アパートに辿り着くと、流石に色んな疲れが一気に押し寄せてきた。

シングルベッドに叶夢君を寝かせ、床に積まれた本を隅の方へ寄せて、床に寝転がった。

コンビニに寄っていた星さんが帰ってきたことにも気付かないうちに眠ってしまっていた。

夜中に一度だけ目が覚めた。
パソコンの液晶から漏れる明かりに、星さんの真剣な表情が見えた。

目線は画面に向けられているのに、右手はタブレットの上を忙しなく動く。リピートの続きを描いているのかもしれない。

再び眠りに落ちる前、星さんが呟く声が聞こえた。

「……帰ってこい、……トシ……」




「……燿子、……燿子」
繰り返し名前を呼ばれて、重い瞼を押し開けた。窓から差し込む光が眩しい。

――もう少し寝かせて。今日日曜日でしょ。

心の中でそう返事を返し、布団を手繰り寄せた。
それにしても、なんだかすごく長い夢を見ていたような気がする。

もう少し続きを見なければいけない、そんな気のする夢だった。

ふと、違和感を感じて無理やり瞼をこじ開けた。
横向きに寝ていたわたしの顔の前に、誰かの後頭部が見える。

誰だっけ。
わたし、今どこにいるんだっけ。

全然回らない頭で必死に考えていると、隣に寝ていた誰かが寝返りをうってこちらを向いた。
若い男性だった。

少し長くてパーマっ気のある髪。
思わず触りたくなるほど長く生え揃った睫毛。口角の上がった口許がやんちゃな印象の……



頭の中に浮かぶ一文字。
徐々に記憶が蘇ってくる。

はっと自分の体を見下ろした。
引き締まった筋肉に、長い腕、指。
自分の顔を手でなぞれば、ザリザリと硬い髭の感触。短い髪。

自分のものでないその体。昨日の非日常的な出来事の数々は、今もわたしが醒めない夢の中にいることを証明している。

わたしの体はどこにあるんだろう。
どうやったら元に戻れるんだろう。
何も分からない。

眩しい朝の日差しが現実へとわたしを引っ張り出す間に、星さんが目を覚ました。

「何時?」

もの凄く眠そうな星さんの問いかけに、慌てて壁の時計を見て答える。

「6時前です」

「まだ早いじゃん。燿子ちゃんももう少し寝よ」

星さんはまたごろんと寝返りを打つ。その弾みでわたしがかぶっていた布団も持っていかれてしまった。

あろう事か、昨日初めて会った人と一つの布団で寝ていたようだ。

その事実に一気に目が覚めた。

傍目には男性二人だが、中身は男女というこの状況で、慌てるわたしを気にも止めず、星さんはまた寝息をたてている。

そう言えば、さっきわたしを呼んでいたのは誰だったんだろう。

ベッドの方を見れば叶夢君はまだ眠っている。叶夢君が燿子とわたしの名前を呼ぶはずもないのだけれど。

それに、昨日は気付かなかったけれど、サトシさんの名前は免許証を見るまでどんな漢字を書くのか分からなかった。それなのに、星さんの名前は何故かわたしの中でずっと星さんだ。

星と言う字をあまり「じょう」とは読まないはずなのに。

サトシさんの記憶が影響しているのだろうか。

とりあえず起きてシャワーを浴びて、朝ごはんを作ろう。

気合いを入れ直し手立ち上がったものの、昨夜のトイレを思い出す。

そうだ、そうだった。

こんな時に改めて自分の体でないことの不便さを思い知る。

サトシさんと入れ替わるまでシャワーはできそうにない。

とりあえず顔を洗ってみたものの、歯を磨こうとして歯ブラシを前にまた考えてしまう。

体はサトシさんのものなのだから、サトシさんがいつも使っていたと思われる歯ブラシを使ってもいいはずだけれど、何となくそれはしたくない。

しばらく悶々としたものの、諦めてコンビニに行くことにした。

ついでに叶夢君の分の歯ブラシと、朝ごはんの材料も買ってこよう。

しわくちゃになったTシャツだけ、目をつぶって着替えた。

コンビニから戻っても、星さんと叶夢君はまだ寝ていたので、わたしはコーヒーを飲みながら、昨日星さんが描いてくれた似顔絵を眺めた。

一瞬のことだったし、はっきりと覚えているわけではなかったけれど、限りなく記憶の中の印象に近い。

星さんの絵の上手さに改めて感動した。

大好きなWeb漫画「リピート」。そのサイトに行きついたのは本当に偶然だった。絵の綺麗さにも惹かれたし、主人公の紫雲がいろんな人と関わりながら成長していく姿を応援したくなった。

紫雲にはジョットという名前の友達がいる。いつどの世界に行こうとも、それだけは変わらず、二人は強い絆で結ばれている。

ジョットは犬だけれど、懸命に紫雲を守ろうとする。

紫雲とジョットの関係が、なんだかサトシさんと星さんに似ている。

そう言えばジョットの首輪には星のマークが付いている。

ふと、何かが引っかかった。

並行世界。

星さんがわたしは並行世界から飛ばされて来たと言った。

まるでリピートの世界のように。

リピートの熱心な読者であるわたしには、それがするりと理解できたために、今まで疑問に思わなかった。

でも、本当に星さんの言うようにわたしは別の世界からきたのだろうか。

もしそうだとするなら、わたしが元の世界に戻るのは奇跡でも起きない限り不可能だ。

漫画と現実をごっちゃにするなんて馬鹿げている。
そう思ってみても、払拭しきれない疑念が沸き起こってしまった。

リピートの中で描かれる並行世界は瞬間瞬間に無数に分岐を広げていく。

元に戻ろうにも、時間が経つにつれ無数に分岐を繰り返した世界は、最早どれが元の世界だったのか分からなくなってしまうのだ。

紫雲が何年にも及ぶ旅を続けているように、わたしも無数に存在する並行世界の中を彷徨い続けることになるのかもしれない。

どこまで行っても自分の居場所がない。

リピートの世界ではその孤独を埋めて余りある出会いや優しさが溢れていて、一読者のわたしは紫雲を羨ましいとさえ思っていた。

でもここはリピートの世界じゃない。

わたしは紫雲ではないし、ジョットのような相棒もいない。
本当にひとりぼっちだ。

尚也さんが最後に死を選んだのは、もしかしたらその孤独に耐えられなくなったからなのではないだろうか。

サトシさんの人生を奪っているという罪悪感。

二度と元の世界に戻れないかもしれないという絶望。

自分の居場所どころか、肉体さえ持たない魂は死んでいるのと同じだ。

急に足元が不安定に揺れたような気がした。
手にしていたカップがテーブルに落ちる。
零れたコーヒーが広がっていくのを見下ろしていると、また今朝の声がわたしの名前を呼ぶのが聞こえたような気がした。

この声は――

「……お母さん……!」

わたしは母の姿を求めて辺りを見回した。けれどそこに母がいるはずもない。
でも確かに呼ばれている。

この声のする方へ行けば帰れるんじゃないだろうか?

わたしは必死に耳を澄ませた。

零れたコーヒーがテーブルから床へと滴り落ちる。
床に広がる黒い水溜まりの中から声が聞こえたような気がした。

そこへ手を伸ばす。

「止めろ!」

あと少しで届きそうだったのに、強い力で引き戻された。

何故かわたしはテーブルの上に座ってサトシさんの顔を見ている。

「おまえ、……いい加減にしろよ。俺が言ったこともう忘れたのか?」

サトシさんの声が怒っているのに、わたしを暖かく包み込む。

流す涙もないのに、わたしは子どものように泣いた。

お母さんに会いたい。

会いたくて会いたくてたまらなかった。

「泣くな。一緒に方法を探してやるから。元に戻るのに必要なのは決して希望を捨てないことなんだ。分かるか? お前が元の世界に行くんじゃない。元の世界をこっちに引き寄せるんだ」

サトシさんの言葉に、涙がピタリと止まった。

わたしが、元の世界を引き寄せる……?

サトシさんに聞きたいことがたくさんあった。
分からないことが有りすぎると、人はどんどん不安になっていく。

今、わたしに確かな答えをくれるのはサトシさんだけだ。

力強いサトシさんの言葉がわたしをどれほど慰めていることだろう。

サトシさん、あなたと話したい。
あなたに教えて欲しい。
それなのに、またするりと入れ替わる。

わたしの魂はサトシさんの中にすっぽりと入っている。そこではサトシさんの声は聞こえない。

のろのろと床やテーブルに零れたコーヒーを拭き取りながら、サトシさんの言葉を反芻していた。

どうすれば元の世界を引き寄せられるんだろう。
わたしのいた世界と、今いるこの世界の違いは何だろう。

あの瞬間何が起きたのだろう。

それを知る為には、この世界のわたしに対峙しなくてはいけない。

まさか、リピートのように自分に会ったら他の世界に飛ばされるなんてことはないと思いたい。

ドッペルゲンガーを見ると死ぬっていうのを聞いたことがあるけど、それってもしかして並行世界に飛ばされるってことなのだろうか。

とにかく時間がない。できることからやっていくしかない。

カタンとドアの方から音がして、見てみると朝刊が差し込まれていた。

昨日の事故が載っていないかと見てみたが、地元紙とはいえ新聞に載るほどの事件でもなかったようだ。

その中で気になったのは、地元発信のアイドルグループのファンが、イベントで集まった人に麻薬を売っていたという記事だ。

昨日、あのショッピングモールでイベントを行っていたグループだ。

それに、昨日この近くで麻薬が売られていたという事実。

何かが繋がりそうで、まだ何か足りない。そんなもどかしさを抱えて居ても立ってもいられず、結局星さんを起こすことにした。

一人で考えるより、二人の方がいいに違いない。

「星さん、そろそろ起きませんか? もう7時ですよ」

最初は小声で呼びかけてみたが、星さんが目を開ける様子はなかった。

昨夜遅くまで描いていたのだろうか。先に寝てしまったわたしが無理に起こすのも申し訳なく、10分待って再び呼びかける、ということを繰り返し、最終的に星さんが起きてきたのは八時過ぎだった。