③
その後すぐに、またわたしはサトシさんの体に戻っていた。
あの時確かにサトシさんはわたしに「退いてろ」と言った。
そしてわたしは体の外へ放り出され、頭上からその後の様子を見ていたのだ。
サトシさんはわたしが(この場合取り憑いているというのだろうか)そういう状態にあることを認識していることになる。
わたしはこうしていてもサトシさんの意識を感じない。
助けてくれたことにお礼を言いたいけれど、サトシさんと会話する方法はないだろうか。
それに、一度体から出たのに何故わたしは自分の体ではなく、またサトシさんの体に入ってしまったのだろう。
サトシさんなら何か分かるだろうか。
悶々と考えていると、不意に後ろから肩を叩かれ、また魂が飛び出るほど驚いた。いやいっそ飛び出して自分の体に戻れたら良かったのに。
「さっきから呼んでるのに、気付かなかったのかよ。ホント、今日のサトシは変だなぁ」
ショッピングセンターでサトシさんと一緒にいたお友達の星さんだった。
「なんでここに……?」
「車。俺に鍵渡したのって迎えに来いってことだったんだろ?」
ああそうか。
サトシさんは、あの時救急車に一緒にわたしが乗って行くことを予測していたのだ。
何となく、あの時の行動といい、サトシさんが凄い人に思える。
わたしなら、そんなことまで気が回らないだろうし、目の前で人が倒れていても何もできないかもしれない。
あの時、サトシさんがいてくれて良かった。
もしかしたら、わたしは自分を助けてくれる人を探して体を飛び出したのかもしれない。都合良くそんな風には思ったりした。
「あの子無事だったんだって? 良かったよ、本当に。そろそろ帰るだろ?」
星さんがエレベーターに向かって歩きだそうとする。
「ちょっと待って」
わたしは母の様子をもう一度確かめようと病室を覗いてみた。
わたしが病院に運ばれてから何度も父に電話していたはずなのに、まだ連絡がつかないようだった。
いつもそうだ。肝心な時に父はいない。
わたしが台風で家に帰れなくなった時も、おばあちゃんが転んで骨折した時も、母がめまいで寝込んだ時も、父は別の女性の所にいた。
もしわたしが死んでしまったら、母はどうなるのだろう。
俯いた小さな背中を残していくのが心苦しくて、お母さんと呼べないことが寂しくて、涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。
サトシさんの体をいつまでも使わせてもらうわけにもいかない。
早く元に戻る方法を見つけなくちゃ。
「あんたたち、何やってんの?」
点滴を取替えにきた若い女性の看護師さんが、わたしと星さんを見て驚いている。わたしというか、サトシさんを見て、だけど。
「おお、佳織か。またサトシが人命救助したんだ。若い子みたいだったけど、どんな様子?」
「詳しい検査結果はまだだけど、応急処置が早かったのが幸いね。お手柄よ」
三人は知り合いのようだ。佳織さんはまるで女優さんのように綺麗な人だった。笑顔を向けられて心臓がトクンと鳴ったような気がした。
「もうすぐ消灯時間だからね」
佳織さんは星さんと少し話すと、バイバイと手を振って病室に入って行った。
「ラーメン食って帰ろうぜ」
星さんはなかなか病室を離れないわたしの背中を押してエレベーターに乗り込む。
「それにしてもなんであの時三階で人が倒れてるって分かったんだ?」
星さんにしてみれば突然おかしなことを言って走り出した先で、見ず知らずの人間が倒れていたのだから不思議に思うのは当然だ。でも説明のしようがなかった。まさかわたしがあの倒れていた人間だと言って信じてもらえるはずがない。
「なんとなく?」
そんな曖昧な返事でごまかした。
エレベーターで一階に降りると、コンビニがあるのが見えた。
母とごはんを食べる予定だった。今日の夜はパスタを食べようねと話していたのを思い出した。こんなことにならなければ今頃は二人でお腹いっぱいだねと言い合いながら家に向かっていただろう。
せめて母に何か食べ物を届けたかった。
でも自分の財布を取りに行くわけにもいかない。
サトシさん、後で必ず返すので少し貸してください。
心の中でそうお願いして、サトシさんのズボンのポケットからお財布を取り出す。
黒い薄いお財布には、数枚のお札とカード、免許証が入っていた。
人のお財布を勝手に見るというのはすごく罪悪感がある。
やっぱり勝手に借りるのは良くないかな。
立ち止まってお財布を握りしめているわたしを、星さんが怪訝そうに見ている。
「あ、あのさ。さっきのあのお母さん、多分何も食べてないと思うんだ。ちょっとコンビニで何か買っていってあげようと思うんだけど……。千円貸してくれない?」
「おまえって奴は……。いい人過ぎんだろ?」
星さんは呆れたように頭を掻きながらも、足はコンビニに向かっている。
――あ、これ、お母さんの好きなポテサラサンドだ。
母の好きな物を覚えている。そんなことが、今のわたしの支えだった。
迷わずに甘いカフェラテを選び、レジで星さんに借りたお金で支払いをすませた。このあとどうしようという思いが一瞬よぎったけれど、今は考えないことにした。
ふと目を向けた先に、ガラスに映る自分の姿を見て一瞬狼狽える。
怒っているのか、哀れんでいるのか。サトシさんの真っ直ぐな目が、その身体の中にいるわたしを見ていた。
わたしより20センチは高いだろう身長。肩幅も胸板の厚さも、何もかもが違う。
ゴツゴツした手は大きくて、顔のパーツの一つ一つも、馴染んだ自分の顔とは少しも似たところがない。
それなのに、手足はわたしの意識に合わせて動き、物を見て、音を拾っている。
もし、このまま元に戻れなかったとしても、わたしはこのまま生きていくのだろうか。
本当のわたしを知らない人達の中で、他人のフリをして。
少し考えただけで、その途方もない苦しみに押しつぶされそうだった。
それに何より、サトシさんの人生を奪ってしまうことになる。
もし戻る方法が見つからなかったら。
わたしは首を振ってその考えを振り払った。
ロビーに戻ると、誰もいないベンチに一人座り込む母の姿があった。
――お母さん
思わず、そう呼んでしまいそうだった。
最後にした会話は何だっけ。
――おばあちゃんの誕生日プレゼント、どっちがいいと思う?
――こっちの湯のみとお菓子のセットかな。
――じゃあこっちにしよう。
たわいない会話の断片が過ぎる。それと同時にわたしに殴りかかろうとした男の姿がフラッシュバックする。
この人を見つけなくちゃ。
唯一の手がかりだと思われるその人物を、必死に記憶に留めようと思い出す。
それと同時に、あの時の足元を掬われる恐怖が蘇ってくる。
もう一度、ガラスに映る顔を見れば、サトシさんの静かな表情の向こうに、泣きそうなわたしの顔が見えたような気がした。
「大丈夫か?」
星さんが窓に向かって立ち止まっていたわたしに、心配そうに声をかけてくれる。
「これ渡してくるよ」
泣きそうなのを誤魔化すように、どうにか笑顔を作ってコンビニの袋を持ち上げて見せ、母のいる方へと向かった。
わたしに気付いた母は、すぐに立ち上がり「娘を助けてくれてありがとう」と何度も頭を下げた。
その言葉を聞くのはわたしではないけれど、サトシさんはこの体の中でそれを聞いてくれているような気がした。
背の高いサトシさんの視点から見る母は、いつもの明るい朗らかな母ではなく、とても小さな頼りない存在だった。
母の側を離れたくなかったけれど、サトシさんの姿でいつまでもここにいるのも不自然だ。
わたしは後ろ髪を引かれながら星さんと連れ立って病院を出た。
夜の湿った空気がまとわりつく。暗い道の先に待ち受けているはずの未来は、まだ小さな明かりさえも見えない。
何度も病院の建物を振り返っていると、星さんの手にバンと背中を叩かれた。
「おまえは助けたんだよ。そんなに心配してもどうにもならないだろ? あとは医者と佳織に任せようぜ」
まさか、その助けた人間の魂が友達の体を乗っ取っているとは思ってもいないだろう。
このまま一緒にいたら、いろいろと説明が難しい状況になるかもしれない。
迎えにきてくれた星さんには悪いけれど、なるべく早く一人にならなくちゃならない。
その後すぐに、またわたしはサトシさんの体に戻っていた。
あの時確かにサトシさんはわたしに「退いてろ」と言った。
そしてわたしは体の外へ放り出され、頭上からその後の様子を見ていたのだ。
サトシさんはわたしが(この場合取り憑いているというのだろうか)そういう状態にあることを認識していることになる。
わたしはこうしていてもサトシさんの意識を感じない。
助けてくれたことにお礼を言いたいけれど、サトシさんと会話する方法はないだろうか。
それに、一度体から出たのに何故わたしは自分の体ではなく、またサトシさんの体に入ってしまったのだろう。
サトシさんなら何か分かるだろうか。
悶々と考えていると、不意に後ろから肩を叩かれ、また魂が飛び出るほど驚いた。いやいっそ飛び出して自分の体に戻れたら良かったのに。
「さっきから呼んでるのに、気付かなかったのかよ。ホント、今日のサトシは変だなぁ」
ショッピングセンターでサトシさんと一緒にいたお友達の星さんだった。
「なんでここに……?」
「車。俺に鍵渡したのって迎えに来いってことだったんだろ?」
ああそうか。
サトシさんは、あの時救急車に一緒にわたしが乗って行くことを予測していたのだ。
何となく、あの時の行動といい、サトシさんが凄い人に思える。
わたしなら、そんなことまで気が回らないだろうし、目の前で人が倒れていても何もできないかもしれない。
あの時、サトシさんがいてくれて良かった。
もしかしたら、わたしは自分を助けてくれる人を探して体を飛び出したのかもしれない。都合良くそんな風には思ったりした。
「あの子無事だったんだって? 良かったよ、本当に。そろそろ帰るだろ?」
星さんがエレベーターに向かって歩きだそうとする。
「ちょっと待って」
わたしは母の様子をもう一度確かめようと病室を覗いてみた。
わたしが病院に運ばれてから何度も父に電話していたはずなのに、まだ連絡がつかないようだった。
いつもそうだ。肝心な時に父はいない。
わたしが台風で家に帰れなくなった時も、おばあちゃんが転んで骨折した時も、母がめまいで寝込んだ時も、父は別の女性の所にいた。
もしわたしが死んでしまったら、母はどうなるのだろう。
俯いた小さな背中を残していくのが心苦しくて、お母さんと呼べないことが寂しくて、涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。
サトシさんの体をいつまでも使わせてもらうわけにもいかない。
早く元に戻る方法を見つけなくちゃ。
「あんたたち、何やってんの?」
点滴を取替えにきた若い女性の看護師さんが、わたしと星さんを見て驚いている。わたしというか、サトシさんを見て、だけど。
「おお、佳織か。またサトシが人命救助したんだ。若い子みたいだったけど、どんな様子?」
「詳しい検査結果はまだだけど、応急処置が早かったのが幸いね。お手柄よ」
三人は知り合いのようだ。佳織さんはまるで女優さんのように綺麗な人だった。笑顔を向けられて心臓がトクンと鳴ったような気がした。
「もうすぐ消灯時間だからね」
佳織さんは星さんと少し話すと、バイバイと手を振って病室に入って行った。
「ラーメン食って帰ろうぜ」
星さんはなかなか病室を離れないわたしの背中を押してエレベーターに乗り込む。
「それにしてもなんであの時三階で人が倒れてるって分かったんだ?」
星さんにしてみれば突然おかしなことを言って走り出した先で、見ず知らずの人間が倒れていたのだから不思議に思うのは当然だ。でも説明のしようがなかった。まさかわたしがあの倒れていた人間だと言って信じてもらえるはずがない。
「なんとなく?」
そんな曖昧な返事でごまかした。
エレベーターで一階に降りると、コンビニがあるのが見えた。
母とごはんを食べる予定だった。今日の夜はパスタを食べようねと話していたのを思い出した。こんなことにならなければ今頃は二人でお腹いっぱいだねと言い合いながら家に向かっていただろう。
せめて母に何か食べ物を届けたかった。
でも自分の財布を取りに行くわけにもいかない。
サトシさん、後で必ず返すので少し貸してください。
心の中でそうお願いして、サトシさんのズボンのポケットからお財布を取り出す。
黒い薄いお財布には、数枚のお札とカード、免許証が入っていた。
人のお財布を勝手に見るというのはすごく罪悪感がある。
やっぱり勝手に借りるのは良くないかな。
立ち止まってお財布を握りしめているわたしを、星さんが怪訝そうに見ている。
「あ、あのさ。さっきのあのお母さん、多分何も食べてないと思うんだ。ちょっとコンビニで何か買っていってあげようと思うんだけど……。千円貸してくれない?」
「おまえって奴は……。いい人過ぎんだろ?」
星さんは呆れたように頭を掻きながらも、足はコンビニに向かっている。
――あ、これ、お母さんの好きなポテサラサンドだ。
母の好きな物を覚えている。そんなことが、今のわたしの支えだった。
迷わずに甘いカフェラテを選び、レジで星さんに借りたお金で支払いをすませた。このあとどうしようという思いが一瞬よぎったけれど、今は考えないことにした。
ふと目を向けた先に、ガラスに映る自分の姿を見て一瞬狼狽える。
怒っているのか、哀れんでいるのか。サトシさんの真っ直ぐな目が、その身体の中にいるわたしを見ていた。
わたしより20センチは高いだろう身長。肩幅も胸板の厚さも、何もかもが違う。
ゴツゴツした手は大きくて、顔のパーツの一つ一つも、馴染んだ自分の顔とは少しも似たところがない。
それなのに、手足はわたしの意識に合わせて動き、物を見て、音を拾っている。
もし、このまま元に戻れなかったとしても、わたしはこのまま生きていくのだろうか。
本当のわたしを知らない人達の中で、他人のフリをして。
少し考えただけで、その途方もない苦しみに押しつぶされそうだった。
それに何より、サトシさんの人生を奪ってしまうことになる。
もし戻る方法が見つからなかったら。
わたしは首を振ってその考えを振り払った。
ロビーに戻ると、誰もいないベンチに一人座り込む母の姿があった。
――お母さん
思わず、そう呼んでしまいそうだった。
最後にした会話は何だっけ。
――おばあちゃんの誕生日プレゼント、どっちがいいと思う?
――こっちの湯のみとお菓子のセットかな。
――じゃあこっちにしよう。
たわいない会話の断片が過ぎる。それと同時にわたしに殴りかかろうとした男の姿がフラッシュバックする。
この人を見つけなくちゃ。
唯一の手がかりだと思われるその人物を、必死に記憶に留めようと思い出す。
それと同時に、あの時の足元を掬われる恐怖が蘇ってくる。
もう一度、ガラスに映る顔を見れば、サトシさんの静かな表情の向こうに、泣きそうなわたしの顔が見えたような気がした。
「大丈夫か?」
星さんが窓に向かって立ち止まっていたわたしに、心配そうに声をかけてくれる。
「これ渡してくるよ」
泣きそうなのを誤魔化すように、どうにか笑顔を作ってコンビニの袋を持ち上げて見せ、母のいる方へと向かった。
わたしに気付いた母は、すぐに立ち上がり「娘を助けてくれてありがとう」と何度も頭を下げた。
その言葉を聞くのはわたしではないけれど、サトシさんはこの体の中でそれを聞いてくれているような気がした。
背の高いサトシさんの視点から見る母は、いつもの明るい朗らかな母ではなく、とても小さな頼りない存在だった。
母の側を離れたくなかったけれど、サトシさんの姿でいつまでもここにいるのも不自然だ。
わたしは後ろ髪を引かれながら星さんと連れ立って病院を出た。
夜の湿った空気がまとわりつく。暗い道の先に待ち受けているはずの未来は、まだ小さな明かりさえも見えない。
何度も病院の建物を振り返っていると、星さんの手にバンと背中を叩かれた。
「おまえは助けたんだよ。そんなに心配してもどうにもならないだろ? あとは医者と佳織に任せようぜ」
まさか、その助けた人間の魂が友達の体を乗っ取っているとは思ってもいないだろう。
このまま一緒にいたら、いろいろと説明が難しい状況になるかもしれない。
迎えにきてくれた星さんには悪いけれど、なるべく早く一人にならなくちゃならない。