「いってらっしゃい」
「「いってきます」」
二人の声が重なって、共に同じ玄関から出て行く。
母・春子は戸惑いを覚えている海殊を面白そうに眺めがながら、二人に手を振っていた。
こうして誰かと共に母に送り出されるなど、十七年ほど春子の息子をやっている海殊にとって初めての経験だ。無論、その重なった声の主は、昨日から突如として居候と化した一年生の水谷琴葉である。
「なんだか新鮮だね」
二人で通学路を歩いていると、琴葉がくすくす笑って言った。
「そりゃこっちの台詞だよ……朝から心臓停まりそうになったわけだし」
海殊は眉間を親指と人差し指で押さえながら、朝から大きな溜め息を吐く。
身体を揺すられて目が覚めたと思えば、見知らぬ少女が顔を覗き込んでいたのだ。朝から声が出ぬ程驚いたのである。
「せっかく女の子が朝から起こしにいってあげたっていうのに、『ひぃっ』はひどいと思うよ? 傷付いちゃった」
「そりゃ驚きもするだろ。今まで誰かに起こされるなんて経験、した事なかったんだから」
春子は生活が不規則なので、基本的に朝の身支度は海殊一人でやっている。それは小学生の頃から変わらない日常だった。それがいきなり、年の近い女の子に起こされたのだ。驚きもするだろう。そして、本当に驚いた時、人間という生き物は声すら出ないで固まってしまうのだな、と海殊は新たな発見を得たのだった。
小さく嘆息して、横目で琴葉を見る。
彼女は長袖のワイシャツにスカートという組み合わせで、ブレザーは家に置いてきた。夏服や鞄を取りに帰らないのかと訊いてみたが、彼女は困り顔で首を横にふるふると振っただけだった。
ちなみに彼女が持っている鞄も、海殊の予備のものだ。彼女は着の身着のままで家出してきており、鞄ももちろん持っていなかった。さすがに鞄も持たずに登校は不自然だろうと思い、貸してやったのである。ちなみに鞄の中身は、彼女によって選別された小説が何冊か入っている。
琴葉は読書が好きらしく、好みの作品も結構似通っていた。彼女が読んでいた本は大抵海殊も読んでいたので、話は自然と弾む。彼女も海殊と同じくスマホよりも読書派なので、感覚が近い事も幸いだ。登校中の話題はもっぱら本の事だった。
「私が読みたい本、海殊くんが大抵持ってたから助かっちゃった」
「授業はちゃんと聞いておけよ。一年で遅れたら、二年以降取返しつかなくなるから」
「……うん、そうだね。気をつけるね」
読む気満々じゃないか、とツッコミを入れようと思ったが、既の所で言うのをやめた。不毛な争いであるし、退屈な授業中にこっそりと本を読んだ経験は自分にもあったからだ。
海殊は頭を掻いて、視線を信号機に向ける。青色が点滅していたので、無理に走る事なく一度立ち止まった。
「海殊くんは、点滅してたらちゃんと止まるんだね」
琴葉は赤色に変わった信号機を見て、ぽそりと呟いた。
「ん? まあ、急いでないからな。あんまり走りたくないし」
スマートフォンの時計を見て、そう答えた。始業まで時間の余裕は十分だ。わざわざ走る必要もないだろう。
「うん、それがいいよ。点滅したら、無理に渡ろうとしない方がいいと思う」
「……? そりゃそうだ」
なんだか小学生みたいなやり取りをしているなと思いながらも、海殊は頷いた。
彼女の言葉に誤りはないし、その通りだと思ったからだ。とはいえ、遅刻しそうだったら点滅していても無理に渡ろうと思ってしまうのだけれど。
再度信号が青色に変わってから、二人並んで横断歩道を渡った。この横断歩道を渡ってもう少し歩くと、海殊達の通う海浜法青高校だ。学校が近付くにつれて生徒も多くなってきて、海殊は自然と顔を引き締めて言葉数が少なくなってくる。
「あ、もしかして緊張してる?」
そんな海殊の横顔を見て、琴葉が面白そうに訊いてくる。
「うるさいな。緊張して何が悪いんだよ。誰かと登校するなんてなかったんだから、当たり前だろ」
「そうなんだ?」
彼女は嬉しそうにはにかんで、少し首を傾けた。
「なんだよ。悪いかよ」
「ううん。私も同じだったから」
黒髪の少女は恥ずかしそうに顔を伏せると、ぽそっとそう呟いた。
てっきり「やっぱりぼっちなんでしょ」云々言われるとばかり思っていたので、海殊からすれば少し意外な反応だった。
「お前もかよ」
「うん。だって、男の子と登校って初めてだもん。緊張しないわけないよ」
海殊の言葉に琴葉が同意して、頬を染めた。慣れていないと言いつつ、彼女は何処か楽しげだった。
そして、そんな彼らの杞憂を証明する様に、二人には周囲の生徒から視線が突き刺さっていた。おそらく、ただ海殊が誰かと登校している、というだけならここまで注目を集めなかっただろう。
彼らが注目される理由──それは、隣にいるこの水谷琴葉という少女の所為だ。彼女の清楚且つ美しい容姿は、それだけで人目を惹く。
(でも……何で今まで気付かなかったんだろうな)
ちらりと横の彼女を見て、ふとそんな疑問が浮かんだ。
後輩と言えども、これだけ可愛い子がいたなら祐樹あたりが騒いで一度は目にしていそうなものだけれど、これまで水谷琴葉が話題になった事はない。
ただ、海殊はこれまで恋愛に前向きでもなかったので、敢えて伝えられていなかったという可能性もある。もしかすると、自分はこの高校生活で結構損な事をしていたのではないかな、とこの時初めて海殊は思い至ったのであった。
「海殊くん、何組なの?」
昇降口で別れようとした時、唐突に琴葉が訊いてきた。
「ん? 五組だけど」
「三年五組?」
海殊は特に何も考えず、彼女の問いに頷いた。
「わかった。じゃあ、また後でね」
彼女は何か良い事を思い浮かんだという様な悪戯げな表情をして、鼻歌混じりに一年の教室があるA棟へと歩いていく。この時、海殊は一瞬嫌な予感がしたが、その予感を振り払う様に三年の教室があるC棟へと歩を進めた。
「おい……おいおいおいおいおい! 誰なんだよ、あの子は!」
その時、後ろから声が掛けられた。声を掛けてきたのは友人の須本祐樹と、同じクラスの男子二人だ。
彼らは琴葉の背を震える指で差しながら、顔を青くしていた。
「おい、海殊! お前、全然女の子に興味ない振りしておきながら、何であんな可愛い子と一緒に登校してんだよ! 誰だよ、あの子! あんな可愛い子、僕も初めて見たぞ!」
祐樹が激昂して海殊に詰め寄ってくる。
一番面倒な奴らに見られたな、と思ったが、今更どうしようもない。海殊は小さく息を吐くと、「一年の水谷琴葉だよ」と正直に応えた。
女の子の事を常日頃からチェックしている祐樹だ。名前を言えば伝わるかと思ったが、祐樹は意外にも首を傾げた。
「水谷琴葉……? 知らないな。お前知ってるか?」
祐樹が隣の男子に訊いたが、彼も首を横に振る。
「あんなに可愛い子がいたら、一年とは言え話題にはなってるはずなんだけど」
「二組の真昼ちゃん級、いや、それ以上か……?」
男達はひそひそ声でそんな会話を交わす。
どうやら彼らの判断基準には三年二組の真昼ちゃんとやらがいるらしい。尤も、その真昼ちゃんとやらについて全く知らない海殊にとっては、どうでも良い情報だった。
琴葉についてああだこうだ問い詰められるのも面倒だと思い、海殊は先に教室に向かった。
「あ、そういえばさ」
廊下を歩いている際、クラスメイトの一人がふと言葉を漏らした。
「そういや俺らの入学当初にもいなかったっけ、真昼ちゃん級に可愛いって言われてた子。結局俺は見た事なかったけど」
「あー、そういえばいたなぁ。顔も名前も覚えてないけど、どこ行っちゃったんだろ?」
「知らない間に見なくなってたけど、辞めちゃったのかねえ」
祐樹とクラスメイトがそんな会話を交わしてくる。
合間に「海殊は覚えてる?」と訊かれたが、訊く相手を完全に間違えている。その誰もが知っている風の真昼ちゃんとやらについてさえ知らない海殊が、二年以上前の話を覚えているはずないのだ。
彼は首を横に振って、素直に「知らないよ」と答えた。
(それにしても、祐樹達でさえ琴葉を知らないのか)
てっきり彼らは学校中の可愛い女の子について認知しているものだと思っていたが、意外な事もあるものだ。
(これを機に面倒な事にならなきゃいいけど……)
彼女がいるはずのA棟を窓から見やると、海殊は小さく溜め息を吐いた。
「「いってきます」」
二人の声が重なって、共に同じ玄関から出て行く。
母・春子は戸惑いを覚えている海殊を面白そうに眺めがながら、二人に手を振っていた。
こうして誰かと共に母に送り出されるなど、十七年ほど春子の息子をやっている海殊にとって初めての経験だ。無論、その重なった声の主は、昨日から突如として居候と化した一年生の水谷琴葉である。
「なんだか新鮮だね」
二人で通学路を歩いていると、琴葉がくすくす笑って言った。
「そりゃこっちの台詞だよ……朝から心臓停まりそうになったわけだし」
海殊は眉間を親指と人差し指で押さえながら、朝から大きな溜め息を吐く。
身体を揺すられて目が覚めたと思えば、見知らぬ少女が顔を覗き込んでいたのだ。朝から声が出ぬ程驚いたのである。
「せっかく女の子が朝から起こしにいってあげたっていうのに、『ひぃっ』はひどいと思うよ? 傷付いちゃった」
「そりゃ驚きもするだろ。今まで誰かに起こされるなんて経験、した事なかったんだから」
春子は生活が不規則なので、基本的に朝の身支度は海殊一人でやっている。それは小学生の頃から変わらない日常だった。それがいきなり、年の近い女の子に起こされたのだ。驚きもするだろう。そして、本当に驚いた時、人間という生き物は声すら出ないで固まってしまうのだな、と海殊は新たな発見を得たのだった。
小さく嘆息して、横目で琴葉を見る。
彼女は長袖のワイシャツにスカートという組み合わせで、ブレザーは家に置いてきた。夏服や鞄を取りに帰らないのかと訊いてみたが、彼女は困り顔で首を横にふるふると振っただけだった。
ちなみに彼女が持っている鞄も、海殊の予備のものだ。彼女は着の身着のままで家出してきており、鞄ももちろん持っていなかった。さすがに鞄も持たずに登校は不自然だろうと思い、貸してやったのである。ちなみに鞄の中身は、彼女によって選別された小説が何冊か入っている。
琴葉は読書が好きらしく、好みの作品も結構似通っていた。彼女が読んでいた本は大抵海殊も読んでいたので、話は自然と弾む。彼女も海殊と同じくスマホよりも読書派なので、感覚が近い事も幸いだ。登校中の話題はもっぱら本の事だった。
「私が読みたい本、海殊くんが大抵持ってたから助かっちゃった」
「授業はちゃんと聞いておけよ。一年で遅れたら、二年以降取返しつかなくなるから」
「……うん、そうだね。気をつけるね」
読む気満々じゃないか、とツッコミを入れようと思ったが、既の所で言うのをやめた。不毛な争いであるし、退屈な授業中にこっそりと本を読んだ経験は自分にもあったからだ。
海殊は頭を掻いて、視線を信号機に向ける。青色が点滅していたので、無理に走る事なく一度立ち止まった。
「海殊くんは、点滅してたらちゃんと止まるんだね」
琴葉は赤色に変わった信号機を見て、ぽそりと呟いた。
「ん? まあ、急いでないからな。あんまり走りたくないし」
スマートフォンの時計を見て、そう答えた。始業まで時間の余裕は十分だ。わざわざ走る必要もないだろう。
「うん、それがいいよ。点滅したら、無理に渡ろうとしない方がいいと思う」
「……? そりゃそうだ」
なんだか小学生みたいなやり取りをしているなと思いながらも、海殊は頷いた。
彼女の言葉に誤りはないし、その通りだと思ったからだ。とはいえ、遅刻しそうだったら点滅していても無理に渡ろうと思ってしまうのだけれど。
再度信号が青色に変わってから、二人並んで横断歩道を渡った。この横断歩道を渡ってもう少し歩くと、海殊達の通う海浜法青高校だ。学校が近付くにつれて生徒も多くなってきて、海殊は自然と顔を引き締めて言葉数が少なくなってくる。
「あ、もしかして緊張してる?」
そんな海殊の横顔を見て、琴葉が面白そうに訊いてくる。
「うるさいな。緊張して何が悪いんだよ。誰かと登校するなんてなかったんだから、当たり前だろ」
「そうなんだ?」
彼女は嬉しそうにはにかんで、少し首を傾けた。
「なんだよ。悪いかよ」
「ううん。私も同じだったから」
黒髪の少女は恥ずかしそうに顔を伏せると、ぽそっとそう呟いた。
てっきり「やっぱりぼっちなんでしょ」云々言われるとばかり思っていたので、海殊からすれば少し意外な反応だった。
「お前もかよ」
「うん。だって、男の子と登校って初めてだもん。緊張しないわけないよ」
海殊の言葉に琴葉が同意して、頬を染めた。慣れていないと言いつつ、彼女は何処か楽しげだった。
そして、そんな彼らの杞憂を証明する様に、二人には周囲の生徒から視線が突き刺さっていた。おそらく、ただ海殊が誰かと登校している、というだけならここまで注目を集めなかっただろう。
彼らが注目される理由──それは、隣にいるこの水谷琴葉という少女の所為だ。彼女の清楚且つ美しい容姿は、それだけで人目を惹く。
(でも……何で今まで気付かなかったんだろうな)
ちらりと横の彼女を見て、ふとそんな疑問が浮かんだ。
後輩と言えども、これだけ可愛い子がいたなら祐樹あたりが騒いで一度は目にしていそうなものだけれど、これまで水谷琴葉が話題になった事はない。
ただ、海殊はこれまで恋愛に前向きでもなかったので、敢えて伝えられていなかったという可能性もある。もしかすると、自分はこの高校生活で結構損な事をしていたのではないかな、とこの時初めて海殊は思い至ったのであった。
「海殊くん、何組なの?」
昇降口で別れようとした時、唐突に琴葉が訊いてきた。
「ん? 五組だけど」
「三年五組?」
海殊は特に何も考えず、彼女の問いに頷いた。
「わかった。じゃあ、また後でね」
彼女は何か良い事を思い浮かんだという様な悪戯げな表情をして、鼻歌混じりに一年の教室があるA棟へと歩いていく。この時、海殊は一瞬嫌な予感がしたが、その予感を振り払う様に三年の教室があるC棟へと歩を進めた。
「おい……おいおいおいおいおい! 誰なんだよ、あの子は!」
その時、後ろから声が掛けられた。声を掛けてきたのは友人の須本祐樹と、同じクラスの男子二人だ。
彼らは琴葉の背を震える指で差しながら、顔を青くしていた。
「おい、海殊! お前、全然女の子に興味ない振りしておきながら、何であんな可愛い子と一緒に登校してんだよ! 誰だよ、あの子! あんな可愛い子、僕も初めて見たぞ!」
祐樹が激昂して海殊に詰め寄ってくる。
一番面倒な奴らに見られたな、と思ったが、今更どうしようもない。海殊は小さく息を吐くと、「一年の水谷琴葉だよ」と正直に応えた。
女の子の事を常日頃からチェックしている祐樹だ。名前を言えば伝わるかと思ったが、祐樹は意外にも首を傾げた。
「水谷琴葉……? 知らないな。お前知ってるか?」
祐樹が隣の男子に訊いたが、彼も首を横に振る。
「あんなに可愛い子がいたら、一年とは言え話題にはなってるはずなんだけど」
「二組の真昼ちゃん級、いや、それ以上か……?」
男達はひそひそ声でそんな会話を交わす。
どうやら彼らの判断基準には三年二組の真昼ちゃんとやらがいるらしい。尤も、その真昼ちゃんとやらについて全く知らない海殊にとっては、どうでも良い情報だった。
琴葉についてああだこうだ問い詰められるのも面倒だと思い、海殊は先に教室に向かった。
「あ、そういえばさ」
廊下を歩いている際、クラスメイトの一人がふと言葉を漏らした。
「そういや俺らの入学当初にもいなかったっけ、真昼ちゃん級に可愛いって言われてた子。結局俺は見た事なかったけど」
「あー、そういえばいたなぁ。顔も名前も覚えてないけど、どこ行っちゃったんだろ?」
「知らない間に見なくなってたけど、辞めちゃったのかねえ」
祐樹とクラスメイトがそんな会話を交わしてくる。
合間に「海殊は覚えてる?」と訊かれたが、訊く相手を完全に間違えている。その誰もが知っている風の真昼ちゃんとやらについてさえ知らない海殊が、二年以上前の話を覚えているはずないのだ。
彼は首を横に振って、素直に「知らないよ」と答えた。
(それにしても、祐樹達でさえ琴葉を知らないのか)
てっきり彼らは学校中の可愛い女の子について認知しているものだと思っていたが、意外な事もあるものだ。
(これを機に面倒な事にならなきゃいいけど……)
彼女がいるはずのA棟を窓から見やると、海殊は小さく溜め息を吐いた。