フワリと、サトシさんはわたしの前を横切った。
落ち着いた足取りで星さんの居る方へ歩いていく。そしてパソコンの前に座っている星さんに、あろう事か背中から抱きついた。

わたしは今、いったい何を見せられているのだろうか。

「あ、あれ、燿子ちゃん、どうしたの?」

焦る星さんの声。
いや、待って。それはわたしじゃない。

「そ、そりゃいきなり男の体に入ったりして不安だったよね。いや、でも、そのトイレ……とか、そのこれからも再々あるわけだし、全然気にしなくてもいいと思うよ! サトシもそんなこと気にするような奴じゃないし」

あははは、という星さんの乾いた笑い声がやがてぐえーというような呻き声に変わる。

星さんの首に絡みつくサトシさんの逞しい上腕二頭筋が、ギュウギュウとその首を締め上げている。

星さんは顔を真っ赤にしながら、降参の合図にその腕をバシバシと叩く。

程なく解放された星さんがゲホゲホと咳き込んでいる間に、サトシさんはわたしの方に向き直った。

「三日間、体は貸してやる。魂が肉体から離れたまま長くその状態でいると元に戻れなくなる。長引けば肉体が死に至る。だから、できるだけ早く元に戻る方法を見つけろ。俺は常に体の中にいるし、必要な時には出てくる」

三日間。それがわたしに許されたタイムリミット。
「生きたいと願え。必ず戻れると信じるんだ。もし、少しでも死にたいと思うようなことがあったら、その時は俺の魂がおまえを喰い殺すことになる」

魂を喰い殺す……?

言われた言葉の意味を理解するには、あまりにも物騒で。
死にたい、その馴染み過ぎた言葉に視界が揺らぐ。

あの頃。
大学卒業と共に就職した会社で、毎日地獄のような日々を過ごしていたあの頃。
死にたい、その言葉は常にわたしの頭の中にあった。

会社を辞めた今。その言葉はわたしの中から遠ざかっていたはずだった。
急激に呼び起こされた記憶が、わたしの中の何かを狂わせる。

わたしは生きていたいのだろうか。
生きていてもいいのだろうか。
生きている必要があるのだろうか。

繰り返される問いに、何かがまとわりつくような感覚。
部屋の隅に澱んだ闇から這い上がる何かが、わたしをそこへ引き摺りこもうとする。
肉体を持たないわたしは容易に闇に囚われる。

「た、助けて」

サトシさんに縋るように伸ばした手は、直ぐに、しっかりと引き寄せられ、気がつけば再びわたしはサトシさんの目を通して世界を見ていた。

時間にすればわずか数分にもならないその間に、わたしはサトシさんの体から出て闇に取り込まれそうになり、またサトシさんの中に戻った。

肉体を持たない魂の状態のわたしはとても不安定で、あのままでは元に戻る方法を探すどころか、あっという間に消えてしまいそうだった。
サトシさんがわたしを体に入れて守ってくれていることに漸く気付いた。

自分の体に戻れないわたしは、魂のままでは長く存在することができないんだ。
サトシさんはそのことを知っていて、わたしを見殺しにすることができなかったに違いない。

だってわたしは幽霊じゃない。まだ生きている。
でも、サトシさんの言った言葉が胸に引っかかっていた。

--魂を喰い殺すって……。

はぁ、と盛大なため息が聞こえてきてふっと星さんのことを思い出す。
そう言えばさっきサトシさんに首締められてたっけ。仲の良い二人がじゃれ合ってる感じだったから、あまり心配はしなかったけれど。

「大丈夫?」
「本当に、話していいのかよ?」

話が噛み合わない。星さんはまだサトシさんだと思っているのか、投げだした両足に背を丸めて、頭を抱えている。

さっき、サトシさんは星さんの耳元で何かを言ったのだろうか。
星さんはやがて決心したように胡座をかいて座り直すと、わたしを見上げて言った。

「今サトシの中、燿子ちゃん? これから大事な話するから座ってよ」

言われた通り、本の山を避けて床に座る。

「前にも同じようなことがあったって言ったろ? その時のこと話すよ。元に戻る手がかりになるかもしれないし、それに」

星さんはそこで一旦言葉を区切る。
まだ少しだけ話すことを迷っているのか、重いため息をひとつ吐き出す。

「これは燿子ちゃんを信じて言うけど、サトシの体はサトシのものだ。絶対に自死はしないって約束して欲しい」
自死って……。
「そ、そんなことしたらサトシさんを殺すことに」
星さんはきつく眉根を寄せてわたしを真っ直ぐに見て言った。
「死んだら元に戻れるとしても?」

予想外の言葉に、わたしはとっさに何も言い返せなかった。
死んだら元に戻れる? それって、サトシさんを殺せばわたしは元に戻れるってこと?

「前の奴はそれをやろうとした。それ以外に元に戻る方法が見つからなかったから」
「そんな……」
「それでもサトシはこの方法を燿子ちゃんに伝えておくべきだって言ったんだ。けど、それはサトシを殺してもいいってことじゃない。分かるよな?」

その時わたしの頭の中に浮かんだのは、あの転落事故の瞬間だった。
実際には転落事故は起きてなくて、わたしの体は誰かに殴られそうになったショックで心臓が止まったみたいだった。

でも、本当のわたしは星さんの言う並行世界にいて、あの瞬間、やっぱり三階から落ちて下にいたサトシさんを巻き込んでいたのかもしれない。

サトシさんを呼ぶ声が耳に残っている。
サトシさんはあっちの世界で無事だろうか。
わたしが戻った世界で、結局わたしはサトシさんを殺してしまっていたのだとしたら。

そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。
分からないことだらけだ。それがこんなにも苦しくもどかしいものだと知らなかった。