烏天狗様との離婚条件

 祖母の家は山間部にある。何本かの電車を乗り継ぎ、最後の乗り換え電車に乗車するとそこでやっと座ることができた。車窓から、山々に夕日が沈んでゆくのが見える。烏が鳴きながら、山に帰ってゆく。
 ふとスマホに目をやれば、最初の電車の中で母に送ったメッセージに返信が来ていた。
[黙っていてごめんなさい]
[お祖母ちゃんが亡くなったのは本当]
[でも絶対にお祖母ちゃん家に来ちゃダメ]
 はぁ!? 意味わかんない!
[何で?]
[黙ってたのも意味わかんないし]
[お祖母ちゃん好きだったしお別れくらいさせてよ]
[ひど]
 勝手に指が動き、送信ボタンをタップする。そのくらい、イライラしていたしショックだった。
 確かに、離れて暮らしていたせいもあり、華衣はお祖母ちゃんっ子ではなかった。けれど、長期休みのたびには両親とともにお祖母ちゃん家に帰るのは当たり前だった。田舎くさい古民家ならではの隙間風、屋根裏の鼠、軒先のつばめ。勝手にやって来る野良猫。見渡す限りの山々。田んぼから聞こえる蛙の大合唱。
 どれがどんな生物で、どんな音を出し、どんなふうに生きているのか教えてくれた、自然とともに生きているような祖母が、華衣は好きだった。

 何が何でも祖母の家まで行ってやる。そう誓い、華衣は最寄り駅で降りた。祖母の家は、ここから車で三十分ほどの集落の中だ。けれど、駅前のロータリーまで来て、華衣は文字通り頭を抱えた。ここから先は、いつも先に車で来ていた伯母や親戚が迎えに来てくれていたのだ。
 日は沈み、バスも通らない時間。タクシープールもない、田舎の無人駅にぽつんと一人きりだ。
 ――どうしよう。
 駅を照らす街灯の下で、華衣はしゃがみ込み、膝を抱えた。
 [来るな]のメッセージの後だ。迎えに来て、など、とても言えない。
 ――お祖母ちゃんに、一目会いたいだけなのに。どうして、来ちゃダメなんて言われなきゃならないの?
 泣きそうになり、頭を垂れると膝頭に両目を埋めた。ザラザラのジーンズがじわりと濡れ、目元が湿って気持ち悪い。ジージー、ジュージューと虫たちが鳴いている。こんな場所で、一人ぼっち。孤独だ。
「迎えに来たぞ」
 不意に男性の声がして、華衣は顔を上げた。
「あなたは? ……っ!」
 街灯を背負い、逆光で顔はよく見えない。けれど、彼に見覚えがあった。黒くつややかな髪の襟足だけ、赤く染まっていたのだ。
「浬烏だ。迎えに来た、華衣」
「お祖母ちゃんのところに連れてってくれるの?」
 浬烏を見上げ、華衣はそっと口を開いた。平常心を装っていたが、華衣の心臓は暴れていた。頭の中で作り上げてしまったイケメンが、実体として目の前に居るのだから。唯一、無地のTシャツに細身のカーゴパンツを履いているのだけが夢とは異なっているが。
「お祖母ちゃん?」
 浬烏は華衣に聞き返す。
「お祖母ちゃんだよ! 昨日死んじゃったって聞いて、私、ここまで会いに来たのに、帰ってくるなってお母さんに言われて――」
 言いながら、涙が溢れてしまった。華衣は腕で目元を拭うと、「すみません」と小さく謝った。
「いや、いい。連れて行く」
 浬烏は華衣の前に立ったまま、右手を彼女に差し出した。華衣は何気なしにその手を取る。次の瞬間、華衣は彼にぐっと抱き寄せられた。
「ちょ、ちょっと何するんですか!」
「言っただろう。『お祖母ちゃんのところ』へ連れて行く。掴まれ」
 そう言う間に、浬烏は華衣を横抱きにする。
「え、ちょっと、はぁ!?」
 華衣がそう発する間に、浬烏は地面をたんと蹴り、空高くへジャンプする。華衣は思わず彼のTシャツを両手でぎゅっと握ってしがみついた。
「しっかり捕まっていろ」
 浬烏はそう言うと、人とは思えないジャンプ力で前へ進み、ジェット機の速さで山を抜ける。
「ひぃぃっ!」
 身体に冷たい風が次々に当たり、華衣の心臓が先ほどとは違う意味で速まる。今までに乗ったどんなジェットコースターよりも怖い。胸の辺りがひゅっとなり、華衣は恐怖の余り両目をぎゅっとつぶった。
「着いたぞ」
 浬烏のその言葉に、華衣はつぶっていた目をそっと開いた。お祖母ちゃんの家の前にいた。
 車なら三十分の距離を、どのくらいで着いたのだろう。とても早く着いたに違いない。
 浬烏は華衣をそっと地面に下ろす。華衣は思わずぶるりと身体を震わせた。幾つもの風を切ったせいで、夏の夜にも関わらず、身体が冷え切ってしまったらしい。
「寒いのか」
 浬烏に聞かれ、華衣はコクリと頷く。すると瞬間、浬烏はパチンと指を鳴らす。華衣はなぜか急に温かな空気に包まれ、鳥肌も元に戻っていた。
「え、何で!? っていうかあなた、何者なんです!?」
 人じゃない。けれど、どこからどう見ても人と差異はない。華衣はひどく混乱して、思わず大声を上げた。
 一方で、浬烏は右手を軽く上げた。すると、どこからか飛んできたのか華衣のスーツケースが現れ、浬烏はその手でキャッチした。
「お前の荷物だ」
 差し出された華衣は目を真ん丸にしたまま受け取った。
「私は神の眷属(けんぞく)、人呼んで烏天狗。華衣を迎えに、かくりよからやって来た」
「迎えに……?」
「烏天狗に選ばれし妻は、かくりよで過ごす。かつて人間の長と神が決めた、約束事ではないか」
「え、ちょっと待って」
 華衣は懸命に頭を働かせた。
 彼が烏天狗であるということは、百歩譲って理解できる。人でない速度で華衣をここまで運んできた事実があるからだ。けれど、選ばれし妻? 迎えに来た?
 ――と、いうことはつまり。
「私、あなたと結婚してるんですか!?」
「お前、私と祝言を挙げただろう」
 浬烏は大声を上げた華衣を前にしても、ただ淡々と続けた。
「祝言、ですか?」
「ああ。今の人間風の言葉で言えば結婚式のことだ」
 華衣の脳裏に、三々九度をしたあの日の夢が蘇る。
「え、だってあれは夢で――」
「夢ではない。お前の魂をかくりよまで運び、式を終えて戻したまでだ」
「は?」
「お前は私の妻になった。お前がこの村に立ち入った時、迎えに来ると約束しただろう」
 真顔で淡々と述べられる嘘のような真実に、頭がついていかない。
 約束なんて、した? ……ような気もする。
「え、マジでちょっと意味がわかりません結婚してるんですか!? 私とあなたが!?」
「ああ。早く『お祖母ちゃん』とやらの死に目に挨拶してくると良い。私はここで待っている」
「え、あ、はぁ!?」
 ちょうどその時、祖母の家の引き戸が開いた。二人は引き戸の方を振り返る。
「華衣!?」
 そこには、驚き目を見張る父の姿があった。
「帰ってきたらダメだと言っただろう!」
 父が早口に言う。
「お祖母ちゃんは――」
 華衣の言葉は、後からやってきた足音にかき消されてしまった。後から後から、親戚が玄関先にやってきたのだ。
「早く帰れ、華衣! ここにいたらダメだ! 天狗に連れて行かれるぞ」
「え?」
 父があまりにも必死に言ったため、華衣はキョトンとしてしまった。 
「華衣! ダメって送ったじゃない! ああ、もう」
 母はその場にへたり込み、父は青ざめている。その後ろにやってきた伯母は腕を組み、怯える父母を見下ろした。
「だから女児なんて産むなって言ったのよ」
 ――何? どういうこと?
 華衣は事態が飲み込めなかったが、けれどどうやら天狗の話は母も父も知っているということだけは分かった。 
「まさか母さんの死と重なるなんてね」
 伯母はため息のように言った。それからこちらをじっと見る。
「華衣ちゃん、あなたがここに帰ってきてしまった以上、神様に背くわけにはいかないの。あなたは天狗の妻になる」
「な、どういうことですか!?」
 華衣は青ざめたまま何も話さない父母を無視し、伯母に駆け寄った。
「五十年に一度、村の十八歳の娘は天狗の妻となるために神に捧げられる。この村の掟よ」
「姉さんっ!」
 父が止めようとした。けれど伯母は止まらない。
「掟に背いたら、村に天罰が下るの。私の叔母も、天狗に連れて行かれたの。残念ながら、今年であれからちょうど五十年。村の血を持つ十八の娘は、あなたしかいない。あなたは天狗の花嫁なのよ」
「やめてくれ、天狗の花嫁なんて……」
「村を天災で潰したいの!?」
 弱った父に、伯母が怒鳴る。
「ともかく、華衣は今すぐ帰るんだ。ここにいたら、天狗に連れて行かれるんだ!」
「華衣はもう、私の嫁だ」
 それまで黙っていた浬烏が口を開くと、皆は彼に釘付けになった。
「あ、あなた様は……」
 父は震え、母は泣いている。伯母は目を見開き、口をあんぐりと開けている。
「いかにも、私が烏天狗。名は浬烏という。魂のみの祝言を、近頃の人間の様に合わせて六月に挙げさせてもらった」
「いやいや、私許可してないからね! あんなの夢だと思ってたし!」
「三々九度を交わしたではないか」
「あれはあなたに真似をしろって言われたから!」
 浬烏の勝手な物言いに、華衣の心は苛立った。
「そもそも私まだ結婚なんてしたくないし!」
「したいしたくない、ではない。私とお前はもう結婚“している”のだ」
「なら離婚! あなたと離婚する!」
「リコン……?」
 浬烏は少しばかり眉をひそめ、小首をかしげる。
「結婚をなかったことにするってことです!」
「それは許されないわ! この村を潰す気!?」
 背後から伯母の怒号が飛んてきて、華衣はピクリと肩を揺らした。
「何、それ」
 華衣はポツリと呟く。けれど、次の瞬間思い切り振り返り、苛立つ気持ちのまま言い放った。
「村の掟だかなんだか知らないけど、私はちゃんと好きになった人と結婚したい! お母さんとお父さんだって、そう思うでしょ!?」
「ああ、でも……」
 父は言葉を濁らせ、母は何も言わずに小さくなる。華衣は思い知った。この場所に、自分の味方はいないということを。すると華衣は浬烏に向き直る。
「私、離婚したいです! 離婚、できますよね!?」
「……私は神の眷属。神に従って生きる者。神が許可をすれば、リコンも可能ではあると思うが」
「じゃあ、神様に会わせてください!」
 前のめりになりながら、華衣は浬烏に詰め寄った。
「承知。神もかくりよにいる。かくりよに向かうことになるが、良いな」
「……分かりました」
 華衣は下唇を噛み、浬烏の提案を受け入れる。
「私、絶対離婚してここに戻ってくるから!」
 口を噤んだ父と母、それから怪訝な顔をする伯母に向かって、華衣はそう宣言をした。
 ◆

 動かない祖母に華衣が手を合わせている間、浬烏はただそっと待っていた。同じ部屋の隅で、腕を組み入口の柱にもたれる。浬烏のすぐ前では、彼に怯えながらもむせび泣く母と悔恨の顔で俯く父の姿があった。
 暫くして華衣は合わせていた手を下ろす。
「お祖母ちゃん、今までありがとう」
 華衣はそう言うと、震えながらも大股で浬烏の前にやって来た。
「もう良いのか?」
「はい。ちゃんとお別れできましたから」
 ――そういう意味ではないのだが。
 浬烏はちらりと華衣の後ろの両親を見やった。華衣は両親の方を見向きもしない。
「今生の別れになるかもしれん」
 浬烏は自身の顎をくいっと上げ、華衣の両親を指し示す。
「いいんです、絶対に離婚して戻ってくるので」
 彼女は振り返りもせず、じっと浬烏を見つめた。その瞳は揺れることがない。どうやら意思は固いらしい。
「では、行くぞ」
 声とともに、浬烏は華衣をひょいと抱き上げる。
「え、またこれ!?」
 華衣が驚いている間に、浬烏は自身の身体を包む洋装を解き、本来の和装姿に戻った。人の姿で羽を伸ばしたい時は、これでないと飛べないのだ。
「わ、夢とおんなじ! え、いつの間に!」
 あれは夢でなく華衣の魂をかくりよに通わせ会っていたのだ、と浬烏は胸の内で言う。祝言前にしておけと神に仰せつかったからしたことであるが、何の意味があったのか未だに良く分からない。
「掴まれ。先程よりも高く飛ぶ」
「え、あ、はい!」
 素直に首元に抱きついてきた華衣の膝裏と背中をしっかりと抱え、浬烏は縁側の窓から夜の空へ飛び立った。


「着いたぞ」
 浬烏に言われ、華衣はゆっくりと目を開いた。明るいが、目を刺すような太陽の日差しはない。空を見上げると数多(あまた)の星がこの場所を明るく照らしていて、まだ夜なのだと理解した。
 華衣はそのまま、キョロキョロと辺りを見回した。どこかの神社の境内のような場所にいた。
「ここ……」
「かくりよだ」
 かくりよという場所は人の世に似ている。けれど、どこか厳かな雰囲気があって、不思議な感じがする。
 華衣は目の前のいっそう大きな建物を見上げた。朱塗りの柱に白い漆喰の壁。キラキラと輝く屋根は銅板だろうか。
 そんな事を思っている間に、浬烏は羽をしまった姿でその建物の中に入っていく。
「来い。神に会いたいのだろう?」
「はい」
 振り返った浬烏に返事をし、華衣は慌てて彼の後に続いた。

 華衣は建物に入った瞬間、目をぱちくりとさせた。見覚えのある内装だったのだ。
 広い広間のような場所の正面には、妖しく光る二本の灯篭の中央に木製の階段がある。その上は白色と朱色と緑青色が交互に描かれた縞模様の垂れ幕のようなもので囲われていている。
 どこからか流れてくるお正月の神社のような雅楽も聞き覚えがあった。まるで生演奏のように華衣の鼓膜に届くけれど、どこにも楽器の演者などいない。
 不思議に思いながら浬烏について、階段の前まで歩み出る。するとどこからか黒漆の塗られたような腰掛が二つ現れ、浬烏の後ろに着地した。もう一台は浬烏の横に着地し、浬烏は目線で私にそこに座るよう促した。
「浬烏よ、よくぞ連れ戻った」
 二人が腰かけた瞬間、どこからか太い男性の声が聞こえた。それは華衣の脳内に直接響くようにも、この広い建物にも響くような不思議な響きだった。
「神、華衣が申したいことがあると」
「何だ?」
 どうやらこの声の主は神様であるらしい。華衣は緊張で肩を吊り上げたまま、けれど浬烏に目くばせされて思い切り息を吸い込んだ。そして、一息に言う。
「浬烏さんと、離婚させてください!」
「リコン、だと?」
「はい、どうやら祝言とは逆のこと。離縁のことを人はそう呼んでいるらしいです」
 浬烏が言うと、神の声は聞こえなくなった。同時に雅楽のような音も止まり、華衣の背に緊張が走った。怒らせてしまったかもしれない。
『村を天災で潰したいの!?』
 華衣の脳裏には、伯母に言われた言葉が繰り返されていた。もしも自分のこのふるまいのせいで、村に何か大きな災害が起きてしまったら。そう思うと、華衣の心は恐怖に震えた。とんでもないことを言ってしまったかもしれない。
「考えてやらんでもない。ただし、条件がある」
 しばらくの後、神の声が聞こえて華衣は胸をなでおろした。
「……何でしょう?」
 華衣はそっと口を開く。
「浬烏との子を成せ」
「子を成す…………――子を成す!?」
 華衣は口の中で神に言われたことを繰り返し、その事実を飲み込むと思わず吐き出すように大声を上げた。しかし、神は声色を変えずに続けた。
「浬烏とまぐわり、子を成せ。なれば、お前は人の世に帰っても障りない」