㉕
母は手許の携帯電話を覗き混んでいて、わたしが傍に寄るまで気付かなかった。
「お母さん、何見てるの?」
「ああ、耀子。なんでもないよ。さっきの子と一緒に出掛けたんじゃなかったの? 少し休んだら? 顔色が良くないじゃない」
母はわたしをベッドに座らせ、備え付けの冷蔵庫からペットボトルのお水を取り出す。
わたしは母の袖を引いて隣に座るよう促した。
「お母さん、あのね、八年前のこと聞きたいんだけど……」
母がゆっくりとわたしの方へ顔を向ける。
「わたし、お母さんとお葬式に行った?」
曖昧な記憶を夢を手がかりに遡る。
「バイクの高校生、……わたしのせいで亡くなったの?」
「耀ちゃん……。あの事故は、耀子のせいなんかじゃないよ」
母の目にみるみる涙が浮かび上がる。
「耀ちゃんはお母さんのために、今まであのこと忘れてくれてたの。悪いのはお母さん。耀ちゃんは何も悪くない」
「お母さん、わたしね、思い出さなくちゃいけないと思う、八年前のこと。誰が悪いとか、誰の責任とか、そんなことじゃなくて。あの日何があったのか、それをちゃんと伝えなきゃならない人がいるの」
母とわたしはしばらく手を握りあって、お互いの覚悟を確かめていた。
「もう、こんなにおとなになったんだね、耀子は」
涙を拭いて母はしみじみとそう言った。
「あの頃、お父さんのことでいろいろあって、耀ちゃんも辛かったでしょう。話すなら今くらいになって、耀ちゃんがお嫁に行く時でもいいかと思ってたのに、一番酷いタイミングで知ってしまって……」
八年前のある日、見知らぬ女性が小学生の男の子を連れてうちに来た。
その子は父の子で、その女性とは十年近く不倫関係だった。
その女性は父との関係を精算して別の人と結婚するために、子どもを父に育てて欲しいと言ってきたのだった。
その日、家にいたのはわたしだけで、母親に置いていかれたその子は外が真っ暗になっても玄関でゲームをしていた。
わたしとは一言も喋ることなく、父が帰ってきた後いつの間にかいなくなっていた。
父とその女性との間でどんな話が交わされたのかは知らないが、結局その子がうちに住むことはなかった。
わたしは突然現れた弟の存在に困惑し、父の裏切りを知ったことでそれ以来父を避けるようになった。
そして母は、家事ができなくなっていた。
毎日ぼんやりと寝て起きてを繰り返す。どうにか食事を作ろうとしてはボヤを起こす。
洗濯機の中で何時間も放置された洗濯物は酷い臭いで、家の中にはゴミが散乱した。
父はそうなったことが自分の浮気のせいなのにも関わらず、家事は一切やらず、母を病院に連れて行くこともしない。
そして母を責めた。
あの時、母を苦しめたのは父だったのか、父の不倫相手だったのか、それとも……
「一番辛かったのはお母さんだよ。わたしもお母さんを苦しめてた」
あの頃のわたしは、わたしの存在こそが母を苦しめていると思っていた。
家事を手伝ってあげなかったから?
苦しんでいる母を見て見ぬふりをしていたから?
それだけじゃない。もっと根本的に、わたしが母を苦しめる存在だと思ってた。それは何故……?
何かを思い出しかけている気がするのに、思い出せない。
「お母さん、わたし、何を忘れてるの?」
胸が締め付けられるように苦しくて涙が溢れる。
目の前に深くて暗い穴がぽっかりと空いているみたいだ。
その中に落ちればいい、落ちてしまいたい、わたしなんかいなければ!
耳を塞いでも聞こえてくる声が、胸の底をかき乱す。
「耀ちゃんとお母さん……」
母の声は寂しげで、それでも心の深くを優しく撫でる。
「……血が繋がってないの」
母は、どうしてわたしを受け入れることができたんだろう。
わたしこそが父の裏切りの証だった。
何年も何年も、母に甘え、自分がどんな疎ましい存在かも知らず。
なんで忘れていられたんだろう。
「……お母さん、何で……!」
「あの頃はね、お父さんと結婚なんかしなければ良かったって何度も思ったのよ。でもね、お母さん、もう、耀ちゃんに出会わない人生は想像できない。
どんなに辛くても耀子のいる人生がいい。そう思ったら他のことはなんでもないと思えたの」
「お母さんっ」
わたしもお母さんのいない人生は想像できない。こんなに甘えられる人は世界でたった一人だけだから。
「もっと早くに、あの時耀ちゃんにこう言ってあげられたていたら、あの事故は起きなかったかもしれない」
母はそう言って、泣きじゃくるわたしの背中を撫で続けていた。
事故のあった場所は普段わたしが通ることのない、家からも学校からも離れた場所だった。あの日、わたしがどこに行こうとしていたのか、泣きながら思い出していた。
わたしには兄がいた。
わたしは父を問い詰めた。北高の三年生で、剣道部のキャプテンだと聞いて、一目見に行こうとした。
兄妹で仲良くしたいと思ったわけでも、話がしたかったわけでもない。
ただ会ってみたかった。
わたしを包む世界が音を立てて色を変えて行くような感覚に襲われる。
兄はバイクの事故で植物状態になり一年後に亡くなった。わたしは母とお葬式に参列した。
でもそれって……。
尚也さんがお父さんの子ども?
尚也さんは松本市議の愛人の息子だったはず。
わたしは病室を飛び出していた。
サトシさんのいる病室を目指して。
噛み合わない歯車が軋み音を立てている。だって、尚也さんのお母さんが犯人なら、わたしを殺そうとしたのはわたしの実の母親だってことになる。
何かが、どこかが間違っている。
これもわたしが並行世界を飛び越えてきたせいなのだろうか。
サトシさんの中に尚也さんがいるのなら、何が本当なのか聞きたい。
母は手許の携帯電話を覗き混んでいて、わたしが傍に寄るまで気付かなかった。
「お母さん、何見てるの?」
「ああ、耀子。なんでもないよ。さっきの子と一緒に出掛けたんじゃなかったの? 少し休んだら? 顔色が良くないじゃない」
母はわたしをベッドに座らせ、備え付けの冷蔵庫からペットボトルのお水を取り出す。
わたしは母の袖を引いて隣に座るよう促した。
「お母さん、あのね、八年前のこと聞きたいんだけど……」
母がゆっくりとわたしの方へ顔を向ける。
「わたし、お母さんとお葬式に行った?」
曖昧な記憶を夢を手がかりに遡る。
「バイクの高校生、……わたしのせいで亡くなったの?」
「耀ちゃん……。あの事故は、耀子のせいなんかじゃないよ」
母の目にみるみる涙が浮かび上がる。
「耀ちゃんはお母さんのために、今まであのこと忘れてくれてたの。悪いのはお母さん。耀ちゃんは何も悪くない」
「お母さん、わたしね、思い出さなくちゃいけないと思う、八年前のこと。誰が悪いとか、誰の責任とか、そんなことじゃなくて。あの日何があったのか、それをちゃんと伝えなきゃならない人がいるの」
母とわたしはしばらく手を握りあって、お互いの覚悟を確かめていた。
「もう、こんなにおとなになったんだね、耀子は」
涙を拭いて母はしみじみとそう言った。
「あの頃、お父さんのことでいろいろあって、耀ちゃんも辛かったでしょう。話すなら今くらいになって、耀ちゃんがお嫁に行く時でもいいかと思ってたのに、一番酷いタイミングで知ってしまって……」
八年前のある日、見知らぬ女性が小学生の男の子を連れてうちに来た。
その子は父の子で、その女性とは十年近く不倫関係だった。
その女性は父との関係を精算して別の人と結婚するために、子どもを父に育てて欲しいと言ってきたのだった。
その日、家にいたのはわたしだけで、母親に置いていかれたその子は外が真っ暗になっても玄関でゲームをしていた。
わたしとは一言も喋ることなく、父が帰ってきた後いつの間にかいなくなっていた。
父とその女性との間でどんな話が交わされたのかは知らないが、結局その子がうちに住むことはなかった。
わたしは突然現れた弟の存在に困惑し、父の裏切りを知ったことでそれ以来父を避けるようになった。
そして母は、家事ができなくなっていた。
毎日ぼんやりと寝て起きてを繰り返す。どうにか食事を作ろうとしてはボヤを起こす。
洗濯機の中で何時間も放置された洗濯物は酷い臭いで、家の中にはゴミが散乱した。
父はそうなったことが自分の浮気のせいなのにも関わらず、家事は一切やらず、母を病院に連れて行くこともしない。
そして母を責めた。
あの時、母を苦しめたのは父だったのか、父の不倫相手だったのか、それとも……
「一番辛かったのはお母さんだよ。わたしもお母さんを苦しめてた」
あの頃のわたしは、わたしの存在こそが母を苦しめていると思っていた。
家事を手伝ってあげなかったから?
苦しんでいる母を見て見ぬふりをしていたから?
それだけじゃない。もっと根本的に、わたしが母を苦しめる存在だと思ってた。それは何故……?
何かを思い出しかけている気がするのに、思い出せない。
「お母さん、わたし、何を忘れてるの?」
胸が締め付けられるように苦しくて涙が溢れる。
目の前に深くて暗い穴がぽっかりと空いているみたいだ。
その中に落ちればいい、落ちてしまいたい、わたしなんかいなければ!
耳を塞いでも聞こえてくる声が、胸の底をかき乱す。
「耀ちゃんとお母さん……」
母の声は寂しげで、それでも心の深くを優しく撫でる。
「……血が繋がってないの」
母は、どうしてわたしを受け入れることができたんだろう。
わたしこそが父の裏切りの証だった。
何年も何年も、母に甘え、自分がどんな疎ましい存在かも知らず。
なんで忘れていられたんだろう。
「……お母さん、何で……!」
「あの頃はね、お父さんと結婚なんかしなければ良かったって何度も思ったのよ。でもね、お母さん、もう、耀ちゃんに出会わない人生は想像できない。
どんなに辛くても耀子のいる人生がいい。そう思ったら他のことはなんでもないと思えたの」
「お母さんっ」
わたしもお母さんのいない人生は想像できない。こんなに甘えられる人は世界でたった一人だけだから。
「もっと早くに、あの時耀ちゃんにこう言ってあげられたていたら、あの事故は起きなかったかもしれない」
母はそう言って、泣きじゃくるわたしの背中を撫で続けていた。
事故のあった場所は普段わたしが通ることのない、家からも学校からも離れた場所だった。あの日、わたしがどこに行こうとしていたのか、泣きながら思い出していた。
わたしには兄がいた。
わたしは父を問い詰めた。北高の三年生で、剣道部のキャプテンだと聞いて、一目見に行こうとした。
兄妹で仲良くしたいと思ったわけでも、話がしたかったわけでもない。
ただ会ってみたかった。
わたしを包む世界が音を立てて色を変えて行くような感覚に襲われる。
兄はバイクの事故で植物状態になり一年後に亡くなった。わたしは母とお葬式に参列した。
でもそれって……。
尚也さんがお父さんの子ども?
尚也さんは松本市議の愛人の息子だったはず。
わたしは病室を飛び出していた。
サトシさんのいる病室を目指して。
噛み合わない歯車が軋み音を立てている。だって、尚也さんのお母さんが犯人なら、わたしを殺そうとしたのはわたしの実の母親だってことになる。
何かが、どこかが間違っている。
これもわたしが並行世界を飛び越えてきたせいなのだろうか。
サトシさんの中に尚也さんがいるのなら、何が本当なのか聞きたい。