【WEB版】夏の終わり、透明な君と恋をした

 家に帰っている道中、海殊(みこと)琴葉(ことは)と会話をするよりも、この状況をどう親に説明するかに必死に思考を巡らせていた。
 海殊の家は母子家庭だ。母の滝川春子(たきがわはるこ)はプログラマーで家を空ける事が多いが、女手ひとつで海殊を不自由なく育ててくれた。どちらかというと男勝りな性格で基本的にノリもよく、何でもかんでも受け入れてくれるのだが──

(今回ばっかりは、どう出るか……)

 海殊は俯いたまま歩く隣の少女をちらりと見た。
 同じ学校の後輩とは言え、見ず知らずの家出少女である。果たして泊めてやる事などできるのだろうか。如何にテキトーな親とは言え、ひと悶着ある事が予想できた。
 しかも、水谷琴葉(みずたにみこと)と名乗った少女は、七月なのにまだ冬用のブレザーを着ている。夏でも寒さを感じる変わった体質なのかとも思ったが、普通に暑そうで汗をかいていた。
 先程ブレザーを脱がないのかと訊いてみたところ、ワイシャツが濡れて透けてしまうので嫌なのだという。それはそれで、海殊が気まずそうに言葉を詰まらせたのは言うまでもない。

「……? どうかした?」

 視線を感じた琴葉が不思議そうに首を傾げた。

「いや、何でない。肩、濡れてないか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

 彼の傘に入れてやっているので、距離は随分と近い。
 こんなに女の子と距離を近づいた事などもちろん初めてであったし、無駄に緊張してしまう。そして、そんな自分がこれからこの子を家に泊めようとしているのだから、もう意味がわからなかった。

「あっ……ねえ。いきなりなんだけど、変な事訊いてもいい?」

 琴葉が不意に海殊を見上げた。
 その表情はどこか不安げで、訊いてもいいか迷っている様でもあった。

「何を以てして変な事なのかわからないけど……まあ、俺が答えられる事なら」
「その……今日って、何日?」
「今日? 今日は七月一日だけど」

 祐樹(ゆうき)にも答えたばかりの質問だ。迷うまでもない。
 日付の確認など誰でもするものだ。別に変でも何でもなかった。

「えっと、それは……何年の?」
「は?」

 本当に変な事を訊かれた。
 今日が何曜日であったり、何日であったりは訊かれる事はある。うっかり忘れる事も多いし、特に変な会話ではないだろう。
 しかし、それが何年かとなると、話は違ってくる。彼女の質問はまるで、SF映画でタイムスリップしてきた者が言う台詞だ。

「……二〇二X年の七月だけど?」
「え……!?」

 海殊が迷いながら答えると、琴葉は思いのほか驚いていた。
 立ち止まって愕然としたまま、その青くて綺麗な瞳を揺らしている。

「え? どうした?」

 困惑するのは海殊も同じだ。ただ年数を言って、そこまで驚かれるとも思っていなかったのだ。
 これが年末年始なら前年と勘違いする事もあるだろう。しかし、今はもう七月だ。二〇二X年になって、もう半年以上が経っている。それを今更驚く意味がわからなかった。

「う、ううん……何でもない。そうだよ、ね。二〇二X年だよね……何言ってんだろ、私」

 海殊が怪訝そうにしていると、てへへ、と恥ずかしそうに笑って、琴葉は再び俯いた。表情は見えないが、その肩は沈んでいる様に見える。
 ろくに自分の事を話さず、季節外れな服装で外でひとり佇んでいる少女……そして、今年が何年かと訊いてくる始末だ。それはあまりに不自然だった。

(……まさか、本当にタイムマシンで過去に戻ってきたとかじゃないよな? 特異点を間違えて戻る予定の時間がズレたとか?)

 一瞬、そんな事を考えてしまう。本の読みすぎだと笑われてしまいそうだが、ちょうどこの前読んだ本がそんな内容だったのだ。
 だが、そんな不自然さがあるのに、海殊は彼女の事を気味が悪いとは思えなかった。それよりも何とか彼女を助けたいと思う始末だ。琴葉と名乗った少女も変わっているが、自分も変わり者である事は同じな様だ。

「えっと……ここがうちなんだけど。一応俺の方でもそれっぽい理由考えたから、テキトーに合わせて」

 自宅の前まで辿り着くと、海殊は門扉を開きながら言った。
 さすがに家出少女を拾ったので泊めてやって欲しいというのは無理があると思ったので、他にも理由を考えたのだ。
 本当はもっと打ち合わせたかったのだが、少し話してみて思った事は、彼女はあまり自分の事を話したがらないという事だ。それに、どうやら複雑な家庭っぽいので、どこに地雷があるのかもわからない。海殊も踏み込んでいいのかの判断ができなかったのである。

「うん、ありがとう。頑張って話合わせるね」
「まあ、とりあえず頼むだけ頼んでみるけど……無理でも怨むなよ」

 念の為そう言ってから、玄関ドアを開く。
 ここからが正念場だ。自分自身どうしてこんな事になっているのかさっぱりわからないが、とりあえず何とかなるだろう。何とかならなくても海殊が悪いわけではないし、なるようにしかならない。
 そう思っていたが──

「ほんと、ごめんねえ琴葉ちゃん! お客さん連れてくるなら海殊も先に言いなさいよ、もっと豪勢な夕飯にしたのに!」

 詳しく説明するまでもなく、海殊の母・春子(はるこ)は普通にこの状況を受け入れてしまった。
 今は夜の九時半前といったところだ。結構遅い時間に息子が女を連れて帰ってきたというのに、全く何の障害も生じなかった。
 春子は琴葉に着替えを貸して、濡れた制服を干すと──冬服である事にもノータッチだった──彼女を脱衣所に案内していた。
 今は早速彼女の前に取り皿とスプーンを並べている。一方の琴葉は春子の勢いに押されて、たじたじとした様子で席に座らされていた。
 夕飯のメニューはタコスだったらしくて、丁度三人で食べるには良いメニューだ。テーブルの上にはタコミートと野菜が並べられており、その横にトルティーヤの皮が重ねられている。滝川家では、自分で好きな具材を取ってトルティーヤに乗せて食べるスタイルなのだ。
 昼から何も食べていなかった海殊は、自らの腹がぐうっと鳴ったのを感じた。

「まさか海殊がガールフレンドを連れてくるだなんてねえ。しかも、こんな可愛い子だなんて……あんた、普段女の子に興味ない素振り見せておいて、しっかりしてるじゃない」

 琴葉が着替えている間、春子は小声でそう言った。挙句に「お母さん、息子の成長に泣けてきちゃったわ!」と言いながら、よよよと袖で涙を拭う仕草までしている。
 ガールフレンドなどとは一言も言っていないのだけれど勝手に勘違いされてしまっている様だ。海殊としては頭痛を覚えざるを得ない状況だったが、これはむしろ都合が良かった。

「えっと、それで母さん。今、こいつの親が旅行行ってるみたいでさ、ちょっとの間泊めてやって欲しいんだけど──」
「そんなの、良いに決まってるじゃない! 二泊でも三泊でも、好きなだけ泊まってもらって。二階の空いてる部屋使ってもらっていいから」

 これまた簡単に承諾されてしまった。
 自分から言い出して信じられない海殊である。思わず「えええ……」と困惑の言葉が漏れた程であった。

「あ、琴葉ちゃん。化粧水とか持ってきてる? 持ってきてなかったらあたしの使っていいからね。洗面台に置いてあるから」

 食卓に三人で座ると、早速母が琴葉が話し掛けた。

「え、いいんですか? 持ってきてなくて、どうしようかと思っていたんです」
「ええ、もちろん。若いからって肌ケアを怠るのは禁物よ。こういうのは積み重ねなんだから」
「はい、ありがとうございます!」

 そして、何故か親しくなっている母と謎の家出少女である。母に至っては、もはや海殊よりも琴葉と親しんでいる様にさえ思えた。
 海殊はそんな二人のやり取りを眺めながら、黙々とタコスを食べるしかなかった。自分で切り出しておいて何だが、一番この状況を理解できていないのが彼自身だ。

「あ、そうだ琴葉ちゃん。家事とかできる?」

 食事も後半に差し掛かってきた頃、唐突に春子が琴葉に訊いた。

「家事ですか? 人並みにはできると思いますけど……」
「じゃあ、あたしが不在の時は任せていいかしら? 仕事で夜遅くなる時とか夜勤もたまにあって、どうしても溜めがちになっちゃうのよねえ……この子もあんまり手伝ってくれないし。もちろん、できる範囲で構わないから」

 母はじとっとした視線を息子に送って言った。
 海殊はその視線に気付かないふりをして、トルティーヤを丸めて口の中に放り込んだ。もはや一番会話についていけてない。
 隣の琴葉はそんな海殊を見て微笑むと、「はい、任せて下さい」と嫣然として返事をするのだった。

(なんかよくわかんないけど……上手く運んでるなら、いいのかな)

 思っていた展開と全く異なったが、とりあえずこっそりと安堵の息を吐く。

(それにしても……何で俺、ここまでこの子の為に必死になってるのかな)

 タコスをもぐもぐと美味しそうに食べる琴葉の横顔をちらりと見て、ふとそう思う。
 今日の一連の行動はどれをとっても自分らしくなかった。しかし、それでも海殊には彼女を放っておくという選択などなかった様に思うのだ。そこにあったのは、義務感や使命感。まるで運命に導かれる様にして、琴葉に声を掛けていた。公園で雨に濡れて不安そうにしている彼女を、見過ごす事などできなかったのだ。
 そして、母と楽しそうに話している琴葉を見て、自分の直感は間違いではなかったと思うのだった。
「……それで? あの子は何?」

 食事を終えた頃合いで風呂が沸いたので、雨に打たれていた琴葉(ことは)に先に風呂に入ってもらった時である。母の春子(はるこ)が唐突に訊いてきた。

「え?」
「カノジョじゃないんでしょ?」
「……わかってたのか」
「そりゃあね。もうかれこれ十七年以上あんたのお母さんやってますから」

 さすがに最初はびっくりしたけどね、と春子は付け足して笑った。
 海殊(みこと)は素直に驚いた。母は全て嘘だと見抜いた上で、その嘘に付き合っていたのである。できるだけ自然に、そして琴葉が違和感なく過ごせる様に接していたのだ。

「正直言うと、俺もわからないんだ」
「はあ?」
「でも、放っておけなかった」

 息子の言葉に母は怪訝そうに首を傾げていたが、そう答えるしかなかった。それ以外に、海殊の行動の動機などなかったのだから。
 海殊はそれから、今日あった事を話した。
 今日あった事と言っても、大したものではない。図書館帰りに公園で雨に打たれている女の子と出会って、どうしても放っておけなくて声を掛けてしまっただけである。
 海殊と琴葉の関係などそれしかなかったのだ。同じ学校ではある様だが、これまで校舎で会った事もなければ、見掛けた事もない。完全に赤の他人なのである。

「家出してるの?」
「……多分」
「多分って、あんたねぇ……」

 息子の答えに、春子は再度呆れ返って嘆息した。
 ただ、母のその気持ちは海殊が一番よく理解している。彼自身が自分の状況をわかっていないし、自分の行動原理もわかっていないのだ。普段の自分なら絶対にやらない事を立て続けにしてしまっているので、母が理解に苦しむのも仕方ない。
 春子はもう一度大きな溜め息を吐くと、立ち上がった。

「ま、何でもいいけど、無理のない範囲でね」
「え?」

 これまた母の意外な言葉に、海殊は驚いて顔を上げた。この母親は、本当に今のこのよくわからない状況を受け入れてくれるというのだ。

「とりあえず守って欲しい事は、向こうの親御さんに迷惑を掛けない事かな。それと、もし掛けちゃったなら、すぐにあたしにちゃんと報告する事。あたしも一緒に事情を説明して、謝りに行ってあげるから」
「母さん……」

 もともと理解のある親(というよりは放任主義なのだけれど)だとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。
 これはこれで、心配になってしまう。家出少女を匿うというのは、色々面倒を引き起こすのではないかとも思えたからだ。
 それに関して春子は「まあ、学校には行くんなら大丈夫じゃない?」と楽観的だった。どうしても連れ戻したければ親が学校までくるだろうし、それはもはや琴葉の家庭の問題なので、自分はタッチするつもりはないと春子は言う。

「どうしてそこまでしてくれるんだ。明らかに俺の採っている行動は変だし、おかしいだろ」

 海殊がそう言うと、母は「まあね」と呆れた様子で眉を下げた。

「でもさ……あんたの母親を十七年以上してるって言ったけど、こうしてあたしに嘘吐いてまで何かしようとしたのは今回が初めてじゃない? だから、きっと……引けない理由があるのかなって思ったわけよ」

 めちゃくちゃ可愛い子だしね、と付け加えて、春子は悪戯げに笑った。
 言われてみれば、そうなのかもしれない。
 海殊は所謂デキの良い子供で、これまでの人生でわがままなども殆ど言った覚えがなかった。それはうちが片親で、女手ひとつで自分を育ててくれている春子には心から感謝していたからだ。親にはできるだけ迷惑を掛けない様にして生きなければならないと無意識下に思っていたのである。

「もちろん、何もチェックしてないわけじゃないわよ? 話した感じ何か裏があるタイプでもないし、色仕掛けをする様な子でもなさそうだし……この子なら大丈夫かなって」

 どうやら母は、先程の食事中の会話で琴葉の本質に迫る様な質問をいくつか投げかけていたらしい。
 海殊からすればただの日常会話にしか思えなかったのだが、質問をした時の表情や仕草などから色々な情報を読み取り、その判断に至ったそうだ。女とは恐ろしい生き物である。

「それで……母さんはどう思ったの? 琴葉の事」
「んー、普通に良い子なんじゃない? どうして家出なんかするんだろうって思うくらいには優等生ってイメージよ。何かあるんじゃないかって思うけど……でも、あとはあんたと同じかな」
「え? 同じって?」
「なんだか、放っておけなかったのよ。守ってあげたいとかそういう庇護欲とは違うんだけど……力になってあげなくちゃいけないっていう義務感、みたいな感じ?」

 海殊は母のその言葉にも驚いた。どうやら、潜在的に自分と同じイメージを春子も抱いていたのだ。

「だから、あんたがそう感じてるなら、全力であの子の力になってあげなさい。あ、でも無理矢理はダメよ? 合意があるならもちろんいいんだけど」
「……ちょっと待った。後半は何か話が変わった気がするんだけど」
「そうなの? こんなに理解ある親他にいないわよ~? 感謝しなさいね。ま、あとは頑張んなさい」

 ほほほ、と春子はわざとらしく笑って、二階へと上がっていった。琴葉の布団を敷くつもりなのだろう。滝川家は一軒家だが、二階には来客用の空き部屋があるのだ。

「まあ……こんなむちゃくちゃな状況を受け入れてくれる器の大きさには感謝してるよ」

 海殊は大きく溜め息を吐いて、そう独り言ちた。
 とりあえず何とか諸々は乗り越えたらしい事に、まずは安堵する。無論、自分の行動がどこに向かっているかなど、わかるはずがないのだけれど。
 自分の部屋に、ほぼ初対面の女の子がいる──海殊(みこと)はそんなどうしようもないむず痒さと人生で初めての経験に緊張を覚えながらも、お風呂上がりの琴葉(ことは)をちらりと見る。
 今、彼女は母のスウェットズボンに海殊のTシャツを着ている。下着を着けているのかどうかは、考えない様にしていた。
 自分や母親と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女の長く綺麗な黒髪からは良い匂いがふわふわ漂っていて、その匂いだけで胸の高鳴りを覚える。

「それで……俺は、どこまで聞いていいんだ?」
「え?」

 海殊の唐突な質問に、本棚の本をじーっと見ていた琴葉が驚いてこちらを見た。

「いや、事情とかさ。母さんはあんな感じで楽観的だけど、実際家出状態なんだろ? 警察とかに捜索願出されでもしたら」
「……それはないよ」

 海殊の質問に対して少女は諦めた様に笑うと、はっきりとそう言った。
 もしかすると、海殊が考える以上に琴葉の家庭環境は複雑なのかもしれない。

「もしね……もし、私の事が邪魔だったり、迷惑なんだったらすぐに言ってね。居なくなるから」
「……居なくなる?」

 海殊は彼女の用いた表現に違和感を抱いた。
 普通、こういった時に用いる言葉は「出て行く」「帰る」などの表現が正しい様に思う。しかし、彼女は「居なくなる」と言った。それはまるで、自分の存在そのものが消えてしまう様な表現だ。

「……別に邪魔でも迷惑でもないけどさ。もし何かあった時に対応できなかったら、大変だなって思っただけだよ」
「そこは、大丈夫だから」

 まるで断言する様に言い、琴葉は本棚へと視線を戻した。
 彼女はこういった表現をする事が多い。まるで未来を知っているかの様な発言だ。本当に未来からきたSF少女なのかと若干疑ってしまう。
 だが、その疑いを晴らす言葉も後に出てくる。それが──

「あっ、この小説新刊出てたんだ。って、えっ!? 完結してる!?」

 琴葉は『想い出と君の狭間で』という恋愛小説の最終巻を手に取ったかと思えば、帯を見て吃驚(きっきょう)の声を上げた。
 それは海殊が好きな小説の一つで、元芸能人の今カノと現役芸能人の元カノの間で主人公が振り回される恋愛小説だ。一昨年の春、確か海殊が高校に入学する前に一巻が出て、()()()()()三巻で完結している。

「これ、読んでいい?」

 琴葉は二巻と三巻を手に取ると、瞳を輝かせて訊いてくる。

「……どうぞ」

 海殊が小さく嘆息して肩を竦めると、彼女は早速二巻のページをめくっていた。
 自分が気に入っている小説を同じく気に入ってくれているのは嬉しい。だが、そこにも違和感があった。もし彼女が未来から来たSF少女なら、この小説が三巻で完結している事も知っているだろうし、そこに驚くはずがないのだ。
 それに、こういった事はこれが初めてではない。先程食事中にテレビを見ていて、半年前に有名芸人コンビが解散していた事にも驚いていたし、ある有名人が故人になっていた事についても困惑していた。その様子はまるで、過去から未来に来て未知の情報に遭遇して驚いている様でもあったのだ。
 未来が確定しているかの様に断言する事もあれば、過去の事象を知って困惑もする。はっきり言って、彼女には不自然な事が多すぎた。

(……考え過ぎか。実際、そんな事あるわけないし)

 海殊の部屋のクッションに座って二巻を読み進めている琴葉を見て、もう一度小さく溜め息を吐く。
 少し頭がこんがらがっているのかもしれない。あまりに自分が普段と異なる行動を取っているものだから、きっと疲れているのだろう。

「海殊くんは、(りん)玲華(れいか)、どっちが好き?」

 数ページめくったところで、琴葉が訊いてきた。
 彼女の言う『凛と玲華』とは、『想い出と君の狭間で』に登場するヒロインで、主人公の今カノと元カノだ。性格が似ている様で真逆で、主人公に対する接し方も全く異なる。好みが分かれるところだ。

「あー……どっちだろうな。玲華の執念も嫌いじゃないけど、真面目でひたむきに頑張る凛の方が好きかな」

 海殊は正直に答えた。実際にこの小説では今カノの凛が勝つわけなのだが、それは三巻で結末が出る。三巻での玲華の見せ場は胸にくるものがあって、多くの読者が彼女に惹きつけられるのだけれど、そこに関しては触れない方が良いだろう。

「琴葉は?」
「私も凛派だよ。気が合うね」

 琴葉はそう答えると、嬉しそうにくすくす笑った。
 その時に見せた彼女の笑顔があまりに可愛くて、海殊は今日何度目かの高い胸の高鳴りを感じてしまい、咄嗟に彼女から視線を逸らす。

「で、明日はどうするんだよ」

 そんな自分の感情を隠す為、海殊はぶっきらぼうな物言いで話題を変えた。彼女に内面を悟られるのが嫌だったのだ。

「どうするって?」

 琴葉はきょとんとして首を傾げた。

「学校だよ。行くんだろ?」
「え……!? あ、えっと……うん。行くよ?」

 どこか驚いた様な、困惑しているかの様な反応。

「もしかして、家出な上に不登校?」
「違うから!」

 そんなやり取りをするも、それはどこか暖かくて楽しくて。海殊は自らの胸の中がぽかぽかとしていくのを感じていた。

「じゃあ、えっと……この本借りるね」
「ああ、お好きにどうぞ。朝、寝坊するなよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」

 そんな挨拶をして、琴葉が部屋から出て行くのを見送る。彼女は海殊の二つ隣の客間で寝る事になっているのだ。
 ほぼ初対面の女の子がうちに来て、自分のシャツを着ていて、更にその子から「おやすみ」と言われる。
 その何とも不思議な感覚にむず痒さを覚えながらも、海殊は自分の顔がにやけてしまっている事を感じて、思わず頬を叩いた。
 こうして、海殊と見ず知らずの家出少女との奇妙な同居生活は始まったのだった。
「いってらっしゃい」
「「いってきます」」

 二人の声が重なって、共に同じ玄関から出て行く。
 母・春子(はるこ)は戸惑いを覚えている海殊(みこと)を面白そうに眺めがながら、二人に手を振っていた。
 こうして誰かと共に母に送り出されるなど、十七年ほど春子の息子をやっている海殊にとって初めての経験だ。無論、その重なった声の主は、昨日から突如として居候と化した一年生の水谷琴葉(みずたにことは)である。

「なんだか新鮮だね」

 二人で通学路を歩いていると、琴葉がくすくす笑って言った。

「そりゃこっちの台詞だよ……朝から心臓停まりそうになったわけだし」

 海殊は眉間を親指と人差し指で押さえながら、朝から大きな溜め息を吐く。
 身体を揺すられて目が覚めたと思えば、見知らぬ少女が顔を覗き込んでいたのだ。朝から声が出ぬ程驚いたのである。

「せっかく女の子が朝から起こしにいってあげたっていうのに、『ひぃっ』はひどいと思うよ? 傷付いちゃった」
「そりゃ驚きもするだろ。今まで誰かに起こされるなんて経験、した事なかったんだから」

 春子は生活が不規則なので、基本的に朝の身支度は海殊一人でやっている。それは小学生の頃から変わらない日常だった。それがいきなり、年の近い女の子に起こされたのだ。驚きもするだろう。そして、本当に驚いた時、人間という生き物は声すら出ないで固まってしまうのだな、と海殊は新たな発見を得たのだった。
 小さく嘆息して、横目で琴葉を見る。
 彼女は長袖のワイシャツにスカートという組み合わせで、ブレザーは家に置いてきた。夏服や鞄を取りに帰らないのかと訊いてみたが、彼女は困り顔で首を横にふるふると振っただけだった。
 ちなみに彼女が持っている鞄も、海殊の予備のものだ。彼女は着の身着のままで家出してきており、鞄ももちろん持っていなかった。さすがに鞄も持たずに登校は不自然だろうと思い、貸してやったのである。ちなみに鞄の中身は、彼女によって選別された小説が何冊か入っている。
 琴葉は読書が好きらしく、好みの作品も結構似通っていた。彼女が読んでいた本は大抵海殊も読んでいたので、話は自然と弾む。彼女も海殊と同じくスマホよりも読書派なので、感覚が近い事も幸いだ。登校中の話題はもっぱら本の事だった。

「私が読みたい本、海殊くんが大抵持ってたから助かっちゃった」
「授業はちゃんと聞いておけよ。一年で遅れたら、二年以降取返しつかなくなるから」
「……うん、そうだね。気をつけるね」

 読む気満々じゃないか、とツッコミを入れようと思ったが、(すんで)の所で言うのをやめた。不毛な争いであるし、退屈な授業中にこっそりと本を読んだ経験は自分にもあったからだ。
 海殊は頭を掻いて、視線を信号機に向ける。青色が点滅していたので、無理に走る事なく一度立ち止まった。

「海殊くんは、点滅してたらちゃんと止まるんだね」

 琴葉は赤色に変わった信号機を見て、ぽそりと呟いた。

「ん? まあ、急いでないからな。あんまり走りたくないし」

 スマートフォンの時計を見て、そう答えた。始業まで時間の余裕は十分だ。わざわざ走る必要もないだろう。

「うん、それがいいよ。点滅したら、無理に渡ろうとしない方がいいと思う」
「……? そりゃそうだ」

 なんだか小学生みたいなやり取りをしているなと思いながらも、海殊は頷いた。
 彼女の言葉に誤りはないし、その通りだと思ったからだ。とはいえ、遅刻しそうだったら点滅していても無理に渡ろうと思ってしまうのだけれど。
 再度信号が青色に変わってから、二人並んで横断歩道を渡った。この横断歩道を渡ってもう少し歩くと、海殊達の通う海浜法青(かいひんほうせい)高校だ。学校が近付くにつれて生徒も多くなってきて、海殊は自然と顔を引き締めて言葉数が少なくなってくる。

「あ、もしかして緊張してる?」

 そんな海殊の横顔を見て、琴葉が面白そうに訊いてくる。

「うるさいな。緊張して何が悪いんだよ。誰かと登校するなんてなかったんだから、当たり前だろ」
「そうなんだ?」

 彼女は嬉しそうにはにかんで、少し首を傾けた。

「なんだよ。悪いかよ」
「ううん。私も同じだったから」

 黒髪の少女は恥ずかしそうに顔を伏せると、ぽそっとそう呟いた。
 てっきり「やっぱりぼっちなんでしょ」云々言われるとばかり思っていたので、海殊からすれば少し意外な反応だった。

「お前もかよ」
「うん。だって、男の子と登校って初めてだもん。緊張しないわけないよ」

 海殊の言葉に琴葉が同意して、頬を染めた。慣れていないと言いつつ、彼女は何処か楽しげだった。
 そして、そんな彼らの杞憂を証明する様に、二人には周囲の生徒から視線が突き刺さっていた。おそらく、ただ海殊が誰かと登校している、というだけならここまで注目を集めなかっただろう。
 彼らが注目される理由──それは、隣にいるこの水谷琴葉という少女の所為だ。彼女の清楚且つ美しい容姿は、それだけで人目を惹く。

(でも……何で今まで気付かなかったんだろうな)

 ちらりと横の彼女を見て、ふとそんな疑問が浮かんだ。
 後輩と言えども、これだけ可愛い子がいたなら祐樹(ゆうき)あたりが騒いで一度は目にしていそうなものだけれど、これまで水谷琴葉が話題になった事はない。
 ただ、海殊はこれまで恋愛に前向きでもなかったので、敢えて伝えられていなかったという可能性もある。もしかすると、自分はこの高校生活で結構損な事をしていたのではないかな、とこの時初めて海殊は思い至ったのであった。

「海殊くん、何組なの?」

 昇降口で別れようとした時、唐突に琴葉が訊いてきた。

「ん? 五組だけど」
「三年五組?」

 海殊は特に何も考えず、彼女の問いに頷いた。

「わかった。じゃあ、また後でね」

 彼女は何か良い事を思い浮かんだという様な悪戯げな表情をして、鼻歌混じりに一年の教室があるA棟へと歩いていく。この時、海殊は一瞬嫌な予感がしたが、その予感を振り払う様に三年の教室があるC棟へと歩を進めた。

「おい……おいおいおいおいおい! 誰なんだよ、あの子は!」

 その時、後ろから声が掛けられた。声を掛けてきたのは友人の須本祐樹(すもとゆうき)と、同じクラスの男子二人だ。
 彼らは琴葉の背を震える指で差しながら、顔を青くしていた。

「おい、海殊(みこと)! お前、全然女の子に興味ない振りしておきながら、何であんな可愛い子と一緒に登校してんだよ! 誰だよ、あの子! あんな可愛い子、僕も初めて見たぞ!」

 祐樹が激昂して海殊に詰め寄ってくる。
 一番面倒な奴らに見られたな、と思ったが、今更どうしようもない。海殊は小さく息を吐くと、「一年の水谷琴葉だよ」と正直に応えた。
 女の子の事を常日頃からチェックしている祐樹だ。名前を言えば伝わるかと思ったが、祐樹は意外にも首を傾げた。

「水谷琴葉……? 知らないな。お前知ってるか?」

 祐樹が隣の男子に訊いたが、彼も首を横に振る。

「あんなに可愛い子がいたら、一年とは言え話題にはなってるはずなんだけど」
「二組の真昼ちゃん級、いや、それ以上か……?」

 男達はひそひそ声でそんな会話を交わす。
 どうやら彼らの判断基準には三年二組の真昼ちゃんとやらがいるらしい。尤も、その真昼ちゃんとやらについて全く知らない海殊にとっては、どうでも良い情報だった。
 琴葉についてああだこうだ問い詰められるのも面倒だと思い、海殊は先に教室に向かった。

「あ、そういえばさ」

 廊下を歩いている際、クラスメイトの一人がふと言葉を漏らした。

「そういや俺らの入学当初にもいなかったっけ、真昼ちゃん級に可愛いって言われてた子。結局俺は見た事なかったけど」
「あー、そういえばいたなぁ。顔も名前も覚えてないけど、どこ行っちゃったんだろ?」
「知らない間に見なくなってたけど、辞めちゃったのかねえ」

 祐樹とクラスメイトがそんな会話を交わしてくる。
 合間に「海殊は覚えてる?」と訊かれたが、訊く相手を完全に間違えている。その誰もが知っている風の真昼ちゃんとやらについてさえ知らない海殊が、二年以上前の話を覚えているはずないのだ。
 彼は首を横に振って、素直に「知らないよ」と答えた。

(それにしても、祐樹達でさえ琴葉を知らないのか)

 てっきり彼らは学校中の可愛い女の子について認知しているものだと思っていたが、意外な事もあるものだ。

(これを機に面倒な事にならなきゃいいけど……)

 彼女がいるはずのA棟を窓から見やると、海殊は小さく溜め息を吐いた。
 海殊(みこと)が朝に感じた嫌な予感は、昼休みに見事的中した。
 昼休みに入って祐樹(ゆうき)含むクラスメイト達と昼食を取ろうとした時だ。不意に、クラスの女子から「滝川くん」と声を掛けられた。海殊がそちらに顔を向けると、彼女は教室の入口を親指で指差した。

「お客さんよ。一年生の」
「は……?」

 誰だろうと彼女の親指の先に視線を向けると、教室扉の前には長く艶やかな黒髪が印象的な美少女がいた。手にはお弁当袋とお茶のペットボトルを持っている。
 青いリボンを首につけている事から、一年生である事は間違いない。そして、自分に話し掛けてくる一年生など、彼は一人しか心当たりがなかった。水谷琴葉(みずたにことは)だ。
 琴葉は少し恥ずかしそうにしながら、教室の入り口から海殊に小さく手を振っている。

「ちょ、琴葉! お前何しに来てんだよ」

 祐樹達に問い詰められる前に、海殊は慌てて廊下へと出た。
 クラスメイト達が騒然としているが、気にしている余裕はない。いや、気にしたら負けだ。

「えへへ、来ちゃった」

 悪びれた様子もなく、琴葉ははにかんだ。

「来ちゃった、じゃないよ! 何しに来たんだよ」

 背中に穴が開きそうなほど視線を感じながら、海殊は再度問い詰める。眉間の奥に激しい頭痛を感じたのは言うまでもない。

「お昼、海殊くんと一緒に食べたいなって。ダメ?」
「ダメって……お前、そんなの同じ学年の──」

 そう言い掛けて、(すんで)の所で思い留まった。昨日彼女が泊めてもらえる友達がいないと言っていた事を思い出したのだ。でなければ、海殊の家に泊める事にはならなかった。

「……わかったよ」

 海殊は小さく溜め息を吐くと、自分の席へと戻って弁当箱を取る。
 この間、周囲と目を合わせない様に下を向いて、とにかく速足で移動した。周囲からはひそひそ話が聞こえるが、それももちろん聞こえないふりをしている。生まれてこの方特別目立った事のない彼は、こういった状況の時にどうすべきなのかわからないのだ。

(昨日までの俺の生活、マジでどこ行った……)

 そんな視線や声を感じながら、海殊はもう一度大きな溜め息を吐いた。
 雨の日の夜、公園に佇む少女を気にかけてしまったが為に、彼の日常は壊れつつあった。いや、ほぼ壊れていると言っても過言ではない。
 それに対して全く後悔がないかと言われれば、嘘になる。海殊はこういった目立ち方をするのに慣れていないし、何より目立ちたくなかったのだ。
 ただ──

(何で俺なんかにわざわざ興味持ってくれるんだろうな、この子)

 笑ってはいるものの、彼を訪ねてきた下級生の女の子は明らかに緊張していた。
 一年生なのに、わざわざ三年生の教室まで来るのに緊張しないはずがない。少なくとも彼にはできない事だった。しかし、それでも彼女はこうして海殊に会いに来てくれる。

(なんか、不思議な感覚だよな……)

 これまでの人生で、こうして誰かに呼び出される事などなかった。ましてや女の子となれば、尚更だ。それが嬉しくないかと言われれば、素直に嬉しいと思っている自分もいた。
 それと同時に、自分が普段呼んでいる小説の主人公達はこんな気分なのだろうか、と頭のどこかで考えてしまっている。琴葉が目の前に現れてから、視界や人生が色鮮やかになった様に感じたのだ。それはまるで、ヒロインと出会った直後の主人公の様に。

「……何笑ってんだよ」

 再び琴葉がいる場所まで戻ると、彼女が海殊を見てくすくす笑っていた。不機嫌さを隠さずそう訊いてしまうのも、無理はないだろう。

「海殊くん、顔赤いなって」
「そりゃ赤くもなるだろ……」

 人生で初めて尽くしなのだ。可愛らしい後輩の女の子が自分の事を呼び出しにくるなど、想像もしなかった事である。自分を慕う後輩などいないのだから、当然だ。

「ごめん」
「別に……いいけどさ。あと、お前もちょっと顔赤いからな」
「えっ⁉️」

 あまり悪びれた様子もなく謝るので、そんな意地悪を言ってから廊下を歩き出す。
 琴葉は頬を両手で触れて少し恥ずかしそうにすると、慌てて海殊の半歩後ろを歩いていた。
 実際、海殊もかなり恥ずかしかった。だが、女の子が恥ずかしがりながらも自分を訪ねてくれるのは、悪い気がしない。
 それから二人は、なるべく人通りの少ない場所を目指した。とは言え、琴葉の容姿は人目を惹く事もあって、どこを歩いていても注目されてしまう。なんと言うか、彼女はキラキラとしたオーラの様なものを放っているのだ。
 結局彼らが辿り着いた場所は、校舎裏の誰もいない場所だった。おそらく用務員くらいしか来ない様な、静かな場所だ。
 夏場来る場所にしては暑いが、ここ以外に人が少ない場所がないのだから、仕方がない。

「はあ……やっと落ち着ける」
「そうだね」
「誰のせいだ、誰の」
「ごめんってば」

 琴葉は舌を出してそう言うと、コンクリート部分に腰を降ろした。昨夜の雨の影響で土の部分はまだ湿っているが、建物に面したコンクリート部分に関しては既に乾いていた。

「暑いね」
「ああ」

 昨夜降っていた雨は昨日のうちに止み、今日はカンカン照りだ。今年の梅雨明けは例年より早く、週末か週明けには夏になっているらしい。
 夏を感じさせる日差しに加えて、蝉の鳴き声もうっすら耳に入り始めている。もう夏はすぐ目の前まできていた。

「明日は教室で食べよ?」
「何でそうなるんだよ」
「だって、暑いし」
「じゃあまず半袖と夏用スカートを取りに帰れ」

 見ているだけで暑そうな長袖のワイシャツを一瞥してそう言ってやる。琴葉は今朝と同じ困り顔で「それもそうだね」と言うだけで、取りに帰るとは言わなかった。
 二人して、手元のお弁当箱を開く。春子が珍しく今日は早起きをして作ってくれたお弁当だ。無論、海殊と琴葉のお弁当の中身は同じである。
 春子は生活が不規則なので朝は基本的に寝ている。海殊は基本的にコンビニで昼食を買って過ごすのだが、今日は何故か気合を入れていたらしい。それは、この少女に母親らしいところを見せたかっただろうか。或いは、昨日の夕食に大して良いものを琴葉に食べさせてやれなかった事を悔やんでいたのかもしれない。
 それから海殊達は他愛ない話をしながら、春子の作った弁当を食した。話題と言っても、彼女に貸してやった本の事だ。どうやら琴葉は午前中ずっと本を読んでいたらしい。

「お前、ほんとに大丈夫なのか。授業聞けよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと聞いてるから」

 絶対に嘘だ。海殊は瞬時にそう確信した。
 ただ、読んだ本について楽しそうに語る琴葉を見ていると、どうにもそれを咎める気分にはならない。一年生ならそれでもいいのかな、とさえ思ってしまう。かく言う彼も一年の頃はろくに授業など聞いていなかった。
 それに、彼女の柔らかい口調と声で語られる話はそれだけで彼の耳を癒してくれて、もっと聞いていたいと思わされてしまう。
 結局琴葉とそうして話しているうちに、昼休みは終わっていた。

「ねえ、滝川くん。ちょっと聞いていい?」

 昼休みが終わる頃合に教室に戻ると、先程琴葉の呼び出しを伝えてくれたクラスの女子が声を掛けてきた。

「ん?」
「さっきの子って、お姉さんとかいる?」

 予想もしなかって質問だった。てっきり色恋云々の話を聞かれるのだとばかり思っていたのだ。
 尤も、色恋云々について聞きたそうな奴は、彼の視界の隅に三人程既にいるので、遅いか早いかの違いでしかないのだが。

「え? どうだろう? 聞いた事ないな」

 というより、琴葉の家族構成など海殊は何も知らなかった。何やら家庭に問題を抱えている様なので、触れていいのかもわからない。

「それがどうかした?」

 琴葉の事を知っているのかと思って聞き返してみるも、彼女は「ううん、きっと私の勘違い」と首を横に振った。

「勘違い?」

 海殊が怪訝そうにオウム返しで訊くと、彼女は腕を組んだままこう言った。

「一年生の頃にあの子とよく似た子がクラスにいたなって……そう思っただけだから」
 ──どうしてこんな事になっているのだろう?
 翌日の昼休み、海殊(みこと)は目の前に広がる光景を見て、そんな感想を抱いていた。
 何故か教室の机で、向かいに琴葉(ことは)が座ってお弁当を食べていた。そして、その周囲を祐樹(ゆうき)達バカ男三人衆が囲んで、姫の様に扱っている。同じクラスの女子から突き刺さる侮蔑の視線、他の男子からの嫉妬の視線、様々なものが海殊達に突き刺さっていた。
 こんな事になったのは他でもない。
 昨日と同じく海殊と昼食を食べようと教室に琴葉が来たタイミングで、海殊が出迎える前に祐樹達が琴葉を教室の中に迎え入れたのだ。そんなに海殊とご飯食べたいならこっちでどうだ、外は暑いだろう、と色々言いくるめられ、琴葉はそのまま教室の中に連れ込まれてしまった。おそらく、今日も彼女が来るのではないかと待ち構えていたらしい。完全にしてやられた。
 その結果、海殊達はクラスメイト達から『下級生の女の子を連れ込んでいる』と侮蔑の眼差しを送られる羽目となった。実際、連れ込んでいるのだから反論のしようがないのだけれど、連れ込んだのは祐樹達三バカであって海殊ではない。自分も同じ様に見られるのは極めて不本意だったが、その下級生の女の子は海殊目的でここに来ているのだから、完全に主犯扱いだ。
 琴葉はと言うと、最初こそ困惑していたが、今ではちゃっかり居座って祐樹達とも溶け込んでいる。奥手なのかと思っていたが、結構コミュニケーション能力が高くて驚いた。そういえば春子ともすぐ仲良くなっていたし、人と話すのが好きなのかもしれない。

「そんで、琴葉ちゃんと海殊はどんな関係なの? まさか、付き合ってるとか?」

 自己紹介もほどほどに、祐樹のバカが琴葉に訊いた。
 さりげなくちゃん付けで呼んでいるところに、心のどこかで海殊は苛っとする。

「そんなわけ──」
「はい、付き合ってます!」

 ない、という海殊の言葉を琴葉が遮った。海殊が咳き込んだのは言うまでもない。

「は!? え!?」
「えええええ!? あの読書オタクの海殊がこんな可愛い彼女を……!?」
「ちくしょう……ちくしょおおおお!」

 三バカが困惑の声を上げているが、もっと困惑しているのは海殊の方だった。
 告白した覚えもされた覚えもないのに、いきなり付き合っている事になっているのだ。意味がわからなかった。

「ちょ、ちょっと待て……俺がいつからお前と付き合った事になってるんだ?」
「一昨日からだよ?」

 少し顔を赤らめて、恥ずかしそうに海殊を見る琴葉。

(いやいや。一昨日は俺達が出会っただけで、付き合ったわけじゃないだろうに)

 そうツッコミを入れそうになったが、余計にややこしくなるので言葉にするのはやめた。
 その一昨日に出会った女の子を家に連れ帰って一緒に住ませているのだ。付き合っているよりもっと酷い(?)状態なのである。
 万が一琴葉にそれをここで言われてしまうと、海殊の高校生活は色々終わってしまう。それこそ下級生を家に連れ込んでいるなどと知られたら、どんな扱いを受けるかわかったものではない。
 琴葉は目元だけで海殊に笑みを作ってみせる。その笑みはまるで『否定すればどうなるかわかっているだろうな?』とでも言いたげだった。

(……自覚がないまま初カノができてるって、どうなの?)

 海殊は心底大きな溜め息を吐いて、「そうだったな」と言葉を押し出す。

「それで! どっちから告ったの!? まさか、海殊から!?」
「いえ、告白は私からです。でも、海殊くんもまんざらでもない感じだったので」

 私が勇気を振り絞りました、と琴葉は恥じらいながらそう付け足した。
 どうやら、知らない間に海殊は彼女から告白されていたらしい。しかも知らない間にまんざらでもない感じになっていたそうだ。
 もはや収集がつく状態ではなく、こうなってしまったら琴葉に話を合わせる方が楽だったので、彼女の言葉に合わせて話を作っていく。
 どうやら海殊は市立図書館で琴葉と出会っていたそうで、本棚の高い位置にあった本を彼が代わりに取ってやったらしい。それを切っ掛けに仲睦まじくなって、一昨日公園で琴葉から告白したのだという。

(なんだ、その恋愛小説でありがちな設定は……っていうかそれ、どっかで読んだ事あるぞ)

 海殊は眉間の奥に頭痛を感じながら、琴葉の説明に同意していた。もうどうにでもなれ、の気持ちだ。
 変に逆らうとどんな設定を付け足されるのかわかったものではないので、とりあえず同意しておく方が楽だと判断したのだ。それに、その一昨日からうちの居候になっている事をバラされる方が怖い。告白されて付き合ったその日に家に連れ込まれた、などと言われたら、それこそ人生の終焉を迎えてしまう。
 ちなみに、琴葉が話した海殊との馴れ初めは、彼も読んだ事のある恋愛小説とまんま同じだった。完全パクリだが、本を読まない三バカが気付くはずもない。

(まあ……嫌じゃないんだけど、さ)

 祐樹達三バカトリオに笑顔で話す琴葉を見て、なんとなくそんな感想を抱いてしまう。
 否定しなかったのは、ただ面倒だったからというだけではない。琴葉みたいな子と付き合えたらきっと楽しいだろうな、と心のどこかで思っていたからだ。
 それはきっと、出会った当初から彼女を気にかけてしまっていた事や、昨日も追い返さず一緒に昼休みを過ごした事などからも証明されている。海殊の中では、琴葉と特別な関係であると周囲から誤認されるという事に関して、望んでいた部分もあるのだ。

「そんで、デートは!? デートはしたの!?」

 祐樹が琴葉に興味津々な様子で訊いた。

「それが……まだ誘ってくれなくて」

 海殊をちらりと見て、琴葉はしゅんとして視線を落とす。
 それを見た祐樹達三バカが「ぬぁにぃ!?」と身を乗り出して海殊を睨んだ。

「おいこら海殊! こんな可愛い彼女がいるのにまだデートに誘ってないってどういう事だ!」
「そーだそーだ! ふざけんなよこの甲斐性なし!」

 更なる頭痛が海殊を襲った。
 そもそも一昨日付き合い出したばかりという設定なのだから、デートも糞もないと思うのだが、そのあたりの事はすっ飛ばしているらしい。
 琴葉はと言うと、ちらりとこちらを見て笑いを堪えている。海殊が困っている様子を見て楽しんでいる様だ。

「そうだ、海殊! 明日休みだから、お前らデートしろ!」
「そーだそーだ! デートしろ、デート!」
「は!?」

 確かに明日は学校が臨時休校で休みである。しかし、だからと言っていきなりデートに結びつく意味がわからない。

「いや、でもデートとかした事ないし……」
「それなら僕が手ほどきをしてやる! 僕に任せろ!」

 祐樹がどん、と自らの胸を叩いて言った。
 お前もデートした事ないだろ、というツッコミは彼の名誉の為に何とか胸の中に押し留めた。
 琴葉は緊張した面持ちで海殊の見て、返事を待っていた。クラスの他の連中も聞き耳を立ててこちらの会話を伺っている。この状態では逃げ切る事は難しいだろう。

「じゃあ……明日、デートするか?」

 海殊は視線を明後日の方向に向けながら、訊いた。

「……うん。海殊くんとデート、したいな」

 琴葉が心底嬉しそうにはにかんでそう言うものだから、海殊は「わかったよ」と答えるしかない。
 どういうわけか勝手に付き合っている事になっていて、勝手にデートの予定も立てられていた。半ば無理矢理である事には変わりない。しかし、海殊の中には「どうにでもなれ」という気持ちの他に、別の感情があったのは言うまでもなかった。
「海殊くん、夕飯何がいい?」
「うーん、何でも」
「その返答が一番困るよ……」

 琴葉(ことは)海殊(みこと)の返事に溜め息を吐いて答えて、野菜を見比べる。
 二人は学校帰りにスーパーに寄っていた。今日は春子(はるこ)が夜勤で帰ってこないので、夕飯を琴葉が作る事になっているのだ。
 ちなみに、お昼のお弁当も琴葉がありあわせで作ったものだった。春子が母親らしさを見せられたのは初日だけで、今日はいつも通り寝ていたのだ。
 春子はプログラマーなのだが、日によっては会社で寝泊まりする事がある。何の仕事をしているのかは海殊もよくわかっていないが、それでも高校生が何不自由なく暮らしていけるだけのお金は稼いでいるので、海殊からすれば感謝する他ない。
 そんな母を慮って、大学は学費の少ない国公立を目指しているし、予備校費用も浮かせたいので、可能であれば推薦で決めたいと思っている。尤も、国公立の推薦枠はかなり少ないので、入試対策も平行して行っている次第だ。家でも夕飯を食べた後は勉強している事が多い。

「あ、そうだ。明日はデートだから、お弁当の材料も買わないといけないんだった」
「ほんとに行く気なのかよ」

 呆れ顔で、海殊が溜め息を吐く。
 どういうわけか、学校内では琴葉と付き合った事になっているし、明日デートをする事になっていた。もはや意味がわからなかった。

「うん、もちろんだよ。明日、午前中は下見にいくんでしょ?」
「そうだった……」

 海殊は項垂(うなだ)れて、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。
 そこには『初デートの心得』なるものが長文で祐樹から送りつけられている。デートに行く際は下見にいくだの、予め先に回る予定の場所を見て様子を把握しておくだの、色々書いてあった。
 隣の琴葉も「そうなんだー」と感心しながらそのメッセージを見ていたので、半分くらい下見の意味がなくなっている。
 こういうものは下見をしている事を悟られずに楽しそうに過ごしてもらう事に意味があると思うのだけれども、それを見た琴葉は「じゃあ明日はお昼に駅前に集合しよ?」と提案してきたのだ。そこで海殊の下見をする未来は確定してしまったのである。
 ちなみに場所は『海殊くんの行きたい場所でいい』と全部任されてしまったのだが、それが一番困る解答だ。せめてどこに行きたいとか言ってくれれば、そこに行けばいいだけなのだけれど。

(あ、俺が今夕飯の献立を丸投げしたのも同じようなものか)

 悩まし気に野菜売り場で考えている琴葉の横顔を見て、ふとそう思い至る。

「……俺、今日冷しゃぶがいいな。暑かったし」

 そう言ってやると、琴葉はこちらを見て「わかった!」と顔を輝かせた。
 やはり、こちらから提案してあげた方が嬉しいらしい。

「お弁当のおかずもリクエストした方がいい?」
「うん、その方が嬉しいかも。それにしても、どうしたの?」
「え? 何が?」
「さっきまで『何でもいい』って言ってたのに」

 海殊は「ああ」と頷きながら、レタスを手に取って買い物かごに入れた。

「さっき、デートコースどこでもいいって言われて困ったからさ。夕飯の『何でもいい』ってそれと同じなのかもなって思って」
「確かに!」

 新たな発見だ、とでも言わんばかりに琴葉が手をぽんと叩いた。

「だから、明日どこ行きたいか教えて」

 そして、本題へと持っていく。
 そう、謂わばこの取引をする為の献立提案だ。献立を考える手助けをする代わりに、デートの行先を考えて欲しかったのである。

「それは、海殊くんに考えて欲しいなぁ」

 琴葉は不満げにそう言うと、困り顔で続けた。

「っていうか、ほんと言うと私もわからなかったりして」
「何だそれ」

 海殊が嘆息して琴葉を見ると、彼女はその視線から逃げる様にして野菜の商品棚へと視線を移した。

「だって……デートとか、した事ないし。正解なんてわからないよ」
「じゃあ何であんな事言ったんだよ」

 正解がわからない上に希望のデートもないというのであれば、わざわざ祐樹達の前でデート宣言などしなくても良かったのではないか。ただ海殊をからかう事だけが目的だったのならば、実際にデートをする必要もないはずである。

「ごめん。でも……してみたかったから」

 少しの間を置いて、琴葉がはっきりと言った。
 どうせまた濁されるだろうと思っていたので、海殊は少し驚いて彼女の横顔を見た。
 彼女の視線は商品棚に向けられていたが、その表情は真剣で、それは夕飯を考えている、というものではなかった。後悔や不安、緊張……そういった感情が、確かにそこにはあったのだ。

「……それなら、俺じゃない方が良いだろ。そういうのに疎いし、全然女の子の喜ばせ方なんて知らないし」
「ううん……海殊くんがいい」

 琴葉は恥ずかしそうにはにかむと、そう答えた。

「……そっか。じゃあ、頑張って考えるよ」

 海殊は覚悟を決めて、そう答えた。
 そんな笑顔を見せられたら、期待に応える以外に道はない。全く以てデートなど詳しくはないが、自分にできる精一杯の事をやるしかないだろう。

「うん。明日、楽しみにしてるね」

 琴葉はそんな海殊の返事に満足したのか、嫣然としてそう言ったのだった。
 その言葉と笑顔にむず痒い気持ちを抱きつつも、その甘酸っぱさに心地よさも感じていた。
 なんだかな、と思わないでもない。来年には受験が控えていて──推薦入試に至ってはもうすぐだ──高校最後の夏休みも目前に迫っている。
 そんな自分が、下級生の女の子に引っ張り回されていても良いのだろうか。ただ、どうしてか悪い気はしない。(あまつさ)え楽しいと思えてしまっている次第だ。

(ま……勉強なら別にちゃんとやればいいか)

 明日のお弁当の献立を楽しそうに考える琴葉の横顔を見ると、海殊はその様に考えてしまうのだった。
 翌日、休日にも関わらず海殊(みこと)は街へと出て、下見に来ていた。無論、昨日琴葉(ことは)と話していたデートの下見というやつだ。
 自称〝恋愛マスター〟の祐樹(ゆうき)曰く(彼女いない歴=年齢なのは触れてはいけない)、そうした下準備をしておけば、デートを難なく運べて女の子を喜ばせる事ができるらしい。きっと、何かの雑誌か恋愛マニュアルに書いてある事をそのまま送ってきたのだろう。
 ただ、どうせやるならやるで琴葉に満足して欲しいし、彼女はしっかりとした意思を以て『海殊とデートがしたい』と伝えてくれたのである。これに答えなくては、男が廃るというものだ。
 それに、彼女にもその下見云々のメッセージは読まれてしまっているし、こちらが午前中に下見をする事についても知っている。ここでいざデートの本番で問題が生じれば、それこそ下見をちゃんとしていなかった事がバレてしまうのだ。
 メッセージを見られてしまったせいで、逆に下見をしっかりしなくてはいけない状況に陥ってしまっているとも言えなくはない。

(にしても、この街でデートか。自分でも意外過ぎて笑っちゃうな)

 海殊は溜め息を吐きながら、スマートフォンで昨日開いたホームページを履歴から開く。昨夜街のデートスポットページを調べていたのだ。
 ここは東京の西部では栄えている町で、学生の住みたい街ナンバーワンなのだと言う。それもあってか、カフェやショップなど様々なジャンルの店があって、デートスポットとしても有名なのだそうだ。
 海殊からすればほぼ毎日利用している場所なので、デートスポットとして見た事など一度もない。彼の行く場所など本屋かご飯を食べる場所程度だ。
 生まれてこの方ずっとこの街で過ごしてきた海殊としては、この町でデートをするという実感もなかった。

(えっと、どういう順番でいけばいいのかな)

 スマートフォンのデジタル時計は十時を示していた。待ち合わせは十二時だ。お昼に待ち合わせでお弁当を作ってくると言っていたので、先にご飯を食べられる場所を見ておいた方がいいだろう。
 海殊はそう思い立って、駅の南口から公園へと向かって歩く。
 この公園は大正六年に造られたもので、遥か昔は江戸の水源として有名な景勝地だったそうだ。園内は池周辺や雑木林のある御殿山、運動施設のある西園、第二公園と四区域に分かれていて、池周辺は低地、御殿山周辺は高台になっている。変化に富んだ景観が楽しめるので、老若男女の人気スポットなのだと言う。
 海殊もたまに公園を散歩するが、いつでも人が多いというイメージだった。土日となれば大道芸人や路上ライブミュージシャンなども出て各々の芸を披露していた事を思い出し、確かにデート向きだなと思い至る。
 早速その公園を目指して、公園通りを歩いていった。
 公園通りでは、コンビニやカフェの他、インテリアグッズ売り場や洋服店などが立ち並ぶ。どうやらデートというのは、こういった場所を一緒に見て楽しむものだそうだ。

(あー……そういえばここのソーセージ、いつも視界に入るけど食べた事ないな)

 通りに面したドイツ料理屋を見て、ふと思う。そのドイツ料理屋は店内で食事を楽しむ事ができる他、ソーセージを買い食いできる様に店頭販売も行っているのだ。

(もしお腹に余裕があったら、ここで買い食いしてみるのもいいかもしれない……って、なるほど。これが下見の意味か)

 祐樹にしてはやるな、と思いながら、スマホにメモを書いていく。
 こうした思いつきを増やす為の下見なのだろう。デートとは大変なものだ。
 それから公園をぐるっと回ってものを食べられそうな場所に目安をつけてから、駅の反対側の商店街の方にも回ってみる。こちらの方は本屋や食べ物屋以外にも、ROFTやデパートなども多い。見て回る分には困らないだろう。
 見て回るだけでデートとして成り立つのかは不明だが、カップルらしき人達が店を見て回っているので、きっとこういうものなのだ。そこに意味や意義などは必要ないのだろう。
 祐樹から送られてきたメッセージによると、自分の好きなものを分かち合えるデートでなければ意味がないらしい。その自分の好きなものを分かち合えれば互いに良い関係を築けるし、それが分かち合ってもらえなければ例え付き合ったとしても長続きしないだろうとの事だ。
 これまた祐樹のくせにそれっぽいことを言うものだから、何だか癪だった。
 海殊は目をつけていたアンティークショップとブックカフェへと行く。場所と雰囲気を確認していた頃、スマートフォンがぶるぶるっと震えて、メッセージの着信を教えてくれた。メッセージは母・春子(はるこ)からだった。

『琴葉ちゃん、もう待ち合わせ場所にいるわよ。楽しみにしているがいい!』

 どうして母親がわざわざメッセージを送ってくるんだと思ったが、そう言えば琴葉はスマートフォンを持っていない。家に置いてきたままだと言うので、彼女の代わりにメッセージを送ったのかもしれない。
 後半については意味がわからなかったので、もはや触れようとも思わなかった。

(あ、やっべ。もう待ち合わせの十分前じゃんか)

 スマートフォンのデジタル時計を指す時間を見ると、時刻は十一時五十分。真剣に見て回っていたせいで、すっかりと時間を忘れてしまっていたらしい。

(やれやれ、すっかりペースにはまってるな)

 海殊は普段と異なる自分の休日に呆れながらも、どこか高揚感を隠せないでいたのだった。
 琴葉(ことは)はもう既に待っているらしいので、急いで待ち合わせ場所に向かった。デートの下見に行っていて女の子を待たせるのは、あまりにかっこ悪い。
 それに、琴葉の容姿だ。あまり待たせれば、声を掛けられてしまうかもしれない。争い事が苦手な海殊からすれば、そういった面倒は避けたかった。
 駅ナカの通路を抜けて、エスカレーターを上がる。待ち合わせの場所の南口だ。

(そういえば『楽しみにしてろ』って母さんのメッセージに書いてあったけど、何の事だろうか?)

 海殊はふと春子からのメッセージを思い返すが、その答えはエスカレーターを上がってすぐにわかった。探すまでもなく、一瞬にして人目を惹く女の子が視界に入ってきたのだ。
 まるで天使の様に白い女の子が、切符販売機の近くで佇んでいる。恥ずかしそうにもじもじとしながら、ランチボックスの取っ手部分を爪でかりかりと削っていた。
 琴葉は白い無地のボタンデートワンピースを纏っていた。ハイウェストで絞められたベルトが、彼女の身体のラインの細さを際立たせている。ポロネックになっているせいか、どことなく大人っぽい雰囲気すら感じさせられた。透け感もあるが、それが決して下品ではなくて、彼女の雰囲気も相まってより清楚さを強めている様にも思える。
 遠くから見ても、一瞬で目を奪われて釘付けになってしまった。それほどまでに彼女は美しかったのだ。それを象徴すべく、周囲の男達も彼女に視線を送っている。
 琴葉は海殊に気付くと、小さく手を振ってから小走りで駆け寄ってきた。手に持っていたランチボックスが揺れている。

「急がせちゃった?」
「いや、全然。こっちこそなんか待たせてちゃってごめんな。てか、その服どうした?」
「あ、うん……今日海殊くんとデートするって言ったら、おばさんが服を買ってくれて」
「ああ、それでか」

 そこでようやく『楽しみにしてろ』のメッセージの意味がわかった。春子が琴葉の服を見繕ったのだろう。

「それで……どう?」
「え?」
「ちょっと大人っぽいかなって思ったんだけど……似合ってる、かな」

 琴葉は自信無さげに、上目で見ながら訊いてきた。その仕草があまりに可愛くて、海殊の心臓が高鳴る。

「あっ……うん。可愛いと思うよ」
「そ、そっか。ありがとう」

 素直に本心を答えると、彼女は面映ゆげにはにかんだ。

「じゃあ、えっと……行こうか」
「うんっ」

 こうして、初めてのデートが始まった。
 まずは最初に予定していた通り、公園に向かった。お弁当を食べられる場所も予め下見してあるので、場所探しでおろおろする必要もなかった。もちろん、日陰のベストスポットだ。このあたりは下見の成果である。
 ただ、彼女は彼女で服を買う為に早めに出掛ける事になり、予定の半分もお弁当を作れなかったのだと言う。結果、手早く作れるサンドイッチだけになったのだそうだ。

「ああ……それなら、後で買い食いでもしようか」

 それを聞いて、海殊はすぐさま提案する。先程見掛けた公園通りのドイツ料理屋さんが思い浮かんだのだ。
 こうした不測の事態に対応できるのも、下見の成果と言えるだろう。
 それから夏の公園できゃっきゃと遊ぶ子供達の声やデートをするカップルを眺めながら、木陰のベンチで琴葉の作ったサンドイッチを食した。
 今日から梅雨明けだそうで、天気は良好。夏の日差しが容赦なく降りかかっているが、それでも木陰にいるとあまり暑さは感じない。ミンミンゼミが喧しく鳴いているけれど、時折吹いてくる涼しい風が心地良かった。
 そんな夏の景色が、彼女の作ったサンドイッチの味をよりよくしている。

(こんな時間を過ごせるとは思わなかったな……)

 お茶を飲みつつ原っぱで子供達が炎天下で遊び回るのを眺めながら、海殊はふとそんな事を思う。
 彼はどちらかと言うと、インドアだ。こうして夏に外で昼食を取るという選択肢などこれまでになかった。
 だが、たまにはこうして自然に触れながら食事を摂るのも悪くないな、と思わされたのだ。
 そう思えた要因にはきっと彼女が隣にいるからなのだろう──そう思って琴葉をこっそり盗み見る。
 彼女は何かを懐かしむ様な顔で、原っぱで遊び回る子供達を見ていた。

(あれ……?)

 その表情は何かを懐かしんでいると同時にやけに寂しそうで、横から見ている限り、少し瞳が潤んでいる様にも見えた。

「琴葉……?」

 気になって声を掛けると、彼女は「え?」とこちらを向いて、「あっ」と声を上げた。そして、目尻から零れそうだった涙を慌てて拭う。

「どうした? どこか具合悪いのか?」
「ち、違う違う。ちょっと目にゴミが入っただけだよ。気にしないで」

 そう言って笑う琴葉は、やっぱりどこか寂し気だった。
 尤も、それ以上の事など海殊には踏み込めなかった。複雑な家庭環境にありそうな彼女の懐に、どこまで踏み込んでいいのかの見当もつかなかったからだ。
 昼食を終えてからは公園をぐるっと一周回った。
 人が集まっていたので何だろうと近寄ってみると、大道芸人が持ち芸を披露していた。先程下見をした時にはいなかった人だ。暑い中汗をかきながら、必死に技を見せている。
 中でも、刃物を使った芸は、偽物だとわかっていてもらはらしてしまう。その芸が成功した時は琴葉と一緒に拍手を送った。「すごいすごい!」と嬉しそうに言う琴葉の笑顔が印象的で、大道芸人には悪いけれど、笑顔(こっち)の方が見る価値があると思えてしまう。
 ただ、きっと海殊のそんな内面を芸人も見抜いていたのだろう。オーディエンス参加型の芸の際に「そこの可愛い子ちゃんの横にいる君!」と見事抜擢されてしまって、前に駆り出されて芸を手伝わされる羽目となったのだ。
 結果は、大ミス。高い三輪車に乗る芸人が持つ剣の玩具の上に輪投げを放り投げるだけだったのだが、海殊の投げた輪っかは芸人の顔面に直撃した。周囲の観客は大爆笑で、芸人共々赤っ恥をかくという散々な結末を終えたのだった。

「ああ……最悪だ。死にたい……」

 人前に立つ事に慣れていない上に芸人にも恥をかかせてしまった罪悪感から、海殊は(うずくま)った。
 一方の琴葉は、そんな海殊を見て楽しそうにしている。

「あんまり気落ちしないで、海殊くん。芸人さんも気にしないでって言ってたでしょ?」
「いや、あれ絶対気休めだろ」

 芸が終わった時に、海殊があまりに落ち込んでいるものだから、大道芸人も「よくある事だから気にしないで下さい」と笑って慰めてくれていた。ただ、内心では怒っているに違いない。目が笑っていなかったのである。

「何で俺を選ぶんだよ……」
「きっと、芸人さんも自分じゃなくて、隣の女の子ばっかり見てる海殊くんが気に入らなかったんじゃないかなー」
「え、何で知ってるんだよ!?」

 琴葉の指摘に、海殊が吃驚(きっきょう)の声を上げた。
 盗み見ている事がバレているとは思っていなかったのだ。

「えっ!?」

 それに対して驚いてこちらを見たのは琴葉だ。みるみるうちに顔を赤くしていた。

「え? 何?」
「ご、ごめん……恥ずかしがらせようと思って、冗談で言ってみただけだったんだけど」

 まさか本当に見てたなんて、と付け足して俯いた。

「えっ……」

 互いに地雷を踏んでしまい、二人共黙り込んでしまった。
 そこから少し気まずい思いをしながら、公園を回ったのだった。