気になることはたくさんあるのに、わたしは睡魔に勝てず、ちょっとだけ橫になるつもりが気付けば朝になっていた。
隣の部屋を覗いてみると、既に布団が畳まれていて誰もいない。サトシさんは一足早く学校に行ってしまったみたいだ。
昨日はそのまま星さんの家にサトシさんと一緒に泊めてもらった。母には星さんと星さんのお母さんが電話口で事情を説明してくれたけれど、きっとまだ心配しているだろう。
わたしの住んでいる所と星さんの家は車で一時間ほどかかる距離だ。免許は持っているものの車を持っていないわたしには、自由に行き来するには遠すぎる距離なのだ。
もっと星さんに毎日會いたいけれど、今日家に帰ったら次會えるのはいつになるだろう。
こっちで一人暮らししようかな。
そんなことを考え始めている自分に驚く。
布団を畳んで部屋を出ると、廊下の奧から星さんが出てくるところだった。
「おはようございます」
まだ眠そうにあくびをしている星さんに声をかける。
ちょっと驚いたように足を止めた星さんは、自分の姿を見下ろして慌てたように出てきた部屋に飛び込んだ。
「おはよう、燿子ちゃん。ちょっと待っててすぐ行くから」
言葉通り二分後くらいに星さんは著替えて出てきた。
「お待たせ。朝メシにしようか」
そう言ってわたしの前を通り過ぎたのに、すぐに足を止めて振り返る。
「やっぱりちょっとだけ……」
そう言ったかと思うと、長い腕を伸ばしてわたしを抱き寄せた。
「朝から燿子ちゃんが家にいるって幸せ」
急にこの間の告白とその後の出來事を思い出して、わたしは恥ずかしさと嬉しさにドキドキしながら星さんの背中にちょっとだけ腕を回してみた。
星さんの心臓の音が聞こえる。
少しだけ早いような気もするけれど、わたしの方がきっともっと早い。
「燿子ちゃん、……結婚しよ?」
星さんの口から自然にこぼれたようなセリフ。一瞬言葉の意味が分からなくて、頭の中で何度も星さんの聲がリピートする。
もしかしてからかわれてるのかと思って星さんを見上げると、いたって真面目な顔で見下ろしてくる。
「全部落ち著いたら、ちゃんとプロポーズさせて」
「ま、待ってください。わたしがまだ、その、なんて言うか、全然星さんに相応しくなくて」
「今のままで十分だよ?」
「だ、ダメです。まだまだ色々とやりたいことがあるから、わたしが準備できたら、その時にお願いします」
自分でも何言ってるんだろうと思いながら、そんな風に答えていた。
星さんは何かを考えるように天井を仰いで、やがて大きく息を吐いてわたしをギュッと抱きしめた。
「……俺、振られた?」
「ふ、振ってません! でも、け、結婚はまだ早すぎます」
「小學校の時に撒いた種がやっと芽を出したんだよ? これから二人で大事に育てていこうよ。俺、毎日燿子ちゃんの顔が見たい」
「星さん……。わたしも毎日星さんに會いたいです。だけど、星さんやサトシさんに出會って、わたしももっと変わりたいって思えて。たぶん、わたし不器用だし、一度にたくさんのことできないから。ひとつずつちゃんとやっていきたいんです。……待っててもらえますか?」
「時々会いながら待つのでもいい?」
「はい!」
庭に面した廊下に、柔らかな朝の日差しが満ちていた。
瑞々しい緑の葉っぱが跳ね返す光に二人で目を細めて、これからの未來に胸を躍らせていた。
いつか、星さんに毎朝おはようを言って朝ごはんを作ったりする日がくるかもしれない。
でもその前に、もう少しだけ頑張りたい。今より数センチ胸を張って、星さんの隣に並べるように。



星さんがお味噌汁を温め直している間に、わたしはお茶碗にご飯をよそう。
星さんのお母さんが用意してくれていた二人分の朝ごはんを並んで食べる。
ふと、食卓の上に置かれていたチラシに目が止まった。昨日星さんが言っていたイベントのチラシだ。
場所はマンモスシティのイベント広場。『野菜の無料配布とカレーの試食』の文字とともに、かわいいイラストが紙面に踊っている。
「無料で野菜を配るんですか?」
「うん。実はあの給食事件以降、野菜の出荷を制限してるんだ。
ちゃんと安全確認できたものだけを出すようにしてるんだけど、それだとどうしても鮮度が落ちてきてさ。売り物にはなんない。けど安心安全な野菜は、やっぱ食べてもらいたいじゃん」
思った以上に農園は大変なことになっているようだ。それでも星さんの決して諦めない姿にわたしも勇気をもらえる。
「わたしも精一杯お手伝いします」
そして準備は着々と進み、イベント当日を迎えた。


あの日以来初めて訪れたショッピングモールは、相変わらずの賑わいだった。
一階のイベント広場に、朝からたくさんの野菜や紙皿などが用意され、大きなお鍋にカレーが煮込まれている。
カレー鍋の近くには小さなカメラもセットされ、もし犯人が毒物などを入れようとすれば、その姿が記録される。
星さんの計画はこうだ。
ある程度人が集まったら、一旦カレー鍋からわざと目をはなす。犯人に犯行を行うチャンスを与えるのだ。
そして、実際には昨日作っておいた別のカレーを試食として配る。
計画通りに行くとは限らないけれど、イベントのチラシを出して以降農園に対する犯人の動きはなく、今日を狙っているとしてもおかしくはない。
ショッピングモールの開店とともに、お客さんがパラパラと集まり始める。
無料配布ということで、出足は好調だった。
「手伝いに来てあげたわよ」
Tシャツにデニムのラフな姿で現れた佳織さんは、看護師姿とは違ってまた素敵だった。流れるような自然な動作でエプロンを身につけ、お客さんにも積極的に声をかける。
佳織さんのようになりたいなぁと憧れる気持ちと、きっと逆立ちしたってこうはなれないなぁっていう諦めの気持ちの両方が押し寄せる。
以前のわたしならここできっと自己嫌悪に陥ってしまっていた。でも今日はそうならなかった。佳織さんは佳織さんらしくあるのが一番素敵で、わたしが真似したところでそれはわたしらしさじゃない。
わたしにはまだ自分らしさがどんなものなのか分からないけれど、せめて前を向いていたいと思った。今はそれでいいんだと思える。
「佳織、こっちにトマト追加頼む」
運び込みから手伝いに来ているサトシさんも、当たり前のように佳織さんに仕事を振る。
二人は本当に息が合っている。サトシさんの横にいる佳織さんからは優しい甘さが滲み出ている。サトシさんもふっと肩の力が抜けているようだ。お互いに思い合っているのに、このまま平行線をたどるなんて悲しすぎる。
「ぼうっとして、どうかした?」
サトシさんたちを見て考えこんでいたわたしを、星さんが下から覗き込むように見上げてきた。
「サトシさんと佳織さん、このままなんて寂しいと思って……」
「じゃあ、燿子ちゃんがキューピットになる?」
そう言って星さんは顔の横でトマトをくるりと回転させた。こちらに向いていた面には目と口が、そして裏面には天使の羽がついていた。
「かわいい……!」
星さんは漫画を描いているだけあってこういうのが本当に上手だと思う。
わたしの手にトマトの天使を乗せると、星さんはお客さんに呼ばれて行ってしまう。
わたしがキューピットに?
手の中のトマトの天使に問いかけても、どうすればいいかなんて教えてはくれない。
いつか二人の結婚式が見られるといいな、そんな風に思っていた。
そんな時だった。一人の女性が手に取ったトマトをじっと見つめている。
その横顔に見覚えがあるような気がした。
サングラスをかけて帽子を被っているのが逆に目立つ感じで、なんだか野菜を見ているというよりは、佳織さんの方を見ているような……。
あっと思った時には、その女性はトマトを佳織さんに向かって投げつけていた。