「星さん……」
――わたしなんかいなければ良かった
何度そう思っただろう。その度に誰かが救い上げてくれた。
母が、リピートが、サトシさんが。そして星さんまで……。
わたしは幸せ者だ。幸せなんだから星さんにちゃんと笑顔で答えなきゃ。でも何故だか涙が込み上げてくる。
胸の中があったかくて、握りしめた手は誰かとつながることができることを今は知っている。
たったそれだけだ。
わたしは何も持っていない。綺麗な見た目も、コミュニケーション能力も、サトシさんのような体力や運動神経も。
星さんのように漫画を描いて誰かを勇気付けることも、誰かを助けるために走って行くこともできない。
わたしはただここにいて、泣いたり笑ったりしてるだけのその他大勢の一人だ。
時には失敗して周りの人に迷惑をかけ、自分のことしか考えずにわがままになったりする。
でもそんなわたしでも無価値じゃない。
おまえなんか要らないと言われるのが怖くて先回りしてただけ。
この奇跡のような三日間で、涙は枯れそうなほど泣いた気がするのに、今わたしの目に溜まって零れそうな涙が一番熱くて、一番甘い。
「お待たせしました」
運ばれてきた熱々のおうどんの湯気が、優しくまぶたを撫でる。
「星さん、わたしも星さんに言いたいことがあります」
明るく言ったつもりなのにどうしても鼻声になってしまう。
「助けてくれてありがとうございます。星さんはわたしのスターです。だ、……」
勢いで言えるかと思ったけど、やっぱりちょっと躊躇った。息を吸い込んでちょっと吐き出して、もう一度吸い込む。
小さなうどん屋さんの片隅で、わたしは今まで誰にも言ったことのない言葉を発しようとしている。
なんでこのタイミングなのか、そんなことは分からない。
まだ問題は山積みで、危機が全て去ったわけじゃない。
本当なら今すぐ病院に戻って母を安心させたいし、叶夢君が元気なのか確かめたい。
サトシさんにもっともっと聞きたいことだってある。
時間はたくさんあるようで全然なくて。
次の瞬間には思いもしなかった未来に繋がっているかもしれない。
今ここに星さんといる未来を手にしたわたしは、次の瞬間にはそれを失ってしまう可能性だってあるのだ。
星さんが「だ」で止まってしまったわたしの言葉の続きを待っている。
恥ずかしい。でも伝えたい……!
「……大好きです」
笑われるかな、と思いながら俯きがちに星さんの方をちらりと見れば、星さんは驚いたように固まっていた。
「急に、変なこと言ってすみません。あ、おうどん伸びちゃいますね。いただきます」
恥ずかしさと気まずさを誤魔化すように、割り箸に手を伸ばす。
次の瞬間、星さんが身を乗り出すようにしてわたしの手首を掴んだ。
驚いて見上げれば、すぐ目の前で星さんの長い前髪が揺れた。
何が起きたのか分からない。掴まれた腕と唇に触れている柔らかな感触が、心臓から喉までキュウッと痺れるような淡い痛みを誘う。
そっと下唇を挟むようにして触れていたそれがゆっくりと離れていく。
驚きと、前身を駆け巡った血液が力尽きたかのような疲労感のせいで力が抜けた。
そこから後の記憶が曖昧だった。
半分魂が抜けたみたいな状態で病院に戻った時には、星さんがみんなから散々にお説教されているところだった。
「面会時間終わりよ。さっさと帰んなさい」
香織さんに追い出されるようにして病室を出て行く星さんの背中を見送る。見えなくなったと思ったらすぐにまた引き返してきて、わたしにだけ小さく手を振って出ていく。
わたしは鼻の上まで布団を引き上げた。みんなの視線が痛い。
母もわたしの意識が戻り、付き添いの必要がなくなったため、「また明日の朝来るから」と帰っていく。
最後に残っていたサトシさんが、叶夢君のことを少し話してくれた。
疲れの残る横顔には、どこか寂しさも感じられる。
「叶夢を見てると、小さい頃の自分を思い出すよ。早く大人にならなきゃって必死なんだ。母親を助けたくて、自分が思ってる以上に子どもだってこと忘れてる」
サトシさんはそう言うと自嘲気味に笑った。サトシさんもお母さんと二人で、今まできっと辛いことや悲しいことをたくさん我慢してきたのだろう。
サトシさんが心から安らげる場所が早くできることを願わずにはいられない。
「子どもって大人が思ってる以上に大人ですよ」
グラウンドから保健の先生を呼びに走ってくれた
叶夢君の姿を思い出しながらそう言うと、サトシさんは丸めていた背中を伸ばして小さく笑った。
「そうだな。一人で新聞社まで行った行動力には驚いたよ。
あ、そうだ。叶夢が俺の使い魔にありがとうって伝えてくれって言ってたぞ」
二人でずっと昔から仲良くしていたみたいに笑いあった。
二日後わたしとサトシさんは揃って退院し、普段の生活を取り戻した。
とはいえ、事件は全く解決していなかった。
退院の日にも星さんは病院に姿を表さず、携帯のメッセージからは忙しそうな様子がうかがえた。
犯人が捕まらない以上、農園には危機が迫ったままだ。星さんが忙しいのは仕方ない。それでも少し残念に思ってしまう。
そして退院して数日たったある日、家に刑事さんたちがやってきた。
「こんな所まで何の御用ですか?」
つい刺々しい口調になってしまう。
「車の中に忘れ物しただろ?」
そう言って松崎刑事は透明な袋をかざす。その中にはあの時、叶夢君から預かった小瓶が入っていた。
「あ、それ」
手を伸ばしたわたしから、松崎刑事はひょいとそれを高い位置へ持ち上げる。
「中身は何だ?」
「知りません。預かっただけなので」
「誰から?」
わたしはムッとして松崎刑事を睨んだ。
「返してください。刑事さんには関係ありません」
つい意地になってそう言ってしまった。
「そうはいかない。事件の重要参考物品だ」
刑事さんはそう言うと、怖い顔でわたしを見下ろしてくる。
「重要参考物品?」
「この中身は給食に混入された毒物と同種の物だった」
そうだ。犯人たちが叶夢君に渡した物なのだから当然だ。返してもらったところで扱いに困るところだった。叶夢君との約束を破ることになるけれど、ここは事件解決のためにも警察に預けるのが一番だろう。
「それは犯人が叶夢君に渡したものだと思います。どうぞ捜査のために持って行ってください。それより、まだ犯人は捕まってないんですか?」
玄関に立ちはだかるやけに大きな二人に負けないよう、精一杯背伸びしながら必死に詰め寄る。
「これに見覚えは?」
刑事さんはもう一つ紙袋を差し出した。中から粉の入った袋を取り出す。
「ありませんけど?」
「これはお宅の車の中から出てきたものだ」
「え?」
はっと思いだしたのはショッピングモールでわたしに殴りかかろうとした男だ。もしかしたらわたしが荷物を間違えて持って行ってしまったのが、刑事さんが今手にしている袋に違いない。
「その中身ってもしかして……」
「麻薬だ」
「とにかく詳しいことは署で……」
「え、今からですか?」
「これを所持していたのは君。麻薬取締法違反で現行犯逮捕」
「そんな……」
まるで刑事ドラマのワンシーンのような松崎刑事の低音ボイスが頭上から降ってきた。
「署まで同行してもらおうか」