㉖
来島悟志と名札の付いた部屋の前で、一度立ち止まって息を整える。
そっと引き開けたドアの向こうはいくつかのカーテンで仕切られている。
名札の位置から、左の一番奥がサトシさんのベッドだと思われた。
カーテンを少し開いて中を覗くと、サトシさんが眠っている。
ほっとして中に入るとサトシさんは起きていたのか、すぐに目を開けてわたしを見た。
「……元に、戻ったんだな」
そう言って笑顔を見せるから、わたしはどんな顔をしていいか分からない。
「具合は、どうですか?」
立ったまま見下ろしているのも落ち着かなくて、近くにあった丸椅子を引き寄せて座る。
「大丈夫だ。叶夢や他の子どもたちはどうなった?」
叶夢君については話すことがあったけれど、他の子どもたちのことを気にしている余裕がなかった。ああ、やっぱりわたしには先生はできないなと思いながら、誰かに聞いてきますと立ち上がれば、サトシさんに腕を掴まれた。
「その必要はないよ。さっき教頭が来てある程度聞いたから」
「すみません……。叶夢君も、学校で会ったんですけど、すぐに見失ってしまって……」
「一人でいたのか?」
「はい。わたしに持っていて欲しいってこれを……」
わたしはポケットに入れていた小瓶を取り出そうと手を入れたけれど、そこにあるはずの瓶がなかった。
慌てて他のポケットも探すけれどどこにもない。どこかで落としてしまったらしい。
「どうしよう……。捨てていいって言われたけど、失くしてしまったみたいです」
さらに落ち込む。どうしてこんなにダメダメなんだろう。
「そうか。なくなったものは仕方ないよ。おまえは大丈夫なのか?」
サトシさんは怒るでもなく、わたしの心配までしてくれる。
わたしは恥ずかしさのあまり俯いて、少し頷いた。
「何かあったんじゃないのか?」
「……なんか、いろいろ思い出したみたいなんですけど、混乱してしまって。サトシさんに、というか尚也さんに確かめたいことがあって」
でも大部屋なので他の患者さんもいるここでは話しにくい。
サトシさんはまだ起き上がれる状態ではないし、自分の中でもう少し整理が必要かもしれない。
「八年前のことも思い出した?」
「……はい」
「そうか」
そのまま沈黙が流れた。
「すみません。わたし、自分のことしか考えてなくて。サトシさん、もう休んでください。わたし、ほかの子たちの様子見てきます」
サトシさんの顔が痛みを堪えるように歪んだのを見て、わたしは慌てて立ち上がった。
サトシさんの腕に繋がった点滴の液が規則正しく落ちているのを見て、なんとなくできることはないかと辺りを見回してみたりした。
「あ、着替えとか必要ですよね。わたし取ってきましょうか。サトシさんの部屋、……に入っても良ければ、ですけど」
「……気、遣わなくていいよ」
「でも、わたしばっかり助けてもらって……。こんなことになったからかなのか分からないけど、サトシさんのこと、他人と思えないって言うか」
自分でも何が言いたいのか分からない。でもとにかく何か役に立ちたい。話を聞くのはサトシさんがもう少し元気になってからにしよう。
「……他人と思えない、か」
そう呟いたサトシさんの声にはっとなる。もしかして尚也さんとは兄妹かもしれないのだ。サトシさんの中にいる尚也さんが、そのことを知っていたとしたら……。
もしそうだとしたら、得体の知れないわたしを助けてくれたことにも説明がつくような気がした。
「サトシさん、助けてくれてありがとうございました。サトシさんと星さんがいなかったら、わたし今頃どうなっていたか分かりません」
「俺は何もしてないよ。おまえは自分の力で元に戻った」
元に戻ったのかどうかは、正直分からない。この体の中にいた耀子の魂はどうなったのか。わたしが入ったせいで体から追い出されてしまったのか、それともわたしと一つになったのか。どうやって確かめればいいのかも分からない。
でも本当に今はそのことを考えている余裕がなかった。
星さんの農園を潰そうとしている犯人が、尚也さんのお母さんだとしたら、わたしはどうすればいいんだろう。
あの日の事故は間違いなくわたしの責任だ。
わたしがあの場所に行かなければ、兄の顔を見てみたいなんて思わなければ起きなかった事故なのだから。
そうだ。サトシさんにお礼を言うだけでは足りない。あの事故のことを謝らなくちゃ。
「八年前の事故のこと、謝って済む話じゃないけど、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「…………」
深く頭を下げながら、本当に謝って済むようなことじゃないと改めて思う。
わたしにできることなら何だってする。でも元に戻すことだけはどうやってもできない。
流れた八年の歳月を巻き戻すことも、灰になった尚也さんの肉体を生き返らせることも。
でもせめて、尚也さんのお母さんが取り返しのつかないことをしてしまうのだけは止めたいと思った。
「リピートを読んでくれてるって言ってただろ」
不意にサトシさんがそう言った。
もう一度椅子に座るように促されて、わたしは言われた通り丸椅子を引き寄せる。
「並行世界って信じる?」
もちろん、今となっては信じている。頷くとサトシさんは話を続けた。
「夢で見るんだよ。今とは少し違った世界。何かを決断しようとすると、選んだ先の未来が見える。予知夢っていうのとは少し違ってたから、俺はそれが並行世界なんだと思ってる。そんな体験からあの話が生まれた」
リピートは尚也さんの原案だって星さんが言っていた。
尚也さんの体験から生まれたってこと?
「あの日、妹が会いにくる夢を見た。夢の中の俺はそれに腹を立てて、逃げるようにバイクを走らせた。もちろん夢の中の話で、実際には怒ってなんかいなかったし、会うつもりもなかった」
胸の中に重たい石が投げ込まれたみたいだった。当時の自分がどれだけ身勝手だったかを思い知る。
「その夢の中で事故が起きて、俺も妹も死んでしまったから。そんなことにならないように、会わずに済ませようと思ったんだ」
サトシさんの口から語られる話があまりにも非現実的だったからか、わたしは物語を聞いているようにそれを受け止めていた。
飛び出したわたしを避けきれずに転倒したバイク。もしそのバイクに跳ねられていたら……。そんな想像が浮かぶ。
「そうしたら、俺の代わりに尚也が事故にあった」
えっ……?
「今、何て……」
「別の世界では俺は妹をバイクで跳ねて、自分も死ぬ運命だった。そんな未来は受け入れられなかった。けど、代わりに尚也が……」
「妹って、サトシさんがわたしの……?」
「俺たちは兄妹だ」
サトシさんが尚也さんを受け入れたのは、サトシさんが背負うはずだった運命を尚也さんが代わりに背負ってしまったから?
わたしがいた元の世界はサトシさんが死んでしまう世界だったのだろうか。
頭の中が混乱してくる。
可能性は無数にあったはずだ。わたし達が出会わなかった世界も、尚也さんが死ななかった世界も。
けれど、運命は都合よく未来を選ばせてはくれない。
避けた矢は他の誰かに当たる。
「俺と尚也は、二人とも片親で重なるところが多かったんだ」
サトシさんは静かな声で話し続ける。
「同じ人を好きになって、同じような運命を生きていたから、簡単に入れ替わってしまったのかもしれない」
「そんな……」
わたしは何も言えなかった。誰かが死ぬと知ってどちらかを選ぶことなんてできるだろうか。
知らずに選んだとしても、その後に背負っていく罪の意識の重さに耐えられないだろう。
サトシさんを責めることなんてできない。どうすれば良かったのかなんて分かるわけもない。
ただ悲しくて、苦しくて、胸を抑えて俯くことしかできない。
そんなわたしにサトシさんはもうずっとわたしの先を生きている人みたいに、落ちついた優しい声で言った。
「未来は無数にあるけど、過去は一つしかない。たくさんの糸が撚り合わさって一本の糸になるみたいに。俺は後悔していないよ。あの時確かに自分が生きたい、妹にも生きていて欲しいと思ったから」
驚いて顔を上げれば、やっぱり優しく包み込むような眼差しでわたしを見ていた。
わたしに生きていて欲しいと思ってくれてた……?
「耀子にもそれを伝えたくてリピートを書いた。星がそれを漫画にしてくれて、その過程で俺は救われたんだよ」
――だから、俺たちが星を助ける番だ
そんな思いが伝わってくる。
「わたし、星さんのところへ行ってきます」
「俺も行く」
サトシさんはそう言って起き上がると、自分で点滴の針を抜くところだった。その姿に既視感を覚える。
「だ、駄目ですよ! まだ寝てないと」
慌てて止めながら、さっき同じようなことをした自分を思い出し、母がどんな気持ちだったか身をもって知ることとなった。
「それを言うなら、お前もだろ?」
初めて会った時から今まで、サトシさんにとってわたしは妹に見えていたのだろうか。
「わたしは元気ですよ! どこも悪くないです」
そう言いはってみたものの説得力はない。
「一昨日死にかけたのによく言う」
案の定そう返された。
サトシさんはさっさとベッドから降りて靴を履くと、わたしが止めるのも聞かずに部屋を出ていく。
「さっきまで死にそうだったのはサトシさんの方なのに……」
それでもやっぱり心配で、大きな背中にわざと聞こえるようにボヤいてみる。
「何か言ったか?」
そんなやり取りをしながら病室を出たわたしたちの前に、慌てた様子の一人の女性が近付いてきた。