「こういうときにはどうすればいいのか……まったく……弟にもっと聞いておけばよかった」
「弟さんが、いらっしゃるのですね」
「ん? ……ああ。血のつながりこそないが、俺の大事な弟だ。このあいだ結婚した」
「あら、おめでとうございます」
蛇の弟さんだから……やっぱり、蛇なのだろうか?
蛇のあやかし同士も結婚をするのだな、と思ったら、なんだか和んだ。
「俺にもそろそろ結婚しろしろとうるさいのだが、結婚にはこれまで興味がなくてな……見合いもすべて断ってきたのだが……弟に言われると弱くてな。あいつの言うことを、俺は無視できない。他のやつの言うことなら気になどしないのだが」
「弟さんを大事にされているのですね。すてきです」
なんてことないことを言った直後、急に……彼は、咳込んだ。
「な、なにを言うんだ、いきなり」
心なしか、顔も赤くなってる気がする……。
大丈夫だろうか?
まだ傷が治りきっていないのかしら?
私は慌ててそばに寄る。
「大丈夫ですか。まだ傷が悪いですか。それとも、なにかが喉に詰まりましたか」
「い、いや……大丈夫だ。……ただ、すてきって言葉を言われただけで、こんなに破壊力があるとは……」
「破壊? ――なにか危険が迫っているのですか?」
「違う、違うんだ……その……」
彼の横顔は、熱でも出したように赤く染まっていた。
これは……。
「お風邪ですか。まだ傷が治りきっていないのですか」
怪我をして、衰弱していたのだから。
熱を出したっておかしくない。
「だ、だから、違うんだ。体調はもう大丈夫だ」
大きな声を出されたけれど、怖くなかった。
不思議だ。ふつうは、大きな声は、怖いだけなのに。
私は心配して、その顔を覗き込む。……悪い病気じゃないかしら?
顔を、彼は肘でかばった。
「すてき、と言われただけで、こんなに……」
「えっ? 申し訳ありません、いまなんて――」
うまく聞き取れなくて、私は聞き返したのだけど。
その言葉の続きを聞く前に、ふいに、足音が聞こえてきた。
ばたばた、と急ぐような足音。
私は一気に緊張する。……だれか、村人が来る?
とんとん、と小さく二回扉を叩いた後、どん、どんどん、と弾みをつけて大きく、三回。
この叩き方は、あやだ。
あやだったのはよかったけど、いま、座敷牢には――。
「あやです。硯さま。突然申し訳ありません」
「あっ、えっと、あや。いま少し取り込んでおりまして」
私の言葉は間に合わなかった。
あやは、座敷牢の扉を開けて、中に入ってきた。
きゃっ、とあやが声を出す。
「そ、そ、そ、その方は……え、え、ええと……?」
完全に混乱しているあやに、私は簡潔に説明した。
昨夜助けた蛇だと。
人間のすがたになって、いまここにいるのだと。
紅……さまは、無口に腕を組んでいたが、私の説明には相槌を打ってくれた。
「私の故郷でも、ひとのすがたをとるあやかしの方はいらっしゃいました。そういう方だったですね」
あやは、どうしてだろうか、なんとなく嬉しそうだったけど。
「すみません……あやかしさま、改めてまたゆっくりご挨拶させてください。硯さま。これから清さまがこちらにいらっしゃいます。それを、お伝えしようと思って……」
「――あの子が? また、こんなに早くに?」
清は、むかしからちょくちょく私の座敷牢にやってくる。
あやとはまったく違う目的で。
「はい……今朝も、村長さまと硯さまの言い争いになりまして。まもり神さまは硯さまのお味方をされたのですが……村長さまは、今朝はなかなか退かれず……」
「……それですっきりしないから、私のところに来るのですね」
私は、思わずため息をついた。
清は、なにか嫌なことがあったり疲れが溜まると、私のもとに来る。
八つ当たりに来るのだ。
「ありがとうございます、あや。いつも事前に伝えてくれて」
心の準備ができるだけで、どんなに助かっているだろうか。
「それは、いいんです、全然。えっと、硯さま、それと……手当の道具を念のためお戻しいただいたほうがいいかと思います」
「そうですね。万一でも清に見つかったら、あの子はうるさいですから」
私はこれから来るであろうつらい時を少しでも和らげようと、冗談めかした言い方をしてちょっと微笑む。
……これも、強がりだって、本当は心のどこかでわかっているけれど。
でも、手当の道具については気になることがひとつだけ。
私は、紅さまに尋ねる。
「本当に、お怪我は大丈夫なのですか? 手当の必要があれば……」
「もうすっかり大丈夫だ」
「そうですか。でも……あとで念のためにもう一度、傷を見せてくださいね。あや、すみませんけど、この方にまだお怪我があるようでしたら、後ほど手当の道具をもう一度お借りしてもいいですか」
「はい、もちろんです」
私はそんなやりとりをしながら、あやに手当の道具を返した。
「それと……そのう……清さまがいらっしゃるあいだ、そちらのお方は……」
「どうすればいいんだ?」
紅さまは、あやではなく私を見て困ったように言った。
途方に暮れたような顔がちょっと可愛く思えてしまって、私はふふっと笑う。
「蛇のすがたに戻ることはできますか」
「そうした方が、貴女にとって助かるんだな」
「そうですね。そうしていただけると助かります。そして出てこないように」
「わかった。……蛇に戻るところは見られたくないから、ちょっと外に出て、姿を変えて、戻ってくる」
彼は、あやの開けている扉から外に出ていった。
「あや、ありがとうございました。もう戻ったほうがいいですね。私のもとにいることが知られたら、大変なことになりますから」
「……硯さま……あたし、申し訳ありません、硯さまがいちばんつらいときにいつも、ご一緒できず」
「そんなのはよいのです。あやのせいではありません。ほら、早く戻ってください。私なら、大丈夫ですから」
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きそうな繰り返しながら、あやは座敷牢の鍵を二重に閉めて、駆け足で村へ戻っていった。
……あやが謝ることでは、ないのに。
音でわかる。
あやと清たちは、鉢合わせしなかったようだ……よかった。
だったら、私、今回も耐えられる。
しゃなりしゃなりと、鈴のふれあう音がする。
清が、守り主さまとともに――忌み山を、のぼってきている音だ。
しゃらん、しゃらん、しゃらん。
鈴の音は……どんどん近づいてくる……。
どくん、どくん、どくん。
胸が、早鐘のように鳴る。
紅さまは……蛇のすがたに戻れたかしら。
清たちに、見つかってしまわないといいけれど。
しゃらん、と音が止まった。
小屋の鍵が開いて、清が――あらわれた。
立派な着物を着て、立派な簪をつけた、私と血を分けたはずなのに似ても似つかない立場にいる、双子の妹。
となりには、まもり神さまがいらっしゃる。今日も、おきれいだけど――私には冷たい視線を向けていた。
そばには、おつきの村人たち。彼らは私を軽蔑した顔で見下ろしている。
私と彼らを隔たるものは、格子一枚。
私は、ほほえんで両手をつく。そして、そのまま頭を深く下げる。
座敷牢の格子越し、腕を組んで私を見下ろしている清に対して。
「お早う御座います、清さま」
「……ふん。今朝も土下座が似合っているわね、硯」
清の、侮蔑に満ちた声。
私の視界には腐りかけた畳しか映っていない。
許しが出るまで、顔を上げることはできないから。
畳を睨みつけることくらいは――私のささやかな自由として、……抵抗として、許されるかな。
「顔を上げて?」
清の声で、私は感謝を述べながら顔を上げる。
座敷牢の格子越しに、清の顔があった。
清は、きれいな着物を着ながら、作法を気にせずしゃがみ込んだのだ。
きらびやかで。
自由気ままで。
いつもだれかに命令していて。
この村はわがものとばかりに振る舞っていて。
そして……まもり神さまに、愛されている……大事に思われていて、大事に扱われている……。
ほんとうに、私とは真逆の運命……。
清は、すぐそこで目を見開いて私を見ている。
私は顔こそ上げたけど、両手はついたままだ。
清の顔は、それなりに整っていると思う。
あやに言わせれば、私と清の顔のつくりはそっくりなのだそう。
表情やたたずまいがあまりにも違うから、普段は別人のように見えるけど、ふとした瞬間の真顔なんかがとても似てる、と言っていた。
私には、まったく実感がない。
たぶん私は可愛くなどないから、可愛い顔の清と顔が似ているなんて、信じられない。
それに、顔がいくら可愛くても……私にとっての清は、可愛いなどと思うひまもない、恐ろしい存在だった。
「また、父さまと母さまに怒られたのよ。あんたはわがままだ、って。忌み子といっしょに生まれてきたからだ、って。……とんでもないわよね? あんたが生まれてきたばっかりに!」
清の両親ということは、私の生みの親でもあるのだけれど、彼らは私のことを自分の「子ども」だとは絶対に認めない。
忌み子、と呼び、最初からいてはならなかった者として扱っていると聞く。
清は、地団駄を踏む。
「お母様も……お父様も……うるさい村人たちも、いつも、いつも……私がわがままなのは忌み子の呪いだとか、挙句の果てには水害や不作を収められないのはやっぱり忌み子といっしょに生まれてきたからだとか、とんでもないことばっかり言って。でも、だとしたら私のせいじゃないわよね。あんたのせいよね」
清は頭を抱えてから、私を見た。
「ねえっ。あんたのせいよね?」
「……そうですね」
「そうよね? それなのに、なぜ私が責められなければならないの。どうして生きてるの。ねえどうして生き続けているのよ。 あんたがいなければ、私は忌み子の呪いがなんとかとか、言われなくてよかったのよ?」
……私も、思いますよ。
よく考えます。
どうして私は生き続けているんだろうな、って……。
「謝りなさい。謝りなさいよ! 生きてることを謝罪しなさい。生まれてきたことを謝罪しなさい!」
両手をついたまま、頭を下に向けていったとき。
小さな白い蛇が、こちらをうかがっていることに気がついた――紅さまだ。
紅さまは、威嚇するような目線を清に向けている。
――おやめください。紅さま。危ないですから。
私は紅さまと目が合ったとき、必死で、彼に伝えた。
清なら、小さな生き物を平気で殺してしまうだろう。
紅さまは私の言いたいことを感じとってくれたのか、威嚇をやめる。
「硯! どうしたの? 謝る方法も忘れてしまった?」
まずい。時間はあまりない。
――隠れていてください。お願いですから……。
紅さまは不服げに舌を何度か出し入れしたが、やがて納得してくれたのか、しゅるしゅると姿を消した。
私は急いで土下座を完成させる。
「生きていて、申し訳ありません。生まれてきて、申し訳ありません」
清は、大声で笑う。
「ああ滑稽。ああ惨め。胸がすっとするわ!」
清についてきた村人たちも、声を立てて笑っている。
……心だけ、死んでしまえれば楽だ。
辱めを受け続けながら、未来もなく恋をすることもなく生きる人生に、これからなんの希望があるのだろう。ただ生かされているだけだ。
私は忌み子。それはよく、わかったから。
こんな人生が続くくらいなら、もう殺してほしい。
そうしてひとしきり、私を辱めた後。
「清、穢れが移ってはいけないから、そろそろ出たほうがいい。少しはすっきりしたかい?」
「ええ、まもり神さま。忌み子もたまには、役に立ちます」
「清はこれからこの村を守っていく長になるんだ。使えるものはなんでも使ってしまえばいい。たとえそれが忌み子でもね」
清はまもり神さまに促されて、座敷牢を去っていった。
私には、彼らを笑顔で見送る義務がある。正座したまま。
最後はまた、土下座のように頭を下げるのだ。
まもり神さまは清の肩を優しく抱きながら、肩ごしに、私を冷たく一瞥した。
しゃらん、しゃらん、しゃらん。
鈴の音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は思わず安堵のため息を漏らしていた。
「あいつらは、何者だ」
「ひゃっ、べ、紅さま」
人のかたちに戻った紅さまが、胡坐で腕組みをして座っていた。
もっとも見られたくないところを、見られてしまったな。
よりによって清が来るなんて……。
私はつとめて明るく振る舞う。
「隠れていてくださって、ありがとうございます。窮屈な思いをさせてしまったかもしれませんね。大丈夫でしたか?」
「……それはこちらの台詞なんだがな」
紅さまは、困ったようにそっぽを向いた。
なにか言葉を選んで……迷っているようで……でも見つからなかったようで、髪を片手でぐしゃぐしゃとしてからこちらに向き直った。
その表情は、私を、……私なんかを心配してくれているかのようだった。
「……で、何者なんだ」
私は説明した。
清は私の双子の妹で、水淵村の次期村長であること。
そしてまもり神さま――「稲荷の化身」だという妖仙さまは、二年前にあらわれて、この村を豊かにすると約束してくださったこと。
水害と不作の長く続いていたこの村では、まもり神さまの存在は大層歓迎されたこと。
そんな妖仙さまが清を見初めて婚約したものだから、この村はもう安泰だと、みんなが喜んでいること……。
紅さまは腕組みをしたまま、ときに相槌を打ちながら、私の話を聞いていた。
「そうか、なるほど」
紅さまは、なにか考え込んでいるようだった。
「それで、そのまもり神とやらが来てから、水害や不作というのはよくなったのか?」
「いえ、それはまだ……。でも、これからだってまもり神さまはおっしゃっているようです。そんなにすぐには水害や不作はよくならないって」
「長く続いているのだよな」
「もう五年になるでしょうか……」
「そんなに続いていて、この村の食糧は続いているのか。見たところ、小さな村だ。そんなに豊かだとも思えない」
「それが、そろそろ本当に備蓄が尽きてしまうみたいで……。村人たちはずいぶん我慢を強いられているようです」
そうか、と紅さまは言った。
「そこまで村が貧しているのに、贅沢をする余裕はあるのだな」
「贅沢、ですか?」
「次期村長だというあの娘だ。贅沢な着物を着ていた」
「清は、特別ですから。彼女の品位が村の品位につながるとのことです」
「食事も贅沢をしているのか」
「それでいいのか?」
「と、いいますと……」
「村人たちが満足に食べられないのだろう。それなのに、長は贅沢をしている。それでいいのか」
「……私が意見することではありませんから」
「意見するとしたら。どう思う」
「……そうですね。やっぱり、みんなが満足に食べられたほうが、いいと思います。……おなかがすくのはつらいですから」
私は、誤魔化すように肩をすくめて笑ってみせたけど。
空腹がつらい、というのを私は身をもって体感している。そもそも、施しがなければ今日の食事にもありつけない身。
飢え死にしかけたことも、一度や二度ではない。
「あやも……あ、えっと、手当の道具を持ってきてくれた子です。彼女はこの村で唯一私の味方なんですけど……あやも、最近はろくに食べ物がないってよく言ってます。家族がみんな満足に食べるのはとてもとても無理だから、弟や、おばあちゃんから食べさせてるって。でもそれもいつまで続くか……」
話していて、申し訳なくなっていた。
そんな状況なのに、あやとあやの家族は、私に食べ物を分け与えてくれているのだ……。
「私の食事は村でもっとも貧しいものですが、それでも生き長らえる程度には、もらってしまっているのです。村人のみなさまに食糧が行き渡るように、私が最初に死んだほうがいいんでしょうね……」
「そんなことはない」
紅さまが大声を出したので、私はびっくりして彼を見る。
彼は、とても一生懸命な顔で……私を、私だけを、まっすぐに見ていた。
紅さまは気まずそうに、視線を逸らした。
「……いや。その。すまない。また、怖がらせてしまったか? ……人間とかかわるのはやはり難しい」
「いえ、大丈夫です」
私は思わず、くすくす笑った。
「……ありがとうございます。私、いつも、要らないって言われてばっかりなので。たとえお世辞でも、そう言ってもらえるのは、とっても嬉しいです」
「いや。……世辞などではなくてだな」
紅さまは、きっとすごくいいひとなのだろう。
一見ぶっきらぼうだけど、ひとは見かけによらないし。
あやかしなのに。こんなに美しくて、人間離れしているのに。
ちょっと人生で行き会っただけの私に情けをかけてくれるのだから……。
まだ出会って間もないのに、このひとといるのは、痛くない。
それどころか、もっといっしょにいたくなる。
私の話を聞いてくれて、私のそばにいてくれるひとなんて。……奇跡だ。
……だから。
そろそろだと、思った。
これ以上いっしょにいてしまっては……もっと、いっしょにいたくなるから。
「……紅さま。お怪我の具合は、いかがですか?」
「ん? ああ。もうすっかり良くなった」
紅さまは腕の包帯をほどいて、傷跡を見せてくれた。
たしかに、傷はすっかりよくなっているようだった。少しだけ痕が残ってしまっているけれど、もう治りかけ。
私の傷の治りよりずっと速いように感じた。常人離れしている。やっぱり、あやかしだからだろうか。
「他の傷もこのような感じだ。手当のおかげだ。感謝する」
「よかったです」
本当に、ほっとした。
あやかしだったことには、びっくりしたけれど……。
小さな蛇。あのままだと、死んでしまいそうだった。……死んでほしくなかった、助かってほしかった。
だから……よかった。本当に。
私は、笑顔が歪まないように気をつけながら、紅さまに言う。
「もし、もう体調のほうがすっかりよろしければ……ゆかれたほうが、よろしいかと」
「……え?」
「ここは忌み子の座敷牢。たいしたおもてなしもできません。窮屈な場所です。……村人に見つかれば、清やまもり神さまにどんな目に遭わされるかもわかりません。まだ、気づかれてはいないはずですから……ゆかれるのなら、いまです」
これ以上、名残惜しくなる前に。
もっといっしょにいたいと願い始める前に……。