㉔
警察署に向かう途中、刑事さん達に応援要請が入った。白黒のツートンのパトカーではなく、白い普通車でわたし達が向かったのは小学校だった。
ゆっくりと通学路を進む車の中から見ると、玄関の辺りに人だかりができている。
校庭のフェンスに寄せて車が止まると、わたしはそこから飛び出した。一瞬、叶夢君のお母さんらしき人が見えた気がしたのだ。
集まった人達の中に入っていくと、農薬とか農園という単語が聞こえてくる。
玄関で校長先生や他の先生方が、押し寄せる人達に落ち着いてくださいと呼びかけている。
「給食の野菜が原因て本当なんですか?」
「無農薬野菜のはずですよね?」
保護者の人たちばかりだと思っていたら、中にレコーダーのような物を掲げている人がいる。
もし、新聞や雑誌の記者の人だったら……、そう考えるとじっと見ていることができなかった。
「農園のせいじゃありません! 誰かが給食に農薬を混入させたんです」
わたしの叫び声に一瞬辺りが静まり、次の瞬間には先生に向いていた矛先がわたしの方に向いていた。
「あぁ、やってくれる……」
後ろにいた松崎刑事の呆れたような声。
「皆さん落ち着いてください。南署の者です。これから捜査の後、詳しいことは学校を通じてお知らせします。捜査の妨げになりますので一旦お引き取りください」
松崎刑事の落ち着いた声に徐々にざわつきは収まっていくものの、その場を立ち去る人はいない。
松崎刑事が浅香刑事に何か合図すると、数人の警官が現れて黄色いテープを引き始めた。
「今から校内は立ち入り禁止とします。すみやかにお引き取りください」
玄関の外へと押し出された人々が渋々帰り始めると、松崎刑事はわたしの頭にゲンコツを降らせた。
「保護者を混乱させるような事を勝手に言うんじゃない」
「すみません……」
松崎刑事の言う通りだ。
でも明野農園のせいにされるのをみすみす黙っているなんてできない。
「しかし、思ったより情報が出回るのが早いな」
ボソリと呟かれたその言葉に、わたしははっとなって帰っていく保護者の中に叶夢君のお母さんの姿を探した。
けれど見つけることはできなかった。
黄色いテープに書かれたKEEP_OUTの文字がやけに生々しく感じる。
子どもたちの声が聞こえない学校で、額を突き合わせた大人たちの会話をどこか遠くに聞いていた。
ふと窓の外に見えた影を咄嗟に追いかけた。呼び止めた小さな背中が小さく震える。
「叶夢君、……だよね?」
振り返ったその手には小さな半透明の小瓶が握られていた。
「叶夢君、無事で良かった。心配してたんだよ。あ、わたしはサトシさん、……来島先生の友達でね、先生の代わりに……」
「……知ってる」
叶夢君はボソリとそう呟いた。
「え?」
「お姉さん、先生に憑りついてる幽霊でしょ?」
「……!」
思いもかけない言葉が返ってきて面食らう。
「先生の家で見た。さっき先生が走って追いかけてきた時も。お姉さんが先生の体の中から抜け出すの」
「……それって、叶夢君は幽霊とかそういうのが見えるってこと?」
叶夢君はこくんと頷いた。
「そっか……、そうなんだ。えっと、お姉さんのこと、怖くない、の?」
無言で左右に首を振る叶夢君の瞳に、涙の粒が盛り上がる。やっぱり怖いんじゃ……。
「お姉さんは、サトシ先生に頼まれて、叶夢君を助けにきたんだよ」
「叶夢君はお腹痛くなったりしてない? 大丈夫?」
わたしは叶夢君と目線を合わせるように少し屈んで問いかけた。
叶夢君が頷くのを見てほっと胸をなで下ろす。
「お母さんは? 一緒にいるのかと思ってたよ」
「…………」
「もしね、お姉さんが間違ってたらごめん。さっきいっしょにいたおじさん達、叶夢君や叶夢君のお母さんに酷いことしてるんじゃ……?」
「…………」
黙り込んでしまった叶夢君にどうしていいか分からず、何かもっと当たり障りない話題はないかと必死に考えを巡らせた。
「あ、それ何持ってるの?」
ふと目に付いた叶夢君の手に握られた小瓶を指さして尋ねると、叶夢君の肩がピクリと震えた。
そして叶夢君はそれをわたしに差し出して言った。
「お姉さん、これ持ってて。……捨ててもいいから」
「これ、何?」
思わず受け取ったガラスの小瓶は薬の入れ物っぽい。でもラベルは付いておらず、半透明で中もよく見えない。
「絶対、誰にも渡さないで」
叶夢君はそう言うとくるりと背を向けて走り出した。
「待って、叶夢君!」
叶夢君を一人にしたくなくてわたしは慌てて追いかけようとした。
けれど、後ろからやってきた松崎刑事に呼び止められ、振り返った時にはもう叶夢君の姿は見えなくなっていた。
「おい、勝手に動き回るな。最近のガキは全く……」
口の悪い刑事さんは舌打ちしながらわたしを車の方へと促す。
「あの、犯人の車は見つかったんですか?」
叶夢君のことが気になるものの、松崎刑事の有無を言わさない態度に逆らえない。大股で歩くその後ろをついて行きながら、気になっていたことを尋ねてみた。
せめて先にあの人達を捕まえてくれれば、叶夢君は安全だと思える。
「車……? なんの事だ?」
チラリとわたしを見下ろすその顔はとぼけているのか、本当に知らないのか、表情が読めない。
「一昨日の夜、叶夢君の家の前に止まってた車です。星さんが刑事さんに写真渡したって。その車に乗ってた人達が怪しいんです。早く見つけないと」
「そっちは捜索中だ」
松崎刑事のため息混じりの呟きに少し焦りが滲んだような気がした。
「さっき病院で星と話してたこと詳しく聞かせてもらおうか」
松崎刑事の大きな手に肩を掴まれ、凶悪犯も真っ青な強面に震えそうになりながらこくこくと頷く。
「あの、その前に聞いてもいいですか。さっき集まってた人達の中に新聞記者の人とかいませんでしたか?」
「いたな。地方紙の記者が」
「星さんの農園のこと、書かれたりしませんよね?」
「確証がなければ記事にはしないだろう。後で間違いだったでは済まないからな」
「農園の周りのパトロールを強化してもらうとかできませんか?」
「一応走らせてはいるよ。あいつも黙ってやられたりはしないさ」
松崎刑事は笑っているけれど、わたしは心配で胃が痛くなりそうだった。
「それより議員がどうとか言ってただろ」
「わたしには詳しいことは分かりません。星さんが何か関係があるかもって」
「そうか。なら、おとなしくしてた方が良さそうだな」
「それはどういう意味ですか?」
「忖度しろよ、ガキ」
あまりの驚きに口が開いたまま塞がらない。
それって、それって、つまり、相手が政治家なら悪いことしてても捕まえないってこと?
「……信じられないっ」
わたしはもうそれ以上松崎刑事には何も言う気にならなかった。
このまま警察署へ行く気にもなれないし、警察がいかにあてにならないかを思い知った。
「具合が悪いので病院に帰らせてください」
運転席の淺香刑事にそう言うと、わたしは窓の外に顔を向けて松崎刑事の方は見ないようにした。
「何勘違いしたか知らんが、事件のことは警察に任せておとなしくしとけよ。議員に睨まれていいことなんざ無いからな」
わたしの怒りを逆撫でするような松崎刑事の言葉に、怒りを通り越して泣けてくる。
窓を伝う雨粒を見つめていると、ふるふると震えながら後方へ振り落とされていく雫が、何の力も持たない自分のようだった。
必死にしがみついても吹き付ける風の強さに抗えない。
――星さん……!
目に浮かぶのは何故か野菜のことを熱く語る星さんの顔だった。
窓の外に流れ去る見慣れない景色が、星さんが隣にいない心細さを一層感じさせる。
ポケットから取り出した攜帯電話をタップしてみても、星さんからの連絡はない。
しばらく迷ってから、ショートメッセージを送ってみた。
『尚也さんのお母さんに会えましたか?』
思いがけず、すぐに返信がきた。
『自宅にはいなかった。心当たりをいくつかまわってみる』
星さん、尚也さんのお母さんに会ってどんな話をするつもりなんだろう。
やっぱりわたしも一緒に行くべきだったのではないだろうか。
尚也さんのお母さんが誰かを恨みたいのなら、その相手は星さんじゃない。
事故の時のことを思い出さなきゃ。
わたしが飛び出したせいで尚也さんが事故を起こししたのか、そうでないのか。
それを思い出したところで何にもならないかもしれない。
でも有耶無耶にしたままでは終われない。
半ば意外にも、刑事さんたちはすんなりとわたしを病院に帰してくれた。
連絡先を聞かれ、何度もおとなしくしておくように言われたけれど、松崎刑事の言葉は今のわたしには響かない。
わたしは刑事さんたちを見送りもせず、急ぎ足で自分の病室へ向かった。母に八年前のことを聞くために。
警察署に向かう途中、刑事さん達に応援要請が入った。白黒のツートンのパトカーではなく、白い普通車でわたし達が向かったのは小学校だった。
ゆっくりと通学路を進む車の中から見ると、玄関の辺りに人だかりができている。
校庭のフェンスに寄せて車が止まると、わたしはそこから飛び出した。一瞬、叶夢君のお母さんらしき人が見えた気がしたのだ。
集まった人達の中に入っていくと、農薬とか農園という単語が聞こえてくる。
玄関で校長先生や他の先生方が、押し寄せる人達に落ち着いてくださいと呼びかけている。
「給食の野菜が原因て本当なんですか?」
「無農薬野菜のはずですよね?」
保護者の人たちばかりだと思っていたら、中にレコーダーのような物を掲げている人がいる。
もし、新聞や雑誌の記者の人だったら……、そう考えるとじっと見ていることができなかった。
「農園のせいじゃありません! 誰かが給食に農薬を混入させたんです」
わたしの叫び声に一瞬辺りが静まり、次の瞬間には先生に向いていた矛先がわたしの方に向いていた。
「あぁ、やってくれる……」
後ろにいた松崎刑事の呆れたような声。
「皆さん落ち着いてください。南署の者です。これから捜査の後、詳しいことは学校を通じてお知らせします。捜査の妨げになりますので一旦お引き取りください」
松崎刑事の落ち着いた声に徐々にざわつきは収まっていくものの、その場を立ち去る人はいない。
松崎刑事が浅香刑事に何か合図すると、数人の警官が現れて黄色いテープを引き始めた。
「今から校内は立ち入り禁止とします。すみやかにお引き取りください」
玄関の外へと押し出された人々が渋々帰り始めると、松崎刑事はわたしの頭にゲンコツを降らせた。
「保護者を混乱させるような事を勝手に言うんじゃない」
「すみません……」
松崎刑事の言う通りだ。
でも明野農園のせいにされるのをみすみす黙っているなんてできない。
「しかし、思ったより情報が出回るのが早いな」
ボソリと呟かれたその言葉に、わたしははっとなって帰っていく保護者の中に叶夢君のお母さんの姿を探した。
けれど見つけることはできなかった。
黄色いテープに書かれたKEEP_OUTの文字がやけに生々しく感じる。
子どもたちの声が聞こえない学校で、額を突き合わせた大人たちの会話をどこか遠くに聞いていた。
ふと窓の外に見えた影を咄嗟に追いかけた。呼び止めた小さな背中が小さく震える。
「叶夢君、……だよね?」
振り返ったその手には小さな半透明の小瓶が握られていた。
「叶夢君、無事で良かった。心配してたんだよ。あ、わたしはサトシさん、……来島先生の友達でね、先生の代わりに……」
「……知ってる」
叶夢君はボソリとそう呟いた。
「え?」
「お姉さん、先生に憑りついてる幽霊でしょ?」
「……!」
思いもかけない言葉が返ってきて面食らう。
「先生の家で見た。さっき先生が走って追いかけてきた時も。お姉さんが先生の体の中から抜け出すの」
「……それって、叶夢君は幽霊とかそういうのが見えるってこと?」
叶夢君はこくんと頷いた。
「そっか……、そうなんだ。えっと、お姉さんのこと、怖くない、の?」
無言で左右に首を振る叶夢君の瞳に、涙の粒が盛り上がる。やっぱり怖いんじゃ……。
「お姉さんは、サトシ先生に頼まれて、叶夢君を助けにきたんだよ」
「叶夢君はお腹痛くなったりしてない? 大丈夫?」
わたしは叶夢君と目線を合わせるように少し屈んで問いかけた。
叶夢君が頷くのを見てほっと胸をなで下ろす。
「お母さんは? 一緒にいるのかと思ってたよ」
「…………」
「もしね、お姉さんが間違ってたらごめん。さっきいっしょにいたおじさん達、叶夢君や叶夢君のお母さんに酷いことしてるんじゃ……?」
「…………」
黙り込んでしまった叶夢君にどうしていいか分からず、何かもっと当たり障りない話題はないかと必死に考えを巡らせた。
「あ、それ何持ってるの?」
ふと目に付いた叶夢君の手に握られた小瓶を指さして尋ねると、叶夢君の肩がピクリと震えた。
そして叶夢君はそれをわたしに差し出して言った。
「お姉さん、これ持ってて。……捨ててもいいから」
「これ、何?」
思わず受け取ったガラスの小瓶は薬の入れ物っぽい。でもラベルは付いておらず、半透明で中もよく見えない。
「絶対、誰にも渡さないで」
叶夢君はそう言うとくるりと背を向けて走り出した。
「待って、叶夢君!」
叶夢君を一人にしたくなくてわたしは慌てて追いかけようとした。
けれど、後ろからやってきた松崎刑事に呼び止められ、振り返った時にはもう叶夢君の姿は見えなくなっていた。
「おい、勝手に動き回るな。最近のガキは全く……」
口の悪い刑事さんは舌打ちしながらわたしを車の方へと促す。
「あの、犯人の車は見つかったんですか?」
叶夢君のことが気になるものの、松崎刑事の有無を言わさない態度に逆らえない。大股で歩くその後ろをついて行きながら、気になっていたことを尋ねてみた。
せめて先にあの人達を捕まえてくれれば、叶夢君は安全だと思える。
「車……? なんの事だ?」
チラリとわたしを見下ろすその顔はとぼけているのか、本当に知らないのか、表情が読めない。
「一昨日の夜、叶夢君の家の前に止まってた車です。星さんが刑事さんに写真渡したって。その車に乗ってた人達が怪しいんです。早く見つけないと」
「そっちは捜索中だ」
松崎刑事のため息混じりの呟きに少し焦りが滲んだような気がした。
「さっき病院で星と話してたこと詳しく聞かせてもらおうか」
松崎刑事の大きな手に肩を掴まれ、凶悪犯も真っ青な強面に震えそうになりながらこくこくと頷く。
「あの、その前に聞いてもいいですか。さっき集まってた人達の中に新聞記者の人とかいませんでしたか?」
「いたな。地方紙の記者が」
「星さんの農園のこと、書かれたりしませんよね?」
「確証がなければ記事にはしないだろう。後で間違いだったでは済まないからな」
「農園の周りのパトロールを強化してもらうとかできませんか?」
「一応走らせてはいるよ。あいつも黙ってやられたりはしないさ」
松崎刑事は笑っているけれど、わたしは心配で胃が痛くなりそうだった。
「それより議員がどうとか言ってただろ」
「わたしには詳しいことは分かりません。星さんが何か関係があるかもって」
「そうか。なら、おとなしくしてた方が良さそうだな」
「それはどういう意味ですか?」
「忖度しろよ、ガキ」
あまりの驚きに口が開いたまま塞がらない。
それって、それって、つまり、相手が政治家なら悪いことしてても捕まえないってこと?
「……信じられないっ」
わたしはもうそれ以上松崎刑事には何も言う気にならなかった。
このまま警察署へ行く気にもなれないし、警察がいかにあてにならないかを思い知った。
「具合が悪いので病院に帰らせてください」
運転席の淺香刑事にそう言うと、わたしは窓の外に顔を向けて松崎刑事の方は見ないようにした。
「何勘違いしたか知らんが、事件のことは警察に任せておとなしくしとけよ。議員に睨まれていいことなんざ無いからな」
わたしの怒りを逆撫でするような松崎刑事の言葉に、怒りを通り越して泣けてくる。
窓を伝う雨粒を見つめていると、ふるふると震えながら後方へ振り落とされていく雫が、何の力も持たない自分のようだった。
必死にしがみついても吹き付ける風の強さに抗えない。
――星さん……!
目に浮かぶのは何故か野菜のことを熱く語る星さんの顔だった。
窓の外に流れ去る見慣れない景色が、星さんが隣にいない心細さを一層感じさせる。
ポケットから取り出した攜帯電話をタップしてみても、星さんからの連絡はない。
しばらく迷ってから、ショートメッセージを送ってみた。
『尚也さんのお母さんに会えましたか?』
思いがけず、すぐに返信がきた。
『自宅にはいなかった。心当たりをいくつかまわってみる』
星さん、尚也さんのお母さんに会ってどんな話をするつもりなんだろう。
やっぱりわたしも一緒に行くべきだったのではないだろうか。
尚也さんのお母さんが誰かを恨みたいのなら、その相手は星さんじゃない。
事故の時のことを思い出さなきゃ。
わたしが飛び出したせいで尚也さんが事故を起こししたのか、そうでないのか。
それを思い出したところで何にもならないかもしれない。
でも有耶無耶にしたままでは終われない。
半ば意外にも、刑事さんたちはすんなりとわたしを病院に帰してくれた。
連絡先を聞かれ、何度もおとなしくしておくように言われたけれど、松崎刑事の言葉は今のわたしには響かない。
わたしは刑事さんたちを見送りもせず、急ぎ足で自分の病室へ向かった。母に八年前のことを聞くために。