「あれ、あんた一人だったの?」

 昼頃に家に着いて玄関扉を開けると、仕事の準備をしていた春子がやや驚いた声を上げた。

「え? そうだけど……?」
「だってあんた、昨日どこかに誰かと泊まりにいくって連絡寄越してたじゃない。電話にも出ないし、心配したんだから」

 スマートフォンを持って、少し怒った様にして春子が言った。
 そうだ、とそこで海殊は思い至った。昨日に母を心配させないようにメッセージを送ってあったのだ。
 そこに何かの答えがあるのかもしれない。今朝からずっと抱いている違和感の答えが。

「それ! それ、なんて書いてあった!?」
「ちょ、ちょっと……どうしたの、ほんとに」

 息子が血相を変えて詰め寄ってくるので、春子は無意識に身体を仰け反らせてスマートフォンを引いた。

「俺、昨日なんて送った!?」
「なんて送ったって……あんた、自分のスマホ見ればわかるじゃない」

 呆れた様な、訝しむ様な表情をしつつ、春子がパスコードでロックを解除してメッセージを見せてくれた。
 そこには『今日は外泊する。●▲も一緒だから心配しないでくれ』とだけ記載があった。確かに自分が送ったものだし、何となくこれを送った記憶もある。
 しかし、肝心の名前の箇所だけ文字化けしており、それが誰かは読み取れなかった。

「今朝見たら、なんか名前のとこだけ読めないから余計に心配になっちゃって。でも、昨日これを見た時は全然何も思わなかったのよね。なんでかしら?」

 春子は首を傾げて、怪訝そうにしている。
 おそらく、海殊が抱いている違和感に近いものを彼女も抱いているのではないかと思わされた。そう思った時──

「にゃー」

 居間の方から、可愛らしい愛玩動物の鳴き声が聞こえてきて、とことこと海殊の方まで歩いてきた。
 今月から買い始めた子猫の〝きゅー〟だ。

「あ、きゅー。どうした? ご飯か?」

 海殊は撫でようと屈んで手を差し出すが、海殊の横を素通りしていって──彼の少し後ろの(くう)にすり寄った。

「全く……全然俺には懐いてくれないな」

 どうしてか唐突にぺろぺろと(くう)を舐めているきゅーを見て、嘆息する。
 こいつは男にはあまり懐かないのだ。海殊に寄ってくる時は腹が減っている時だけである。

「ってか、何で猫飼い始めたんだっけ?」

 ふと思い立って、春子に訊いた。
 春子が猫を飼いたがっていたという話を最近になって知ったが、その関係で拾ってきたのだろうか。いまいち、このきゅーを飼い始めた経緯についても記憶があやふやだった。

「はあ? あんたが捨て猫を拾ってきたんじゃない。雨の日に、川に流されそうだったからって」
「え? ……あ、ああ。そういえば、そうだった」

 春子の言葉で、その日の出来事を思い出す。
 確か台風が来るか来ないかといった日で、この子猫が川に流されそうになっているところを海殊が飛び込んで助けたのだ。

(いや……そうだったか?)

 その時の光景を思い出していると、自分以外にも誰かがいたような気がした。
 そもそも、台風で水位が上がっている川に飛び込む様な真似は海殊ならばしない。彼にそれをさせるだけの別の事情があったはずだ。

(……だめだ、さっぱり思い出せない)

 相変わらず、記憶に靄が掛かっていて肝心の事が思い出せない。
 何か掴めそうだと思ったのに、その記憶がするりと手から抜け落ちていく感覚。今朝からそんな事ばかりが繰り返されていて、さすがに辟易してくる。
 とりあえず手と顔を洗おうと洗面台に行くと、そこには見慣れない歯ブラシやコップがあった。明らかに若い女の子が使う様なファンシーなものだ。
 それだけでなく、部屋の隅々にも見覚えのない小物がちらほらある。これも海殊や春子の趣味ではなかった。どちらかというと十代の女子が好みそうなものばかりだ。

「なあ、母さん趣味変わったの? さすがにちょっと若過ぎない?」

 海殊が洗面台に置かれていた歯磨き用のプラスチックコップを手に持って訊いた。
 可愛らしいファンシーな絵柄が描かれていて、ちょっと自分の親が使うにしては恥ずかしい。

「え、それあんたのじゃないの? あたしはそんなの使える歳じゃないわよ」

 春子が驚いて海殊を見る。その表情から見て、嘘やからかいではない事は明らかだった。

「……そう、だよな」

 海殊は納得しつつも、今日何度目かに味わう奇妙な感覚に苛立つ。

(何度目だよ、これ)

 誰かがいたかの様なコテージ、自分が絶対に食べないであろうお菓子に自分が送った謎のメッセージ、そして家の中の小物や子猫……自分達以外の誰かがいたかの様な痕跡がそこかしこにある。
 しかし、その全てがふわふわしていて、春子も海殊も思い出す事ができない。そして、それらの小物を見ていると、それだけで胸がきりきり痛くなって、切なくなってくるのだ。
 どうにもならない居心地の悪さだけが、海殊の胸の中を満たしていった。そんなモヤモヤを振り払おうと二階の自室に向かおうとした時──来客を告げるインターフォンが鳴った。

「あ、ごめん海殊。あたし今手が離せないから、ちょっと出ておいてー」
「……うい」

 化粧鏡の前で化粧をしている母の言葉に応えて玄関扉を開くと、そこにはクリーニングの配達員の姿があった。
 海殊は配達員からその品を受け取ると、眉を顰めた。

(……浴衣?)

 それは浴衣だった。一瞬配達間違いかと思ったが、宛名は滝川春子となっている。どうやら、春子が浴衣のクリーニングを出した事には間違いないらしい。
 それに、この浴衣は海殊も見覚えがあった。海殊でさえも見た事があるかどうか、というくらいに、若かりし頃の母が着ていた浴衣だ。保存状態がよかったのと、殆ど着られていなかった事から、まるで新品の様に綺麗になって返ってきている。

「なあ、母さん。何で浴衣?」

 コンシーラーを塗っていた母に、配達員から受け取った着物を見せて訊いてみる。
 春子は「え? 浴衣?」と驚いてこちらを振り向いて、海殊の手に持つものをまじまじと見つめた。

「あー……それ確かにあたしの浴衣よね。何で浴衣なんてクリーニングに出したんだろう? もうこんなの着れる歳じゃないのにね」

 春子は微苦笑を浮かべて「誰かに譲ろうとしてたのかしら?」と首を傾げた。
 どうやら、クリーニングに出した本人でさえも覚えていない様だ。

「ごめん、仕事から帰ってから仕舞うから、ちょっとテーブルの上に置いておいて。きゅーが届かないところにね」

 母の言葉に頷いて、その指示通りにテーブルの上に浴衣を置いた。
 だが、どうしてだろうか。
 この浴衣が届く事を、楽しみにしていた自分がどこかにいるのも事実だった。誰かがこれを着るのを楽しみにしていた自分が、確かにいたのだ。

(……ああ、もう。ほんとむしゃくしゃするな)

 海殊は大きく溜め息を吐くと、冷蔵庫の中の麦茶をラッパ飲みする事で、その苛々を沈めようと努めるのだった。