大蛇の君の初恋は、忌み子として虐げられていた少女でした。

 そんなかけがえのない時も、束の間。

 翌朝、私たちは、息を切らして駆け込んできたあやに起こされた。
 まだずいぶん早い時間だった――日も昇りきっていないほどの。

「こんな早くからすみません、で、でも、た、た、大変なんです、す、す、硯さま……硯さまっ……!」
「あや。どうしましたか。まずは落ち着いてください」

 完全に混乱しているあやを座敷牢のまだきれいな畳の上に座らせて、肩をさする。

「す、す、すみません、あ、あたし……あたしがこんなんじゃいけないのに……」
「大丈夫ですよ。ゆっくり話してください」
「す、す、硯さま……硯さまが、いけにえっ――」
「……男を連れ込んでいたなんて。まさかと思ったのだけど、本当だったとはね」

 地を這うような冷たい声。
 あやは息を呑み、私の鼓動はこの上なくうるさく、速くなる。

 がたがた震えるあやを胸にかばって、ゆっくり振り向くと――そこには、清がいた。

 どうして……こんなに早く来たことなんて、これまでなかったのに。

 その後ろには、まもり神さまもいて。
 にんまりと笑いながら、清の肩を抱く。
 清は唇を尖らせ、甘えるようにまもり神さまを見上げた。

「ねえ、ひどいわね、硯ったら。こんなに淫らな女だと思わなかった」
「逆に好都合だよ、清。これでもっと村人も説得しやすくなる」
「生贄に捧げる前に、硯に罰を与えることは可能? 厳罰よ。生きたまま皮を剥ぐのなんかどうかしら?」

 私の胸のなかで、ひっ、とあやは声を漏らした。

「そうそう、この裏切り者の女中もね。働き者だから信用していたのだけど、まさか忌み子の味方だったとはね。私たちの話を盗み聞きしていたあんたが飛び出ていくのを、まもり神さまが気がついてくださったのよ。今度はもっと上手にやりなさいね、……まあ今度なんて二度と来ないでしょうけど。とんでもない女だわ。殺してあげましょうね」

 あやは震えながら、ぼろぼろ涙を流し始める。

「そしてもちろん、不届き者の男もね――」
「……逃げてください。紅」

 私は、彼に向かって言った。
 あやをいま一人で逃がすのは、逆に危険だ。非力な少女ひとり、村人たちが追いかけて殺すことなんて、わけもないだろうから。

 でも、紅はこの村の者ではない。
 蛇に変身することもできるし、帰るべきところに帰れば、助けてもらえるかもしれない。

 どちらにしろここにいたら、殺されるだけ……。

 私たちの村のくだらない風習で、紅を殺させるわけにはいかない!
「早く。紅。早くっ――!」
「硯の言うことは、できる限りかなえたい。だから前回は隠れていた。だが、それは過ちだった。ときには硯の大事な言葉に背いてでも、守らねばならないのだな。……人間の機微を俺はこれからもっと学ばねばならないようだ」

 紅は、視線をちょっとうつむき加減に――そのままゆっくりと立ち上がって、ゆらりと、清、ではなくまもり神さまを見た。

 ――その迫力に、ぞっとする。
 これまで見たことのない、彼の迫力。
 背後から紅い炎が立ちのぼっているかのようで……。

 このひとはあやかしなんだ、と。
 初めて実感として、思った。

「……稲荷の化身と申したな?」
「……なんだ、おまえは。白い髪に紅い瞳。子鬼か何かか」

 まもり神さまは警戒した様子で、清を抱き寄せる。

「俺を知らないとは。田舎者にも程がある。――こう言えばわかるか? 白の大蛇である、と」
「……へ?」

 まもり神さまはぽかんとしたあと、急に青ざめた。

「……し、し、白の大蛇。ま、ま、まさか……大蛇の君……?」
「田舎者でも聞いたことくらいはあったか」

 呆れたように、紅は言う。

「う、う、うそだ。なんで大蛇の君が、こんな寂れた田舎の農村に。そうか! 下級の狐か狸が化けているのだろう。た、大蛇の君がこんなところにいらっしゃるなんて……そんな……そんなわけない!」
「疑うのであれば戦ってみるか?」

 紅は右手をまっすぐに突き出す。
 その拳は、少しずつ紅く燃え――なのに紅はちっとも熱そうではない。

「……ひいいっ。な、なんだ強烈なこの力は」

 私たちにはなにもわからないのだけれど――まもり神さまは、なにか感じとっているようだった。

「ちょっと力を出しただけでそれか」
「わ、わかりました、こんな妖力を出せるあやかしが、ただものなわけないっ。わかりましたから、そのお力をお納めください、ば、化け術が剥がれてしまう、し、死ぬ……」

 紅は呆れたように息をついて、拳の炎を消して引っ込めた。

「俺は悪神退治も請け負っていてな。人間たちの平和になぞそこまで興味はないのだが、可愛い弟のためだ。各地で悪さをするようになった神――悪神を退治して回っている。……この村の近くの水源には、ずっと悪神がいた。水底の深きところにいたから水害程度で済んだのだろうが、とんでもない力を持ったやつだった」
「……じゃ、じゃあ、もしや三日前の雷雨も」
「その悪神と俺が戦っていたからだ。悪神の最後の悪あがきだったみたいだな。……で?」

 紅は、まもり神さまを睨む。

「俺はたしかに白の大蛇だが。おまえは何なんだ? 二年前から村のまもり神になったと言っていたな。しかし、まもり神であるためには当然神であらねばならないのに、神の気配がしない。悪神も放っておいている。おまえはいったい――何なんだ?」
「わ、わたしは……」

 まもり神さまは、がたがたと震えだした。

「ねえ、まもり神さま、どういうことなんですか? まもり神さまは、神さまなんですよね。この村をずっと守っていってくださるんですよね?」

 清がまもり神さまの腕を取って、すがりつく。
 しかしまもり神さまは、清の腕を乱暴に振り払った。

「うるさい。いまそれどころじゃないんだ」

 清は呆然としていた。
 乱暴を受けたことなんて……人生で、初めてだったのかもしれない。

 そしてまもり神さまは、目にも留まらぬ速さで、あっというまに――その場に土下座した。

「わたくしめは、名もなきしがない化け狐ですっ。ちょっとした出来心で。このように寂れた農村であれば騙せると思い、まもり神を騙り、この村のやつらを騙していたのです」
「他には何かしたか」
「蛇が穢れたものだと教えたのもわたくしです。自分よりも上位の御方の力をおそれ、危険となりうる存在はすべて穢らわしいと教えたのです。蛇の御方は力が強いですから。悪いことをいたしました。申し訳ありません、申し訳ありません、お許しくださいまし」
「それは別にいい。他に――何かしなかったか? 硯に対してひどいことをしなかったか?」

 清が急にはっと我に返ったかのように、まもり神さまの腕に無理やりすがりつく。

「ちょ、ちょっとなにしてるんですか、まもり神さま! こんな、不届き者の男に、なんで謝ってるんですか?」
「口を慎めえ! この御方は、絶大な力を持たれる大蛇の君さまだ!」
「な、なにをおっしゃっているの……? ねえみんな来て、大変、大変なの! 人を呼んで!」

 そして、村じゅうを巻き込んで、大きな騒ぎになる。
 紅は、深くため息を吐いていた。

 村人たちは集まってくるけれど、私の座敷牢にはとてもそんな大人数は入らない。
 加えて、座敷牢に集まるのは縁起が悪いということで――私は特別に座敷牢からの外出を許可され、紅とあやとともに、村人たちのいる広場へ向かうことになった。
 広場には、数十人が集まっていた。
 村人たちはほとんどいるだろう。

 私の生みの両親――蓮池家の現当主とその奥方が、私たちを待ち構えていた。
 ずいぶん久しぶりに二人の顔を見たけれど……だいぶ老けたみたいだった。

 広場の中心に立つのは、私と紅とあや、まもり神さまと清。

 ほとんどの村人が私を忌まわしげに見ていたけれど、後ろのほうであやを心配そうに見ている一家だけは、私と目が合うと何度も頭を下げてきた。

 初めてお顔を見るけど、たぶん、あやの家族だ……。
 優しそうな雰囲気が、みんなあやと似ている。

 申し訳ない。謝っても謝り足りない。私のせいで、あやがこんな目に……。
 私は、あやの一家に深く頭を下げた。それくらいしか、今はできなかった。

 蓮池家の現当主は、腕組みをして尊大に言い出す。

「どういうことなんだ、清。生贄は空気の清浄な朝のうちに捧げたかった。おまえが生贄を連れてくると言うから、私たちは任せたのだが」
「私はうまくやったわよ! でもね父さま、忌み子は男を連れ込んでいたの。村人から昨晩通告を受けたのよ。忌み子の座敷牢から男と女の笑い声が聞こえてきたって。それでね、忌み子ったら、本当に男を連れ込んでいたの。だから生贄に捧げる前に厳罰に処しましょう? いっぱい苦しめて、殺しましょうよ!」
「まったくおまえは、いつも話したいことから話す……生贄というのは、生きたまま捧げるから意味があるのだ。私たちの手でそれを殺してしまうわけにはいかない」

 厳罰でも生贄でも、……なんでもいいのだけれど。
 どちらにせよ、私のことを相変わらずまったく何ひとつ大事になど思っていないのは――よく伝わってきた。

「……硯を生贄にしようとしていたのは、おまえたちか」
「なんだ、この男は――」
「忌み子と過ごしていた不届き者よ。さっきから、わけのわかんないことばっかり言ってるの――」
「この御方は大蛇の君だ!」

 まもり神さまが叫ぶ。

「……これはこれは、まもり神さま。まもり神さまは、この男とお知り合いなのですかな?」
「知り合い? とんでもない。このように強力な御方と知り合いと称するなど、あまりに畏れ多い。――みなこの御方にひざまずけい!」

 まもり神さまは、両手を上げる。
 村人たちは、ざわざわとし始めた。
 現当主は、眉をひそめる。

「申し訳ありません、まもり神さま。もう少々、説明していただいてよろしいですかな?」

 まもり神さまは、さきほど座敷牢で起こったことを説明した。
 自分は本当は下級の化け狐であるとも言っていた。
 早口でまくし立てていたけれど、その話の意味は村人に通じていたようだった。

 話を聞き終えたとき、現当主の顔は真っ青になっていた。

「……それでは……まもり神さまは、村のまもり神ではなく……ただの狐で……我々を、騙していたと……?」
「うそよ、そんなの、悪い冗談よね。……ねっ?」

 清の言葉に応えず、まもり神さまはまたしても土下座した――村人たちにではなく、紅に向かって。

「お見逃しください。ほんの出来心だったのです。この村の人間たちなどどうなってもいいですから」
「私は? 私は、どうなるの?」
「うるさい、うるさい、うるさい! おまえなど利用しただけだ。御しやすそうだったからな――!」

 まもり神さま……いや、化け狐は土下座したまま叫ぶ。
 清の顔は歪み、真っ赤になる。

「……まったく騒々しい。話はそれですべてか、狐?」
「はい、それはもう」
「では改めて問う。硯を、生贄として捧げようと決めたのは、おまえたちか――?」

 そのとき。
 遠くから……馬車で大人数がやってくる音が、聞こえてきた。
 やってきたのは、ずいぶん豪華な……雅なご一行だった。
 いっぱい人がいる……。

 先頭の白馬に乗った、黒く細長い冠を被って濃い紫色の衣をまとった少年が、おーいおーいと言いながら手を振っている。
 少年の周りでは、強そうな人々が守りを固めている。

「ああ、いたいた、紅兄さま、心配したよ」

 少年はひらりと地面に降り立つ。

 村人たちが小声で話しているのが、聞くともなしに聞こえてくる。

「紫色は禁色……もっとも高貴な御方しか身につけることができないはず」
「それでは、あの少年はもしや……?」
「今上の帝は確かまだ十四だとか。噂によれば、奔放で、少年の面影をまだ残されているとか……」

 強そうな男の人が、張りのある声で言う。

「帝の御前であらせられるぞ。頭が高い! 控えよ!」

 ……帝?
 文字通りの雲上人が――どうして、私たちの村に?

 でも、どう見てもこの方々はやんごとなき一行で。
 禁色を身につけている少年は、気品からして、ただものではないことが感じられた。

 村長である現当主がひざまずいて、村人たちも一斉にそうした。
 私も当然、そうしようとしたのだけれど……。

「硯はいい」

 紅が私の腕を持って、そのまま立たせてくれた。

「えっ、でも……無礼です」
「この者は俺の大事な者だ」

 紅が、ご一行にひとこと言うと……むしろご一行のみなさまが私にひざまずいて挨拶をしてきて、私は慌てた。

「そ、そ、そんな、人違いではないですか」

 私の混乱もよそに。
 重厚な衣をものともせず、少年……帝は紅のもとに駆け寄った。
 紅に比べると背の低い帝が抱きついてくるのを、紅は受け止める。

(みこと)。なぜここに?」
「なぜじゃないよ。京を発たれてから七日しても戻ってこないんだもん。心配で探しに来ちゃったよ」
「忙しいだろうに」
「兄さまの命には替えられないよ」
「よくここがわかったな」
「もう、しらみつぶし。たしか今回の旅はあっちの方向だったから、って。でもさっき、兄さま、ちょっと妖力使われたでしょう?」
「ああ、少しだけな」
「僕は普通の人間で、むかしの帝みたいに妖力を操ることはできないけど、妖力を感じとるくらいできるんだから」
「知ってる、知ってる」

 紅は苦笑しながら帝の頭を撫でる。
 もしかしてだけど、紅の言ってた弟って、もしかして……。
 帝は、扇で口もとを隠す。

「それで、ふふ……兄さま、そちらの方は?」
「ああ、硯といって、悪神討伐で弱っていた俺を助けてくれた」
「そうなの。硯、礼を言う。紅は我らにとって、国にとって大事な者。褒美を取らせよう。なにがいい?」
「そ、そんな。とんでもありません」

 私はひざまずこうとした。
 でも、紅がそんな私の腕を取って……私の肩を両手で優しく包むようにして私を立たせて、真剣な顔で、私を見てくる。

 もう逃げない、と紅がつぶやいたような気がした。

「硯。俺は、硯が好きだ」

 真剣に、どこまでも強く、それでいてどこか悶えるように。
 紅は、人間離れした美しい顔と、すごく人間らしい表情で、私を、私だけを見つめていた。

「硯の笑顔が好きだ。もっと笑ってほしい。硯の話が好きだ。もっと聞きたい。硯が髪を掻き上げるところ……愛おしそうに笑うところ……優しいところ……すべてが、好きなんだ」

 紅は、必死に……言葉を紡いでいる。

「硯は、心も見た目も美しい。心の美しさに、見た目の美しさが呼応している。こんなに美しいひとを俺は初めて見た。……愛している。本当に、狂おしく……愛しているんだ。もう、硯と離れ離れになることなど、考えられない」
「紅……」

 私の顔からは、熱い涙があふれていた。

「……いやか。俺などでは。硯にふさわしくはないか」
「違います……まったく逆です。だって、だって……」

 ――だって。

「私も、あなたをお慕いしております……ずっといっしょにいたいと思ってます。これ以上いっしょにいたら、もっと好きになっちゃうと思っていたから。……好きだって気持ちを認めたら、別れがつらくなっちゃうから」

 期間限定の幸福だとばかり、思っていた。
 いずれは終わる夢なのだと……。
 紅には帰るところがあるし、私はいずれ生贄となって死ぬだけの忌み子。
 この秘めた思いが報われることなど、決してないのだと……。
 そうとばかり、思っていたのに……。

「好き……紅、大好きです」

 言葉に、想いが、すべてあふれた。

 紅は、私を抱きしめた。
 私もその身体を抱き締め返す。

「では、俺の花嫁になってくれるか」
「もちろん、喜んで……!」

 信じられない。
 こんな私が。
 生まれたときから忌み子として宿命づけられていた私が。

 すきなひとと、結ばれるなんて。

 でも、紅の身体のあったかさは、愛おしさは……紛れもなく、ほんものだった。
 紅は、私の身体を抱き上げる。
 お姫さま抱っこ……。
 ちょっと恥ずかしかったけど、すぐそばで紅が嬉しそうに微笑んでくれるものだから、なすがままになっていた。

 村人たちは、ずっとひざまずいて動かない。
 まもり神さまを騙ってた化け狐は、震えながら土下座したままだ……。

「そういうわけだ、尊。俺は硯を愛しているんだ。もう俺には、硯以外考えられない。結婚するならあやかしの娘か貴族の娘ということだったが、俺は絶対に、硯と結婚する」
「僕は紅兄さまがずっと独り身でいるんじゃないかって心配だったんだ。恋愛に興味がなさそうだったから。あやかしの娘や貴族の娘の見合い話を持ってきたのは、紹介するならまずそういう縁談になったからってだけで、兄さまが愛したひとが何より一番に決まってる。紅兄さま、硯、婚約おめでとう。しかし、まさか兄さまがそこまで惚れ込むとはね。硯、君はどんなに魅力的な女性なんだい?」
「硯に手を出したら、尊と言えども容赦しないぞ」
「大丈夫だよ、紅兄さまの大事な人に手を出すなんて命知らずすぎるでしょ。それに僕にだって愛する奥方がいる。でも硯、僕は君の義弟になるわけだから、これからは姉弟としてよろしくね」
「そ、そんな。えっと……よろしくお願いいたします……」

 帝が義理の弟なんて……。
 目の前で起こっていることが、信じられない。

「そして硯、紅兄さまと結婚するということは、京に来て生活してもらうことになる。大丈夫かい?」
「え、みっ……京ですか?」
「うん。紅兄さまは普段は京の、僕の住まいの裏に暮らしているんだよ。白き蛇の一族は、むかしから帝の一族と仲がよくてね。いっしょにこの国をつくってきたと言っても過言ではない。帝の一族の子どもと白き蛇の一族の子どもは、義兄弟として育つ。帝は表から、白き蛇の一族は裏から、この国を治める。それが伝統なんだ」
「そうだったのですか……」
「そのなかでもとくに、紅兄さまは大層お強いので、大蛇の君という称号を得ているんだ。そしていまでは白き蛇の一族の長にもなっている。だから紅兄さまは、僕と同じくらい偉いんだよ」

 化け狐は、大蛇の君という言葉を知っていた。
 あやかしの間でも、紅は有名なのかもしれない……。

 紅が、私に優しく語りかけてくる。

「京での生活は何も心配しなくていい。この俺の花嫁だ。みなが硯を大切にする。この俺を扱うように、硯を扱うよう、おふれを出す。様々な者に会うことになるが、ゆっくり挨拶していけばいい」
「はい……ありがとうございます、紅。高貴な方々に、私がうまく振る舞えるかわかりませんが……」
「硯はとても明るいから、みな気に入るだろう。それに傷ついて倒れていた俺の恩人でもある。何より、いつも俺がついている。何も心配しなくていい」

 紅がいてくれるなら……きっと、大丈夫だ。

「それじゃあ紅兄さま、そろそろ京に戻る? 悪神討伐の成果はあとで詳しく聞かせてもらうとしても――まあ、大丈夫そうだね、このあたりはもう。風が清くなっているよ。水も清くなったのだろうね」
「苦戦したが、しっかり倒しておいた」
「ありがとう。いつも助かるよ、兄さま」
「硯。行こうか。何か持っていきたいものはあるか?」
「え、えっと」

 持って行きたい「物」はないのだけれど……お願いしたいことならある。
 口を開こうとしたときだった――。
「……信じない」

 清が、立ち上がった。

「信じないわよ。私は。こんなの、ただの茶番だわ。――硯が帝の兄に嫁ぐですって? そんなの、ありえない。……だって硯は忌み子ですもの。この村で最も身分が低いのよ」

 なにかを言おうとしたおつきの人を、紅は制した。

「ここは俺に任せてくれないか」
「はっ。紅さまがそのようにおっしゃるのであれば……」

 ぎろりと、おつきの人は清を睨んでから下がる。
 でも、清は……睨まれたことにすら、気づいていないようだった。
 血走った目で、私だけを睨み続けているからだ。

「硯には、私は何をしてもいいの。どんな目に遭わせてもいいの。それで私はすっきりするのよ。……だって硯は私に絶対に逆らえない! そういう存在のはず。そして、そういう存在のまま、今日! 水害を治めるために、生贄に捧げられようとしていたのよ!」
「……水害ならばもう起こらない。三日前に、元凶の悪神を俺が倒したからな」
「生贄に! 硯を、このまま、生贄に! 硯が幸せになるなんて許せないっ。私より幸せになるなんて、この私が絶対に許さないんだからっ! ――ねえまもり神さま!」
「……もう……やめてくれ……わたしが悪かったから……森に帰らせてくれえ……」
「――この役立たずっ! よくも騙してくれたわね。地獄に堕ちろ!」

 清は化け狐を思い切り蹴り飛ばして、化け狐は呻いた。

 清は急に黙り込むと、不自然に笑顔をつくって、上目遣いで紅を見た。

「……私、知らなかったんです。貴方さまがやんごとなき方であることも。まもり神が化け狐だったことも。私はこの村の次期村長だから……この村のことを考えて、生贄を捧げようとしただけなんです……ところでっ」

 清は、両手を合わせて頬の横に添えた。

「硯でいいんだったら、私にしたほうがいいですよ? 私と硯って、顔はほとんど一緒なんですけど、私のほうがよく肌のお手入れしているぶん肌がきれいだし、おしゃれのこともわかっているし。そいつなんて肌ががさがさだし、死に装束をずっと着せられてきたような女ですよ? きっと貴方さまを楽しませることができません。私のほうがいいですよ、そんな女より――」
「汚い口で俺の愛する硯を汚すな」

 紅は、私には一度も向けたことのない、おそろしい声色で――清の言葉を、遮った。