「八年前、俺とサトシと、今日病院で会った佳織、それにもう一人、尚也っていう奴がいて。俺たち四人気が合ってさ、いっつも一緒に行動してた。だけど、あの事故があって尚也が今の燿子ちゃんの状態になったんだ」

星さんはわたしから目を逸らして、少し話しにくそうにしながらも八年前の出来事を話してくれた。

「その頃尚也は佳織のことが好きで、でも佳織とサトシが付き合うことになって、何となく四人でいるのが気まずい感じになってさ。そんな時に尚也がバイクで事故って、意識不明の重体。三人で見舞いに行った時、俺と佳織には見えなかったけど、サトシには尚也の霊が見えたらしくて。

サトシは何ていうか昔から懐の深い奴っていうのか、困ってる人をほっとけない質で、尚也を助けようとしたんだ」

そこまで話すと、星さんはタブレットのペンを取り、クルクルと指先で回転させたかと思うと、何かを描き始めた。

ノートパソコンの画面には二つの人型が描かれる。

「こっちが肉体で、こっちが魂とすると、普通の人間はさ、ひとつの体に魂はひとつだろ? それでいっぱいいっぱい。でもサトシは違うんだ。二人分の魂を抱えることが出来る。なんでかなんて分からない。尚也のことがある前にもそういうことがあったんだって。でも大概は直ぐに消える。体が死んで、葬式が始まったら魂もあの世に行くんだろうな」

画面の中の人型の中に二人の人が描かれていた。
窮屈そうなそのイラストに、サトシさんの顔を重ねてみても、彼が今どういう気持ちなのかわたしには分からない。

ひとつの体の中にいても、別の人間だし、記憶が共有されることもない。
サトシさんの存在を感じることもできない。サトシさんには感じられているのだろうか。

「けど、体が生きている限り、魂もそこにいる。尚也は植物状態のまま一年を生きた」

「待って、でもそれだとパラレルワールドの説明にはならないよね?」

「尚也の体の中には、尚也の魂がいたんだ。だから尚也は自分の体に戻れなかった。でもサトシの中にいたのも確かに尚也だった。分かる?」

「尚也さんの体の中にいたのは本当に尚也さんの魂だったの?」

「サトシはそう言ってたよ。俺には本当のことは分からない。魂なんて見えないしさ。俺たちは四人でずっと考えてた。なんでこんなことになったんだろうって。結局答えなんて分からないままだった。いくつも仮説をたてて、尚也を元に戻そうとしたけど、最終的には尚也は消えた」

胸がズキンと痛んだ。この痛みはサトシさんの心の痛みかもしれない。

「消えたってどういうこと?」

「言葉のままだよ。生身の方の尚也が死んで何日か経ったあとだったよ」

 わたしは何も言えなかった。

「ひとつだけ分かったのは、生きることを諦めたらそれで終わりってこと」

星さんの目がわたしに真っ直ぐ向けられていた。

「やり残したことがあるなら、まずは元の体に戻ることだよ」

やり残したこと?
わたしのやり残したことって何だろう。
その時わたしの脳裏を掠めたのは母の顔だった。


その夜、わたしと星さんはポツリポツリと互いのことを話しながら、わたしに体当たりしてきた男性の似顔絵を作った。

気が付けば夜中の二時を過ぎていた。

「遅くまで付き合わせてすみません。星さん、最後にひとつ聞いてもいいですか?」

「何?」

「サトシさんの明日の、明日っていうかもう今日だけど、お仕事の予定とかって分かります? サトシさんに直接聞けたらいいんだけど」

「ああ、今日は日曜だから休みだと思うけど。燿子ちゃんはまず警察に行かないとな」

「警察……」

「店に言っても探してくれないと思う。もちろん俺らが頼んだところで防犯カメラの映像なんか見せてくれないだろうし。警察もあてにはならないけど、念の為目撃情報として通報しとこう」

出来上がった似顔絵がプリンターから出てくる音が、深夜の室内に響く。

本当に星さんとサトシさんがいてくれて良かった。わたし一人では何一つできなかっただろう。

「今夜さ、一人でいるのが嫌だったら一緒にいるけど」

鼻の頭をポリポリと掻きながら、立てた膝の間に顔を埋める星さんは何だか仔犬のようで、まるでわたしより星さんの方が一人になりたくないみたいに見えた。

「星さんのお仕事は大丈夫なんですか?」
「おう。気ままな自営業だからな! そうだ、コンビニ行かね? 何か小腹が空いた」

そう言って勢いよく立ち上がる。近くに積んであった本がバサリと音を立てて崩れた。

星さんの後に続いてアパートを出ようとした時、ポケットの中で携帯電話が震えているのに気付いた。

取り出して液晶の表示を見ると、宮前 叶夢と表示されている。
名前の読み方は分からない。

どうしようと思っていると、勝手に手が動いて通話ボタンをタップした。

自分の意思でなく手が動く。なんだか気持ち悪い。でもこれはきっとサトシさんの意思だ。

わたしは恐る恐る携帯を耳に当てた。

「もしもし……」

そこまで言ってから、サトシさんの苗字は何だったっけと思う。

「……先生、助けて」

小さな子どもの声だった。

「どうしよう、子どもが助けてって言ってる」

玄関を出て行こうとしていた星さんの背中のシャツを思わず掴んで引き止めた。

くるりと振り返った星さんはわたしの手から携帯を取り、電話の向こうに問いかけた。

既に通話は切れていたらしく、星さんは着信履歴を確認して部屋に舞い戻る。

「たぶん、サトシの受け持ってるクラスの生徒だと思う。パソコンの中に住所があるはずだ」

そう言ってさっき閉じたばかりのノートパソコンではなく、机の上にあるデスクトップパソコンを立ち上げた。

すぐに学校関係のファイルは見つかったものの、パスワードがかけられている。

星さんも流石にパスワードまでは知らないらしく、他に何かないかと部屋の中を探し始めた。

「こっちからかけ直してみたらどうかな……」
そう提案してみるも、星さんからは的確な意見が返ってきた。

「こんな時間に小学生が担任に電話してくるってことはよほどのことだろ。もし、そいつが危険な状態にあって隠れてるんだとしたら、着信音が命取りになる場合もある。

住所が分かれば警察に通報できるし、こっちから助けに行けるだろ?」

「自宅にいるとは限らないんじゃ……」

「携帯の登録は固定電話だったから、多分家にいると思う」

な、なるほど。って、感心してる場合じゃない。

――サトシさん、生徒さんが大変みたいです。出てきてください!

心の中で呼びかけてみる。すると、わたしの腕がサトシさんの腕から浮き上がり始めた。

トイレの時みたいにドンと押し出される感じじゃなくて、ゆっくり少しずつ押し剥がすように、肉体から透明なわたしの腕が浮き出てくる。

肘から先がすっと抜けると、もうわたしは自分の意思で手を動かすことができなかった。

それはものすごく奇妙で、肘を枕に眠ってしまって腕が痺れきった時のような感覚に近い。

やがて、実体を持った方の腕はパソコンのキーボードを手探りで押し始めた。

そこにきて漸く、腕を動かしているのはサトシさんだと気付く。

サトシさんの手がパスワードを打ち終えると、名簿が開いた。

携帯に表示されていた名前を探し、手近にあった紙にメモする。

「星さん、住所分かりました!」

わたしにはいまいちその住所がどの辺りなのか分からない。星さんはさっと目を通すと、自分のスマートフォンで地図を確認する。

「あった。走って行ける距離だ」

は、走る?
「あ、もしもし。草間小の来島(くるしま)といいます。先ほど児童から助けてという電話がありまして。はい、こちらも今から向かいますが、念の為お願いします。住所は……」

星さんは手慣れた様子で110番し、わたしの背中をバシンと叩いた。

「やるじゃん! 燿子ちゃん」

正確にはわたしじゃないけど、今はそんなことはどうでもいい。

早く助けに行ってあげないと。

わたしたちは直ぐにアパートを出て、街灯が照らす夜の住宅街を走った。

「あのコンビニの裏手の家だ」

十分程走ったところで、星さんがスマートフォンを確認して指さす。

驚く程に体が軽やかだった。普段のわたしなら緊急事態とはいえ、到底男性に並んで走れるような体力はない。

元に戻ったら体を鍛えよう。そう決心しながら、宮前君のお宅の前まで歩いていった。

呼び鈴を押す前に外から中の様子を伺う。
子どもの泣き声がする。

明かりのついている窓の見える位置まで回って、フェンス越しに覗けば、レースのカーテンの隙間から人の動く様子が見えた。

やがて玄関の開く音がしたかと思えば、中から出てきた男性は玄関前に停めてあった車でどこかへ走り去った。

わたしたちは意を決して玄関のベルを鳴らした。
少し待ってみても、ドアが開かれる様子はない。ドアは鍵が掛かっていなかった。

「こんばんは。宮前さん、いらっしゃいますか?」
星さんと二人で交互に呼びかけていると、廊下の奥の暗がりから子どもがふらりと出てきた。

「先生!」
目が合うと、叫びながら飛び込んでくる。その小さな体を無意識に受け止めていた。

「お母さんが、……お母さんが死んじゃうよ。助けて」

その声を聞いて、星さんは直ぐに部屋の中へ入っていく。

「だ、大丈夫。先生が来たからもう大丈夫だよ」

震える体を撫でながら、何度もそう繰り返した。
不安な気持ちで奥の様子を伺っていると、星さんの「救急車呼びますよ」という声が聞こえてきた。

それに反応した宮前君がわたしの腕の中から起き上がる。

その顔は青ざめ、涙がいっぱいに浮かんだ目は真っ赤だ。

それでも、意を決したように奥の部屋へと戻っていく。わたしもその後を追いかけた。

部屋の中には宮前君のお母さんと思われる女性が倒れていた。

締め切った部屋の中は、アルコールとすえたような臭いがした。部屋の隅に溜まったゴミ袋。洗濯物が積まれたソファー。

奥に見えるダイニングテーブルの上はお酒やなんかの缶と瓶、お菓子の袋などが散乱している。

星さんはお母さんの脇にしゃがみこんで呼びかけているが返事はないようだ。意識がないとなると相当酷い状態なのではないだろうか。

お母さんの方へ恐る恐る歩み寄り、星さんの横で立ち止まった宮前君の頭を星さんが大きな手で撫でた。

叶夢(かなと)、おじさんのこと覚えてるよな? お母さん、どうしてこうなったかおじさんに教えてくれるか?」

「…………」

「お母さん、どこかに頭とかぶつけた?」

「…………」

「そっか。じゃあ先に救急車とお巡りさんに来てもらうけどいいか?」

叶夢君(漸く読み方が分かった)がわたしの方を振り返った。その目が助けを求めるように揺れている。

星さんも叶夢君も、何だか少し様子がおかしい。何故直ぐに救急車を呼ばないんだろう。
叶夢君は何を怯えているんだろう。

わたしの問いかける視線に気付いた星さんが、立ち上がると、その腕を叶夢君が両手で掴んだ。

「……お母さん、警察に捕まるの?」

叶夢君の両目から涙が零れ落ちた。
星さんは再びしゃがみこんで叶夢君と視線を合わせる。

両手でその小さな肩を掴み、星さんは笑顔を見せた。

「まずは病院だ。お母さんを助けたいだろう?」

叶夢君は頷くと、ぐったりと横たわるお母さんの背中にしがみついた。
星さんは立ち上がって二人の側を離れると、わたしの肩を押して廊下へ出た。
その表情は険しい。

「燿子ちゃん、サトシと替われる?」

事情を聞きたい気持ちもあったけれど、星さんの様子から今はサトシさんが必要なんだと分かった。けれど、どんなに心の中で呼びかけてもサトシさんが応えてくれることはなかった。

「ダメみたいです」

「参ったな。今から警察に事情聴取されると思うけど、燿子ちゃん、何とか乗り切れる?」

「何があったんですか? お母さんどこが悪いんですか?」

「あれ、多分……」

星さんはガシガシと頭をかいて唸る。
「……クスリやってる」

その言葉が何を意味するのか、分からないほど世間知らずではない。わたしは、呆然と立ち竦んだ。と同時に怒りが沸き起こる。

「子どもがいるのにそんなっ……!」

「まだ自分からやったのか、誰かにやられたのか分からない。叶夢(かなと)の母親の意志とは限らないよ」

確かに、わたしの早合点だった。

さっき家から出て行った人は誰だったんだろう。こんな状態の人を放ったらかして出て行くなんておかしい。叶夢君のお父さんだろうか。それとも叶夢君のお母さんをこんな状態にした犯人?

そんなことを考えているうちに警察の人がやってきた。

わたしたちはひと通り事情を聞かれ、身元確認を求められた。

その後直ぐに到着した救急車で、叶夢君のお母さんは病院に運ばれていった。

叶夢君は他に付き添う保護者がいないことから一緒に行くことを許されず、家の外で救急車を見送った。

母親のことを思って不安とショックで言葉を失っているその姿が他人事と思えず、わたしは叶夢君を連れてサトシさんのアパートへ帰ることにした。

途中、叶夢君を背中におぶって歩いた。さすがに三年生の男の子は重かったが、背中に寄りかかる重みはどこかわたしを慰めた。

生きていることの熱や重さ。小さくてもずっしりとその体に詰まった命を感じていた。

毎日仕事に追われ、罵られ、ボロ雑巾のようだった数ヶ月前のわたしは、母の腕の中で重荷を下ろし、再び自由を手に入れた。

今、わたしの背中に感じている重さはきっと、叶夢君が今夜背負うことになった悲しみや不安も含まれているはずだ。

今の叶夢君には、それを一緒に背負ってくれる人も、代わりに持ってくれる人もいない。

せめてサトシさんの存在が叶夢君の支えになるなら、わたしは叶夢君の傍に居てあげたいと思った。