㉓
星さんを追いかけることもできず、わたしはサトシさんの病室を探して下の階へ降りていった。
叶夢君はどこに連れて行かれたんだろう。
他の子達は大丈夫だろうか。
自分にできそうなことが何一つ浮かばない。
せめてサトシさんと入れ替わることができたら……。
ぼんやりしていたら不意に肩を掴まれて、飛び上がるほど驚いた。
振り向いた先で松崎刑事が険しい顔で立っていた。
「君にはまだ聞きたいことがある」
最初に会った時もそうだったけれど、威圧感のある声と体格にわたしは蛇に睨まれたカエルのような気持ちになる。
「わたし、……サトシさんの様子を見に行かないと」
星さんと松崎刑事の関係がどれほど親しいものなのかわたしには分からない。
星さんを助けて欲しいと懇願すべきなのか、何も言わずに逃げるべきなのか判断できずにいた。それでも自然と体が逃げる方向に動こうとする。
「一緒に行こう」
松崎刑事は先に立って歩きだす。
わたしはしかたなくその背中を追った。
「さっきの畑に注意しろってどういう意味ですか」
気になってそうたずねれば、
「警察や監査機関が調べに来る前に誰かがあいつんちの畑に故意に農薬を撒く可能性を言ったんだよ」
という恐ろしい答えが返ってきた。
今朝星さんのお母さんに車で送ってもらいながら聞いた話を思い出す。農園は種が風で飛んで交配してしまうのを防ぐ為あっちこっち離れた所にあって、すごく広い。
いつ誰がどこに農薬を撒くか分からないのに、どうやってそれを防げばいいんだろう。
もし、星さんちの畑から農薬が検出されたりしたら……。無農薬、有機栽培が売りの野菜は売れなくなってしまう。
そして一度失った信用を取り戻すのは容易でないことは想像に難くない。
星さんの置かれた厳しい状況に、わたしは何の役にも立たない。何か今わたしにできることはないだろうか。
わたしは慌てて松崎刑事を呼び止める。
「あの、叶夢君と叶夢君のお母さんを探してください。もしかしたら危険な状況かもしれないんです」
松崎刑事は立ち止まってわたしを振り返る。
「危険な状況とは?」
「この間叶夢君のお母さんに麻薬を渡した人がさっき病室に来て、その後二人がいなくなったんです」
麻薬、という言葉を使うことに抵抗があったけれど、今はそんなことを気にしていられない。
「君はあの親子とどういう関係?」
松崎刑事は冷静にそう問い返してきた。わたしはそれに対する答えを用意していなかった。わたしが叶夢君と会ったのはサトシさんとしてだ。
花巻燿子は叶夢君とも叶夢君のお母さんとも会ったことはない。ましてあの夜の出来事を知るはずもない、赤の他人なのだ。
「それは、……その」
答えられずに俯くわたしは刑事さんの目にはさぞ怪しい人物と映っているだろう。
「……星さんから聞きました」
顔を上げて何とかそう言い切った。
「星とはどういう関係?」
更なる追求に嫌な汗が掌をじっとりとさせる。
「……、フ、ファンです!」
これは嘘じゃない。
「ファン?」
「は、はい。星さんの描いてる漫画のファンなんです!」
「じゃあ、ファンの君がどこまで星から話を聞いたのか、教えてもらおうか」
あまりの迫力に息を飲むわたしの後ろで、今度は違う声の笑い声がした。
「そんなに凄んで、怯えてるじゃないですか」
こちらも聞き覚えのある声だった。松崎刑事と一緒にサトシさんの部屋にきたもう一人の刑事さん。名前は確か浅香さん。
わたしは体格のいい二人の刑事さんに挟まれ、追い詰められたネズミのように身を硬くしていた。
悪いことをしたわけではない、はずなのに、緊張で鼓動が早くなる。
知ってることを全て打ち明けて助けてほしいと言いたいのに、現実的に有り得ない状態で知ってしまった情報をどうやって伝えればいいのか分からない。
もし本当のことを言ったとして、信じてもらえなければ、わたしの言ったこと全てが嘘だと思われる。
そんなことになったら、星さんやサトシさんにどれほどの迷惑がかかるか分からない。
わたしは慎重に口を噤む他なかった。
「三日前、ショッピングモールで男の人に殴られそうになって、その時助けてくれたのがサトシさんと星さんで……」
病院の一角にコンビニとカフェが併設されていて、わたしはそのカフェで刑事さん達に事情を話すことになった。
「もしかしてショッピングモールでの麻薬取引を目撃して通報してきたのは君?」
浅香刑事はメモを片手に、声を抑えがちに聞いてくる。
「違います。わたしは何も見てません。でももしかしたら間違えて荷物を……」
「荷物?」
「エレベーターの中で荷物を一度床に置いたんです。それを車に乗せて、その後、知らない人にさっきの袋どこへやったって聞かれて」
「その袋の中身は?」
「分かりません。その人に殴られそうになって気がついたら病院でしたから」
「確かに通報者は匿名だったが、もう少し年配の女性の声だったな」
松崎刑事は顎に手を当てて、その声を思い出しているのかしばらく目を閉じていた。
「その男が昨日再び君を襲いに来たってわけか。その男については警察で身柄を確保して拘留中だから安心して」
わたしがずっとびくびくしているせいか、浅香刑事はそう言って笑顔を作る。
でももちろん、わたしが恐れているのはその人のことなんかじゃない。
誰かが星さんを、明野農園を陥れようとしている。
わたしや佳織さんが危ない目にあったのは偶然かもしれない。
でも星さんの件に関しては、わたしははっきりと犯人の言葉を聞いた。
農薬が使われた場所がサトシさんの勤める学校だったことは、偶然かどうかまだ分からない。
星さんの言うようにわたし達四人を狙ったのだとして、犯人が尚也さんのお母さんだとするならば、動機は尚也さんの死に対する復讐?
でも直接の原因はバイクの前に飛び出したわたしにある。
星さんの家族や、農園で働く人達、野菜を楽しみにしている人達、サトシさんが教えている子どもたちには関係のないことだ。
「……君、君、大丈夫か?」
考えこんでいたわたしを、浅香刑事が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「あ、すみません……」
「で、宮前叶夢君のことは星から聞いただけ? それとも直接会って話したのかな?」
「星さんから聞いて、病室が近かったので様子を見に行きました……」
嘘じゃない。言葉を選びながら、二人が危険な状態かもしれないと伝えるんだ。
わたしは自分にそう言い聞かせながら、浅香刑事の質問に答える。
そんなわたしを松崎刑事がじっと観察しているのが分かる。
「男の人が叶夢君を連れて病室に来ていました。叶夢君のお母さんを脅してるみたいでした。それに明野農園を潰すって……」
「その人を見たんだね?」
わたしは大きく頷いた。
さらに詳しい話を聞きたいと言われ、わたしは警察署へ同行を求められた。
この時、刑事さん達に上手く伝えられたとわたしは手応えを感じていた。そして疑いもせずに二人についていったのだ。
まさか、こんなことになるとは思いもせずに。
星さんを追いかけることもできず、わたしはサトシさんの病室を探して下の階へ降りていった。
叶夢君はどこに連れて行かれたんだろう。
他の子達は大丈夫だろうか。
自分にできそうなことが何一つ浮かばない。
せめてサトシさんと入れ替わることができたら……。
ぼんやりしていたら不意に肩を掴まれて、飛び上がるほど驚いた。
振り向いた先で松崎刑事が険しい顔で立っていた。
「君にはまだ聞きたいことがある」
最初に会った時もそうだったけれど、威圧感のある声と体格にわたしは蛇に睨まれたカエルのような気持ちになる。
「わたし、……サトシさんの様子を見に行かないと」
星さんと松崎刑事の関係がどれほど親しいものなのかわたしには分からない。
星さんを助けて欲しいと懇願すべきなのか、何も言わずに逃げるべきなのか判断できずにいた。それでも自然と体が逃げる方向に動こうとする。
「一緒に行こう」
松崎刑事は先に立って歩きだす。
わたしはしかたなくその背中を追った。
「さっきの畑に注意しろってどういう意味ですか」
気になってそうたずねれば、
「警察や監査機関が調べに来る前に誰かがあいつんちの畑に故意に農薬を撒く可能性を言ったんだよ」
という恐ろしい答えが返ってきた。
今朝星さんのお母さんに車で送ってもらいながら聞いた話を思い出す。農園は種が風で飛んで交配してしまうのを防ぐ為あっちこっち離れた所にあって、すごく広い。
いつ誰がどこに農薬を撒くか分からないのに、どうやってそれを防げばいいんだろう。
もし、星さんちの畑から農薬が検出されたりしたら……。無農薬、有機栽培が売りの野菜は売れなくなってしまう。
そして一度失った信用を取り戻すのは容易でないことは想像に難くない。
星さんの置かれた厳しい状況に、わたしは何の役にも立たない。何か今わたしにできることはないだろうか。
わたしは慌てて松崎刑事を呼び止める。
「あの、叶夢君と叶夢君のお母さんを探してください。もしかしたら危険な状況かもしれないんです」
松崎刑事は立ち止まってわたしを振り返る。
「危険な状況とは?」
「この間叶夢君のお母さんに麻薬を渡した人がさっき病室に来て、その後二人がいなくなったんです」
麻薬、という言葉を使うことに抵抗があったけれど、今はそんなことを気にしていられない。
「君はあの親子とどういう関係?」
松崎刑事は冷静にそう問い返してきた。わたしはそれに対する答えを用意していなかった。わたしが叶夢君と会ったのはサトシさんとしてだ。
花巻燿子は叶夢君とも叶夢君のお母さんとも会ったことはない。ましてあの夜の出来事を知るはずもない、赤の他人なのだ。
「それは、……その」
答えられずに俯くわたしは刑事さんの目にはさぞ怪しい人物と映っているだろう。
「……星さんから聞きました」
顔を上げて何とかそう言い切った。
「星とはどういう関係?」
更なる追求に嫌な汗が掌をじっとりとさせる。
「……、フ、ファンです!」
これは嘘じゃない。
「ファン?」
「は、はい。星さんの描いてる漫画のファンなんです!」
「じゃあ、ファンの君がどこまで星から話を聞いたのか、教えてもらおうか」
あまりの迫力に息を飲むわたしの後ろで、今度は違う声の笑い声がした。
「そんなに凄んで、怯えてるじゃないですか」
こちらも聞き覚えのある声だった。松崎刑事と一緒にサトシさんの部屋にきたもう一人の刑事さん。名前は確か浅香さん。
わたしは体格のいい二人の刑事さんに挟まれ、追い詰められたネズミのように身を硬くしていた。
悪いことをしたわけではない、はずなのに、緊張で鼓動が早くなる。
知ってることを全て打ち明けて助けてほしいと言いたいのに、現実的に有り得ない状態で知ってしまった情報をどうやって伝えればいいのか分からない。
もし本当のことを言ったとして、信じてもらえなければ、わたしの言ったこと全てが嘘だと思われる。
そんなことになったら、星さんやサトシさんにどれほどの迷惑がかかるか分からない。
わたしは慎重に口を噤む他なかった。
「三日前、ショッピングモールで男の人に殴られそうになって、その時助けてくれたのがサトシさんと星さんで……」
病院の一角にコンビニとカフェが併設されていて、わたしはそのカフェで刑事さん達に事情を話すことになった。
「もしかしてショッピングモールでの麻薬取引を目撃して通報してきたのは君?」
浅香刑事はメモを片手に、声を抑えがちに聞いてくる。
「違います。わたしは何も見てません。でももしかしたら間違えて荷物を……」
「荷物?」
「エレベーターの中で荷物を一度床に置いたんです。それを車に乗せて、その後、知らない人にさっきの袋どこへやったって聞かれて」
「その袋の中身は?」
「分かりません。その人に殴られそうになって気がついたら病院でしたから」
「確かに通報者は匿名だったが、もう少し年配の女性の声だったな」
松崎刑事は顎に手を当てて、その声を思い出しているのかしばらく目を閉じていた。
「その男が昨日再び君を襲いに来たってわけか。その男については警察で身柄を確保して拘留中だから安心して」
わたしがずっとびくびくしているせいか、浅香刑事はそう言って笑顔を作る。
でももちろん、わたしが恐れているのはその人のことなんかじゃない。
誰かが星さんを、明野農園を陥れようとしている。
わたしや佳織さんが危ない目にあったのは偶然かもしれない。
でも星さんの件に関しては、わたしははっきりと犯人の言葉を聞いた。
農薬が使われた場所がサトシさんの勤める学校だったことは、偶然かどうかまだ分からない。
星さんの言うようにわたし達四人を狙ったのだとして、犯人が尚也さんのお母さんだとするならば、動機は尚也さんの死に対する復讐?
でも直接の原因はバイクの前に飛び出したわたしにある。
星さんの家族や、農園で働く人達、野菜を楽しみにしている人達、サトシさんが教えている子どもたちには関係のないことだ。
「……君、君、大丈夫か?」
考えこんでいたわたしを、浅香刑事が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「あ、すみません……」
「で、宮前叶夢君のことは星から聞いただけ? それとも直接会って話したのかな?」
「星さんから聞いて、病室が近かったので様子を見に行きました……」
嘘じゃない。言葉を選びながら、二人が危険な状態かもしれないと伝えるんだ。
わたしは自分にそう言い聞かせながら、浅香刑事の質問に答える。
そんなわたしを松崎刑事がじっと観察しているのが分かる。
「男の人が叶夢君を連れて病室に来ていました。叶夢君のお母さんを脅してるみたいでした。それに明野農園を潰すって……」
「その人を見たんだね?」
わたしは大きく頷いた。
さらに詳しい話を聞きたいと言われ、わたしは警察署へ同行を求められた。
この時、刑事さん達に上手く伝えられたとわたしは手応えを感じていた。そして疑いもせずに二人についていったのだ。
まさか、こんなことになるとは思いもせずに。