星さんより先に叶夢君が起きてきたので、一緒にトーストと目玉焼きで朝ごはんにした。

台所に立っていると、自分が何故ここにいるのか分からなくなる瞬間が度々あった。

昨夜より、驚くほど自然にこの部屋に馴染んでいる。

もう何日もそうやって台所を使っていたような気がして、ふと怖くなった。本当にこのままこの生活が続くんじゃないかと思えて。

本当なら、朝ごはんを作って食べる、そんな日常が続いていくことは寧ろあたりまえだったり、幸せなことだったりするだろう。でも今のわたしにとってそれが何より恐ろしい。

自分が自分でなくなる怖さ。

ぼんやりとそんなことを考えていると、叶夢君が不安になってしまったのか、ぐすぐすと鼻をすする音が聞こえてきた。

叶夢君だって今はお母さんが心配で、不安な気持ちでいっぱいなのに、大人のわたしがしっかりしないでどうするんだろう。

わたしは精一杯の笑顔を作って叶夢君の頭を撫でた。

ティッシュで鼻を拭き、サトシさんの声で話しかける。

「大丈夫。お母さんはすぐ元気になるよ。後で一緒に病院に行ってみよう」

はい、と答える声に安心していると、やっと起きてきた星さんが寝癖のついた頭をボリボリ、大きな欠伸をしながらわたしの飲みかけのコーヒーを止める間もなくぐびぐび。

椅子に座ってガクンと首を垂れたかと思えば、おかわり、と差し出されるカップ。

星さんも相当この部屋の生活が馴染んでいる様子だ。

こんな時、サトシさんならどうするんだろう。流石に教え子の前で星さんの首を締めたりはしないかな。

わたしはカップを星さんの指の間から抜き取り、コーヒーを入れ直した。

「サンキュー、燿子ちゃん」

寝ぼけたままの星さんが、わたしを燿子ちゃんと呼ぶから、叶夢君がおかしな顔をしている。

「こ、こら! 俺はサトシだ。ね、寝ぼけてんじゃないゾ!」

フォローしたつもりだったけど、不自然さは拭えない。

誤魔化すように、冷蔵庫に手を伸ばし、中から卵を取り出した。

星さんの分の目玉焼きを作りながら、振り返ったテーブルの隅に畳んであった新聞のことが気になっていた。

叶夢君のお母さんのことと、新聞に載っていた薬物事件、そしてわたしに体当たりしてきた人物。
これらは何か関係があるのだろうか。

直感的にはもの凄く関係している気がする。
でも確証は無い。

また考えこんでいたわたしは、見事に目玉焼きを焦がしてしまった。

「先生、焦げ臭い……」

サトシさん、ごめんなさい!

心の中で手を合わせたわたしだった。





叶夢君にはテレビアニメを観てもらって、その間に星さんに新聞を見せた。

「この事件と、叶夢君のお母さんの事件、それにわたしにぶつかってきた人物。なんか関係しているような気がするんです」

星さんは腕を組んでうーんと唸る。

「確かにタイミング良く同じ日にこの周辺で起きてるけど、繋がりがあるかどうかはまだ分からないなー。まぁ、でもそろそろ来ると思うよ」

「何が来るんですか?」

「情報」

「?」

首を傾げるわたしに、星さんはイタズラっぽく笑って立ち上がった。

まるで計ったようなタイミングでドアチャイムが鳴った。

「はーい」

星さんは軽い足取りで玄関ドアを開けに行く。

「やっぱりまたお前らか」

そんな声が聞こえてきたと思うと、二人組のスーツ姿の男性が部屋に入ってきた。

「よお、サトシ。相変らず、面倒事引っ張ってんなぁ」

気安く肩を叩かれてビクリとしていると、星さんが二人をダイニングの椅子に案内した。ちなみに椅子は二脚しかない。

星さんがわたしの耳元で短く囁く。

「あの怖そうなおじさんたちは刑事さん」

ギョッとするわたしを置いて、星さんは二人の刑事さんたちと昨日の事件の話を始めてしまった。

「松崎先輩、新聞見ましたよぉ。ご活躍ですね」

星さんはくるりと表情を変え、わたしに話す時とはずいぶん違った感じで話している。

「たまたま俺たちも昨日あのショッピングモールに行ってたんですよ。いや、でもそこでこんな事件が起きてたなんて全然気付かなかったなぁ。先輩たちのおかげでこの町の平和が守られてるんすね。ありがとうございます」

「うむ、まだ全て解決したわけじゃないんだがな」
「え、そうなんすか? 俺たちに協力できることがあったら何でもやりますよ」

「そうか、じゃまず昨夜の事件について詳しく聞かせて貰おうか」

「あー、でも俺たちが呼ばれて駆けつけた時にはもう叶夢の母親は倒れてて、他には誰も……、あ、でも」

「でも? 何か気になることがあったのか?」

「出て行く車見たんすよね。ところで、昨日ノアの麻薬売買の事件と叶夢の母親の事件て、やっば関係してるんすかね?」

二人の顔が笑ってるのに目だけが笑ってない。

わたしはそっと後ろで見守っていたのだけど、もう一人の刑事さんの目がこちらを見ているのを感じて、目を合わさないように意識していた。

それは寧ろ不自然極まりない様子だったと思うけど、サトシさんのことを知っている人たちと話せば怪しまれそうな気がした。

カタリと椅子の鳴る音がして、刑事さんが立ちあがる気配。

明らかにこちらへ来ようとしている。

身構えるわたしの脇をすり抜けて 、その刑事さんは叶夢君の前にしゃがみ込んだ。

「宮前 叶夢君だね? おじさんは君のお母さんの事件を捜査してる南署の浅香といいます。少し、話を聞かせて貰いたいんだけど大丈夫かい?」

叶夢君はじっと刑事さんの顔を見つめ、どうしたらいいか問うように不安そうな顔をわたしに向けてきた。

刑事さんがわたしたちを観察しているのを感じながら、話して大丈夫と頷いてみせる。

自分が悪いことしていなくても、何故かパトカーとか警察官を見ると安心するよりドキドキしてしまうのは何故だろう。

少なくとも今わたしがサトシさんの姿でなく、本当の自分の姿だったらもう少し冷静でいられたかもしれない。

でも、この有り得ない現実は無罪を主張しても信じて貰えない状況に似ている。

わたしの何気ない一言がこの後どんな影響を及ぼすか分からない。その時、被害を被るのはわたしでなくサトシさんかもしれないのだ。

そんな緊張から、相当顔が強ばっていたかもしれない。

「昨日、お母さんとマンモスシティに行って、そこでおじさんに会って……」

「おじさんて、叶夢君の知ってる人?」

叶夢君は左右に首を振る。

「おじさんとお母さんは何かお話してたかい?」

「お母さんはおじさんに久しぶりって言って、今何してるのとか、そんな話」

「お母さんとそのおじさんは知り合いだったんだね?」

叶夢君が頷くと、先を促されてまたぽつりぽつりと話しだす。

わたしはその様子を固唾を飲んで見守っていた。

星さんたちの話も気になるけれど、それは後から聞けばいい。心の中で叶夢君を応援しながら、二人のやり取りに耳を澄ませていた。

刑事さんは決して声を荒げず、なかなか言葉が出てこない叶夢君を急かすこともせず、上手く話を聞き出していく。

叶夢君の話から分かったことは、昨日叶夢君の家の前から車で立ち去ったのが、その日会ったおじさんだということ。そのおじさんは叶夢君の家までやってきて夕飯を一緒に食べ、叶夢君が自分の部屋に戻って寝る時間になっても家にいたこと。

夜中にトイレに起きた叶夢君が、話声に気付いてリビングを覗くと、お母さんとそのおじさんが白い粉を吸い込んでいるのが見えたのだと言う。

「最初は笑ってたんだけど、そのうちお母さんが吐いて倒れて……。体がぶるぶる震えてて、怖くなって先生に電話してたら、おじさんが誰にも言うなって。言ったらお母さんが困ったことになるって」

「叶夢君、話してくれてありがとう。助かったよ」

昨日のことを思い出して涙ぐむ叶夢君を抱きしめ、その頭を何度も撫でてあげた。

こんなに小さいのに、叶夢君は頑張ってる。お母さんが警察に捕まるかもしれないということを、彼なりに理解しながら、それでも正直に話せるという勇気は大人にもなかなか持てないものだと思う。

ちょうど星さんたちの話も終わったところだったようで、刑事さんたちは並んで玄関へ向かった。

松崎先輩と呼ばれていた刑事さんが、わたしをくるりと振り返ると、

「お前ら、余計なことに首突っ込むんじゃねぇぞ」

と釘を刺してきた。太い指がわたしの、というかサトシさんの胸を突いてくるので、ぐっとお腹に力を入れて堪えた。

その指が今度は星さんの胸に突きつけられる。

「特に明けの明星、お前はトラブルを呼ぶ星の元に生まれてる! おとなしく野菜作ってろ」

星さんはちょっと身を屈めて敬礼のポーズで見送る。

わたしもそれを真似て敬礼しながら、二人が玄関を出ていくのを見ていた。

「明けの明星って?」

刑事さんの言葉を繰り返すわたしに、星さんは嫌そうに顔を顰めた。

明野(あけの) (じょう)。俺の名前。いまだにあのダッサイあだ名で呼んでくるのあの人だけだよ」

それ以上言わなくても分かるだろっていう無言の圧があった。

きっと子どもの頃からからかわれてきたんだね。

「あ、そう言えば……」

わたしはサトシさんの携帯電話を探してキョロキョロする。着替える時にどこかに置き忘れたみたいだ。

「どしたの?」

肩越しに覗き込まれて不意打ちだった。

星さんの顔がすぐ横にある。星さんから見えているわたしはサトシさんの顔だから、いつもの調子で接しているだけに違いない。

そうと分かってはいても、何だか意識してしまってぎこちなくなる。

昨日はいろんなことで頭がいっぱいで気づかなかったけど、星さんはわたしからしてみればスターでヒーローで、憧れの人だ。

おまけによく見ると、生き生きとした目には輝きがあって、小顔でスタイルも良くて、いざと言う時は頼りになって、絶対女の子にモテるタイプだ。

普段のわたしなら、数メートル離れて見守るのが精一杯のアイドル的存在なのだ。

「えっと、サトシさんの携帯電話、どこに置いたかな」

「あ、じゃあ俺の携帯から架けてみるよ」

星さんの携帯電話から聞こえる呼び出し音に一拍遅れてサトシさんの携帯が鳴る音が聞こえてきた。

わたしより先に星さんが携帯を見つけ、手にとったそれをわたしに向けて振って見せた。

案の定、ディスプレイに表示された名前は「あけのん」これって星さんのことだったんだ。

ふと、昨日の事故の瞬間の映像がフラッシュバックしてきた。

三階から落下したわたしは、意識が薄れていく中でサトシさんを呼ぶ声を聞いた。

事故に巻き込まれた人がいたのだと思ったけれど、あの時サトシさんは二階にいた。

落下した瞬間はまだ元の世界にいて、靴売り場の前で気付いた時には少し時間が巻き戻されているような感じだった。聞こえてきたご当地アイドルの歌からそう思ったのだけれど、あの瞬間に並行世界を移動したのだろうか。

わたしの心臓はなぜ止まったのだろう。殴られそうになったから? それとも本当に殴られて? 何かもっと恐ろしいことが怒っていたらどうしよう。