帝は、扇で口もとを隠す。
「それで、ふふ……兄さま、そちらの方は?」
「ああ、硯といって、悪神討伐で弱っていた俺を助けてくれた」
「そうなの。硯、礼を言う。紅は我らにとって、国にとって大事な者。褒美を取らせよう。なにがいい?」
「そ、そんな。とんでもありません」
私はひざまずこうとした。
でも、紅がそんな私の腕を取って……私の肩を両手で優しく包むようにして私を立たせて、真剣な顔で、私を見てくる。
もう逃げない、と紅がつぶやいたような気がした。
「硯。俺は、硯が好きだ」
真剣に、どこまでも強く、それでいてどこか悶えるように。
紅は、人間離れした美しい顔と、すごく人間らしい表情で、私を、私だけを見つめていた。
「硯の笑顔が好きだ。もっと笑ってほしい。硯の話が好きだ。もっと聞きたい。硯が髪を掻き上げるところ……愛おしそうに笑うところ……優しいところ……すべてが、好きなんだ」
紅は、必死に……言葉を紡いでいる。
「硯は、心も見た目も美しい。心の美しさに、見た目の美しさが呼応している。こんなに美しいひとを俺は初めて見た。……愛している。本当に、狂おしく……愛しているんだ。もう、硯と離れ離れになることなど、考えられない」
「紅……」
私の顔からは、熱い涙があふれていた。
「……いやか。俺などでは。硯にふさわしくはないか」
「違います……まったく逆です。だって、だって……」
――だって。
「私も、あなたをお慕いしております……ずっといっしょにいたいと思ってます。これ以上いっしょにいたら、もっと好きになっちゃうと思っていたから。……好きだって気持ちを認めたら、別れがつらくなっちゃうから」
期間限定の幸福だとばかり、思っていた。
いずれは終わる夢なのだと……。
紅には帰るところがあるし、私はいずれ生贄となって死ぬだけの忌み子。
この秘めた思いが報われることなど、決してないのだと……。
そうとばかり、思っていたのに……。
「好き……紅、大好きです」
言葉に、想いが、すべてあふれた。
紅は、私を抱きしめた。
私もその身体を抱き締め返す。
「では、俺の花嫁になってくれるか」
「もちろん、喜んで……!」
信じられない。
こんな私が。
生まれたときから忌み子として宿命づけられていた私が。
すきなひとと、結ばれるなんて。
でも、紅の身体のあったかさは、愛おしさは……紛れもなく、ほんものだった。
紅は、私の身体を抱き上げる。
お姫さま抱っこ……。
ちょっと恥ずかしかったけど、すぐそばで紅が嬉しそうに微笑んでくれるものだから、なすがままになっていた。
村人たちは、ずっとひざまずいて動かない。
まもり神さまを騙ってた化け狐は、震えながら土下座したままだ……。
「そういうわけだ、尊。俺は硯を愛しているんだ。もう俺には、硯以外考えられない。結婚するならあやかしの娘か貴族の娘ということだったが、俺は絶対に、硯と結婚する」
「僕は紅兄さまがずっと独り身でいるんじゃないかって心配だったんだ。恋愛に興味がなさそうだったから。あやかしの娘や貴族の娘の見合い話を持ってきたのは、紹介するならまずそういう縁談になったからってだけで、兄さまが愛したひとが何より一番に決まってる。紅兄さま、硯、婚約おめでとう。しかし、まさか兄さまがそこまで惚れ込むとはね。硯、君はどんなに魅力的な女性なんだい?」
「硯に手を出したら、尊と言えども容赦しないぞ」
「大丈夫だよ、紅兄さまの大事な人に手を出すなんて命知らずすぎるでしょ。それに僕にだって愛する奥方がいる。でも硯、僕は君の義弟になるわけだから、これからは姉弟としてよろしくね」
「そ、そんな。えっと……よろしくお願いいたします……」
帝が義理の弟なんて……。
目の前で起こっていることが、信じられない。
「そして硯、紅兄さまと結婚するということは、京に来て生活してもらうことになる。大丈夫かい?」
「え、みっ……京ですか?」
「うん。紅兄さまは普段は京の、僕の住まいの裏に暮らしているんだよ。白き蛇の一族は、むかしから帝の一族と仲がよくてね。いっしょにこの国をつくってきたと言っても過言ではない。帝の一族の子どもと白き蛇の一族の子どもは、義兄弟として育つ。帝は表から、白き蛇の一族は裏から、この国を治める。それが伝統なんだ」
「そうだったのですか……」
「そのなかでもとくに、紅兄さまは大層お強いので、大蛇の君という称号を得ているんだ。そしていまでは白き蛇の一族の長にもなっている。だから紅兄さまは、僕と同じくらい偉いんだよ」
化け狐は、大蛇の君という言葉を知っていた。
あやかしの間でも、紅は有名なのかもしれない……。
紅が、私に優しく語りかけてくる。
「京での生活は何も心配しなくていい。この俺の花嫁だ。みなが硯を大切にする。この俺を扱うように、硯を扱うよう、おふれを出す。様々な者に会うことになるが、ゆっくり挨拶していけばいい」
「はい……ありがとうございます、紅。高貴な方々に、私がうまく振る舞えるかわかりませんが……」
「硯はとても明るいから、みな気に入るだろう。それに傷ついて倒れていた俺の恩人でもある。何より、いつも俺がついている。何も心配しなくていい」
紅がいてくれるなら……きっと、大丈夫だ。
「それじゃあ紅兄さま、そろそろ京に戻る? 悪神討伐の成果はあとで詳しく聞かせてもらうとしても――まあ、大丈夫そうだね、このあたりはもう。風が清くなっているよ。水も清くなったのだろうね」
「苦戦したが、しっかり倒しておいた」
「ありがとう。いつも助かるよ、兄さま」
「硯。行こうか。何か持っていきたいものはあるか?」
「え、えっと」
持って行きたい「物」はないのだけれど……お願いしたいことならある。
口を開こうとしたときだった――。
「……信じない」
清が、立ち上がった。
「信じないわよ。私は。こんなの、ただの茶番だわ。――硯が帝の兄に嫁ぐですって? そんなの、ありえない。……だって硯は忌み子ですもの。この村で最も身分が低いのよ」
なにかを言おうとしたおつきの人を、紅は制した。
「ここは俺に任せてくれないか」
「はっ。紅さまがそのようにおっしゃるのであれば……」
ぎろりと、おつきの人は清を睨んでから下がる。
でも、清は……睨まれたことにすら、気づいていないようだった。
血走った目で、私だけを睨み続けているからだ。
「硯には、私は何をしてもいいの。どんな目に遭わせてもいいの。それで私はすっきりするのよ。……だって硯は私に絶対に逆らえない! そういう存在のはず。そして、そういう存在のまま、今日! 水害を治めるために、生贄に捧げられようとしていたのよ!」
「……水害ならばもう起こらない。三日前に、元凶の悪神を俺が倒したからな」
「生贄に! 硯を、このまま、生贄に! 硯が幸せになるなんて許せないっ。私より幸せになるなんて、この私が絶対に許さないんだからっ! ――ねえまもり神さま!」
「……もう……やめてくれ……わたしが悪かったから……森に帰らせてくれえ……」
「――この役立たずっ! よくも騙してくれたわね。地獄に堕ちろ!」
清は化け狐を思い切り蹴り飛ばして、化け狐は呻いた。
清は急に黙り込むと、不自然に笑顔をつくって、上目遣いで紅を見た。
「……私、知らなかったんです。貴方さまがやんごとなき方であることも。まもり神が化け狐だったことも。私はこの村の次期村長だから……この村のことを考えて、生贄を捧げようとしただけなんです……ところでっ」
清は、両手を合わせて頬の横に添えた。
「硯でいいんだったら、私にしたほうがいいですよ? 私と硯って、顔はほとんど一緒なんですけど、私のほうがよく肌のお手入れしているぶん肌がきれいだし、おしゃれのこともわかっているし。そいつなんて肌ががさがさだし、死に装束をずっと着せられてきたような女ですよ? きっと貴方さまを楽しませることができません。私のほうがいいですよ、そんな女より――」
「汚い口で俺の愛する硯を汚すな」
紅は、私には一度も向けたことのない、おそろしい声色で――清の言葉を、遮った。
「――なっ、汚いですって。私が? 汚い? そんなわけないでしょう! その女のほうがずっと汚いです。あーあ、いったいどんな手を使って男に近づいたんだか!」
「……清、もう、やめなさい」
気がつけば、次期村長が清を押さえつけ、土下座させようとしていた。
「娘が大変な無礼を。申し訳ありません。この娘は本当にわがままでして。もう一度教育し直します。どうかご容赦を」
「なに言ってるの父さま? 私のせいじゃないでしょう?」
「この村の未来を考えるなら、お願いだからいますぐ大人しくしてくれ……!」
「そうよ清。これ以上、父さまと母さまを困らせないで」
ひざまずいたまま、声を震わせて、次期村長の奥様――私の生みの母親が言う。
「私は産むときに間違えた。忌み子はきっとあなたのほうだったんだわ、清」
「――うるさい! そんなわけないじゃない、うるさい、うるさい、うるさい!」
「硯。いままでごめんなさいね。母さまは本当はあなたを愛していたの。けれど、村の風習に従って、仕方なく……」
「そうだぞ硯。わしらはずっとおまえの身を案じていたんだ。おまえを仕方なく忌み子にしたが、心配で心配でたまらなかった」
「そうよ。私は清なんかより硯のほうを愛していたのよ。いつも清にいじめられているあなたが、母さまはずっと不憫で……」
ああ。こんな言葉。……このひとたちに、かけられるの、初めてだ。
「私が清にいじめられていたこと、知っていたんですね」
私の声は、自分でも驚くほど、冷たく響いた。
「……村の決まりで、双子の先に出てきたほうが忌み子になるのは、わかってます。でも……そんな嘘を、今更っ……言われたって……」
私は、またしても涙を流してしまった――自分のなかに、悲しみがたまっていることすら、いままで気づいていなかった。
「……硯を泣かせたな。水淵村をいますぐ滅ぼしてやろうか」
「申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません。それだけは何卒ご容赦を」
次期村長は紅の前にひれ伏し、その妻も、同じようにした。
しかし、清は――。
「ふざけないでっ――」
紅に――いや、紅に抱きかかえられている私に、拳を振り上げた。
紅は清の攻撃を軽くかわし、私をひらりと背中に下ろしてかばうと、赤子の手をひねるように地面に打ち付けた。
「ふざけるな。俺の愛する硯を傷つけようとする奴は、この俺が絶対に許さない」
「紅兄さまの婚約者に手を出すなんてね。大罪人だ。捕まえてくれ」
おつきの人々が一斉に清を捕らえる。
「離して、離してよっ。硯を殺してやる! 幸せになる前に!」
「硯。大丈夫か?」
紅はすっかり呆れていたようだったが、私に向かっては本当に案じる目をして、気遣うように尋ねてくれる。
「どうする、硯。この村を根絶やしにしたほうがすっきりするなら、そうするが」
次期村長やその妻、私を蔑んでいた村人たちが、ひっと喉元をひきつらせるのがわかった。
……正直なところ。
恨む気持ちがないと言えば、嘘になる。
このひとたちにされてきたことを思えば……。
でも……。
「大丈夫です。どんな理由があろうとも、他人を傷つけたくはないから」
私も、忌み子っていう、この村ではあきらかに正当な理由があったって……やっぱり、傷つけられたくは、なかったのだから。
「そうか。硯は……優しいな」
「ありがとう、わが愛娘、硯!」
「ありがとうありがとう、やっぱりあなたは自慢の娘よ!」
急に私を拝み始める次期村長とその妻を、紅はぎろりと睨む。
「調子に乗るな。……硯、この村を滅ぼしたくなったら、俺がいつでも滅ぼすからな。いつでも言うがよい」
「す、硯、そうだ結婚祝いをやらねばな。なにがいい? 村にあるものならなんでも持っていきなさい」
「そ、そうね、母さまが持ってる指輪なんかどう? 宝石もあるわよ」
「……こんな村にあるような物はたかが知れてると思うけどね」
帝もさすがに呆れたようで、ぼそりとつぶやくようにそう言った。
「物は何も要りません。でも……」
私は、ひざまずく村人たちのなか――私から少し離れたところにいるあやと、そのもっと後ろにいるあやの一家を、見た。
「あや。そして、あやのご家族のみなさま。……顔を上げてくれませんか」
あやと、あやの家族は、そうしてくれたのだけれど――顔を上げたあやは、だくだく泣いていた。
「怖かったですね、あや。私のせいでごめんなさい。もう大丈夫です」
「違うんです、硯さまがやっと幸せになれるんだって、もう嬉しくて嬉しくて。硯さま。おめでとうございます。一緒にいられなくなるのは、寂しいですけど……どうぞお幸せになってくださいね」
「えっと、それがですね……あの、紅。願いというのは、あやたちのことなんです」
「なんでも言ってみろ」
「私はあやにすっごくお世話になっていて。あやのご家族にも、さりげなく食べ物をもらったり、お世話になってたんです……だから、あやたちといっしょに京に行くことはできませんか? あっ、もちろん、あやとご家族のみなさまがよろしければなんですが……」
「まったく問題ない。硯の信頼できる人間は、いくらでもそばに置いておくとよい」
「そ、そ、そんな」
あやはびっくりしていた。
「あたしたちは、その……すっごく、ありがたいです。だって……」
あやは、ちらりと後ろにいるご家族をうかがった。
お父さんらしき人が、口を開く。
「……お恥ずかしながら、わたくしたちは京で借金をつくった身。いつか京に戻ることを夢見て、この村で働いておりました。ですので、願ってもないお話で……ぜひ、娘のあや共々、これからは硯さまにお仕えさせていただけないでしょうか」
「どうだ、硯」
「そ、そんな、私なんかに仕えるなんて……でも、一緒に京に行けるなら嬉しいです。あやは、私の本当の妹みたいな存在ですから……」
「硯さま……ぜひ、これからもお仕えさせていただきたいです!」
「あやがそう言ってくれるなら……これからもそばにいてほしいです」
「であれば、決まりだな」
紅は微笑ましそうな顔をしていて、あやと私は、ちょっと照れたように顔を見合わせて笑った。
「紅兄さまの花嫁のためなら、京の財源から出すべきお金だ。彼らの借金は支払っておこう。でも兄さま、ちょっと身分が問題だね。他でもない、紅兄さまの花嫁のそば仕えなんだから、中途半端な身分ではいけない。そうだ、大臣家の養子にしようか。一家ごと」
「それはいい。ぜひそうしてくれ」
「だ、だ、大臣家……」
あやとあやの家族は、全員で目を白黒させていた。
とても似ていて、思わずおかしな気持ちになってしまう。
そして、紅は押さえつけられている清をぎろりと睨む。
「清とかいう、俺の愛する硯を傷つけたやつは……どうしてやろうか」
「罰として、最も身分の低い女中として御所で仕えさせるのはどうかな。平民であっても、罪でもなくてはその身分にはならない。最も下の身分から始め、その性根をたたき直すといいよ。……この手の者には、簡単に死罪にするよりも効くんじゃない? まあもちろん、もう一度でも同じことをしたら、今度こそ死罪だけどね」
「それもいいかもしれないが、硯、それで気持ちは収まるか?」
「はい、私は……殺してほしいとまでは、思ってませんから」
私自身が、いまさっきまで、殺されようとしていたから……。
清には複雑な気持ちがあるけれど、殺してほしい、とは言えない。
「硯に免じて、機会を与えよう。もう一度でも硯を傷つけたら、そのときには命はないものと思え」
「はあ? ふざけないでっ――」
「口を慎め! 帝と、紅さまと硯さまの御前であらせられるぞ!」
「なにが硯さまよっ――」
更になにか言おうとした清は、手で口を押さえられた。
「……兄さま、あれは教育がなかなか大変そうだね。厳しい女官を手配しておくよ」
「そうしてくれ」
「そして、まもり神を騙った化け狐もだ」
ひっ、と化け狐は声をひきつらせた。
「まもり神というのは神聖な存在。騙るなんて、とんでもないことだ。清とともに下働きをさせ、根性を叩き直そう」
「そ、そんなあ……」
情けない声を上げる化け狐を、おつきの人たちは容赦なく捕らえた。
「さて、ではこの村の問題はこんなものでいいかな。連れていくのは、大臣家の養子になるあの一家と……罪人ふたりだけでいいんだね、紅兄さま」
「ああ。手数をかけたな。……硯、待たせた」
紅は、私を優しくふわりと抱き上げる。
「べ、紅……」
「こうして抱き上げるのが癖になってしまいそうだ」
「そ、そんな……」
……私も、こうやって抱き上げられるの、まんざらではないけど……。
なんだか、照れちゃって。ふわふわしちゃって。……しあわせだ。
「紅さまっ!」
歩き出した紅の背中に、水淵村の村長から声がかかる。
「これにて今回のことは……不問にしていただけるでしょうか……」
「けがらわしい。俺の呼び名をその口で呼ぶな。……大蛇の君の花嫁を虐げ続けた不名誉な村として、この村の名は残るだろう」
そんな、と崩れ落ちる村長や村人たちが、とても、とても小さく見えた。
紅は、私を大事に抱きかかえたまま、馬車に乗るために歩き出す。
風が吹く。澄んだ風が。……昨日と同じはずなのに、まったく違ったように感じる、新鮮な風が。
まるで私たちを祝福してくれているかのように――。
「硯。愛している。硯。大好きだ。俺が初めて愛した相手が、硯で、本当によかった。……幸せになろう。ずっとずっと、いっしょにいよう。これまでのぶんも、俺がいっぱい幸せにしてやりたい」
「はい、私も」
紅の愛おしさに、私の笑顔は、本心から弾けた。
「紅と、幸せになりたいです」
実はもう……その願いは、かなえられてしまっているのだけれども。