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母が車を買い換えると言うので、古い車を譲って貰うことになった。
田舎の道はともかくとして、片側二車線以上になると車線変更が危うい。時々サトシさんに運転を教えてもらい、どうにかショッピングモールまで一人で行けるようになった。
あれから半年。
わたしは「あけのん」から届く野菜を使って、いくつかの料理を作ることができるようになった。
遠くに行く時は車を使うけれど、近くの買い物はなるべく早歩きで行くし、エスカレーターより階段を選ぶ。
少しずつ変化が現れていると思う。
何かが劇的に変わるわけじゃない。ほんのちょっとニキビが減ったとか、姿勢が少しだけ良くなったという程度のささやかな変化だ。
でも、サトシさんや星さんに出会わなかったら、きっとわたしは今も一ミリも変わらずに生きていただろう。
それに距離を置くと言った星さんは、一週間後にはわたしの家に野菜を届けに来てくれた。
「これからも来ていいかな」
恥ずかしそうに笑う星さんを見て、嬉しくて泣いた。
そうこうしている間に夏が終わり、秋も過ぎ去った。
松本議員辞任、逮捕の記事が新聞に出たのももう二ヶ月も前だ。
尚也さんのお母さんはサトシさんや星さんを恨む気持ちを利用され、挙句に罪をひとりで被るところだった。
そこは松崎刑事たちの捜査のおかげで松本議員との関与が認められた。これから罪を償っていくことになるのだろう。
子どもたちは事件の後遺症でしばらく不安がっていたようだけれど、サトシさんと星さんの協力のもと元気を取り戻した。
星さんは何度も学校に足を運んで、野菜のことをみんなに教えたり一緒に料理を作ったりしているそうだ。
そんなこともあって夏の終わりくらいから星さんは忙しくなり、なかなか会えない日が続いている。
わたしの方もサトシさんの紹介で児童クラブのお手伝いをするようになっていた。
小さな変化はいつの間にか大きな変化に変わる。
頑張ったわたしに、サトシさんがご褒美をくれるという。ショッピングモールで待ち合わせをしていた。クリスマスの飾りと音楽が楽しげにわたしを迎え入れてくれていた。
先週母からプレゼントされたワンピースを着てきた。サトシさんに会う前に服に合う靴を見つけなくちゃ。
いつもは素通りする靴屋さんで、ベージュのストラップ付きのパンプスを買った。
服や靴が違うだけでも心が浮き立つし、数センチ胸を張れるような気がする。
まだ少し早い時間だったので本屋にも立ち寄ることにした。
そこには「リピート遂に書籍化!」の文字と共に長蛇の列ができていた。
書籍化はもちろん知っていた。でも発売日は明日だと思っていた。
唖然とするわたしの前に、誰かが立ちはだかる。
爽やかなブルーのチェックのシャツにサングラス。
「サインしてあげようか?」
その声は……
「星さん!」
会うのは三ヶ月ぶりだった。
手渡された「リピート」の表紙にはしっかりとArc onのサインが書かれている。
「耀子ちゃんの一声がきっかけだよ」
星さんはサングラスを外すとそう言って照れたように鼻の頭をかく。
わたしは何と言っていいか分からず、その真新しい本をじっと見つめた。
そっとページをめくると、
――愛する人へ
手書きの文字でそう書かれていた。
「俺、耀子ちゃんがサトシの中にいた時、俺が絶対耀子ちゃんを元に戻すって思ってた。でも耀子ちゃんは自力で元に戻った。イベントの時だって、耀子ちゃんは俺を守ろうとしたんだよね」
自分が情けなくてさ、と星さんは俯いた。何と言っていいか分からずわたしは再びリピートの表紙に目を落とす。
「リピートはいつもわたしの心の支えでした。星さんに出会わなかったら、わたしは今もきっと幽霊のまま自分の居場所を見つけられずにいたと思います」
わたしは片手でリピートを胸にだきしめ、もう片方の手で星さんの手をとった。
ある日目の前まで迫った運命がくるりと背中を向けて去ってしまこともある。
本当に逃がしたくない運命は、この手でしっかりと握っておかなければいけない。
無数の選択肢の中からひとつを選び続けて今がある。ひとつひとつの選択の瞬間に運命はひとつの糸に撚り合わされて一本の糸になっていくのだ。
その糸はまた誰かの糸と重なり合っていく。
繰り返される毎日を丁寧に撚り合わせていくこと。それが今のわたしにできる最大限の努力だ。
「これからも耀子ちゃんのために描き続けるよ」
「はい、よろしくお願いします」
わたしたちはふたり並んで歩き始めた。まだ誰も知らない未来に向かって。
<了>
母が車を買い換えると言うので、古い車を譲って貰うことになった。
田舎の道はともかくとして、片側二車線以上になると車線変更が危うい。時々サトシさんに運転を教えてもらい、どうにかショッピングモールまで一人で行けるようになった。
あれから半年。
わたしは「あけのん」から届く野菜を使って、いくつかの料理を作ることができるようになった。
遠くに行く時は車を使うけれど、近くの買い物はなるべく早歩きで行くし、エスカレーターより階段を選ぶ。
少しずつ変化が現れていると思う。
何かが劇的に変わるわけじゃない。ほんのちょっとニキビが減ったとか、姿勢が少しだけ良くなったという程度のささやかな変化だ。
でも、サトシさんや星さんに出会わなかったら、きっとわたしは今も一ミリも変わらずに生きていただろう。
それに距離を置くと言った星さんは、一週間後にはわたしの家に野菜を届けに来てくれた。
「これからも来ていいかな」
恥ずかしそうに笑う星さんを見て、嬉しくて泣いた。
そうこうしている間に夏が終わり、秋も過ぎ去った。
松本議員辞任、逮捕の記事が新聞に出たのももう二ヶ月も前だ。
尚也さんのお母さんはサトシさんや星さんを恨む気持ちを利用され、挙句に罪をひとりで被るところだった。
そこは松崎刑事たちの捜査のおかげで松本議員との関与が認められた。これから罪を償っていくことになるのだろう。
子どもたちは事件の後遺症でしばらく不安がっていたようだけれど、サトシさんと星さんの協力のもと元気を取り戻した。
星さんは何度も学校に足を運んで、野菜のことをみんなに教えたり一緒に料理を作ったりしているそうだ。
そんなこともあって夏の終わりくらいから星さんは忙しくなり、なかなか会えない日が続いている。
わたしの方もサトシさんの紹介で児童クラブのお手伝いをするようになっていた。
小さな変化はいつの間にか大きな変化に変わる。
頑張ったわたしに、サトシさんがご褒美をくれるという。ショッピングモールで待ち合わせをしていた。クリスマスの飾りと音楽が楽しげにわたしを迎え入れてくれていた。
先週母からプレゼントされたワンピースを着てきた。サトシさんに会う前に服に合う靴を見つけなくちゃ。
いつもは素通りする靴屋さんで、ベージュのストラップ付きのパンプスを買った。
服や靴が違うだけでも心が浮き立つし、数センチ胸を張れるような気がする。
まだ少し早い時間だったので本屋にも立ち寄ることにした。
そこには「リピート遂に書籍化!」の文字と共に長蛇の列ができていた。
書籍化はもちろん知っていた。でも発売日は明日だと思っていた。
唖然とするわたしの前に、誰かが立ちはだかる。
爽やかなブルーのチェックのシャツにサングラス。
「サインしてあげようか?」
その声は……
「星さん!」
会うのは三ヶ月ぶりだった。
手渡された「リピート」の表紙にはしっかりとArc onのサインが書かれている。
「耀子ちゃんの一声がきっかけだよ」
星さんはサングラスを外すとそう言って照れたように鼻の頭をかく。
わたしは何と言っていいか分からず、その真新しい本をじっと見つめた。
そっとページをめくると、
――愛する人へ
手書きの文字でそう書かれていた。
「俺、耀子ちゃんがサトシの中にいた時、俺が絶対耀子ちゃんを元に戻すって思ってた。でも耀子ちゃんは自力で元に戻った。イベントの時だって、耀子ちゃんは俺を守ろうとしたんだよね」
自分が情けなくてさ、と星さんは俯いた。何と言っていいか分からずわたしは再びリピートの表紙に目を落とす。
「リピートはいつもわたしの心の支えでした。星さんに出会わなかったら、わたしは今もきっと幽霊のまま自分の居場所を見つけられずにいたと思います」
わたしは片手でリピートを胸にだきしめ、もう片方の手で星さんの手をとった。
ある日目の前まで迫った運命がくるりと背中を向けて去ってしまこともある。
本当に逃がしたくない運命は、この手でしっかりと握っておかなければいけない。
無数の選択肢の中からひとつを選び続けて今がある。ひとつひとつの選択の瞬間に運命はひとつの糸に撚り合わされて一本の糸になっていくのだ。
その糸はまた誰かの糸と重なり合っていく。
繰り返される毎日を丁寧に撚り合わせていくこと。それが今のわたしにできる最大限の努力だ。
「これからも耀子ちゃんのために描き続けるよ」
「はい、よろしくお願いします」
わたしたちはふたり並んで歩き始めた。まだ誰も知らない未来に向かって。
<了>