夢を見ていた。
 白くぼんやりとしていて、あやふやな夢だ。
 これは今に始まった事ではない。少女はずっと、こうした夢を見ているのだ。
 その夢は時折現実と混じっている様にさえ感じて、どこまでが夢でどこからが現実だったのか、彼女にはわからなかった。
 視界が白くなったり、暗くなったりはする。夢の中では何処かで走り回ったり遊んだりしている気もした。
 だが、実際にそれが現実ではない事を頭の中ではわかっていた。だから彼女はその夢の中を楽しみたくて、全力で遊んだ。
 時折、耳元で誰かが囁きかけている。それは彼女の母の声だった。毎日夢の中で母の声が聞こえてきて、彼女はその声に応えるべく、必死に顔を動かしたり瞼を動かしたりしている──つもりだ。
 実際にそれが叶っているかはわからない。彼女の身体は、いつからか彼女の意思で動いてくれなくなってしまったのだから。
 どれだけの間、そんな日々を過ごしているのだろうか。いつから夢を見ているのか、どれくらいの間夢を見ているのかさえわからなかった。少女には、もう時間という概念がなくなっていたのだ。
 ただ、そんな彼女でも、何となく察している事がある。
 それは、意識を覆う白い(もや)がどんどん濃くなっている、という事。
 この靄に覆い尽くされた時、きっと自分は自分ではなくなってしまう。彼女は混濁とした意識の中で、何となくそんな予兆を感じていた。
 それほど長い人生ではなかった。高校に入学したばかりで、アルバイトをした事もなければ、恋や青春もまだ知らない。人としてもまだまだ未熟だ。
 もっと世界を知りたかったし、もっと人生を満たしたいと思っていた。いや、当たり前にそうできると思っていたのだ。
 だが、彼女にその人生は訪れなかった。こうして白い靄の中で夢を見る以外、何も許されなくなっていたのである。
 そして、もうじき夢を見る事さえも許されなくなる──何となく、彼女の意識が自身にそんな警告を発していた。
 彼女のこの十六年にも満たなかった世界は、もうすぐ終わる。自分が自分でなくなる。自我がなくなり、自らの願いや希望、そして記憶さえも全て消え去ってしまうのだ。
 靄が彼女を包んでいくにつれて、どんどん意識がぼんやりとしていく。自らの自我が、記憶が薄れていく様がよくわかった。きっと、水の中に溶けていく砂糖はこんな気持ちなのだろう。

(ねえ、待ってよ。そんなの……嫌だよ)

 意識が飲み込まれる直前、少女は抗う様にして不満を呟いた。

(どうして私だけこんな目に遭わないといけないの? どうして私だけ、皆が知ってるものを知れないの? 経験できないの? そんなの……不公平だよ)

 不平不満を訴え続ける。
 訴えても何も変わらないのは自分が一番よくわかっていた。しかし、きっとここで抗わなければ、もう自分が自分でいられる時間は終わってしまう──そんな予兆を自身の身体が感じていた。

(ねえ、お願い。私に……もう少しだけ、時間を下さい。神様がいるのかわからないけど、もしいるなら、ほんの少しでいいから私に希望を持たせて。お願い……お願い!)

 少女は強く念じた。
 何か特別に信仰していた神がいるわけではない。願いを聞き入れてくれるなら、どの神でも良かった。せめて願うしかないのなら、願う事しか許されないなら、願うしかなかった。それが彼女に許された、最後の抗いなのだから。
 しかし、彼女の嘆願は虚しく靄に飲み込まれていく。もちろん、何かが起こるはずもなかった。
 白い靄に全て覆い尽くされるその瞬間まで、ただ夢を見る事しかできない世界。それだけが、ただ彼女に許されていた。
 その世界も、もうすぐ終わる。この靄が全てを覆い尽くした時には、彼女の世界は完全なる終焉を迎えるのだ。
 
(きっと、次が最後の夢かな……)

 何となくではあるが、そんな確信があった。
 自分の身体の事は、自分が一番よくわかっている。きっと、死期を悟った人間というのはこんな感覚なのだろう。

(次に見る夢。それが私に許された、最後の時間)

 だったら、最後まで精一杯生きてやろう。夢の最後まで、自分の人生を生き続けてやる。それが、この理不尽な世界に対して彼女ができる唯一の抗いなのだから。
 少女はそう決心をして、最後の夢に身を委ねた。
 奇跡が起こる事を願いながら──
 
         *
         
 最後に見る夢の世界は、妙に暑かった。いつぶりかというぐらい久々に、全身に暑さを感じていた。
 不思議な感覚だった。これまでの夢では、暑さや寒さなど感じた事がなかったからだ。

(え……?)

 いつもと異なる感覚に違和感を覚えて、少女は恐る恐る瞳を開ける。すると、目の前には驚くべき光景が広がっていた。
 そこは、彼女の知っている、彼女が住んでいた町の景色だった。あまりに再現度が高く、()()()()()()()()()()()夢だと思えなかった。

(え……? え!?)

 困惑して自らを見て、また驚く。彼女は自らの制服を身に纏っていたのだ。
 この制服は意識が混濁する前まで、毎日着ていたものである。実際にはそれほど長い間着ていたわけではないけれど、この制服と共に色んなものを経験すると信じていた。だが、ある時を境に彼女にはそれすら許されなくなってしまったのだ。
 少女は愕然としながら周囲を見渡した。
 そこは公園だった。見覚えのある公園だが、どこかはわからない。一度来た事があるのだろうが、それほど思い入れがある公園ではなかった。

(どこだっけ、ここ……? あっ、図書館の近くの公園かな?)

 昔の記憶を掘り起こしながら、今の自分の現在地を思い浮かべる。
 確か中学生の頃、図書館帰りによく寄っていた公園だ。特段想い出があるわけではないが、人が少なく本を読むのに最適だった場所である。
 
(何でこの公園なんだろ?)

 少女は疑問に思いながらも、周囲を見回す。
 木々は青々と茂っていて、風が吹くたびに湿気が身体を覆った。気温やこの湿気からして、今は梅雨か夏である事は間違いなさそうだ。
 しかし彼女は今、制服の上着を羽織っている。スカートとブラウスも冬用で、明らかに春の頃合いの出で立ちだ。
 それもそのはずである。彼女は()()()()()()()()()()()()()()のだから。

(暑い……)

 無意識にブラウスの襟元をばたつかせた。
 ただ、この『暑い』という感覚自体随分と久しぶりで、少女はうっすらと笑みを漏らす。暑いのはどちらかというと好きではなかったが、暑さを感じれたのが嬉しかったのだ。
 
(これは夢、なんだよね……?)

 とりあえず暑さを和らげる為、制服の上着を脱ぐ。
 いつもの夢とはあまりに勝手が異なるので、戸惑いを隠せなかった。
 いつもは受動的で映像を見ているといった感覚に近いのだが、今回は身体の自由が利く。暑さ含め、あまりにリアリティがあったのだ。

(あ、そうだ。スマホ!)

 彼女は現実世界の習慣をふと思い出し、上着のポケットに手を突っ込んだ。
 毎日の生活の中で肌身離さず持っていたものだ。スマートフォンがあれば調べものができるし、誰かと連絡を取る事ができる。そう思ったものの──ポケットの中には何も入っていなかった。
 だよね、と彼女は小さく嘆息して、ベンチに座り込んだ。
 状況どころか年月日さえもわからない。そもそも、ここが自分の知っている世界と同じなのかさえもわからなかった。
 ただ、一つ確かな事がある。
 それは、身体が自由に動くという事。自分の意思通りに身体が動いて、意識もはっきりしている。これは普段の夢とは大きく異なる点だった。
 最後の夢だからリアリティがあるものを見せてやろうと言う計らいだろうか。

(それならそれで、せめて夏服くらい用意してよ)

 彼女は不満を口にしながらも、手で自らの顔を扇いだ。
 その時だった。ぽつり、と頬に水滴が当たる。その水滴は一滴二滴と増えてきて、次第に雨となっていた。

(やだ、透けちゃう)

 自らの白いブラウスが水を吸って肌色が透けてきたのを見て、彼女はすぐにブレザーを羽織り直した。暑さはあるが、下着が透けてしまうよりはマシだ。
 服が雨を吸い、徐々に重みを増していくと同時に、その冷たさと不快感が身体を覆っていく。
 どこかに行かなければならないのはわかっていたが、いきなり外に放り出されて何の情報もないのでは、どこに行けばいいのかすらわからない。スマートフォンや財布もなければ、自分の置かれている状況すらわかっていないのだ。
 目を瞑って途方に暮れていると、ふと彼女の体を影が覆った。それと同時に、雨音が頭上から聞こえてきて、水滴が彼女に当たらなくなっていた。

「あの……大丈夫か? 夏って言っても、あんまり雨に当たると風邪引くと思うけど」

 声が聞こえてきて、彼女は驚いて目を開けた。
 そこには、自分の上に傘を(かざ)している男の子がいた。彼女と同じ学校の制服を着た、男子生徒だ。彼は心配そうな顔で、彼女を眺めていた。
 彼を見たのは初めてだった。だが、その優しそうな顔には不思議と惹かれていった。
 それと同時に自らの瞼が熱くなって、頬から何かが零れ落ちる。

(夢じゃ……なかったんだ)

 今の今まで、夢か現実かの区別がつかなかった。いや、きっとこれは夢だ。本来、自分がこんな場所にいるはずがないのだから。
 しかし、同時に完全な夢でもなかった。身体に当たる雨とその冷たさ、湿気、そして今目の前にいる彼が自分を認識している事がそれを証明していた。
 少女はこの時悟った。本当にこの()が自分に遺された最後の時間で、この()で世界への未練を断ち切らなければならないのだ、と。

「あ、えっと……」

 同じ学校の制服を着ている少年は、戸惑っていた。
 それもそうだろう。この暑い季節に、見知らぬ女生徒が冬服のまま公園で佇んでいて、更には自分を見て涙しているのだ。頭のおかしな女だと思われたに違いない。

「……とりあえずこのままだと風邪引くから、どこか入ろっか?」

 少年は鞄の中からタオルハンカチを出して、少女の肩に掛けてくれた。
 彼女の制服は既に結構な雨を吸ってしまっていて、とてもではないがタオルハンカチで何とかなるものではない。だが、不器用ながらもその男子生徒の優しさに、どこか心が暖まった。こうして誰かの優しさを直に感じるのは、彼女にとって随分久しぶりだったのだ。
 促されるまま立ち上がって彼を見上げると、彼は困惑しているのか気まずいのかわからないが、目を逸らして頭をぽりぽりと掻いていた。
 何かを思い立った様に「あっ、そうだ」と彼ははっとして少女の方を向き直った。

「君、名前は?」
「名前? えっと、(ゆず)──」

 彼女は咄嗟に自分の本名を伝えようとしてしまったが、何となくそれは危険な気がして、(すんで)の所で思い留まる。
 きっと、今の自分はこの世界にとって異物だ。それを彼女は本能で悟っていた。なればこそ、本名を言うわけにもいかない。
 本当の自分はきっと、()()()()()()()()()()()()()()()()

「じゃなくて、えっと……」
「……違うんかい」

 彼女の戸惑いに、少年が呆れた様にツッコミを入れた。
 それが何だか可笑しくて彼女がぷっと吹き出すと、少年もようやく顔を綻ばせた。

「うん、ごめん。間違えちゃった」
「自分の名前間違うってあるのか?」

 少年の言葉に、少女は「あるのっ」と少し怒って返す。
 誰かと笑い合った事自体久しぶりだったので、それだけで胸が暖かくなった。
 あまりに唐突で、何一つ理解が追い付かない。しかし、自身が奇跡の中にいる事だけはわかった。
 そして同時に、もう一つの事を悟っていた。
 それはきっと、この優しい少年が自分にとっての最後の奇跡なのだろう、と。
 少女はそれを確信して、彼に自らの()()()名を告げた──。