㉝
吹き抜けに面した手摺からイベント会場を見下ろすと、大きな鍋を抱えた星さんの姿がチラリと見えた。
左右を見渡してエスカレーターを探す。どちらも同じくらい遠くに感じる。
星さんが気付いてくれないかと手を振ってみても、もちろんそんな所にわたしがいると知らない星さんが気付くはずもない。
水を運んでいた台車は既に1階に到着し、星さんの方に向かっている。
わたしはエスカレーターに向かって走る。途中何度もすれ違う人にぶつかってしまって、上手く前に進めない。
再び見下ろした先で、星さんはきょろと辺りを見回している。
そして星さんの姿が見えなくなった。パーテーションの影に隠れたのだ。
――一時的にカレー鍋から目を離す。
それは作戦のうち。
でも、既に毒物は混入されてしまっている可能性が高い。
今日ここに松崎刑事がいたということは、星さんは事前に計画のことを知らせていたのかもしれない。
松崎刑事はどこに行ったのだろう。
手摺から身を乗り出して下を伺っていると、背後からキャッという悲鳴が聞こえた。
誰かが走ってくる。
その光景に既視感を覚える。
前を走っているのは黒いポロシャツに黒いキャップ。さっきお水を運んでいた人だ。
そしてその後ろを追いかけるように走って来るのは松崎刑事だ。
あの小瓶を落として行ったのは松崎刑事じゃない。
あの台車から落ちたものだ。犯人は危険をおかしてまでカレー鍋に近付くんじゃなくて、あらかじめ毒物を混入させた状態でイベント会場へ運び混んだ。
とても自然な状態で。
そもそも給食に農薬が混入された時、何故わたしはそれに気付かなかったんだろう。
臭いや味、色も給食には何もおかしなところはなかった。
通常、誤飲を防ぐ為に毒物には強い臭いや苦味がつけられていると聞いたことがある。
あれは本当に農薬だったんだろうか。
犯人は農園に対する信用をなくすための騒ぎを起こしたかっただけで、それが本当に農薬である必要はなかったのかもしれない。
無味無臭の薬品を他の物に混ぜても、騒ぎさえ起きれば犯人は満足するんじゃないだろうか。
特に今日のイベントなら……。
わたしは1階を見下ろす。
星さんがウォーターサーバーに近付く。
今から星さんの所まで走っても間に合わない。
毒物はカレー鍋じゃない。
今すぐそれを伝えたいのに、どうしたらいい?
星さん……そのお水、飲まないで!
人は空を飛べない。
どんなアクションスターだって、命綱無しに三階から飛び降りたりしない。
もしもう一度だけ、あの時のように魂になって飛べたら。
紙コップを握るその手を。
ウォーターサーバーのコックを捻るその前に。
「星さん!」
声の限りに叫んだ。
人の群れに吸い込まれる声。
星さんこっちを見て!
わたしの真下にはサトシさんがいた。サトシさんには聞こえたのか、ゆっくりと顔が上がる。
「サトシさん!」
躊躇っている暇はない。
目を閉じて、体と魂を切り離すイメージで。手の感覚が無くなるくらい強く手摺りを握りしめた。
何度もサトシさんの体を出入りした、あの時の感覚を思い出せ。
きっとサトシさんが受け止めてくれる。
ぬるりと体を脱ぎ捨てる。
ふわりと浮かんで手摺りに足をかけた。
ゆらんと吹き抜けを揺蕩う風船のシルエット。なぜだかわたしに向かって両手を広げている。
その風船が受け止めてあげるよと言っているみたいだ。
わたしはその腕の中めがけて飛び込んだ。
放物線を描いて落下するその中《・》で。
ぼやけた視界の向こうでたくさんの野菜たちがわたしを待ち構える。
ぼーんと弾んだ風船が、ウォーターサーバーをなぎ倒した。
星さんが呆然とわたしを見下ろしている。
マンモスの形をした長さ5メートルはある風船。
突然降ってきたそれを、子どもたちが楽しそうに叩いたり転がしたりし始める。
ああ、やめて、目が回っちゃう!
もちろん、風船は喋らない。
魂だけのわたしの叫びも、誰の耳にも届かない。
でも、ミッションは成功だよね?
星さんが上を見上げる。その先に向かってわたしも吸い込まれるように浮き上がった。
数秒後、急激に体の感覚が戻ってくる。
誰かがわたしを抱き起こして何かを言っている。
「……おい、しっかりしろ!」
その声にはたと目を開けば、間近に松崎刑事の顔があった。
「気がついたか? どこか痛い所は?」
矢継ぎ早に尋ねられて、松崎刑事を見上げる。わたしを心配しているのがその表情から分かった。
「あ、……犯人は……?」
はぁとため息を吐いて、松崎刑事は立てた親指で後ろを指さす。
手摺に手錠で繋がれた男性。黒いキャップが外れてその顔がはっきり見えた。
それはわたしを警察署で取り調べたあのやる気のない刑事さんだった。
イベントが終わり、片付けを終えて帰る車の中で、明らかに星さんは怒っていた。
サトシさんと星さんのお母さんは別の車で先に帰ったため、星さんと二人きりだった。
倒れたわたしを松崎刑事が抱き上げて運ぼうとしてくれたところに、星さんがわたしを探しに来て……。
何かあったことは察しているだろうのに、星さんは何も聞かなかった。
それどころか、それ以降一言も話していない。
ともかく星さんが無事で、犯人が捕まって、イベントも無事に終わったのだ。
「犯人捕まって良かったですね」
沈黙に耐えられずに、星さんが怒っていることになんて気付いていないふうを装いながら話す。
「…………」
「あ、あの薬。松崎刑事から聞いたんですけど、そんなに強い毒じゃなかったみたいですね。軽い嘔吐とか腹痛程度で」
「…………」
「でも、お客さんに被害が出なくて良かったです」
「お客さんが無事なら、自分はどうなっても構わないってわけ?」
押し殺したような星さんの声に息が詰まりそうになる。
「そんなことは……」
星さんがたまりかねたようにハンドルを切って車を路肩に止める。
薄暗い車内でハザードランプの点滅が星さんの厳しい横顔に反射する。
「元に戻れなかったらどうするつもりだったんだよ! また《・・》別の世界に飛ばされたら、二度と会えなかったかもしれない。それでも良かったって言えるのかよ」
星さんにはただ落ちてきた風船がウォーターサーバーに当たっただけに見えたはずなのに、それがわたしがやったことだと分かっているんだ。
「しかも他の男の前で無防備に倒れるとか、俺……自分に腹が立って我慢できない」
ハンドルに顔を伏せて星さんが肩を震わせている。
「星さん……」
泣いてるのかと思った。ただ星さんを助けたかっただけなのに、わたしは間違えてしまったんだろうか。
もしかすると、あのショッピングモールの三階からわたしは何度も落ちているのかもしれない。不意にそんな想像がわき起こった。
何度も何度も失敗しては同じところをループしている。何が正解なのか分からなくて、でも多分落ちないという選択はないのだ。
どこかの並行世界のわたしは生身であそこから落ちたのかもしれない。
ただ愛する人を助けたくて。
ただの想像だけど、星さんもその度に心配で胸が張り裂けそうな思いで自分を責めているのだろうか。
わたしの一瞬一瞬の選択は、誰かの人生にさざ波を立て、時には嵐のように襲いかかっている。
近くにいればいるほど。
「ちょっと距離を置いた方がいいかも、俺たち」
このループにきっと正解はない。星さんの言葉の本当の意味を、その時のわたしは考えることができなかった。
吹き抜けに面した手摺からイベント会場を見下ろすと、大きな鍋を抱えた星さんの姿がチラリと見えた。
左右を見渡してエスカレーターを探す。どちらも同じくらい遠くに感じる。
星さんが気付いてくれないかと手を振ってみても、もちろんそんな所にわたしがいると知らない星さんが気付くはずもない。
水を運んでいた台車は既に1階に到着し、星さんの方に向かっている。
わたしはエスカレーターに向かって走る。途中何度もすれ違う人にぶつかってしまって、上手く前に進めない。
再び見下ろした先で、星さんはきょろと辺りを見回している。
そして星さんの姿が見えなくなった。パーテーションの影に隠れたのだ。
――一時的にカレー鍋から目を離す。
それは作戦のうち。
でも、既に毒物は混入されてしまっている可能性が高い。
今日ここに松崎刑事がいたということは、星さんは事前に計画のことを知らせていたのかもしれない。
松崎刑事はどこに行ったのだろう。
手摺から身を乗り出して下を伺っていると、背後からキャッという悲鳴が聞こえた。
誰かが走ってくる。
その光景に既視感を覚える。
前を走っているのは黒いポロシャツに黒いキャップ。さっきお水を運んでいた人だ。
そしてその後ろを追いかけるように走って来るのは松崎刑事だ。
あの小瓶を落として行ったのは松崎刑事じゃない。
あの台車から落ちたものだ。犯人は危険をおかしてまでカレー鍋に近付くんじゃなくて、あらかじめ毒物を混入させた状態でイベント会場へ運び混んだ。
とても自然な状態で。
そもそも給食に農薬が混入された時、何故わたしはそれに気付かなかったんだろう。
臭いや味、色も給食には何もおかしなところはなかった。
通常、誤飲を防ぐ為に毒物には強い臭いや苦味がつけられていると聞いたことがある。
あれは本当に農薬だったんだろうか。
犯人は農園に対する信用をなくすための騒ぎを起こしたかっただけで、それが本当に農薬である必要はなかったのかもしれない。
無味無臭の薬品を他の物に混ぜても、騒ぎさえ起きれば犯人は満足するんじゃないだろうか。
特に今日のイベントなら……。
わたしは1階を見下ろす。
星さんがウォーターサーバーに近付く。
今から星さんの所まで走っても間に合わない。
毒物はカレー鍋じゃない。
今すぐそれを伝えたいのに、どうしたらいい?
星さん……そのお水、飲まないで!
人は空を飛べない。
どんなアクションスターだって、命綱無しに三階から飛び降りたりしない。
もしもう一度だけ、あの時のように魂になって飛べたら。
紙コップを握るその手を。
ウォーターサーバーのコックを捻るその前に。
「星さん!」
声の限りに叫んだ。
人の群れに吸い込まれる声。
星さんこっちを見て!
わたしの真下にはサトシさんがいた。サトシさんには聞こえたのか、ゆっくりと顔が上がる。
「サトシさん!」
躊躇っている暇はない。
目を閉じて、体と魂を切り離すイメージで。手の感覚が無くなるくらい強く手摺りを握りしめた。
何度もサトシさんの体を出入りした、あの時の感覚を思い出せ。
きっとサトシさんが受け止めてくれる。
ぬるりと体を脱ぎ捨てる。
ふわりと浮かんで手摺りに足をかけた。
ゆらんと吹き抜けを揺蕩う風船のシルエット。なぜだかわたしに向かって両手を広げている。
その風船が受け止めてあげるよと言っているみたいだ。
わたしはその腕の中めがけて飛び込んだ。
放物線を描いて落下するその中《・》で。
ぼやけた視界の向こうでたくさんの野菜たちがわたしを待ち構える。
ぼーんと弾んだ風船が、ウォーターサーバーをなぎ倒した。
星さんが呆然とわたしを見下ろしている。
マンモスの形をした長さ5メートルはある風船。
突然降ってきたそれを、子どもたちが楽しそうに叩いたり転がしたりし始める。
ああ、やめて、目が回っちゃう!
もちろん、風船は喋らない。
魂だけのわたしの叫びも、誰の耳にも届かない。
でも、ミッションは成功だよね?
星さんが上を見上げる。その先に向かってわたしも吸い込まれるように浮き上がった。
数秒後、急激に体の感覚が戻ってくる。
誰かがわたしを抱き起こして何かを言っている。
「……おい、しっかりしろ!」
その声にはたと目を開けば、間近に松崎刑事の顔があった。
「気がついたか? どこか痛い所は?」
矢継ぎ早に尋ねられて、松崎刑事を見上げる。わたしを心配しているのがその表情から分かった。
「あ、……犯人は……?」
はぁとため息を吐いて、松崎刑事は立てた親指で後ろを指さす。
手摺に手錠で繋がれた男性。黒いキャップが外れてその顔がはっきり見えた。
それはわたしを警察署で取り調べたあのやる気のない刑事さんだった。
イベントが終わり、片付けを終えて帰る車の中で、明らかに星さんは怒っていた。
サトシさんと星さんのお母さんは別の車で先に帰ったため、星さんと二人きりだった。
倒れたわたしを松崎刑事が抱き上げて運ぼうとしてくれたところに、星さんがわたしを探しに来て……。
何かあったことは察しているだろうのに、星さんは何も聞かなかった。
それどころか、それ以降一言も話していない。
ともかく星さんが無事で、犯人が捕まって、イベントも無事に終わったのだ。
「犯人捕まって良かったですね」
沈黙に耐えられずに、星さんが怒っていることになんて気付いていないふうを装いながら話す。
「…………」
「あ、あの薬。松崎刑事から聞いたんですけど、そんなに強い毒じゃなかったみたいですね。軽い嘔吐とか腹痛程度で」
「…………」
「でも、お客さんに被害が出なくて良かったです」
「お客さんが無事なら、自分はどうなっても構わないってわけ?」
押し殺したような星さんの声に息が詰まりそうになる。
「そんなことは……」
星さんがたまりかねたようにハンドルを切って車を路肩に止める。
薄暗い車内でハザードランプの点滅が星さんの厳しい横顔に反射する。
「元に戻れなかったらどうするつもりだったんだよ! また《・・》別の世界に飛ばされたら、二度と会えなかったかもしれない。それでも良かったって言えるのかよ」
星さんにはただ落ちてきた風船がウォーターサーバーに当たっただけに見えたはずなのに、それがわたしがやったことだと分かっているんだ。
「しかも他の男の前で無防備に倒れるとか、俺……自分に腹が立って我慢できない」
ハンドルに顔を伏せて星さんが肩を震わせている。
「星さん……」
泣いてるのかと思った。ただ星さんを助けたかっただけなのに、わたしは間違えてしまったんだろうか。
もしかすると、あのショッピングモールの三階からわたしは何度も落ちているのかもしれない。不意にそんな想像がわき起こった。
何度も何度も失敗しては同じところをループしている。何が正解なのか分からなくて、でも多分落ちないという選択はないのだ。
どこかの並行世界のわたしは生身であそこから落ちたのかもしれない。
ただ愛する人を助けたくて。
ただの想像だけど、星さんもその度に心配で胸が張り裂けそうな思いで自分を責めているのだろうか。
わたしの一瞬一瞬の選択は、誰かの人生にさざ波を立て、時には嵐のように襲いかかっている。
近くにいればいるほど。
「ちょっと距離を置いた方がいいかも、俺たち」
このループにきっと正解はない。星さんの言葉の本当の意味を、その時のわたしは考えることができなかった。