る声とよく似た響きの声が蒼ちゃんの名前を呼ぶので、思わずシャツを掴んでいた手を離してしまう。だらんと力なく落ちた手を、私は強く握り拳に変えた。
 紅君の目に映っているのは蒼ちゃんだけだ。やはり私を見ても、彼は表情を変えない。
「紅也。ちょうど千紗ちゃんと会ったから、紹介しとくよ。長岡千紗さんです。四月からはお前の先輩。千紗ちゃん……こっちは俺の弟、片桐紅也です」
「はじめまして」
 さし出された手は、私のよく知るそれとは比べものにならないほど大きかった。ぶるぶると震えそうになる手を必死に普通に動かし、私は紅君と軽く握手を交わした。 
「はじめまして……」
 本当は初めてなどではないと、叫びそうになる自分の心を押し殺し、彼の顔を見上げた。
「よろしくね千紗ちゃん」
 何も言葉を発さない紅君に代わり、蒼ちゃんが私に笑いかける。いつもどおりの笑顔の蒼ちゃんと対照的に、紅君はまったく笑わなかった。何を映しているのかよくわからない不思議な色の瞳で、私をただじっと見ていた。 
(紅君?)
 思わず呼びかけてしまいそうになる自分を、必死に抑える。
(どうしたの?)
 彼が私を覚えていないことも、蒼ちゃんが驚くことも忘れ、問いかけてしまいそうだった。紅君が笑わない。いつでも誰にでも、輝くような笑顔で笑いかけていた紅君が笑っていない。それが私に対してだけだったらいい。たとえ記憶は失っても心のどこかでわだかまりを残しているのかもしれない私に対してだけだったら、それは構わなかった。しかし――。 
「紅也……笑顔! 笑顔! 父さんがいつも言ってるだろ?」
「…………!」
 はっとしたように紅君は私の手を離し、私と蒼ちゃんから二、三歩後退った。蒼ちゃんはまるで彼の姿を隠すように私との間に入り、にっこりと笑った。おそらく紅君のぶんも笑った。 
「俺と違って照れ屋な弟でごめんね……でも俺よりずっといい男でしょ?」
「兄さん!」
 それまでまったく表情の変わらなかった紅君が、少し怒ったような顔で、蒼ちゃんを呼ぶ。 そんな弟の様子をふり返り、蒼ちゃんは嬉しそうに笑う。
「それにとってもいい奴なんだよ……」
 ほのかに赤くなりぷいっとそっぽを向いてしまった紅君を確認し、私は蒼ちゃんに頷いた。それはよく知っていると――口に出しては言えない言葉を伝えるかのように何度も頷いた。 
「ちょっと左足が悪いけど、日常生活には支障ないから……なんなら学校の行き帰りのボディーガードにしてもいいよ?」
「兄さん!」
 紅君が咎めるような声を発するのと同時に、私の心臓は大きく跳ね、もうこれ以上自分が普通の顔を保つことができそうにないと気づいた。 
(足……? 事故のせいで……?)
 苦しい。息をするのが苦しい。こみ上げてくる涙を堪えることがどうにも苦しく、私は蒼ちゃんに頭を下げた。 
「ごめんね、蒼ちゃん……私……」
 蒼ちゃんはすぐに、私の頭をポンと叩いた。
「うん。急いでたのにごめん。紅也と会ってくれてありがとう」
「うん……」
 もう一度顔を上げて蒼ちゃんの顔を見ることができず、私は俯いたまま彼に背を向けた。本当はもう一度見たい――だけど見たくない紅君のことも、ふり返らなかった。
「さよなら……」
 逃げるように走りだした私に、蒼ちゃんが叫んだ。
「またあとで!」
 人の心の機微に敏い蒼ちゃんのことだから、何か気がついたかもしれない。変に思ったかもしれない。でもそれを上手くごまかす心の余裕は、私にはもうなかった。
(紅君が笑ってない……! そして……足が……!)
 どうしても我慢できず、私は公園を走り出て、少し進んだ繁みの陰に隠れるように座りこんだ。膝を抱えてその上に顔を伏せ、なりふり構わずに声を押し殺して泣いた。
(紅君……紅君……紅君!)
 彼から笑顔を奪ったのは私だ。あれほど大好きで、遠くから見ているだけで幸せな気持ちになれたあの笑顔を壊してしまったのは私だ。いつも見ていた。いつもいつも見ていた。校庭を誰よりも速く走り、軽やかに飛ぶ彼の姿を――その足を不自由にしてしまったのも私だ。 
(ごめんなさい! 紅君……ごめんなさい!)
 心の中で叫んでいたのか、実際に声に出していたのか、それすらわからないような状態だった私は、背後に誰かが近づいたことに直前まで気がつかなかった。ふいに肩を掴まれて、びくりと震えてふり返る。涙に濡れた顔のままふり返り、間近に心配そうに私を見つめる綺麗な瞳を見た。一瞬、蒼ちゃんだと思った。だが違った。蒼ちゃんの目をいつも隠しているあの大きな眼鏡が、私たちの間にはなかった。 
「大丈夫……?」
 囁くように尋ねられ、いっそう涙が零れる。軽く息を弾ませている彼は、私を追いかけてきたのだろうか。確か左足が悪いと蒼ちゃんが言っていたのに。
「泣いてるんじゃないかと思って……きっと人前じゃぎりぎりまで我慢して、一人になったら泣いてるんじゃないかと思って……ごめん……なんか変なこと言ってるって自分でもわかるけど……兄さんをさし置いて俺が出る幕じゃないってこともわかってるんだけど……」
 私を見ても顔色一つ変えなかった紅君の瞳が揺れる。きっとよく理解できない自分の感情にとまどっている。私だってわからない。紅君に会うことをあれほど恐れていたのに、自分が彼からいろんなものを奪ってしまったと知り、申し訳なくてもう会わす顔さえないと思うのに、自分で自分で絶対に許せないのに、それなのに、またこうして向きあえたことが嬉しい。私に向かって話してくれることが、これほど嬉しい。
「泣かないで……」
 私に優しくしないでいい。私にはそんな価値などない。紅君に優しくされる資格は、とうの昔に失くした。いや、本当は最初から持っていなかった。同級生の女の子たちが言っていたように、私には紅君の傍にいる資格などなかった。ただ紅君が望んでくれたので、一緒にいようと言ってくれたので、短い夢を見た。 
(でもそれももうない……紅君は私を覚えていない……)
 そのことが悲しくて、胸が押し潰される。
「ごめん……本当は泣いたっていいんだ。泣きたいんだったらちゃんと泣いたほうがいいって、俺はそう思う。だけど、一人で泣いちゃだめだよ……」
 私の両肩に手を載せた紅君が、目を覗きこんで笑った。それは小さな、どこか寂しそうな笑顔だった。以前と少しも変わらない紅君の考え方と、まったく変わってしまった笑顔。そのどちらもが胸に痛く、私は自分を抱きしめて咽び泣いた。
「千紗ちゃん? ……紅也?」
 私たちを探す蒼ちゃんの声が近づいてくるのが、ほっと嬉しくて、少し苦しかった。