恋を知らない君へ 風音ソラ
僕は恋をしたことがない。
人は恋をすると詩人になったり、優しくなれたりすると聞くが僕にはそんな経験がない。
恋をした気になっていた僕は本当の君を見ていなかったのかもしれない。
いや、僕は本当の恋をしたことがなかったのかもしれない。
君が笑ってくれるだけで嬉しかった。
話を聞いてくれるだけで嬉しかった。
側にいてくれるだけで嬉しかった。
それだけで良かったんだ。
傷ついた君に優しい言葉の一つもかけられない僕は恋をする資格すらないのかもしれない。
今、僕は傷つけてしまった君に手紙を書いている。
天国の君へー
「diary
日記の日付は止まっている
あの日から僕の時計は止まったままだ
古びたノート
使えなくなったノートパソコン
立てかけたままのギター
部屋に残るガラクタ
閉ざされたままの部屋
君との日記を開く
君と写った写真が栞のように挟まれている
2019/3/20
この日付を最後に日記は更新されていない
君と僕が最後に会えた日付
今、この日記に新たなページを刻もうと思う。
2022/2/22
「僕は生きる」
一人病院までの道のりを歩く。
通いなれたその道を通るのはもう何回目だろう。
時々道に落ちているゴミや無造作にはられた何かのチラシや市議会議員のポスターがある。
視線を落とすと僕は街と同化できる。
もう僕はこの街に存在していない
自分の全てを否定してー
そんなことを考えていると病院に着いた。カフェのようなその病院はとてもその種の病院だとは思えない。
僕は今や立派なベテラン患者の域に達している。発病してから10年が過ぎたが未だにこの病の原因は分かっていない。
たぶん、完治することもない。
僕はそういう十字架を背負って生まれてきた。
受付を済ませて端の方の席に座る。
ランの花が生けられていて心がすっと軽くなった。
「並木さん。どうぞお入りください」
「お加減どうですか?」
「代わりありません」
「そうですか、、それでは無理なさらないでくださいね」
医師は優しい笑顔を浮かべる
心の中で「大丈夫なら、来てないよ!」
なんて毒づいてみる。
ちょっとスッとしたところで元の席に座る。
皆一様に暗い表情をしている。
僕もその場に同化する。
存在を消すようにスマホの画面を見ながら、、
診察代を支払い、外に出る。
見慣れたこの風景も何か特別なもののように感じる。
ふと、通りを見るとスマホを見ながらキョロキョロとしている女の子がいた。
不思議に思ったがそのまま通りを歩いていた時だったー
「バタン!」
「え?」
すごい音がしたので振り返るとその女の子がスマホを片手に通りに倒れていた。
「大丈夫ですか!!」
僕はその女性の元に駆け寄った。
辺りを見渡しても他に誰もいなかった。
呼吸があったので女性を起こして肩を担いで先程の病院に駆け込んだ。
「すいません!!」
「どうされましたか!」
「この方が倒れたんです!」
受付で話すと医師が駆けつけ応急手当てをして、点滴を受けながらストレッチャーで運ばれて行った。心配してその場に立ち尽くしているとやがて医師が出てきた。
「先生! 大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、、」
「貧血で倒れただけだから、、」
「この方うちの患者さんでもう大丈夫だから、、」
「並木さん。ありがとう、、」
医師は安堵の表情を浮かべてそう告げた。
僕は複雑な感情のまま病院を出て呆然とその場に立ち尽くしていたー
ひと月後僕はクリニックに向かった。
陽気に照らされていつもより気分が良かった。クリニックの時間まではまだだいぶあったので行きつけのブックカフェに立ち寄った。
表通りから少し路地に入った所にそのカフェはあった。「cafe diary」はこの辺りでは知る人とぞ知る隠れ家的なブックカフェだった。
たまに人がやって来てはみな思い思いの本を手にとって読んでいた。
店内に入るとオレンジ色の照明とクラシック音楽が静かなボリュームで流れていて珈琲の芳醇な香りが漂っていた。
いつもの席に座って珈琲を注文して日記を出した。このカフェで日記を書くのが唯一の楽しみだった。
「最近、いかがですか?」
マスターは珈琲を淹れながら静かな声で聞いた。
「何も変わらないです。先生からゆっくりと過ごすように言われてるんです」
それからお皿を拭きながらそれ以上何も聞かなかった。
お店のドアが「カラン!」と音を立てて空いた。そこには先日の女性が驚いた顔をして立っていた。
「あ、、」女性と目があったままそのままお互い何も話せなかった。
「あの、、」
「先日はありがとうございました、、」
「大丈夫でしたか?」
「全然大丈夫です」
「ちょっとふらっとしただけで、、」
「ありがとうございました」
「いえ、、」
僕から少し離れた席に座ると彼女は一冊の本を取り出して読んでいた。
僕はその姿を見つめていた。
するとこちらを向いて問いかけた。
「よく、来られるんですか?」
「はい。たまに、、」
「良かったらお名前聞いてもいいですか?」
彼女は嬉しそうに聞いた。
「優です。並木 優です」
「あなたは?」
「栞です。音 栞です」
「そう言えば何書いてるんですか?」
栞はニコニコとして僕に訊いてきた。
「日記だよ。日記書いてる」
彼女はふーん。という顔をして聞いていた。
「ちょっと見てもいい?」
「いや、人に見せるものじゃないし、、」
「そうだね、、」
そう言って彼女は紅茶に口をつけて何事もなかったように紅茶を飲んでいた。
「あの、、」
言いかけて僕は口ごもった。
彼女は一冊の詩集を取り出して優しい表情で読んでいた。時折、切ない表情や微笑みながらページを捲っていた。
するとこちらに気づくと「読んでみますか?」と笑った。
「うん。いいの?」
僕は詩集を受け取りパラパラと目を通した。
今までに読んだことのない世界だった。
「良かったらお貸ししますよ」
「ありがとう」僕が笑うと栞は窓の外を見ながら外の景色を眺めていた。
そして、突然僕に問いかけたー
「あの、並木さん、、恋。したことありますか?」
「恋?」
突然のことに動揺を隠せずにいるとニコニコと笑っていた。
「そう。私と架空の、、」
「架空の恋をしてみませんか?」
「私。恋をしたことがなくって、、」
「このまま人生終わるの何だか嫌だなぁって、、」
僕が戸惑っていると「冗談ですよ! ほんと正直ですね」とクスッと笑っていた。
それから、僕と彼女の奇妙な関係が始まった。僕たちは連絡先を交換して毎回、カフェで会っては好きな本を持ちよったり、感想を言い合ったり他愛もない時間を過ごしていた。
以前よりは少しだけ自分が好きになれた。
僕と彼女はこのカフェにいる間だけ恋人のように話していた。
病気になって恋をしたことがなかった僕はその時間が大切に思えた。
きっと、彼女も同じ気持ちだったのだと思う。その時間だけ僕は僕になれたし笑っていられた。お互いに深い話は聞かないことで僕たちの関係は保たれていた。
それから、僕たちはお互い住んでいる所もどんな生い立ちかも知らないままカフェで楽しい時間を過ごしていた。
「栞さん。この本読んだことある?」
「いや、ないかも、、」
「読んでみて感動するから、、」
「読んでみるね!」
「それと、良かったらこっちも読んでみて欲しい」
「僕が一番好きな本、、」
「うん。読んでみるね」
栞は笑顔をみせた。
「そう言えば栞さんが一番好きな本は何?」
するとおもむろにバッグの中から一冊の本を取り出した。
「この本。。」
綺麗な装丁が施されたその本は僕も知らない本だった。
「読んでみて」
「うん。ゆっくり読ませてもらうね、、」
それから二人他愛もない話をした。
僕にとってその時間は一番心が休まるひとときだった。
僕は勇気を振り絞って聞いてみた。
「あのさ。栞さんの夢って何?」
「あ。いや、夢って言うか叶えたいものっていうか、、」
少し考えていたがやがて静かに語り出した。
「あのね。夢は3つあるんだ、、」
「ずっと前は看護師になりたくて、、苦しんでる人を助けたかったんだ」
「でも、私には出来なかった、、」
栞は少し悲しげな表情をみせた。
「私。病気でできること限られてるから、、」
「詩や絵本の題材なんか書くことも好きだったんだ。でもね。今はアクセサリー作りかなぁ。。」
「綺麗なもの作ってると癒されるの、、」
「あのね。笑わないで聞いてくれる?」
「うん。笑わないよ」
「私。アクセサリーの販売をしてみたいんだ」
「それが一つ目の夢。。」
「販売? 栞さんが作ったものを売るってこと?」
「違うの。私が作ったものを他の人に持ってて欲しいの、、ほんの少しでも誰かの為になりたいの、、」
僕は何も言えなかった。
しばらく二人とも無言だった。
するとこの話を聞いていたマスターが優しく語りかけた。
「栞さん。知り合いの雑貨屋さんがあるから置いてもらえるか聞いてみましょうか?」
「良いんですか?」
「大丈夫ですよ」
マスターは微笑んで頷いた。
栞の表情がみるみる華やいだ。
「嬉しいな、、」
「それじゃ、もし、置いてもらえたら優くん。手伝って!」
「いいよ!」
「ありがとう、、」
「ここに作ったもの持ってくるから」
「一緒にお願いに行こう」
雑貨屋さんに連絡をとってくれたオーナーがOKの目配せをした。
翌週早速、栞はアクセサリーをいくつか持ってきた。
10個ほどの綺麗なアクセサリーがカフェのテーブルに並べられた。
「優くん。どれが好き?」
「うーん。この碧い綺麗な石」
「そっか。そっか。それじゃ持ってていいよ」
「え? だって、、」
「優くんにあげるよ」
「それからオーナーにはこれね」
栞は緑色の綺麗な石をテーブルの上に置いた。
「栞さん。ありがとう」
オーナーは笑顔を見せると栞の前に紅茶を置いた。
「お礼です」
栞は満面の笑みを見せた。
「嬉しいな」
「優くん。ずっと持っててね」
「約束だよ、、」
「うん。約束する」
それから、僕と栞はオーナーに紹介された雑貨店に向かった。
大通りを抜けた路地裏にその店はあった。
表に「days」と木でできた可愛いらしい看板がかかっていて店の前の花壇に沢山の花が植えられていた。
「ここだよ。。」
「緊張するね」
僕と栞はちょっとした冒険をしているような気持ちだった。
ゆっくりとドアを開けると小さなスペースに沢山の雑貨が並べられていた。
ドキドキしながら二人で店の中を見渡していると一人の女性が店の奥から出てきた。
「こんにちは。diaryのオーナーから聞いてるわよ。栞さんと優くんでしょ?」
「はい。」
店の窓から見える新緑の木々が揺れていた。
日の光が優しく降り注いでいた。
「そこに座って」
カウンターに僕たちは腰かけた。
「daysの瀬下です」
「早速だけどアクセサリー見せてもらってもいい?」
栞はおずおずとバッグからアクセサリーを取り出した。渡す手元が微かに震えていた。
「綺麗ね。。」
「これ、栞ちゃんが作ったの?」
栞はコクりと頷いた。
「いいわ。これ、全部置かせてもらうわね」
「そこにスペース取ってあるから」
僕と栞は目を合わせて喜んだ。
それから一つ一つ心を込めてジュエリーを並べていった。栞は愛しいものを見つめるような目で見つめていた。
「栞ちゃん。これ、良かったら私から」
「つけててね」
そう言って瀬下さんは綺麗なイヤリングを栞に手渡した。栞は本当に嬉しそうにしていた。
「つけてみて」
栞がイヤリングをつけると長い黒髪に映えた。
「似合うかな?」
「うん。」
「とっても似合ってる」
瀬下さんも優しい微笑みを浮かべながら栞を見つめていた。
「私ね。娘がいたの。生きてたらちょうどあなたと同じくらいの年頃だった。。」
「だから、他人事だって思えなかった、、」
「分からないことなんでも相談してね」
そう言って涙ぐみながら栞の顔を見つめていた。栞の目にもうっすらと涙が浮かんでいた。
それから僕たちは瀬下さんにお礼を言って二人でお店を出た。
帰り道、イヤリングをつけた栞の横顔は美しかった。
二週間後。僕と栞は「days」を訪れた。
初夏も終わりを告げていて暖かい陽気に包まれていた。栞はドキドキしているようで、少し不安気な表情をしていた。
「days」についてゆっくりと扉を開けると「カラン!」というチャイムの音と共に扉が空いた。
お店の中にいた瀬下さんが笑顔で挨拶してくれた。
「栞ちゃん。優くん。こんにちは!」
僕と栞は同時に「こんにちは!」と言って目を合わせて笑った。
「栞ちゃん。アクセサリー好評よ!」
「5つも売れたわよ!」
不安そうにしていた栞は笑顔になって僕に飛びついた。
「優くん! 売れたって!」
「栞さん。良かったね!」
「栞ちゃん。追加のアクセサリーお願いね」
瀬下さんは優しいまなざしで栞に微笑んでいた。
栞のアクセサリーが置いてあったスペースのイヤリングはほとんど売れていた。
「良かった、、」
瀬下さんは本当に嬉しそうだった。
僕と栞はそれから店内を見渡して瀬下さんが作ったアクセサリーやブローチ、イヤリングなどを見ていた。
栞はその中の一つのアクセサリーをずっと見ていた。
それは綺麗なエメラルドグリーンの石を使ったネックレスだった。
「栞ちゃん。そのネックレス可愛いでしょ?」
「栞ちゃんにきっと似合うと思うわ」
そう言って瀬下さんは栞にそのネックレスをつけてくれた。
栞は本当に嬉しそうで鏡の前に立って終始ニコニコしていた。
「栞さん。。良かったらそのネックレス僕からプレゼントするよ」
「良いの?」
「うん。大丈夫!」
「栞がプレゼントしてくれたアクセサリーのお礼だよ」
「瀬下さん。これお願いします」
「分かったわ」
僕はそのネックレスを買って栞にプレゼントした。
栞は終始、ニコニコしていて本当に嬉しそうだった。
「優くん。ありがとう」
「うん」
僕も嬉しかった。
栞が喜んでくれることが本当に嬉しかった。
「あ、そうだ。栞ちゃん。ちょっと待ってて!」
そう言って瀬下さんは一度、店の奥に行って戻ってくると一枚の手紙を栞に差し出した。
「栞ちゃん。このお手紙。栞ちゃんのアクセサリーを買ってくれた人から届いたの。」
「中を見ても良いですか?」
「良いわよ」
瀬下さんはニコリと笑った。
栞は嬉しそうに可愛いレターセットに包まれた手紙の封を開けた。
「栞さんへ
栞さん。先日「days」を訪れて偶然、栞さんのネックレスを見つけました。
とても綺麗な石で作られてて一目で気に入りました。瀬下さんからお話を聞いていた母が私にプレゼントしてくれました。
私は幼いころから重い病を患っています。
今年。ようやく二十歳を向かえます。
私が生きている限りこのネックレスをつけたいと思います。
そして、いつか。私が結婚して子供が出来たらそのことを話そうと思います。
このネックレスを作ってくれてありがとう。
私に届けてくれてありがとう。
清水 未来」
手紙を読む栞の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。栞は大切に手紙をしまった。
「栞ちゃん。。本当に良かったわね。きっと栞ちゃんの気持ちが伝わったのね、、」
「優くん。。嬉しい。。」
「良かったね、、」
すると突然入り口のドアが空いた。
「カラン!」
そこに女の子二人がお店に入ってきた。
しばらく店内を見ていると女の子の一人が栞が作ったネックレスを見つけた。
二人で嬉しそうにアクセサリーを見ていた。
僕たちはその姿を見つめて瀬下さんに会釈をしてお店を出た。
「栞さん。良かったね」
「うん。嬉しい。。」
それから二人しばらく何も話せなかった。
自分が作ったものを人が喜んでくれることがこんなにも嬉しいことだということを僕はその時、初めて知った。きっと、栞も同じ気持ちだったのだと思う。
栞のアクセサリーを買ってくれた人たちはきっとずっと大切にしてくれるのだと思う。ずっと。。
雨が降っていた。
こんな日にはショパンのノクターンを聴いているような気持ちになる。
静かで優しくて聴いている人たちの心に永遠の時間を感じさせてくれる。
雨音はもしかしたらショパンのノクターンなのかもしれない。そんなことを思いながら傘をさしてカフェまでの道を歩く、あの日憂鬱な気持ちでクリニックに向かっていた僕はもういない。
雨はいろんな音を感じさせてくれる。
そう、どんな音楽にもなれるのだ。
いつものように入り口に傘を置いて「cafe diary」の扉を開くとオレンジ色の優しい照明と香ばしい珈琲の香りそれに君の笑顔がある。それだけでいい。それだけでいいんだ。。
「カラン!」
「マスターこんにちは。」
「栞ちゃん遅くなってごめん」
「優くん。待ってたよ!」
「遅くなってごめん。」
「診察長引いちゃって。。」
栞の隣の席に腰かけた。
「珈琲ください」
「優くん。いらっしゃい。ちょっと待っててね」
やがて珈琲の香りが漂ってきて目の前に置かれた。栞は僕が贈ったネックレスをつけてくれていた。
「そう言えばマスターってどうしてこのお店始めようと思ったんですか?」
僕はそのことをマスターに初めて聞いた。
マスターは少し考えてからおもむろに話し始めた。
「僕ね。昔は東京でサラリーマンしてたんだ。
結婚して子供もいたんだけど朝起きて満員電車に揺られる生活に疑問を感じてたんだ。
ある日、親父が倒れたって連絡が来て急いで駆けつけたけどそのまま旅立っちゃって。。このお店は父の形見なんだ。」マスターは穏やかな表情で話した。
「だから、この珈琲も親父の味なんだ。。」
マスターは時々物思いにふけるような表情で話していた。
「頑固な人で東京に来ないかって何度も言ったんだけど。。親父の人生が詰まったこの店を守って行こうと思ったんだ」
「だから、僕にとって今は親孝行の途中なんだ」栞の前にそっと珈琲が置かれた。
「天国で親父も喜んでくれてると思う」
何故かその時の珈琲が少しだけほろ苦く僕には感じられていた。栞もただ黙って珈琲を飲んでいた。
「この話しはこれで終わり。親父が見てたらしっかり仕事しろ!って怒られそうで。。」
マスターは笑っていた。
すると栞は突然。僕に問いかけた。
「そう言えば優くんの夢って何なの?」
「うーん。夢って言うか、僕ね。今頼まれて保育園の子どもたちに創作やお絵かきを教えに行ってるんだ」
「週に一回だけだけど一応資格も持ってるから来てもらえないかって。。」
「だから。今は子どもたちに喜んでもらえることかな、、」
「本当はもう一つあったけど、、」
「何。何? 聞かせて!」
「それはいいよ。。」
「そうそう。そう言えば栞ちゃんの二つ目の夢って何なの?」
「私はね。子どもたちに詩や絵本の読み聞かせに行ってみたいんだ。。それが小さいころからの夢だったんだ」
「だから、一時期は絵本作家目指してた。。」
「コンクールに入賞したこともあったんだ」
「そっか。。それなら園長さんに聞いてみようか?」
「絵本の読み聞かせにもお時間頂けますかって。。」
「ありがとう。聞いてみてくれるの?」
「うん。いいよ。一緒に保育の時間に行っても良いですか?って聞いてみるよ」
「嬉しいな」
栞はニコニコと目を輝かせていた。
「聞いてみてOKだったらあとで連絡するね!」
「うん。楽しみにしてるね」
雨音が静かなメロディーを奏でていた。
「cafe diary」に流れているノクターンが優しい音色をいつまでも響かせていた。
その日は梅雨入りして雨が降っていた。
僕と栞は傘をさして「cafe diary」の前で待ち合わせをして少し離れた保育園に向かった。
雨がポツリポツリと落ちていて通りの家の花壇のお花が水に濡れてキラキラと輝いていた。紫陽花に水の滴が光っていて美しかった。
紫色の紫陽花を見ていたら不意に亡くなった祖母の声が聞こえた気がした。
「人のためになることをしなさいよ」
祖母がそう言ってくれているように僕には感じられた。
保育園に着くと栞を気遣いながら園長先生にご挨拶をさせてもらった。
園長はとても優しく朗らかな笑顔で「よろしくね」と笑っていた。
園庭では子どもたちが元気に砂場で遊んだり、水遊びをしていた。
保育士の先生に集められた子どもたちは皆キラキラした瞳で僕と栞を見つめていた。
「今日。みんなにお絵かきと絵本を読んでくれる先生です。お名前を呼ばれたらみんな元気に手を上げてねー!」
「はーい!」と言って子どもたちの歓声と共にみんな一目散に栞に抱きついてきた。
栞も最初は戸惑っていたが次第に笑顔で子どもたちを抱きしめていた。
僕は不意に涙が出そうになったがそのことは栞には黙っていた。
「皆さん。こんにちはー!並木です!」
「これから、お父さんとお母さんに絵を描いてね!」
「はーーい!」
そう言って子どもたちは6色のクレヨンでみな思い思いの手紙を書いていた。お父さんの似顔絵やお母さんの似顔絵。それに感謝の言葉を書いている子どもたちもいた。
中には見ていてウルっとくるものもあり僕が創作を始めた頃の新鮮さと今まで足りなかったものを教えてくれるような気がした。
ひとしきり僕の出番が終わると今度は栞が絵本の読み聞かせをしていた。
子どもたちはみな静かに聞いていた。
「はらぺこあおむし」や「三匹のこぶた」や「100万回生きたねこ」を栞は朗読していた。
子どもたちは笑ったり泣いたり不思議そうな顔をして栞の朗読を聞いていた。
読み聞かせの時間が終わると子どもたちは栞の元に駆け寄ってきてみな抱きついたり、もう一回読んで!とぐずったりしていた。
その姿が可愛く微笑ましかった。
やがて子どもたちの昼食の時間が来たので僕たちは先生たちに別れを告げて保育園を出た。
子どもたちは僕たちが見えなくなるまで手を振っていて、中には後追いしようと泣いてる子らも見えた。
その姿を見て栞はハンカチで目頭を押さえていた。園を出て僕たちはしばらく無言で歩いた。
だいぶ時間が経って栞は嬉しそうに微笑んだ。
「優くん、ありがとう。」
「こんな機会を設けてくれて本当にありがとう」
「嬉しかった。ずっと忘れないよ、、」
その瞳には涙が滲んでいた。
帰り道。雨は上がっていて青空に虹がかかっていた。水に濡れた紫陽花も笑っているように思えた。
どしゃ降りの雨が降っていた。
その日、「café diary」に向かった僕はお店の前の入り口で足が止まってしまった。
差していた傘を落としてそこから一歩も動けなくなってしまった。
どしゃ降りの雨は容赦なく体に降り注いで体温を奪っていった。通りを歩く人たちの声が遠くで聞こえていた。
僕の病は治らない。
医者でさえその原因は分かっていない。状態が良いときと悪いときを僕は何年も繰り返していた。頭では分かっていても僕はカフェの扉の前で降りしきる雨に打たれていた。
「優くん、、」
栞の声が聞こえた。
「どうしたの?」
何も言えなかった。
もし、僕が居なくなったらこの先、栞はどうやって生きてゆくのだろう、、そんなことが頭をよぎっていた。
「優くん!」
「僕なんて生まれて来ない方が良かった、、」
「優くん、、」
栞もどしゃ降りの雨に打たれその瞳には深い哀しみが宿っていた。
「優くん。優くんが死んだら私も死ぬよ、、」
「だからそんなこと言わないで、、」
「私は優くんが生きていてくれるだけで幸せだよ、、」
「あの日、、病院の前で倒れたとき私は一度死んでるんだ、、だからこの命は優くんが与えてくれた命だよ、、だから、どんなことがあっても生きていて欲しい。」
「私の願いだよ、、」
何も言えなかった。
雨は二人の体に降り注ぎ、二人は音のない世界にいた。その時間は僕にとって何かとてつもなく長い時間に感じられていた。
「ごめん、、こんなこと言ってごめん、、」
「入ろう、、」
栞に導かれるように「café diary」のドアが開けられると明るい照明が見えた。その光は僕に取って生きていくための希望の灯りのように感じられていたー
それから2ヶ月程が過ぎ暑い夏がやって来ていた。この日、僕と栞は栞の3つ目の夢を叶えるために栞の故郷に旅行に出かけることになった。
駅で待ち合わせをした。
待ち合わせ場所に着くと日差しが強く蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
駅にはほとんど人影がなくたまに電車が来るだけだった。
少し遅れて栞が走ってきた。
白いワンピースを着て麦わら帽子を被っていた。
「優くん。ごめんね。待ったでしょ?」
「全然! それじゃ行こっか!」
「うん!」
駅でお弁当と小さなペットボトルに入ったお茶を買ってゆっくりと入ってきた電車に乗り込んだ。
電車に乗り込むと栞は子どものようにはしゃいでいて電車の窓を開けた。風が入ってきて栞は麦わら帽子が飛ばされないように手で押さえていた。
お弁当を広げてお茶を飲んだ。
二人とも汗が吹き出ていて栞はうちわでパタパタと扇いでいた。
「風が気持ちいいね」
「そうだね。栞ちゃんの故郷ってどんな所?」
僕は栞に尋ねた。
「海沿いの小さな町なんだ」
「夏になると観光客がやって来て少しは賑わうんだ」
「叔母の家が旅館をやっててすごく良いところだよ」栞は終始嬉しそうだった。
お弁当を食べていつの間にか眠ってしまった。うとうとと目を開けると栞の髪が風になびいていた。やがて栞の声が聞こえた。
「優くん! 見えてきたよ!」
目を覚ますと開けた窓から潮風の匂いが感じられた。白い砂浜にどこまでも続く海岸線、それに青く綺麗な海が見えた。
「次の駅だよ!」
「うん」
やがて電車はゆっくりと停車した。
「降りよう!」
僕は栞の手を引いて駅を降りた。
むせ返るような暑さに包まれていた。
二人で止まっていたタクシーに乗り込んだ。
栞が行き先を告げると二人を乗せたタクシーはゆっくりと走り出した。
しばらく走ると海沿いの旅館の前に着いてタクシーを降りた。
栞は麦わら帽子を押さえながら旅館の玄関を開けた。
「叔母さーん! 栞です!」
すると着物姿の一人の女性が出てきた。
「栞ちゃん! 元気だったね!」
「さあ! 入って。入って! 待ってたよ」
部屋に入ると線香の匂いと何処か懐かしい匂いが感じられていた。
栞の叔母さんと叔父さんに僕たちは迎えられた。お盆ということもありテーブルには沢山のご馳走が並べられていた。
奥の部屋に入ると栞の祖母の遺影、先祖の遺影が飾られていた。
遺影の前の仏壇には線香が供えられていた。
栞は遺影の前に座り手を合わせて目を閉じていた。
「栞ちゃん! よう帰ってきたねー」
「元気だったね?」
「はい。」
「こちらは?」
「あっ、紹介するね。今、お付き合いしている並木 優さん。」
僕はお二人に頭を下げた。
「そんなんは良かけん! まあ座って。座って」テーブルに置かれた麦茶を飲んで汗を拭いた。
それから栞の子供の頃の話やおばあちゃんの話を二人で聞いた。
時々、栞はウンウンと頷いていて僕は僕の知らない栞を感じていた。
夜になり僕たちは4人で夕食を食べた。
叔父さんはお酒を飲んでいて栞の小さな頃の話やこの町の良さを僕に話してくれた。
僕も一杯頂いてすごく盛り上がった。
叔母さんは僕や栞の話を静かに聴いてくれていて僕はもう長い間帰っていない故郷のことを思い出していた。
栞は僕や叔父さんにお酒を注いでくれて時々叔母さんが台所で料理を作って持ってきてくれた。
叔父さんは酔いが回ったのか町の歴史や旅館のこと、それに叔父さんの海の家の話を聞かせてくれて歌を歌っていた。
22時を回る頃には酔っ払って眠り込んでしまった。栞は叔父さんにタオルケットを持ってきて掛けてあげていた。
「ごめんね。優くん。家の人、人が来るといつもこうなの。。」
叔母さんは嬉しそうに話していた。
叔父さん叔母さんが僕のことに一切触れなかったのは僕たちへの配慮だったのだと思う。
「寝床支度しているから、、」
「ありがとうございます」
「栞、案内してあげて!」
「うん。叔母さんありがとう」
栞は何度も何度もそう言っていた。
僕と栞はお風呂を頂いて旅館の一室に部屋を取ってもらっていた。
お風呂から上がってタオルで頭を拭いて僕が布団でうとうとしていると栞も寝室に入ってきた。
「優くん、ごめんね。疲れたでしょ?」
「いや、すごく楽しかった。ありがとう」
僕たちは別々の布団に眠りについた。
蚊取り線香の煙が上がっていて夜空に月が浮かんでいた。
僕は遠い昔の記憶を思い出していた。
祖母や叔父、叔母のことを立ち上る蚊取り線香を見つめながら懐かしく思った。
星が微かに輝いていた。
「優くん。寝た?」
「起きてるよ」
「月が綺麗だね」
「うん」
「そっちいっていい?」
「いいよ」
栞は僕の布団に入ってきた。
シャンプーのいい匂いがした。
「私ね。お祖母ちゃんが亡くなるまでずっとこの町で暮らしてたんだ、、」
「あの頃はみんな元気で幸せだった、、」
僕は何も言えずに黙っていた。
「たぶん。もうここに来ることはないんだろうなぁ、、」
栞は悲しげな表情を浮かべていた。
「私。優くんに出会えて良かった、、」
僕はそっと栞を抱きしめた。
栞の体温や鼓動、それに微かな呼吸を感じていた。
この夜がずっと続けばいい、、
そう思った。
栞を見つめた。
やがて栞は静かに目を閉じた。
月の明かりだけが栞の横顔を照らしていた。
それが僕にとっての初めての恋だった。
翌朝、目覚めた僕の隣で栞は部屋から見える海を見つめていた。僕は寝ているふりをしてその姿を見つめていた。時折、目頭をおさえながら故郷の景色を目に焼き付けているようにも思えた。これが最後なんて言わないで欲しい。そう思った。栞は僕に気づいて後ろを振り返った。
「優くん、おはよう! 昨日は良く眠れた?」
「うん。ぐっすり眠れたよ」
「今日、帰る前に叔父さんの海の家に行こうか?」
「うん。いいね!」
「こっからすぐだから。。きっと叔父さんも喜んでくれると思う」
「分かったよ。すぐ支度するね!」
僕と栞は帰る支度をして玄関に降りた。
「優くん。疲れたでしょ。また、おいでね」
「楽しかったです。ありがとうございました。」
「また来ますね。必ず。。」
叔母さんは嬉しそうに微笑んでいた。
「叔母さん。いろいろとありがとう」
「また来るね。叔母さんも元気で。。」
栞は笑顔で手を振っていた。
「それじゃ。栞と優くんを送ってくから!」
「気をつけて行ってらっしゃい」
叔母さんは僕たちを乗せた車が見えなくなるまで手を振っていた。
僕も栞も後ろを向いて大きく手を振っていた。
朝の海岸線はオレンジ色の光に包まれて開けた窓から潮風の匂いがしていた。
海に小波がたっていて光に反射していた。
その光景は何処か神秘的だった。
「優くん。栞のことよろしくな。。」
叔父さんは運転しながら小さな声でそれだけを告げた。
海岸線を10分程走ると綺麗な砂浜のビーチが見えてきた。まだ人影もなく空気が新鮮で今まで感じたことのない気持ちを感じていた。
ビーチに着くと叔父さんは車を降りて僕たちへの昼食の準備を始めてくれた。
「ちょっと待っててな。今。支度するから」
そう言って叔父さんは昼食の準備を始めてくれた。
僕たちは誰もいない砂浜に座ってただ打ち寄せる波を見つめていた。
栞は波打ち際に行って押し寄せる波を見ていた。しばらくすると綺麗な石を一つ拾って来て僕に見せてくれた。
「優くん。見て! 綺麗な石でしょ?」
「うん。すごく。。」
栞はその石をだんだん上っていく太陽にかざして見ていた。
「この石で優くんにアクセサリー作るね! 楽しみにしてて!」
「うん。楽しみにしとくね!」
栞はすごく嬉しそうにニコニコしていた。
やがて、良い香りが漂って来て海老やサザエ、それにイカなどがジュージューと美味しそうに焼けていた。日が昇ってきて蒸し暑さが体を包んでいた。
「栞! かき氷作ってあげて!」
「はーーい!」
しばらくすると栞は苺とメロンソーダのシロップにアイスクリームが乗ったかき氷を持ってきてくれた。
「さっ。二人とも食べな。食べな!」
そう言って叔父さんは海の男らしい笑顔を見せた。
栞に食べ方を教わりながら僕たちは最後の夏を過ごした。栞は終始嬉しそうで時折、叔父さんと笑ったり、今まで聞いたことのないような話をしていてとても楽しそうだった。
「栞! 優くん。二人そこに並んで!」
「優くん。写真撮ろう!」
「うん。いいよ!」
僕たちは海辺で写真を撮ってもらった。
「後で現像して送るから!」
叔父さんは嬉しそうに笑っていた。
そうやって僕たちの夏は足早に過ぎて行った。それから叔父さんに駅まで送ってもらった。
「いろいろとありがとうございました。。」
「また来ますね。。」
「また来るね。叔父さんありがとう。。」
「栞、元気でな。。」
叔父さんは栞の手を握って目にいっぱい涙をためていた。僕たちは大きく手を振って叔父さんに別れを告げた。やがて電車がやって来て僕たちの短い夏が終わりを告げていた。
栞は旅行から戻ると体調を崩した。
「café diary」にも姿を見せなくなった。
僕は心配して栞に電話をかけた。
「もしもし、栞? 体調大丈夫なの、、?」
「うん。大丈夫だよ。。ちょっと疲れただけだよ、、」
「家まで行こうか?」
「大丈夫だよ。本当に大丈夫」
「そっか、、それなら安静にしててね」
「うん。ありがとう」
「優くん。。」
「何?」
「ありがとう」
「うん。。」
栞はそれから1ヶ月経っても2ヶ月経っても姿を見せなくなった。クリニックでも見かけることがなくなり、僕は何か嫌な予感を感じていた。
季節は秋になっていた。
その日、僕は「café diary」にいた。
雨が降っていてオーナーも何処か元気がないように思えた。
僕は以前、栞に借りた栞が一番好きな本を読んでいた。あれから、栞に何度、電話しても電話は繋がらなかった。そんな時だった。
「カラン!」入り口のドアが空いた。
栞だった。
「優くん。久しぶり!」
「うん。元気だったの?」
「うん。元気だよ。心配しないで」
「でも、ありがとう。嬉しかったよ」
栞は僕の隣に座って珈琲を注文した。
「あー! 嫌になっちゃう。来月から入院だって」
「ちょっと体調崩しただけなのに。。」
「え? 入院?」
「大丈夫! 大丈夫!」
「検査入院だから、、」
「すぐに帰ってくるよ!」
久しぶりに見る栞は少し痩せていた。
僕は何も話せずにいた。
「あっ。そうだ! 優くんに渡したいものがあるんだ」
栞はバッグの中から綺麗なアクセサリーを出した。
「これ!」
「ずっと作ってたんだ。。」
「これ。優くんにあげるよ!」
それは栞の故郷の海で拾った石で作ったアクセサリーだった。
「大切にしてね。。」
「ありがとう。大切にするね」
「あー良い香り。オーナーの珈琲は本当に美味しいなぁ」
「栞さん。ありがとう」
オーナーは優しい微笑みを浮かべていた。
「優くん! これからも頑張ってよね!」
「病気に負けないで頑張ってよね!」
「約束だよ!」
「私も検査入院、頑張ってくるね!」
「また帰ってきたら保育園に行こうね!」
「私。楽しみにしてるんだ。。」
「あ、そうだ。優くん。これ!」
「旅行の時のお写真だよ!」
「叔父さんが送ってくれたんだ。」
「ありがとう」
それは満面の笑顔の栞と僕が砂浜で写っている写真だった。
「それから。保育園に教えに行くのこれからも続けてね。。私。そんな優くんが大好きなんだ。。」
「うん。約束するよ。僕も頑張るね」
「だから、栞も無理しないでね。。」
栞はそれから「café diary」を愛おしそうに見ていた。僕はそんな栞が愛おしかった。
でもそれが栞の姿を見た最後だった。
それから、栞は大きな病院に入院した。
再び僕が栞に会えることはなかった。
それから栞は11月になっても12月になっても退院することはなかった。
僕は何度も栞が入院している病院にお見舞いに行ったが面会謝絶で栞に会うことは出来なかった。栞のために買っておいたクリスマスプレゼントも栞に渡すことは出来なかった。
翌年の春、桜が散り始める季節に栞は天国へと旅立った。儚げに散っていく桜は栞のようで栞が笑っているようにも思えた。
「優くん!」って栞が今にも出てきてくれることを願った。僕は心にぽっかり穴が空いたように何もすることが出来なくなってしまった。「café diary」で栞と笑い会った日々がつい昨日のことのように思い出されていた。僕にとって栞は僕の全てだった。僕が生きている意味そのものだった。僕はもう一度栞に会いたかった。桜は何も言わずに散っていて僕の心を締め付けていた。
数日後、栞の葬儀には多くの人たちが参列した。栞は花に囲まれた祭壇の中で笑っていた。
僕は胸ポケットに栞が贈ってくれたアクセサリーと栞の写真を忍ばせて葬儀に参列した。
葬儀には「café diary」のオーナーをはじめ多くの人たちが参列した。オーナーはずっと祭壇の栞の写真を見つめていた。「days」の瀬下さんは時折涙を拭いていて保育園の子どもたちのすすり泣く声が聞こえた。
中には大きな声で泣き出す子どももいて僕の胸を締め付けていた。栞の叔母さんと叔父さんは栞の写真を見つめてずっと目頭をおさえていた。僕は栞の写真を見ることが出来なかった。栞との記憶が走馬灯のように流れて涙が止まらなかった。
栞との別れはあまりにも突然やってきて僕はそのことを受け入れられなかった。
栞。幸せにしてあげられなくてごめんね。
病から助けてあげられなくてごめんね。。
栞が亡くなってから2ヶ月が過ぎていた。
その日は朝からずっと雨が降っていた。
僕の部屋には栞の写真とアクセサリー、それに栞に渡すはずだったクリスマスプレゼントが置かれたままだった。栞と出会ってちょうど一年が過ぎようとしていた。僕がクリニックでの診察を終えて部屋に戻るとポストに手紙が入っていた。
栞からの手紙だった。
僕は部屋で手紙の封を開けた。
「優くんへ
優くん。優くんがこの手紙を読んでるってことはもう私はこの世にいないね。
クリニックの前で倒れた私を助けてくれたこと忘れないよ、、
架空の恋だったけど私は本当に優くんが大好きだったよ。優くんもそうであったら嬉しいな。
優くんと出会うまで私は私じゃなかった。
生きる意味も何のために生きるのかもわからないまま、ただ病院に通うだけの日々だった。
あの日、優くんに出会えてなかったら私の人生はほんとに悲しいものだったと思うよ。
優くんが私に生きる希望と喜びを教えてくれた。
ずっと一緒にいてあげられなくてごめんね、、
優しくて誰よりも人のことを大切にできる優くんに出会えて私は誇りに思うよ。
優くんは私を幸せにしてあげられなかったって思っているかもしれないけど、それは違うよ。
私は十分幸せだったよ。
沢山話してくれたこと。いろんなことを教えてくれたこと、愛してくれたこと忘れないよ。
今でも優くんの笑顔や仕草や本を読んでる姿、目を閉じると浮かんでくるんだ。
これから、病気なんかに負けないで私の分も幸せになってね。
ちょっと寂しいけど私の願いだよ。
出会ってくれてありがとう
好きになってくれてありがとう 音 栞」
あれから三年の月日が流れたー
僕は今、栞と訪れた栞の故郷に来ている。
一人砂浜で打ち寄せる波を見ていた。
あの日と同じように透き通った海がどこまでも続いていた。
僕は一冊の日記を取り出した。
日記は三年前の日付で止まっている。
今、この日記に新しいページを綴ろうと思う。
「栞へ
栞。。君に会えなくなって三年の月日が流れたね。
ある日、突然君は僕の前から居なくなった。
あの日から僕の時計は止まっている。
君と話したこと、笑ったこと、過ごしたこと。今でも鮮明に思い出せる。
この海で子どものようにはしゃいでいた君を今でも思い出す。
僕も君に出会わなければ僕の人生は悲しいものになっていたかもしれない。
君が人を愛することを僕に教えてくれた。
君の体温、鼓動、呼吸。今でもはっきりと感じることができる。
君がこの世にいなくなっても僕が生きている限り君は僕の中で生き続ける。
君の笑顔が好きだった。優しさも仕草もその全てが好きだった。
僕は今日から新しい自分を生きていこうと思う。
君がいつも言ってくれたように新しい自分を踏み出そうと思うよ。
でもね、、君に会いたい。
最後まで笑顔で懸命に生きた君を忘れない。
君はこれからも僕の中で生き続ける。
君が背中を押してくれたように、、僕は決して負けない。そして、これからも僕は生きてゆく。
だから、、僕は今日を生きるよ 並木 優」
fin