「あ、えっと……」

 海殊(みこと)は困惑した。
 おそらく同じ学校の生徒であろう少女が雨に打たれて佇んでいたので話し掛けたところ、いきなり涙を流されてしまったのだ。
 母親以外との女性と関わりを持っていないとこうした時にどうしていいのかわからない。

「……とりあえずこのままだと風邪引くから、どこか入ろっか?」

 海殊は鞄の中からタオルハンカチを取り出して彼女の肩に掛けてやると、精一杯優しい声色を作ってそう言った。
 結構雨に打たれてしまっているのでタオルハンカチ程度では気休めにもならないが、ないよりはマシだろう。

(何があったんだろうな)

 海殊は少女を見て、改めてそう思う。どういうわけか、彼女はこんな梅雨の真っ盛りにブレザーを着て、辺鄙な公園で雨に打たれていたのだ。家出でもしたのか、はたまたそれ以外の何かなのかはわからないが、ここにいる事が正解とは思えなかった。

(青色のリボン……下級生か)

 彼女の制服の首元は、青色のリボンで結ばれていた。
 海殊の通う海浜法青高校では、学年ごとにネクタイやリボンの色が異なる。一年が青色、二年が緑色、三年が赤色で、進級するごとに買い直す羽目になるので、母親はよく文句を言っていた。部活などに入っていれば、先輩から譲ってもらえるが、帰宅部の海殊には関係のない話である。

「さ、行こう。本当に風邪引くから」

 何となく言葉に迷って、そう促す。これ以上雨に打たれていても、本当に風邪を引いてしまう。
 少女はこくりと頷くと、海殊に言われるがままに立ち上がった。
 その時、彼女の表情が近くなって、海殊は自らの心臓がどきんと跳ね上がったのを感じた。
 艶のある黒髪に加えて、新雪の如く白い肌、そして青み掛かった大きな瞳にぱっちりな二重で、モデル顔負けな華奢な身体……そこにいたのは、紛れもない美少女だったのだ。近くで見る彼女は本当に美しくて、その顔をずっと見ていたいと思わされると同時に、気恥ずかしくて見ていられなかった。
 どうにも心がむずむずして落ち着かなくて、思わず彼女から視線を逸らして頭を掻いた。こんな感覚に陥ったのは、彼の人生に於いて初めてだ。

「あ、そうだ。君、名前は?」

 海殊は彼女の方へと向き直って訊いた。
 名前どころか、まだ声も聴いていなかった。

「名前? えっと、(ゆず)──」

 少女がようやく言葉を発したかと思ったが、彼女は何かにはっとして言葉を留めた。

「じゃなくて、えっと……」
「……違うんかい」

 思わず海殊はツッコミを入れていた。こんなに綺麗な女の子と話すのは初めてなので、何か言葉を発していないと間が持たなかったのだ。
 そのツッコミがウケたのかどうかはわからないが、少女はぷっと吹き出した。そこでようやく海殊も顔を綻ばせた。

「うん、ごめん。間違えちゃった」

 少女は眉を下げて困った様に笑うと、そう言った。

「自分の名前間違うってあるのか?」
「あるのっ」

 彼女は怒った表情を作ってそう返すが、どこか嬉しそうで、そんな自然なやり取りでさえも噛み締めている様だった。

「それで?」
「え?」

 少女が不思議そうに首を傾げたので、海殊はもう一度小さく溜め息を吐いた。

「君の名前。教えてくれないと、何て呼んでいいのかわからない」
「あ、そうだよね。ごめん」

 少女はそう言って顔を綻ばせると、姿勢を正した。

「えっと……水谷琴葉(みずたにことは)です。宜しくお願いします」

 水谷琴葉と名乗った少女はそのまま丁寧にお辞儀をする。

「俺は滝川海殊(たきがわみこと)。宜しくな、水谷さん」

 海殊がそう言うと、彼女は小さく「あっ」と声を上げた。

「どうした?」
「えっと……名前で呼んで欲しい、です。あんまり慣れてなくて」
「名前で? それは、いいけど」

 慣れていない、とはどういう事だろうか。
 もしかすると、家庭が複雑なのかもしれない。今の彼女の状況を見ていると、そんな感じだろうと海殊は勝手に推測をして、一人で納得した。

「……琴葉(ことは)さん、でいいかな?」
「呼び捨てでいいですよ。私、後輩なので」

 琴葉は海殊のネクタイを見て言った。

「じゃあ……琴葉」

 海殊は自らの頬が少し熱くなったのを感じた。
 海殊にとって、女の子の名前を呼び捨てで呼ぶなど初めてだったのだ。
 そのたどたどしい感じが面白かったのだろうか。琴葉はくすくす笑っていた。

「宜しくお願いしますね、海殊くん」
「待った」
「はい?」
「名前で呼ぶ代わりに琴葉も敬語はやめてくれないか。俺、先輩後輩関係とか慣れてなくてさ。敬語使われると、くすぐったくなっちまうんだ」

 何となく恥ずかしかったからか、そんな事を言っていた。
 無論、敬語を使われると恥ずかしいといった事はないのだが、自分だけ名前呼びで恥ずかしい思いをさせられているのが気に入らなかったのだ。

「あ、そうなんだ。じゃあ、改めて……宜しくね、海殊くん」

 琴葉はあまり恥ずかしがった様子もなく、嫣然(えんぜん)と笑った。

「こ、琴葉は……どうしたんだよ。家出か何かか?」

 海殊はバツの悪い顔をして彼女の名前を呼んだ。どうにも女の子の名前呼びは慣れない。
 琴葉は少し言葉を詰まらせたが、ゆっくりと頷いた。

「うん……そんな感じ。ちょっと困ってたから、助かっちゃった」

 そう言って、困った様に笑った。本当に困っている様に見える。
 どうやら、海殊の予想通り家出少女だったらしい。親と喧嘩して着の身着のままで出てきてしまった、という事だろうか。それでも、冬服のブレザーを着ている意味がわからないけれども。

「行く宛ては? 家は帰り難いかもしれないけど、友達の家とか。もし近いんだったら、送っていくよ」

 このあたりは治安は良い方だが、このご時世だ。何があるかわからないし、こんな可愛い子を夜の町に放置するのは気が引けた。
 尤も、それ以前にこの雨だ。放っておいて風邪でも引かれたら寝付きが悪い。

「えっと……私、友達もいなくて。それで、途方に暮れてて」

 琴葉は少し言葉に迷いながら、そうぽそりと漏らした。
 どうやら友達もいないらしいが、それもそうかと納得する。もし友達がいれば、こんな公園で佇んでもいないだろう。見たところ、何か持ち物を持っている気配もない。スマホや財布も持って来ずに飛び出したのだろうか。

「あー……なるほど。俺も友達少ないから、わかるよ」
「やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
「海殊くん、ちょっとぼっち感漂ってたから」
「ぼっちじゃねえ!」

 琴葉の失礼な言葉を、海殊は激しく否定した。
 失礼な事を言う後輩である。決してぼっちではない。人と深く仲良くなれないだけだ。
 ただ、琴葉も本気でそう思っていたのではなく、面白がって言っただけなのかもしれない。彼女は楽しそうにくすくす笑っていた。

「それなら、家まで送ってこうか?」

 どうしていいかわからないが、とりあえず訊いてみた。行く宛てがないならば、帰って親と仲直りするしかないだろう。
 しかし、琴葉は首をふるふる横に振った。どうやら、帰りたくはないらしい。

「それじゃあ……うち、来るか?」

 自分でもどうしたのだろう、と思った。
 初めて会って、初めて話した女の子を家に誘うなど、常識はずれにも程がある。
 だが、海殊はどうしてか彼女を放っておけなかった。それは彼女が美しいからなのか、その儚い姿にどこか憐憫を感じたからなのか、それともただただ善心からそう申し出ているのかはわからない。下心はない、と信じたい。
 それに、訊いてはみたものの、ダメ元だ。こんな見ず知らずの初対面の男の家になど、来るわけがない。何となく訊いておかないと、後に後悔しそうだったから訊いただけである。
 しかし──

「いいの……?」

 琴葉はおずおずと確認してくる。
 ちょっと思っていた反応と違って、海殊の方が困惑してしまった。てっきり断られるものだとばかり思っていたからだ。

「ま、まあ、困ってるなら仕方ないよ。それに、家には親もいるから、そこらへんは安心して」

 誰に言い訳しているのかわからないが、何だか言い訳がましく説明してしまう。

「うん……ありがとう」

 琴葉は顔を綻ばせて、少しだけ首を傾けた。
 その笑顔があまりに可愛らしくて、海殊は自らの胸の一番柔らかいところに少しだけ痛みを感じた。
 そして、二人は相合傘をしながら、肩を並べて歩き出す。目的地は、彼女の家でもなく、その友人の家でもなく、海殊の家だ。

(……あれ? どうしてこうなった?)

 なんだか全く予想していなかった方向に話が進んでしまい、更に困惑する海殊であった。