咄嗟にサトシさんが庇うように腕を広げる。トマトはその腕に当たって潰れて落ちる。
辺りが何事かとざわめく。サトシさんは落ちたトマトの始末を佳織さんに任せ、その女性に歩み寄った。
何も言わずにその腕をとって歩き出す。
その時、それが誰だかに思い当たった。きっと尚也さんのお母さんだ。
女性は抵抗したものの、サトシさんの力に叶うはずもない。すぐに諦めたのか、サトシさんに引かれるままついて行く。
わたしもその後を追いかけた。
サトシさんは店の外に出てカフェのオープンスペースの椅子に女性を座らせた。
冷房のない屋外だったけれど、まだ午前中で日陰になっているし風もあってそこまで暑くはない。
「母さん……」
「尚也の真似したってダメよ! あんたたちだけ幸せになるなんて……そんなの許せるわけないでしょう!」
「俺たちが不幸だったら、母さんは幸せなの?」
「当たり前でしょ? 尚也は不幸に死んでいったのに、尚也を殺したあなたたちだけ幸せになるなんて許せない」
「尚也が不幸に死んでいったって何故分かるの?」
「だってまだ高校生だったのよ! 不幸に決まってるじゃない!」
「母さんが不幸だって決めつけたら尚也は不幸になる」
「母さんて呼ばないで!」
「俺たちに復讐しても、あなたは幸せにはなれないよ。尚也は俺たちの中に生きてる。俺たちは誰の不幸も願ってないし、恨みあって生きていたくない。あなたが佳織や星を苦しめたら、俺も、……尚也もあなたを恨むことになる」
「…………」
「俺たちは友達だった。誰も尚也を殺してなんかいない。あれは事故だった。これ以上関係ない人まで巻き込んで欲しくない。子どもたちに何かあったら許せないのは俺も同じ気持ちです」
尚也さんのお母さんは肩を震わせて泣いていた。サトシさんはじっとその姿を見ていた。
急に気持ちは変わらないかもしれない。けれど、サトシさんと尚也さんの気持ちはお母さんに届いたと思う。
わたしはそっとイベント会場に戻った。







カレーの試食は1時間後にスタートする。
紙皿、スプーン、お水を入れる紙コップ、それらを机の上に並べて、わたしたちはなるべくお鍋には目を向けないようにして待った。
無料配布の野菜はどんどんなくなっていく。
「そろそろカレー始めようか」
星さんはパーテーションで囲った一角に入っていく。
わたしはふと、紙ナプキンもあった方がいいんじゃないかと今更気がついた。
「星さん、ちょっと買い物行ってきます」
野菜の配布はサトシさんと星さんのお母さんで手が足りているので、わたしはエプロンを外してお財布を手に雑貨屋に向かった。
どうせならかわいい柄のにしよう。
三階のよく行く雑貨屋にはオシャレなキッチン雑貨が揃っている。
わたしはエスカレーターに乗ってイベント会場を見下ろしながら、犯人を捕まえる目的とは別の高揚感を感じていた。
カレーの試食コーナーとして設置してあるテーブルには、星さんの作った塗り絵も置いてある。
お母さんたちが野菜を見ている間、子どもたちがそこで塗り絵をして遊べるようにというわたしのアイデアを星さんが採用してくれたのだ。
色鉛筆やクレヨンを用意するのも楽しかったし、喜ぶ親子の顔を見ているのも嬉しかった。
犯人を捕まえたい気持ちはもちろんあるけれど、このまま無事にイベントが終わってくれたらそれはそれでいいような気もしていた。
三階につくと、ちょっとお手洗いにも行きたくなってエレベーター横の化粧室に立ち寄った。
喫煙室の前を通って女子トイレに向かう。その時、ガラスで区切られた喫煙室の中に見知った顔があるのに気がついた。
わたしは咄嗟に顔を見られないよう顔を背けて通りすぎる。
なんだか嫌な汗が出てくる。
今日は日曜日なのだから、ここにその人がいたとしても不思議ではない。
でも、どこか違和感を感じずにはいられない。
思わず立ち止まって喫煙室を振り返ると、その人がちょうど出てくる所だった。
事件から一月も経っているし、わたしへの疑いは晴れたのだから、わたしがビクビクする必要なんてない。
頭ではそう思っていても、足がすくんだ。
「よう、星の手伝いか?」
「松崎刑事……」
親しげに声をかけられて逃げることもできない。
「はい……」
「面倒起こす前に一言相談しろよって星に言っといてくれ」
「…………」
松崎刑事は黙り込むわたしを一瞥しただけで片手を上げて去って行った。
もしわたしが反対しなかったら、星さんは松崎刑事に今回のことを相談しただろう。
でもわたしはどうしてもこの人を信用したくなかった。
本当なら警察の力を借りる方がいいに違いない。
わたしは松崎刑事の後ろ姿を見送りながら、これが偶然なのかどうかを考えていた。


人混みに紛れていく背中を、気付けば追いかけていた。ただし、松崎刑事には気付かれないように距離を置いて。
松崎刑事は買い物をするでも家族と合流するでもなく、一人で立体駐車場の方へと歩いていく。
その姿を見失わないようにと必死になっていたわたしは、何かに躓いて転んでしまった。
幸い床にはカーペットが敷かれているので、転んだ拍子に床についた手は何ともなかったけれど、ぶつけた向こう脛がジンジンする。
駐車場の方からやってきた、大きな水の入ったタンクを乗せた台車だった。
弾みでグラグラと揺れるタンクを抑えて立ち上がりながら、すみませんと謝る。
台車を押していた男性は被っていた帽子のつばさきを押さえて黙って行ってしまう。
前を見ていなかったわたしも悪いけれど、人が転んだのに何も言わずに行ってしまうなんて……。
余程急いでいたのだろうか。
そう言えば、イベント会場にウォーターサーバーのお水がまだ届いていなかった。
もしかしたら今のがそうかもしれない。
松崎刑事を追いかけたいけれど、そろそろ戻らないとカレーの試食が始まってしまう。
台車を押した男性はエレベーターに乗り込む。松崎刑事はそれとは別の駐車場にあるエレベーターに乗ろうとしている。
どっちをとるべき?
二つのエレベーターの扉が閉まるのを見届けて、わたしは階段で下に降りることにした。松崎刑事がそのままイベント会場に近付かなければ大丈夫。
そう考えて階段へ向かおうとした時、自動ドアの前に何かが落ちているのに気がついた。
そう言えばさっきぶつかった時に、何かがつま先に当たったような気がする。
どことなく見覚えのある小瓶……。
嫌な予感に心臓がばくんと跳ねた。
恐る恐る拾い上げて蓋を外す。中は空だった。掌にひっくり返して中身を確認すると、白い粉のようなものが僅かに掌にこぼれる。
もしこれが叶夢君の持っていたものと同じものだとしたら。
中身は既に使われてしまったということだ。
わたしは痛みと恐怖に震える足を何とか宥めて、イベント会場へ、星さんの元へ走った。