叶夢君のお母さんだった。
「ああ、先生。叶夢を見ませんでしたか?」
息を切らして辺りを見回している様子から叶夢君を探しているらしい。
「叶夢君なら、一時間ほど前に小学校で見ましたよ」
わたしがそう伝えると、叶夢君のお母さんは驚いたような目をわたしに向けた。
「誰かと一緒でしたか?」
「いえ、一人でした。叶夢君に何かあったんですか?」
なんとなく胸騒ぎがした。
「これが……」
叶夢君のお母さんがサトシさんにメモのような物を差し出した。
そこには子どもの字で「先生、あおいちゃん、ひろと、ゆうき、しん君、みんなごめんなさい」と書かれてあった。
それは倒れて病院に運ばれた子たちの名前だった。
「警察に連絡を。手分けして探しましょう。私は一旦学校の方へ行ってみます」
サトシさんは躊躇いなく動きだす。早歩きでエレベーターへ向かうその背中を追いかけながら、わたしはあの時の叶夢君の様子をもう一度思い出してみた。
わたしをサトシさんの使い魔だと思っていた叶夢君。誰にも渡さないでと言いながら、捨ててもいいと言った小瓶の中身は何だったのだろう。
考えたくないだけで、本当は何となく気付いていた。
犯人たちは給食に農薬を混入させるために叶夢君を利用したのだ。叶夢君はお母さんのことで犯人に脅されながらも刑事さんに正直に話ができるほど勇気のある聡明な子だ。
そんな叶夢君が今回の事件に利用されたのだとすれば、いったいどれほどの心の傷を負っているだろう。
目の前で苦しむ友達を見て、平気でいられるはずがない。
「サトシさん、早く叶夢君を探さないと……」
エレベーターのドアが開くまでの時間をこれほど長いと感じたことはなかった。
救急外来に寄ってみたが、既に他の先生の姿はなく、軽症だった子どもたちは家に帰ったようだった。
サトシさんは学校へ連絡をしようとして、携帯電話を持っていないことに気付き、わたしの携帯から連絡をしてもらう。
学校に残っている先生たちに叶夢君を探してくれるよう頼んでから、わたしたちは病院の正面口へ回った。
正面口にはいつもタクシーが何台か待機している。病院から小学校までは車なら十分程度だけれど、歩くとかなり遠い。公共交通機関としては市営の循環バスがあるものの、一時間に三本しか走っていないため、急いでいる今はタクシーの方がいい。
雨はさらに強く地面を叩くように降っている。
この雨だ。叶夢君ももしかしたらまだ学校にいるかもしれない。そんな微かな望みを抱いて、タクシー乗り場へ向かうわたしたちの前に、軽トラが横付けされた。
車の中から声を掛けてくれたのは星さんのお母さんだった。
「サトシ君、もう大丈夫なの? 救急車で運ばれたって言うからおばさん驚いて飛んできたけど、元気そうじゃない。良かったわぁ。でも無理しちゃ駄目よ。家まで送ろうか?」
農作業の合間に駆けつけてくれたことが伺える姿に、サトシさんは深々とお辞儀を返す。
「はい、ご心配をお掛けしました。おばさん、すみません。小学校まで乗せていってもらえませんか?」
「いいわよ。乗んなさい」
サトシさんに促されてわたしも軽トラに乗せてもらう。今朝はサトシさんとして乗ったその見覚えのある車内。
「すみません。お願いします。あ、花巻耀子と言います」
「もしかしてサトシ君の彼女?」
星さんのお母さんはわたしとサトシさんを見比べてそんなことを言うものだから、
「い、いえ、親類です」
サトシさんとわたしの声が重なった。さすがに妹だとは言えないよね。
「ようこちゃん……て、あら、もしかしてさっきの電話の?」
星さんのお母さんは「あらまあ」と笑ってわたしの肩をポンポンと叩いた。
軽トラは忙しなくワイパーを動かしながら、病院の駐車場を出て小学校へ向かう。
わたしとサトシさんは叶夢君を探して雨に滲む窓の外に目を凝らした。
途中黄色い傘を見かけると車を止めてもらって叶夢君かどうかを確かめた。違っていても叶夢君を見かけなかったか尋ねる。
田舎の小さな学校だし、サトシさんは子どもたちほぼ全員の名前を覚えているようだった。
学校の外で会う先生に、子どもたちは新鮮な驚きを持ってあれこれと情報を教えてくれる。
叶夢君が行きそうな所や、他の子どもたちがよく遊ぶ場所。
そんな中、沈下橋の方へ誰かが歩いて行ったのを見たという子がいた。
「この雨じゃ、沈下橋は通行止めになってるはずだけど」
沈下橋は増水時には沈んでしまう。ガードレールなども無く、転落事故も多いため、最近では少なくなっているというけれど、この辺りではまだ生活道路として使われているらしい。
「行ってみてもらってもいいですか」
叶夢君なのかどうか確かめないわけにはいかない。そうでないとしても、危険な場所に近付かないよう注意しなくちゃ。


軽トラは大通りを外れて細い道へ入ると、しばらくして堤防の上に出た。
増水した川の濁った水が轟々と音を立てて流れている。
沈下橋もすぐ先に見えてきた。
堤防から斜めに降りて防風林の間を抜けたところに、沈下橋の突端が見える。
川の水は端から手を伸ばせば届くんじゃないかと思われるところまできていた。
橋の両端には既に通行止めのバリケードがしてあり車輌は通れないようになっている。
「降りて見てきます」
サトシさんが車を降りようとする前に、星さんのお母さんが待ってと呼び止める。
「ほら傘使って」
そして渡された折り畳み傘がなければ、この雨では一瞬でずぶ濡れになってしまっただろう。
「ありがとうございます。借ります」
わたしも行きたいけれど、傘は一本だし、一緒に行っても邪魔になるだけだろう。
車の中から、何かあれば直ぐに駆け出していけるように身構えてサトシさんの背中を見送る。
しばらくしてサトシさんの姿は防風林の影になって見えなくなった。
そわそわするわたしを見兼ねて、星さんのお母さんが大丈夫よと話しかけてくれる。
「うちの星がね、小さい時に家出したことがあってね。その時連れ戻してくれたのがサトシ君だったのよ」
「星さんが、家出……ですか」
「もう言い出したら聞かなくって、大喧嘩しちゃってね。でもなんでかサトシ君の言うことだけは聞くんだから」
そう言ってふふふと笑う。
「叶夢君、だっけ。その子もきっとサトシ君が連れ戻してくれると思うよ」
お母さんはそう言ってくれたけど、戻ってきたサトシさんは首を左右に振ると、堤防を通って学校の近くまで送って欲しいと告げる。
「誰もいなかったんですか?」
「こっちには来ていないのかもしれない。とにかく、もう少し学校の近くを探してみよう」
心なしかサトシさんの顔色が悪いような気がする。
「大丈夫ですか?」
星さんのお母さんが貸してくれたタオルでサトシさんの濡れた肩を拭きながら尋ねた。
「俺は大丈夫。耀子は?」
「わたしは平気です。あ、星さんに連絡してみましょうか」
サトシさんがわたしを名前で呼ぶ。あたりまえなのに、なんだか泣きたいような笑いたいような変な気分になる。
それを誤魔化すように携帯電話から星さんにメッセージを送った。
――今どこですか?
――新聞社。知り合いに会ってる。
――今サトシさんと星さんのお母さんと一緒に小学校に向かってます。
――これからそっちに行くから。
――分かりました。
サトシさんが携帯を覗き込むようにこちらに身を屈める。
肩に触れた腕がわたしの体温よりもずっと高い。
熱が出てるんじゃ……。星さんと合流したら、サトシさんは病院へ帰ってもらおう。そう考えていた所に、星さんのお母さんのあっという声が聞こえてきた。
車が止まり、星さんのお母さんの指さす先に黄色い傘が見える。
サトシさんが車を飛び出して行く。
堤防下の河川敷のグラウンドの隅に、小さな屋根とベンチがある。
そこに黄色い傘が転がっていた。
けれど人の姿は見えない。
もしかしたら近くにいるかもしれない。
わたしもサトシさんの後を追って車を飛び出した。