⑤
星さんは黙って立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールをもってくると、わたしの顔の前にそれを突き出した。
ふだんお酒を飲む習慣のないわたしはのろのろと腕を伸ばしてそれを受け取ったものの、持て余し気味にテーブルに戻す。
すかさず「飲め」と促され、その声の勢いに押されてプルタブを引いた。
プシュッと小気味よい音をたてて泡が溢れてくる。
零してはいけないと口で受け止めたら、あとはゴクゴクと一息に半分ほどを飲んでしまった。
その時に、分かった。
やっぱりこれはサトシさんの体なんだってことが。
ふだんのわたしならビールが美味しいと思ったことなんてない。
でも今はすごく美味しく感じる。
大盛りのラーメンも難なく胃に収まった。
星さんは二本目のビールを開けながら、机の下にあったノートパソコンを引っ張り出した。
「誰かに脅されたって言ったよな。とりあえずそいつ探してみよう。元に戻る手がかりが掴めるかもしれない」
ぼんやりしてるわたしと違って、星さんは早くも元に戻る方法を探し始めてくれていた。
どうやって探すのか見当もつかないわたしは、星さんの横ににじり寄ってノートパソコンを覗き込む。
「顔とか覚えてる?」
「何となく」
「じゃ、まずは似顔絵からだ」
星さんはそう言ってパソコンに平たい何かを接続し、ペンのような物を握る。
「それ、何?」
「ペンタブ。パソコンで絵を描いたりするデバイス」
パソコンの画面に立ち上がった真っ白な画面。
こんな感じ、とさらさらとイラストを描く。
その手際の良さと絵の上手さに驚いて、画面を食い入るように見ていた。
しかも星さんが描いたのはわたしの好きなリピートに出てくるキャラクターだった。
「わ、ジョットだ」
わたしの反応を楽しむように、星さんは次々と他のキャラクターの絵を描いていく。
素人が真似て描いているというようなレベルではなかった。動きのある表情も描き出す速さもかなりのファンであるにちがいない。今の状況を忘れてわたしははしゃいだ声を出していた。
「わたし、この漫画めちゃくちゃ好き! 星さんも読んでるんですね。残念なことにネットでしか公開してないんですよね。本が出たら絶対買うのに! あ、今日更新されたんですよね。星さんもう読みましたか?」
一緒に盛り上がるかと思ったのに、意外にも黙り込んでしまった星さん。
あぁ、今そんな場合じゃなかった。
謝ろうと星さんを見れば、何だか赤い顔で俯いている。
怒ったのかな?
「すみません。わたしったらこんな時に呑気に」
「……いや、その顔とその声で言われんのが何か変な感じって言うか」
確かにサトシさんのどちらかというと低い声で「わたし」とか語尾が「ね」っていう話し方は星さんにしてみれば違和感がすごいにちがいない。 ここはやっぱり男らしく話す練習をしておいた方がいいかもしれない。
「そ、そうか。悪い。これからは話し方気をつけ」
わたしが最後まで言い終える前に、星さんはお腹を抱えて床に転がり笑い始めた。
いや、もう本当に何がそんなにおかしいのか、数分間笑い続けたのちに、やっと笑いを収め、再びパソコンに向き直ると、何やら操作してまた別の画面を立ち上げた。
そこにはweb漫画『リピート』が映し出されている。
しかも、今日更新通知のあった最新話だ。うわ、読みたい、なんて思わず星さんを押しのけそうになったわたしの耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「Ark onは俺とサトシのユニット名。つまり俺らがこのリピートの作者」
え?
星さんの言ったセリフが十回は頭の中を駆け巡った。まさにリピート。
Ark onはわたしがブラック企業で働いている時に唯一心の支えだった。その人が今目の前にいる?
わたしの、正確にはサトシさんの目にぶわりと涙が浮かぶ。
奇縁、世の中ではこういう出会いをそう呼ぶのかもしれない。
俄に星さんが神々しく見えてきた。
「内緒だからな!」
そんな風に笑って気安く話しかけられている自分が信じられない。
やっぱりこれは夢に違いない。
明日の朝には、自分の部屋のベッドで目覚めて、母のお味噌汁の匂いを嗅いでいるに違いない。
ボーッと星さんを見つめるわたしに、異変が起きたのはその時だった。
本来の自分の感覚とは微妙に異なるものの、それは正しく人間の三大欲求の一つ。
一度意識し始めると止めるのは難しい。
そこでわたしは青ざめた。その行為に及ぶにはズボンや下着を下ろさなくてはならない。
そして、本来わたしの体についているはずのないものにご対面しなくてはならないのだ。
どうしよう。
よりにもよって憧れのArk onに対面した途端に、トイレに行きたいだなんて、こんな悲しいことがあるだろうか。
いったいどんな顔をすればいいのか。
うだうだと考えている間にもそれは刻一刻とわたしを追い詰めてくる。
「燿子ちゃん、聞いてる?」
星さんの顔が目の前にあった。
「星さん・・・・・・」
どうしよう、今ここで頼れる人は星さんしかいない。
我慢し続けるわけにもいかない。覚悟を決めて打ち明けるんだ。
膝の上で握った拳をぶるぶると震わせるわたしに、星さんは怪訝そうな目を向ける。
「トイレに、……行きたいです」
星さんは奥のドアを指差し、トイレの位置を教えてくれる。
それももちろん知りたかったことの一つではある。しかし、問題はそこじゃなくて。
そこじゃないんだけど、それ以上何を聞こうというのか。自分でも分からない。
我慢の限界が近付いてくる。
もじもじと動かないわたしを見ていた星さんが、ようやくわたしの心中に気付いたのか、あっ、と言ったきり目を見開いている。
恥ずかしさにいたたまれなくなったわたしは、もう半ばヤケ気味にトイレに駆け込んだ。
一瞬、トイレのドアに押し返されるような力を感じてたたらを踏む。
開いたはずのドアが目の前でバタンと締まり、その中に消えていく背中を見送る形になった。
ポツンとトイレの前に取り残されたわたしは、もうドアノブを掴むこともできない透明な存在になっていた。
どうやら、サトシさんに体から追い出されたようだ。
ほっとしたと同時に、さっきまで感じていた尿意はなくなっていた。
やがてトイレから出てきたサトシさんは、困ったような顔でわたしを見ていた。
数秒だったのか、数分だったのか、わたしはサトシさんの視線を受け止めたまま、何も考えられずにいた。
言うべき言葉も見つからず、ただその深い悲しみを湛えたような目に自分の中に浮かぶ無数の疑問をつかみとるのに精いっぱいだった。
簡単にわたしを追い出すことができるのに、なぜこの人はわたしに体を貸してくれるのだろう。なぜ、わたしを助けたのだろう。それにその目を見たことがあるような気がするのはなぜだろう。わたしはその目を確かに知っていた。
星さんは黙って立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールをもってくると、わたしの顔の前にそれを突き出した。
ふだんお酒を飲む習慣のないわたしはのろのろと腕を伸ばしてそれを受け取ったものの、持て余し気味にテーブルに戻す。
すかさず「飲め」と促され、その声の勢いに押されてプルタブを引いた。
プシュッと小気味よい音をたてて泡が溢れてくる。
零してはいけないと口で受け止めたら、あとはゴクゴクと一息に半分ほどを飲んでしまった。
その時に、分かった。
やっぱりこれはサトシさんの体なんだってことが。
ふだんのわたしならビールが美味しいと思ったことなんてない。
でも今はすごく美味しく感じる。
大盛りのラーメンも難なく胃に収まった。
星さんは二本目のビールを開けながら、机の下にあったノートパソコンを引っ張り出した。
「誰かに脅されたって言ったよな。とりあえずそいつ探してみよう。元に戻る手がかりが掴めるかもしれない」
ぼんやりしてるわたしと違って、星さんは早くも元に戻る方法を探し始めてくれていた。
どうやって探すのか見当もつかないわたしは、星さんの横ににじり寄ってノートパソコンを覗き込む。
「顔とか覚えてる?」
「何となく」
「じゃ、まずは似顔絵からだ」
星さんはそう言ってパソコンに平たい何かを接続し、ペンのような物を握る。
「それ、何?」
「ペンタブ。パソコンで絵を描いたりするデバイス」
パソコンの画面に立ち上がった真っ白な画面。
こんな感じ、とさらさらとイラストを描く。
その手際の良さと絵の上手さに驚いて、画面を食い入るように見ていた。
しかも星さんが描いたのはわたしの好きなリピートに出てくるキャラクターだった。
「わ、ジョットだ」
わたしの反応を楽しむように、星さんは次々と他のキャラクターの絵を描いていく。
素人が真似て描いているというようなレベルではなかった。動きのある表情も描き出す速さもかなりのファンであるにちがいない。今の状況を忘れてわたしははしゃいだ声を出していた。
「わたし、この漫画めちゃくちゃ好き! 星さんも読んでるんですね。残念なことにネットでしか公開してないんですよね。本が出たら絶対買うのに! あ、今日更新されたんですよね。星さんもう読みましたか?」
一緒に盛り上がるかと思ったのに、意外にも黙り込んでしまった星さん。
あぁ、今そんな場合じゃなかった。
謝ろうと星さんを見れば、何だか赤い顔で俯いている。
怒ったのかな?
「すみません。わたしったらこんな時に呑気に」
「……いや、その顔とその声で言われんのが何か変な感じって言うか」
確かにサトシさんのどちらかというと低い声で「わたし」とか語尾が「ね」っていう話し方は星さんにしてみれば違和感がすごいにちがいない。 ここはやっぱり男らしく話す練習をしておいた方がいいかもしれない。
「そ、そうか。悪い。これからは話し方気をつけ」
わたしが最後まで言い終える前に、星さんはお腹を抱えて床に転がり笑い始めた。
いや、もう本当に何がそんなにおかしいのか、数分間笑い続けたのちに、やっと笑いを収め、再びパソコンに向き直ると、何やら操作してまた別の画面を立ち上げた。
そこにはweb漫画『リピート』が映し出されている。
しかも、今日更新通知のあった最新話だ。うわ、読みたい、なんて思わず星さんを押しのけそうになったわたしの耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「Ark onは俺とサトシのユニット名。つまり俺らがこのリピートの作者」
え?
星さんの言ったセリフが十回は頭の中を駆け巡った。まさにリピート。
Ark onはわたしがブラック企業で働いている時に唯一心の支えだった。その人が今目の前にいる?
わたしの、正確にはサトシさんの目にぶわりと涙が浮かぶ。
奇縁、世の中ではこういう出会いをそう呼ぶのかもしれない。
俄に星さんが神々しく見えてきた。
「内緒だからな!」
そんな風に笑って気安く話しかけられている自分が信じられない。
やっぱりこれは夢に違いない。
明日の朝には、自分の部屋のベッドで目覚めて、母のお味噌汁の匂いを嗅いでいるに違いない。
ボーッと星さんを見つめるわたしに、異変が起きたのはその時だった。
本来の自分の感覚とは微妙に異なるものの、それは正しく人間の三大欲求の一つ。
一度意識し始めると止めるのは難しい。
そこでわたしは青ざめた。その行為に及ぶにはズボンや下着を下ろさなくてはならない。
そして、本来わたしの体についているはずのないものにご対面しなくてはならないのだ。
どうしよう。
よりにもよって憧れのArk onに対面した途端に、トイレに行きたいだなんて、こんな悲しいことがあるだろうか。
いったいどんな顔をすればいいのか。
うだうだと考えている間にもそれは刻一刻とわたしを追い詰めてくる。
「燿子ちゃん、聞いてる?」
星さんの顔が目の前にあった。
「星さん・・・・・・」
どうしよう、今ここで頼れる人は星さんしかいない。
我慢し続けるわけにもいかない。覚悟を決めて打ち明けるんだ。
膝の上で握った拳をぶるぶると震わせるわたしに、星さんは怪訝そうな目を向ける。
「トイレに、……行きたいです」
星さんは奥のドアを指差し、トイレの位置を教えてくれる。
それももちろん知りたかったことの一つではある。しかし、問題はそこじゃなくて。
そこじゃないんだけど、それ以上何を聞こうというのか。自分でも分からない。
我慢の限界が近付いてくる。
もじもじと動かないわたしを見ていた星さんが、ようやくわたしの心中に気付いたのか、あっ、と言ったきり目を見開いている。
恥ずかしさにいたたまれなくなったわたしは、もう半ばヤケ気味にトイレに駆け込んだ。
一瞬、トイレのドアに押し返されるような力を感じてたたらを踏む。
開いたはずのドアが目の前でバタンと締まり、その中に消えていく背中を見送る形になった。
ポツンとトイレの前に取り残されたわたしは、もうドアノブを掴むこともできない透明な存在になっていた。
どうやら、サトシさんに体から追い出されたようだ。
ほっとしたと同時に、さっきまで感じていた尿意はなくなっていた。
やがてトイレから出てきたサトシさんは、困ったような顔でわたしを見ていた。
数秒だったのか、数分だったのか、わたしはサトシさんの視線を受け止めたまま、何も考えられずにいた。
言うべき言葉も見つからず、ただその深い悲しみを湛えたような目に自分の中に浮かぶ無数の疑問をつかみとるのに精いっぱいだった。
簡単にわたしを追い出すことができるのに、なぜこの人はわたしに体を貸してくれるのだろう。なぜ、わたしを助けたのだろう。それにその目を見たことがあるような気がするのはなぜだろう。わたしはその目を確かに知っていた。