「今までと同じでいいから」という蒼ちゃんの言葉どおり、私たちの関係は何も変わらなかった。毎日ほんの短い時間を、弁当屋の裏の狭い場所で共に過ごす。
あの日、蒼ちゃんに夢中で手をさし伸べた時、私の中では確かに何かが変わったと感じたのに、それが何だったのかさえ今はあやふやだ。泣きながら蒼ちゃんを抱きしめた私を、彼がどういうふうに解釈したのか、それだって結局は彼にしかわからない。けれどこれまでと同じように向けられる笑顔が、穏やかに過ごす二人だけの時間が、私にとって大切であることには変わりなく、それを失くさずにすんでよかったというのが、正直な気持ちだった。
「千紗ちゃん……ぼーっとしてると学校遅れるよ?」
猫と戯れる蒼ちゃんの姿を見ながらお弁当を食べる夕暮れ。古びた椅子に腰かけた私は、いつの間にか考えることに没頭しすぎ、手のほうがすっかり止まっていた。優しく指摘され、慌てて再び箸を動かし始める。
「そういえば……決まったから、弟が千紗ちゃんと同じ高校に行くこと」
「そうなの?」
「うん」
勧めてみようという蒼ちゃんの決意は知っていたが、そのあとどうなったのかは聞いていなかったので、少し驚いた。
「四月からは千紗ちゃんの後輩になるよ……よろしくね」
「うん」
今と同じ言葉を言った蒼ちゃんと、以前固い握手を交わした時から、私の心は決まっている。
(蒼ちゃんの弟は私が守る……蒼ちゃんがそうしてきたように、学校の中では私が守る!)
壮大な決意をこめて笑顔の蒼ちゃんに真剣に頷く私は、実はそれが自分にとってどれほど困難なことなのか、まるでわかっていなかった。
「ごめん千紗……本当に悪いんだけど……これを大学の事務室まで届けてくれるかい?」
お昼時で普段より客足の多い正午過ぎ。厨房で調理にまわっていた私に、店頭に立っていた叔母はわざわざ近くまで来て、弁当の入ったビニール袋を持ち上げて見せながら尋ねた。
「えっ? ……今?」
まだこれから作らなければならない注文の山と、私たちの会話に耳だけを傾けながら黙々と調理を続けている叔父の姿に、交互に目を向ける。叔母も同じように狭い厨房の中を見まわしたが、困ったように眉を下げた。
「バイトの山本君に電話してるんだけど繋がらないんだよ……繋がったとしても、時間ギリギリ間にあうかどうかってぐらい、先にたくさん配達頼んじゃってるしね……」
はああっと叔母は大きな溜め息を吐いた。
「注文まちがいだってさ……こっちは確かにから揚げ弁当四つ、とんかつ弁当三つって聞いたのに、逆だったって言うんだ……どうしてもとり替えてくれってことだから……」
叔母が言い終わる前に、叔父が口を開いた。
「ここはいいから行ってくれ、千紗」
「うん」
私は急いでエプロンを外した。中から現われたいつもの普段着に、この間大学へ行った時の気後れするような気持ちを思い出し、ほんの少しためらう。しかし首のうしろで束ねていた髪を解き、それだけであとはもう気にしないことにした。
「じゃあ、急いで行ってくるから!」
走り出した背中に、叔母の声がかかる。
「急がなくていいから! 気をつけて!」
たとえ緊急の時でも、私の身の安全と大通りが苦手な気持ちのほうを優先してくれる叔母の優しさが、ありがたかった。
(でも……時間をかけてゆっくりと歩くより、一気に走ったほうがマシかもしれない!)
両手に下げたビニール袋が傾いてしまわない程度の速さで駆けながら、私は思った。
(ゆっくりと時間を過ごしているから、余計なことを考える。思い出したくないことを思い出す……だから真っ直ぐに前だけを見て、さっさと目的地についてしまおう!)
そう思っていたのに、大学の正門が間近に迫った辺りで、隣接する公園へ目を向けたら、思わず足が止まってしまった。桜の開花にはまだ早い三月半ば。公園に植えられた桜の木は寒そうな茶色い幹だけで、まだ蕾の出る気配さえないと思っていたのに、中にたった一本だけ、ずいぶんと気の早い木があった。ポツポツと開き始めた桜の花の小さな集まりが、まるで雪が積もったかのように、細い枝のあちらこちらに乗っている。
その木の下に、花を見上げて立ち尽くす若い男の人がいた。
(さくら……)
どこからか飛んできた花びらを追いかけ、遅咲きの一本を探しだし、紅君と木の下に寝転んで花びらの落ちてくる様子を眺めたあの春から、桜の木は私にとって特別になった。風に吹かれて花びらが舞い散る頃になると、懐かしくて、悲しくて、切なくて、辛くなる。
『さくらはこうやって見上げるんだ』
紅君の声がどうしようもなく耳に甦り、思い出の中にひきこもってしまいたくなる。
(紅君……)
くり返し頭の中で思い出す面影を、私はいつも無意識に桜の木の下に探していたので、幻を見たと思った。「もう一度会えた!」と大喜びした途端目が覚める残酷な夢のように、本当はそこには誰もいないのに、私だけにその人が見えたのかと思った。だけど――。一本だけ花をつけた桜の下に佇む背の高い人影は、私が何度目を擦っても消えない。
(そんなはずない……そんなはずない……!)
心の中で否定すればするほど、紅君に似ているように思えてならないその人が、ゆっくりとこちらへ目を向けた。ぶ厚い眼鏡の向こうに時々見える蒼ちゃんの目によく似た澄んだ瞳が、真っ直ぐに私を見た。風に揺れる薄い色の髪も、少し首を傾げて私を見る仕草も、きりっとひき結んだ口元も、その人は何もかもが紅君にしか見えなかった。
(紅君!)
息を呑んだ私から、しかし次の瞬間、彼は目を逸らした。こちらを見た時も、目を逸らした時も、何もおかしなところはない。ただ何気なく目を向け、それが知らない相手だったので、目を逸らす。当たり前の態度だ。しかし彼が紅君に思えて仕方ない私には、その全てが雷に打たれたかのような衝撃だった。
(…………)
鋭い刃物で切りつけられたかのように胸が痛く、私はよろよろとした足取りで歩き始める。それは瞬く間に駆け足へと変わり、逃げるように大学の敷地内へと駆けこんだ。
(紅君! ……紅君!)
必死になって探せば見つけられたはずの彼を、何故自分は探そうとしなかったのか。その本当の理由に気づいた。気づいてしまった。自分のせいで紅君を酷い目に遭わせ、申し訳なかった思いもある。会わせる顔がなかった。だがその思いすら越え、おそらく本能で彼と会うことを回避しようとした一番の理由は、こういうふうに紅君に背を向けられたくなかったからだ。
常に私に笑顔を向けてくれていた紅君の冷たい表情を、私は見たくなかった。だから逃げた。あの事件をきっかけに自分と紅君の関係が変わってしまうのが恐くて逃げた。
(だからこれは……きっと罰だ……! 私に与えられた罰だ!)
まるで知らない相手のように、私を見た先ほどの青年の反応は、私が最も恐れていた紅君の反応、そのままだった。何かに憑かれたように走る私を、呼び止める声がかかる。
「あれっ? 千紗ちゃん?」
紅君への妄執で、まるで世界の何もかもに背を向けられたかのようだった私の心の中に、ぽっと小さな明かりが灯った。
「蒼ちゃん!」
大学の建物から出てきたばかりの蒼ちゃんは、笑いながら私に歩み寄ってくる。
「今日も配達に来たの? 忙しいね」
子供の頃の紅君によく似た満面の笑顔。たった今、永遠に失った気持ちでいたその笑顔に、ひき寄せられるように私は立ち止まった。
「蒼ちゃん……」
「なに?」
呼べば優しい声で返事をしてくれるから、もう一度呼ぶ。
「蒼ちゃん」
「ん?」
何度呼んでも、蒼ちゃんの笑顔は崩れない。私を見下ろす優しい目も変わらない。これが現実なんだと、私が今生きている現実の世界なんだと実感し、心から安堵した。
(きっと……きっと、桜の木の下に幻を見たんだ……)
いつかはそうなってほしい、しかしそうなってほしくないと、心の中に抱えこんでいた想いが、私に優しくて悲しい幻を見せた。
(会いたい……でも会いたくない。せめて謝りたい……その思いは本当なのに、恐い……)
心の中で複雑に絡みあった感情が、胸に痛くて、涙が溢れだす。
「どうしたの、千紗ちゃん?」
蒼ちゃんはわけもわからないまま、困ったように私の頭を撫でる。その手に自分がいつも甘えてしまっていることはわかる。わかり過ぎるほどにわかっているが、ぽろぽろと零れ落ちた涙は止まらなかった。
一歩だけ蒼ちゃんに近づき、そっとシャツの裾を掴む。それ以上近づくには、私の気持ちは矛盾だらけで、蒼ちゃんに申し訳ない。あまりにも申し訳ない。そういう思いさえ全てわかっているかのように、蒼ちゃんは優しく私の頭を撫でた。理由も聞かずに、ただ撫でてくれた。
あの日、蒼ちゃんに夢中で手をさし伸べた時、私の中では確かに何かが変わったと感じたのに、それが何だったのかさえ今はあやふやだ。泣きながら蒼ちゃんを抱きしめた私を、彼がどういうふうに解釈したのか、それだって結局は彼にしかわからない。けれどこれまでと同じように向けられる笑顔が、穏やかに過ごす二人だけの時間が、私にとって大切であることには変わりなく、それを失くさずにすんでよかったというのが、正直な気持ちだった。
「千紗ちゃん……ぼーっとしてると学校遅れるよ?」
猫と戯れる蒼ちゃんの姿を見ながらお弁当を食べる夕暮れ。古びた椅子に腰かけた私は、いつの間にか考えることに没頭しすぎ、手のほうがすっかり止まっていた。優しく指摘され、慌てて再び箸を動かし始める。
「そういえば……決まったから、弟が千紗ちゃんと同じ高校に行くこと」
「そうなの?」
「うん」
勧めてみようという蒼ちゃんの決意は知っていたが、そのあとどうなったのかは聞いていなかったので、少し驚いた。
「四月からは千紗ちゃんの後輩になるよ……よろしくね」
「うん」
今と同じ言葉を言った蒼ちゃんと、以前固い握手を交わした時から、私の心は決まっている。
(蒼ちゃんの弟は私が守る……蒼ちゃんがそうしてきたように、学校の中では私が守る!)
壮大な決意をこめて笑顔の蒼ちゃんに真剣に頷く私は、実はそれが自分にとってどれほど困難なことなのか、まるでわかっていなかった。
「ごめん千紗……本当に悪いんだけど……これを大学の事務室まで届けてくれるかい?」
お昼時で普段より客足の多い正午過ぎ。厨房で調理にまわっていた私に、店頭に立っていた叔母はわざわざ近くまで来て、弁当の入ったビニール袋を持ち上げて見せながら尋ねた。
「えっ? ……今?」
まだこれから作らなければならない注文の山と、私たちの会話に耳だけを傾けながら黙々と調理を続けている叔父の姿に、交互に目を向ける。叔母も同じように狭い厨房の中を見まわしたが、困ったように眉を下げた。
「バイトの山本君に電話してるんだけど繋がらないんだよ……繋がったとしても、時間ギリギリ間にあうかどうかってぐらい、先にたくさん配達頼んじゃってるしね……」
はああっと叔母は大きな溜め息を吐いた。
「注文まちがいだってさ……こっちは確かにから揚げ弁当四つ、とんかつ弁当三つって聞いたのに、逆だったって言うんだ……どうしてもとり替えてくれってことだから……」
叔母が言い終わる前に、叔父が口を開いた。
「ここはいいから行ってくれ、千紗」
「うん」
私は急いでエプロンを外した。中から現われたいつもの普段着に、この間大学へ行った時の気後れするような気持ちを思い出し、ほんの少しためらう。しかし首のうしろで束ねていた髪を解き、それだけであとはもう気にしないことにした。
「じゃあ、急いで行ってくるから!」
走り出した背中に、叔母の声がかかる。
「急がなくていいから! 気をつけて!」
たとえ緊急の時でも、私の身の安全と大通りが苦手な気持ちのほうを優先してくれる叔母の優しさが、ありがたかった。
(でも……時間をかけてゆっくりと歩くより、一気に走ったほうがマシかもしれない!)
両手に下げたビニール袋が傾いてしまわない程度の速さで駆けながら、私は思った。
(ゆっくりと時間を過ごしているから、余計なことを考える。思い出したくないことを思い出す……だから真っ直ぐに前だけを見て、さっさと目的地についてしまおう!)
そう思っていたのに、大学の正門が間近に迫った辺りで、隣接する公園へ目を向けたら、思わず足が止まってしまった。桜の開花にはまだ早い三月半ば。公園に植えられた桜の木は寒そうな茶色い幹だけで、まだ蕾の出る気配さえないと思っていたのに、中にたった一本だけ、ずいぶんと気の早い木があった。ポツポツと開き始めた桜の花の小さな集まりが、まるで雪が積もったかのように、細い枝のあちらこちらに乗っている。
その木の下に、花を見上げて立ち尽くす若い男の人がいた。
(さくら……)
どこからか飛んできた花びらを追いかけ、遅咲きの一本を探しだし、紅君と木の下に寝転んで花びらの落ちてくる様子を眺めたあの春から、桜の木は私にとって特別になった。風に吹かれて花びらが舞い散る頃になると、懐かしくて、悲しくて、切なくて、辛くなる。
『さくらはこうやって見上げるんだ』
紅君の声がどうしようもなく耳に甦り、思い出の中にひきこもってしまいたくなる。
(紅君……)
くり返し頭の中で思い出す面影を、私はいつも無意識に桜の木の下に探していたので、幻を見たと思った。「もう一度会えた!」と大喜びした途端目が覚める残酷な夢のように、本当はそこには誰もいないのに、私だけにその人が見えたのかと思った。だけど――。一本だけ花をつけた桜の下に佇む背の高い人影は、私が何度目を擦っても消えない。
(そんなはずない……そんなはずない……!)
心の中で否定すればするほど、紅君に似ているように思えてならないその人が、ゆっくりとこちらへ目を向けた。ぶ厚い眼鏡の向こうに時々見える蒼ちゃんの目によく似た澄んだ瞳が、真っ直ぐに私を見た。風に揺れる薄い色の髪も、少し首を傾げて私を見る仕草も、きりっとひき結んだ口元も、その人は何もかもが紅君にしか見えなかった。
(紅君!)
息を呑んだ私から、しかし次の瞬間、彼は目を逸らした。こちらを見た時も、目を逸らした時も、何もおかしなところはない。ただ何気なく目を向け、それが知らない相手だったので、目を逸らす。当たり前の態度だ。しかし彼が紅君に思えて仕方ない私には、その全てが雷に打たれたかのような衝撃だった。
(…………)
鋭い刃物で切りつけられたかのように胸が痛く、私はよろよろとした足取りで歩き始める。それは瞬く間に駆け足へと変わり、逃げるように大学の敷地内へと駆けこんだ。
(紅君! ……紅君!)
必死になって探せば見つけられたはずの彼を、何故自分は探そうとしなかったのか。その本当の理由に気づいた。気づいてしまった。自分のせいで紅君を酷い目に遭わせ、申し訳なかった思いもある。会わせる顔がなかった。だがその思いすら越え、おそらく本能で彼と会うことを回避しようとした一番の理由は、こういうふうに紅君に背を向けられたくなかったからだ。
常に私に笑顔を向けてくれていた紅君の冷たい表情を、私は見たくなかった。だから逃げた。あの事件をきっかけに自分と紅君の関係が変わってしまうのが恐くて逃げた。
(だからこれは……きっと罰だ……! 私に与えられた罰だ!)
まるで知らない相手のように、私を見た先ほどの青年の反応は、私が最も恐れていた紅君の反応、そのままだった。何かに憑かれたように走る私を、呼び止める声がかかる。
「あれっ? 千紗ちゃん?」
紅君への妄執で、まるで世界の何もかもに背を向けられたかのようだった私の心の中に、ぽっと小さな明かりが灯った。
「蒼ちゃん!」
大学の建物から出てきたばかりの蒼ちゃんは、笑いながら私に歩み寄ってくる。
「今日も配達に来たの? 忙しいね」
子供の頃の紅君によく似た満面の笑顔。たった今、永遠に失った気持ちでいたその笑顔に、ひき寄せられるように私は立ち止まった。
「蒼ちゃん……」
「なに?」
呼べば優しい声で返事をしてくれるから、もう一度呼ぶ。
「蒼ちゃん」
「ん?」
何度呼んでも、蒼ちゃんの笑顔は崩れない。私を見下ろす優しい目も変わらない。これが現実なんだと、私が今生きている現実の世界なんだと実感し、心から安堵した。
(きっと……きっと、桜の木の下に幻を見たんだ……)
いつかはそうなってほしい、しかしそうなってほしくないと、心の中に抱えこんでいた想いが、私に優しくて悲しい幻を見せた。
(会いたい……でも会いたくない。せめて謝りたい……その思いは本当なのに、恐い……)
心の中で複雑に絡みあった感情が、胸に痛くて、涙が溢れだす。
「どうしたの、千紗ちゃん?」
蒼ちゃんはわけもわからないまま、困ったように私の頭を撫でる。その手に自分がいつも甘えてしまっていることはわかる。わかり過ぎるほどにわかっているが、ぽろぽろと零れ落ちた涙は止まらなかった。
一歩だけ蒼ちゃんに近づき、そっとシャツの裾を掴む。それ以上近づくには、私の気持ちは矛盾だらけで、蒼ちゃんに申し訳ない。あまりにも申し訳ない。そういう思いさえ全てわかっているかのように、蒼ちゃんは優しく私の頭を撫でた。理由も聞かずに、ただ撫でてくれた。