海殊が朝に感じた嫌な予感は、昼休みに見事的中した。
昼休みに入って祐樹含むクラスメイト達と昼食を取ろうとした時だ。不意に、クラスの女子から「滝川くん」と声を掛けられた。海殊がそちらに顔を向けると、彼女は教室の入口を親指で指差した。
「お客さんよ。一年生の」
「は……?」
誰だろうと彼女の親指の先に視線を向けると、教室扉の前には長く艶やかな黒髪が印象的な美少女がいた。手にはお弁当袋とお茶のペットボトルを持っている。
青いリボンを首につけている事から、一年生である事は間違いない。そして、自分に話し掛けてくる一年生など、彼は一人しか心当たりがなかった。水谷琴葉だ。
琴葉は少し恥ずかしそうにしながら、教室の入り口から海殊に小さく手を振っている。
「ちょ、琴葉! お前何しに来てんだよ」
祐樹達に問い詰められる前に、海殊は慌てて廊下へと出た。
クラスメイト達が騒然としているが、気にしている余裕はない。いや、気にしたら負けだ。
「えへへ、来ちゃった」
悪びれた様子もなく、琴葉ははにかんだ。
「来ちゃった、じゃないよ! 何しに来たんだよ」
背中に穴が開きそうなほど視線を感じながら、海殊は再度問い詰める。眉間の奥に激しい頭痛を感じたのは言うまでもない。
「お昼、海殊くんと一緒に食べたいなって。ダメ?」
「ダメって……お前、そんなの同じ学年の──」
そう言い掛けて、既の所で思い留まった。昨日彼女が泊めてもらえる友達がいないと言っていた事を思い出したのだ。でなければ、海殊の家に泊める事にはならなかった。
「……わかったよ」
海殊は小さく溜め息を吐くと、自分の席へと戻って弁当箱を取る。
この間、周囲と目を合わせない様に下を向いて、とにかく速足で移動した。周囲からはひそひそ話が聞こえるが、それももちろん聞こえないふりをしている。生まれてこの方特別目立った事のない彼は、こういった状況の時にどうすべきなのかわからないのだ。
(昨日までの俺の生活、マジでどこ行った……)
そんな視線や声を感じながら、海殊はもう一度大きな溜め息を吐いた。
雨の日の夜、公園に佇む少女を気にかけてしまったが為に、彼の日常は壊れつつあった。いや、ほぼ壊れていると言っても過言ではない。
それに対して全く後悔がないかと言われれば、嘘になる。海殊はこういった目立ち方をするのに慣れていないし、何より目立ちたくなかったのだ。
ただ──
(何で俺なんかにわざわざ興味持ってくれるんだろうな、この子)
笑ってはいるものの、彼を訪ねてきた下級生の女の子は明らかに緊張していた。
一年生なのに、わざわざ三年生の教室まで来るのに緊張しないはずがない。少なくとも彼にはできない事だった。しかし、それでも彼女はこうして海殊に会いに来てくれる。
(なんか、不思議な感覚だよな……)
これまでの人生で、こうして誰かに呼び出される事などなかった。ましてや女の子となれば、尚更だ。それが嬉しくないかと言われれば、素直に嬉しいと思っている自分もいた。
それと同時に、自分が普段呼んでいる小説の主人公達はこんな気分なのだろうか、と頭のどこかで考えてしまっている。琴葉が目の前に現れてから、視界や人生が色鮮やかになった様に感じたのだ。それはまるで、ヒロインと出会った直後の主人公の様に。
「……何笑ってんだよ」
再び琴葉がいる場所まで戻ると、彼女が海殊を見てくすくす笑っていた。不機嫌さを隠さずそう訊いてしまうのも、無理はないだろう。
「海殊くん、顔赤いなって」
「そりゃ赤くもなるだろ……」
人生で初めて尽くしなのだ。可愛らしい後輩の女の子が自分の事を呼び出しにくるなど、想像もしなかった事である。自分を慕う後輩などいないのだから、当然だ。
「ごめん」
「別に……いいけどさ。あと、お前もちょっと顔赤いからな」
「えっ⁉️」
あまり悪びれた様子もなく謝るので、そんな意地悪を言ってから廊下を歩き出す。
琴葉は頬を両手で触れて少し恥ずかしそうにすると、慌てて海殊の半歩後ろを歩いていた。
実際、海殊もかなり恥ずかしかった。だが、女の子が恥ずかしがりながらも自分を訪ねてくれるのは、悪い気がしない。
それから二人は、なるべく人通りの少ない場所を目指した。とは言え、琴葉の容姿は人目を惹く事もあって、どこを歩いていても注目されてしまう。なんと言うか、彼女はキラキラとしたオーラの様なものを放っているのだ。
結局彼らが辿り着いた場所は、校舎裏の誰もいない場所だった。おそらく用務員くらいしか来ない様な、静かな場所だ。
夏場来る場所にしては暑いが、ここ以外に人が少ない場所がないのだから、仕方がない。
「はあ……やっと落ち着ける」
「そうだね」
「誰のせいだ、誰の」
「ごめんってば」
琴葉は舌を出してそう言うと、コンクリート部分に腰を降ろした。昨夜の雨の影響で土の部分はまだ湿っているが、建物に面したコンクリート部分に関しては既に乾いていた。
「暑いね」
「ああ」
昨夜降っていた雨は昨日のうちに止み、今日はカンカン照りだ。今年の梅雨明けは例年より早く、週末か週明けには夏になっているらしい。
夏を感じさせる日差しに加えて、蝉の鳴き声もうっすら耳に入り始めている。もう夏はすぐ目の前まできていた。
「明日は教室で食べよ?」
「何でそうなるんだよ」
「だって、暑いし」
「じゃあまず半袖と夏用スカートを取りに帰れ」
見ているだけで暑そうな長袖のワイシャツを一瞥してそう言ってやる。琴葉は今朝と同じ困り顔で「それもそうだね」と言うだけで、取りに帰るとは言わなかった。
二人して、手元のお弁当箱を開く。春子が珍しく今日は早起きをして作ってくれたお弁当だ。無論、海殊と琴葉のお弁当の中身は同じである。
春子は生活が不規則なので朝は基本的に寝ている。海殊は基本的にコンビニで昼食を買って過ごすのだが、今日は何故か気合を入れていたらしい。それは、この少女に母親らしいところを見せたかっただろうか。或いは、昨日の夕食に大して良いものを琴葉に食べさせてやれなかった事を悔やんでいたのかもしれない。
それから海殊達は他愛ない話をしながら、春子の作った弁当を食した。話題と言っても、彼女に貸してやった本の事だ。どうやら琴葉は午前中ずっと本を読んでいたらしい。
「お前、ほんとに大丈夫なのか。授業聞けよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと聞いてるから」
絶対に嘘だ。海殊は瞬時にそう確信した。
ただ、読んだ本について楽しそうに語る琴葉を見ていると、どうにもそれを咎める気分にはならない。一年生ならそれでもいいのかな、とさえ思ってしまう。かく言う彼も一年の頃はろくに授業など聞いていなかった。
それに、彼女の柔らかい口調と声で語られる話はそれだけで彼の耳を癒してくれて、もっと聞いていたいと思わされてしまう。
結局琴葉とそうして話しているうちに、昼休みは終わっていた。
「ねえ、滝川くん。ちょっと聞いていい?」
昼休みが終わる頃合に教室に戻ると、先程琴葉の呼び出しを伝えてくれたクラスの女子が声を掛けてきた。
「ん?」
「さっきの子って、お姉さんとかいる?」
予想もしなかって質問だった。てっきり色恋云々の話を聞かれるのだとばかり思っていたのだ。
尤も、色恋云々について聞きたそうな奴は、彼の視界の隅に三人程既にいるので、遅いか早いかの違いでしかないのだが。
「え? どうだろう? 聞いた事ないな」
というより、琴葉の家族構成など海殊は何も知らなかった。何やら家庭に問題を抱えている様なので、触れていいのかもわからない。
「それがどうかした?」
琴葉の事を知っているのかと思って聞き返してみるも、彼女は「ううん、きっと私の勘違い」と首を横に振った。
「勘違い?」
海殊が怪訝そうにオウム返しで訊くと、彼女は腕を組んだままこう言った。
「一年生の頃にあの子とよく似た子がクラスにいたなって……そう思っただけだから」
昼休みに入って祐樹含むクラスメイト達と昼食を取ろうとした時だ。不意に、クラスの女子から「滝川くん」と声を掛けられた。海殊がそちらに顔を向けると、彼女は教室の入口を親指で指差した。
「お客さんよ。一年生の」
「は……?」
誰だろうと彼女の親指の先に視線を向けると、教室扉の前には長く艶やかな黒髪が印象的な美少女がいた。手にはお弁当袋とお茶のペットボトルを持っている。
青いリボンを首につけている事から、一年生である事は間違いない。そして、自分に話し掛けてくる一年生など、彼は一人しか心当たりがなかった。水谷琴葉だ。
琴葉は少し恥ずかしそうにしながら、教室の入り口から海殊に小さく手を振っている。
「ちょ、琴葉! お前何しに来てんだよ」
祐樹達に問い詰められる前に、海殊は慌てて廊下へと出た。
クラスメイト達が騒然としているが、気にしている余裕はない。いや、気にしたら負けだ。
「えへへ、来ちゃった」
悪びれた様子もなく、琴葉ははにかんだ。
「来ちゃった、じゃないよ! 何しに来たんだよ」
背中に穴が開きそうなほど視線を感じながら、海殊は再度問い詰める。眉間の奥に激しい頭痛を感じたのは言うまでもない。
「お昼、海殊くんと一緒に食べたいなって。ダメ?」
「ダメって……お前、そんなの同じ学年の──」
そう言い掛けて、既の所で思い留まった。昨日彼女が泊めてもらえる友達がいないと言っていた事を思い出したのだ。でなければ、海殊の家に泊める事にはならなかった。
「……わかったよ」
海殊は小さく溜め息を吐くと、自分の席へと戻って弁当箱を取る。
この間、周囲と目を合わせない様に下を向いて、とにかく速足で移動した。周囲からはひそひそ話が聞こえるが、それももちろん聞こえないふりをしている。生まれてこの方特別目立った事のない彼は、こういった状況の時にどうすべきなのかわからないのだ。
(昨日までの俺の生活、マジでどこ行った……)
そんな視線や声を感じながら、海殊はもう一度大きな溜め息を吐いた。
雨の日の夜、公園に佇む少女を気にかけてしまったが為に、彼の日常は壊れつつあった。いや、ほぼ壊れていると言っても過言ではない。
それに対して全く後悔がないかと言われれば、嘘になる。海殊はこういった目立ち方をするのに慣れていないし、何より目立ちたくなかったのだ。
ただ──
(何で俺なんかにわざわざ興味持ってくれるんだろうな、この子)
笑ってはいるものの、彼を訪ねてきた下級生の女の子は明らかに緊張していた。
一年生なのに、わざわざ三年生の教室まで来るのに緊張しないはずがない。少なくとも彼にはできない事だった。しかし、それでも彼女はこうして海殊に会いに来てくれる。
(なんか、不思議な感覚だよな……)
これまでの人生で、こうして誰かに呼び出される事などなかった。ましてや女の子となれば、尚更だ。それが嬉しくないかと言われれば、素直に嬉しいと思っている自分もいた。
それと同時に、自分が普段呼んでいる小説の主人公達はこんな気分なのだろうか、と頭のどこかで考えてしまっている。琴葉が目の前に現れてから、視界や人生が色鮮やかになった様に感じたのだ。それはまるで、ヒロインと出会った直後の主人公の様に。
「……何笑ってんだよ」
再び琴葉がいる場所まで戻ると、彼女が海殊を見てくすくす笑っていた。不機嫌さを隠さずそう訊いてしまうのも、無理はないだろう。
「海殊くん、顔赤いなって」
「そりゃ赤くもなるだろ……」
人生で初めて尽くしなのだ。可愛らしい後輩の女の子が自分の事を呼び出しにくるなど、想像もしなかった事である。自分を慕う後輩などいないのだから、当然だ。
「ごめん」
「別に……いいけどさ。あと、お前もちょっと顔赤いからな」
「えっ⁉️」
あまり悪びれた様子もなく謝るので、そんな意地悪を言ってから廊下を歩き出す。
琴葉は頬を両手で触れて少し恥ずかしそうにすると、慌てて海殊の半歩後ろを歩いていた。
実際、海殊もかなり恥ずかしかった。だが、女の子が恥ずかしがりながらも自分を訪ねてくれるのは、悪い気がしない。
それから二人は、なるべく人通りの少ない場所を目指した。とは言え、琴葉の容姿は人目を惹く事もあって、どこを歩いていても注目されてしまう。なんと言うか、彼女はキラキラとしたオーラの様なものを放っているのだ。
結局彼らが辿り着いた場所は、校舎裏の誰もいない場所だった。おそらく用務員くらいしか来ない様な、静かな場所だ。
夏場来る場所にしては暑いが、ここ以外に人が少ない場所がないのだから、仕方がない。
「はあ……やっと落ち着ける」
「そうだね」
「誰のせいだ、誰の」
「ごめんってば」
琴葉は舌を出してそう言うと、コンクリート部分に腰を降ろした。昨夜の雨の影響で土の部分はまだ湿っているが、建物に面したコンクリート部分に関しては既に乾いていた。
「暑いね」
「ああ」
昨夜降っていた雨は昨日のうちに止み、今日はカンカン照りだ。今年の梅雨明けは例年より早く、週末か週明けには夏になっているらしい。
夏を感じさせる日差しに加えて、蝉の鳴き声もうっすら耳に入り始めている。もう夏はすぐ目の前まできていた。
「明日は教室で食べよ?」
「何でそうなるんだよ」
「だって、暑いし」
「じゃあまず半袖と夏用スカートを取りに帰れ」
見ているだけで暑そうな長袖のワイシャツを一瞥してそう言ってやる。琴葉は今朝と同じ困り顔で「それもそうだね」と言うだけで、取りに帰るとは言わなかった。
二人して、手元のお弁当箱を開く。春子が珍しく今日は早起きをして作ってくれたお弁当だ。無論、海殊と琴葉のお弁当の中身は同じである。
春子は生活が不規則なので朝は基本的に寝ている。海殊は基本的にコンビニで昼食を買って過ごすのだが、今日は何故か気合を入れていたらしい。それは、この少女に母親らしいところを見せたかっただろうか。或いは、昨日の夕食に大して良いものを琴葉に食べさせてやれなかった事を悔やんでいたのかもしれない。
それから海殊達は他愛ない話をしながら、春子の作った弁当を食した。話題と言っても、彼女に貸してやった本の事だ。どうやら琴葉は午前中ずっと本を読んでいたらしい。
「お前、ほんとに大丈夫なのか。授業聞けよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと聞いてるから」
絶対に嘘だ。海殊は瞬時にそう確信した。
ただ、読んだ本について楽しそうに語る琴葉を見ていると、どうにもそれを咎める気分にはならない。一年生ならそれでもいいのかな、とさえ思ってしまう。かく言う彼も一年の頃はろくに授業など聞いていなかった。
それに、彼女の柔らかい口調と声で語られる話はそれだけで彼の耳を癒してくれて、もっと聞いていたいと思わされてしまう。
結局琴葉とそうして話しているうちに、昼休みは終わっていた。
「ねえ、滝川くん。ちょっと聞いていい?」
昼休みが終わる頃合に教室に戻ると、先程琴葉の呼び出しを伝えてくれたクラスの女子が声を掛けてきた。
「ん?」
「さっきの子って、お姉さんとかいる?」
予想もしなかって質問だった。てっきり色恋云々の話を聞かれるのだとばかり思っていたのだ。
尤も、色恋云々について聞きたそうな奴は、彼の視界の隅に三人程既にいるので、遅いか早いかの違いでしかないのだが。
「え? どうだろう? 聞いた事ないな」
というより、琴葉の家族構成など海殊は何も知らなかった。何やら家庭に問題を抱えている様なので、触れていいのかもわからない。
「それがどうかした?」
琴葉の事を知っているのかと思って聞き返してみるも、彼女は「ううん、きっと私の勘違い」と首を横に振った。
「勘違い?」
海殊が怪訝そうにオウム返しで訊くと、彼女は腕を組んだままこう言った。
「一年生の頃にあの子とよく似た子がクラスにいたなって……そう思っただけだから」