㉒
救急外来の処置室の前まで来ると、たくさんの人たちが集まっていた。
今朝見たばかりの学校の先生も何人かいる。不安そうに状況を尋ねている人たちは保護者の人だろう。
「あの、来島先生は……」
ちょうど通りかかった先生に尋ねれば、まだ処置室の中だと教えてくれた。サトシさんが最も容態が悪いという。
あんなに走ったせいかもしれない。違う。わたしがサトシさんの体を無茶に走らせたんだ……。
「燿子ちゃん!」
目の前が一瞬真っ白になってふらついたわたしを星さんが支えてくれていた。
「……わたしが、サトシさんを走らせたんです。すごく苦しい状態なの、分かっていたのに……」
「燿子ちゃんじゃなくてもサトシは全力で走ってたよ。そうでなきゃサトシじゃない」
きっぱりとそう言いきる星さんの声が、素直に落ちてきた。
そうだ。サトシさんはそういう人だ。たった三日間、そんなに話してもいないけれど、サトシさんが他人《ひと》のために一生懸命な人だって分かる。
神様、こんないい人をどうか苦しめないでください。サトシさんを助けてください。
わたしは心の中で必死に祈った。
やがて処置室からベッドが押し出されてきた。青白い顔で横たわるサトシさんを見た途端、涙が溢れた。
絶対に犯人を許さない。
「星さん、犯人に心当たりがあるんじゃないんですか?」
詰め寄るわたしに、星さんは難しい顔で黙り込む。
「星さん……!」
自分が今冷静じゃないことは分かっている。それでも何かせずにはいられない。
星さんが、再びわたしの手を引いて歩き出す。
混雑する狭い廊下をくぐり抜けてエレベーターに乗り、屋上へ出た。
雨空を見上げて立ち止まる。
少し離れた位置に小さな屋根のあるベンチがあるのが見えた。
星さんがそこまで走ろうと言って、わたしの頭の上に広げたシャツを翳す。
雨の中、洗濯を干しに来る人もいなくて、屋上にはわたしたちだけだった。
「サトシと佳織は幼稚園からの友達。尚也は中学からかな」
星さんはベンチに座ると、しばらく空を見ていたけれど、そんな風に話し始めた。
「佳織は小学校の時からサトシのことが好きでさ。それがもう傍から見てもバレバレ。それなのに尚也まで佳織に惚れちゃってさぁ。まぁ、佳織って田舎の中学ん中じゃ飛び抜けて可愛かったし、マドンナ的存在っていうか」
星さんは両手の指でカメラのフレームを作るみたいにして腕を伸ばす。
その向こうには鈍色の空と、降り頻る雨しか映ってはいないけれど、きっと星さんの目には中学時代の四人が見えているのだろう。
「俺さ、サトシと佳織が両想いなの知ってて、尚也に告白させたんだ。きっぱり振られて諦めろって。その時はまだサトシと佳織は付き合ってなかったから、尚也は諦めるっていうより一縷の望みにかけてたのかもしれない」
「星さんはどうだったんですか?」
聞いてしまってからすぐに後悔した。でも一旦口から出た言葉は取り消せない。
「俺は小一の時から別に好きな子いるから」
そう言って笑う星さんの横顔が、少し照れたように赤い。
わたしは何だか胸の中が今の空模様みたいにモヤッとしていた。そんなわたしの耳に聞こえてきたのは、高校生が背負うには苦しすぎる結末だった。
「あの日、尚也が佳織に告白して見事玉砕。で、佳織はサトシに告白して二人はようやく結ばれたって。ここまではよくある話。でも、その日に尚也が事故った」
星さんが向ける視線の先で稲光が光った。
数秒後ゴロゴロと地響きのような遠雷が聞こえてくる。
「雷、怖くない?」
不意に星さんが私の方を見てそんな風に心配してくれる。わたしは小さく頷いた。
「そっか。こう、「キャー、雷怖い」って抱きついてくれても良かったんだけど」
星さんは自分を抱きしめるようにして左右に体を捩る。
「今好きな子いるって言ってたじゃないですか。そんなこと言ってちゃだめですよ」
星さんのおどけた様子にちょっと笑って見せた。なんだか気まずい沈黙が流れる。わたしの知らない四人の過去。それに星さんの好きな人。そこにはわたしの入り込めない歴史がある。
胸がふさぎそうになったけれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。星さんは犯人に心当たりがあるのは間違いない。それと四人の過去はつながっているんだ。
「話してください。八年前のこと」
星さんは雨の向こうに何かを探すように遠くを見ていた。その目に映っているのが雨の雫なのか涙なのか判然としなかった。
「尚也のお母さんが、一人息子が事故で意識不明の重体だろ。息子が事故を起こしたのは俺たち三人のせいだって半狂乱だったよ。学校には尚也がいじめにあってたんじゃないかって怒鳴りこんで来るし、家にも何回も来たよ。半年くらいそんなことが続いて」
星さんは少しうつむいて組み合わせた指先に目を落とした。雨脚はどんどん強くなっていく。
「人を憎むって怖いことだよ。尚也のお母さんは結局心を病んで入院したんだ。燿子ちゃんがさっき教えてくれた犯人の中の一人、……もしかしたらその尚也のお母さんかもしれない」
「えっ」
「尚也の父親が病院に閉じ込めたっていう人もいたけど。尚也の父親は県会議員やってて、醜聞を避けたかったみたいだし」
うちともいろいろあってさ、と星さんは苦い顔で睨むように前を見ていた。
「あ、そういやハニーレモンズ」
「え?」
なぜここでご当地アイドルが出てくるんだろう。
「あの日、ハニーレモンズがショッピングモールに来てたよな」
「星さん、もしかしてファン、なんですか?」
「違う違う。ハニーレモンズは松本議員の鳴り物入りでデビューしたんだ。何か関係あるかもしれない」
星さんは腕を組んで考え込んでいる。ご当地アイドルと麻薬密売、県会議員に尚也さんの復讐。一見関係の無さそうな事柄だけれど、少しずつ繋がっている。偶然かもしれないけれど。
「松本はこの辺りの土地を買いあさってる。選挙資金にしてもいったいその金がどこから入ってきてるのかって黒い噂が絶えない」
その時、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
「なんか面白そうな話してるじゃねえか」
振り返るとそこに立っていたのは南署の松崎刑事さんだった。
星さんにツンと袖を引っ張られて、まだベンチに座ったままの星さんを見下ろす。星さんの表情が何か言いたげに歪んでいる。
不思議に思うわたしの横をすり抜けた松崎刑事が、星さんの隣にドカリと腰を下ろした。
「タレコミがあった。今、下で騒ぎになってる事件、お前んとこの農園が絡んでるって」
今、このタイミングで星さんの所に刑事さんが来るってそういうことなんだ……。
わたしは刑事さんに本当のことを分かって貰いたくて声を上げた。
「それ、デタラメです!」
刑事さんは分かっていると言うように、手を上げてわたしの声を遮る。
「知ってるよ。だが、俺は仕事上、お前たちに任意同行を求めなきゃならない」
「この子は関係ない!」
それを聞いた星さんが慌てたように叫ぶ。
刑事さんはそれには返事をせず、片眉を上げただけだった。
「任意ってことは、拒否できますよね? 俺、今忙しいんで」
星さんはそう言って立ち上がるとわたしの手を掴んで歩き出す。
その背中を松崎刑事の声が追ってきた。
「一旦記事が出たら厳しいぞ。それと、畑に注意しとけ」
畑に注意しろってどういう意味?
星さんは振り返らず片手を上げただけでドアをくぐる。
「燿子ちゃん、俺尚也の家に行ってみるよ。燿子ちゃんはやっぱりサトシについててやって」
「でもっ」
「大丈夫。後でうちの母さんにもサトシのこと頼んどくから、それまで頼むよ」
「さっきの畑って……」
「ああ、大丈夫。そっちは親父に連絡しとくから」
「星さん……」
「大丈夫だって。そんなに心配しないで待っててよ」
――あとで燿子ちゃんに話したいことあるんだ
星さんは片手を上げて非常階段を駆け下りて行く。
耳を掠めた星さんの言葉に、わたしはその場に立ち尽くしていた。
救急外来の処置室の前まで来ると、たくさんの人たちが集まっていた。
今朝見たばかりの学校の先生も何人かいる。不安そうに状況を尋ねている人たちは保護者の人だろう。
「あの、来島先生は……」
ちょうど通りかかった先生に尋ねれば、まだ処置室の中だと教えてくれた。サトシさんが最も容態が悪いという。
あんなに走ったせいかもしれない。違う。わたしがサトシさんの体を無茶に走らせたんだ……。
「燿子ちゃん!」
目の前が一瞬真っ白になってふらついたわたしを星さんが支えてくれていた。
「……わたしが、サトシさんを走らせたんです。すごく苦しい状態なの、分かっていたのに……」
「燿子ちゃんじゃなくてもサトシは全力で走ってたよ。そうでなきゃサトシじゃない」
きっぱりとそう言いきる星さんの声が、素直に落ちてきた。
そうだ。サトシさんはそういう人だ。たった三日間、そんなに話してもいないけれど、サトシさんが他人《ひと》のために一生懸命な人だって分かる。
神様、こんないい人をどうか苦しめないでください。サトシさんを助けてください。
わたしは心の中で必死に祈った。
やがて処置室からベッドが押し出されてきた。青白い顔で横たわるサトシさんを見た途端、涙が溢れた。
絶対に犯人を許さない。
「星さん、犯人に心当たりがあるんじゃないんですか?」
詰め寄るわたしに、星さんは難しい顔で黙り込む。
「星さん……!」
自分が今冷静じゃないことは分かっている。それでも何かせずにはいられない。
星さんが、再びわたしの手を引いて歩き出す。
混雑する狭い廊下をくぐり抜けてエレベーターに乗り、屋上へ出た。
雨空を見上げて立ち止まる。
少し離れた位置に小さな屋根のあるベンチがあるのが見えた。
星さんがそこまで走ろうと言って、わたしの頭の上に広げたシャツを翳す。
雨の中、洗濯を干しに来る人もいなくて、屋上にはわたしたちだけだった。
「サトシと佳織は幼稚園からの友達。尚也は中学からかな」
星さんはベンチに座ると、しばらく空を見ていたけれど、そんな風に話し始めた。
「佳織は小学校の時からサトシのことが好きでさ。それがもう傍から見てもバレバレ。それなのに尚也まで佳織に惚れちゃってさぁ。まぁ、佳織って田舎の中学ん中じゃ飛び抜けて可愛かったし、マドンナ的存在っていうか」
星さんは両手の指でカメラのフレームを作るみたいにして腕を伸ばす。
その向こうには鈍色の空と、降り頻る雨しか映ってはいないけれど、きっと星さんの目には中学時代の四人が見えているのだろう。
「俺さ、サトシと佳織が両想いなの知ってて、尚也に告白させたんだ。きっぱり振られて諦めろって。その時はまだサトシと佳織は付き合ってなかったから、尚也は諦めるっていうより一縷の望みにかけてたのかもしれない」
「星さんはどうだったんですか?」
聞いてしまってからすぐに後悔した。でも一旦口から出た言葉は取り消せない。
「俺は小一の時から別に好きな子いるから」
そう言って笑う星さんの横顔が、少し照れたように赤い。
わたしは何だか胸の中が今の空模様みたいにモヤッとしていた。そんなわたしの耳に聞こえてきたのは、高校生が背負うには苦しすぎる結末だった。
「あの日、尚也が佳織に告白して見事玉砕。で、佳織はサトシに告白して二人はようやく結ばれたって。ここまではよくある話。でも、その日に尚也が事故った」
星さんが向ける視線の先で稲光が光った。
数秒後ゴロゴロと地響きのような遠雷が聞こえてくる。
「雷、怖くない?」
不意に星さんが私の方を見てそんな風に心配してくれる。わたしは小さく頷いた。
「そっか。こう、「キャー、雷怖い」って抱きついてくれても良かったんだけど」
星さんは自分を抱きしめるようにして左右に体を捩る。
「今好きな子いるって言ってたじゃないですか。そんなこと言ってちゃだめですよ」
星さんのおどけた様子にちょっと笑って見せた。なんだか気まずい沈黙が流れる。わたしの知らない四人の過去。それに星さんの好きな人。そこにはわたしの入り込めない歴史がある。
胸がふさぎそうになったけれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。星さんは犯人に心当たりがあるのは間違いない。それと四人の過去はつながっているんだ。
「話してください。八年前のこと」
星さんは雨の向こうに何かを探すように遠くを見ていた。その目に映っているのが雨の雫なのか涙なのか判然としなかった。
「尚也のお母さんが、一人息子が事故で意識不明の重体だろ。息子が事故を起こしたのは俺たち三人のせいだって半狂乱だったよ。学校には尚也がいじめにあってたんじゃないかって怒鳴りこんで来るし、家にも何回も来たよ。半年くらいそんなことが続いて」
星さんは少しうつむいて組み合わせた指先に目を落とした。雨脚はどんどん強くなっていく。
「人を憎むって怖いことだよ。尚也のお母さんは結局心を病んで入院したんだ。燿子ちゃんがさっき教えてくれた犯人の中の一人、……もしかしたらその尚也のお母さんかもしれない」
「えっ」
「尚也の父親が病院に閉じ込めたっていう人もいたけど。尚也の父親は県会議員やってて、醜聞を避けたかったみたいだし」
うちともいろいろあってさ、と星さんは苦い顔で睨むように前を見ていた。
「あ、そういやハニーレモンズ」
「え?」
なぜここでご当地アイドルが出てくるんだろう。
「あの日、ハニーレモンズがショッピングモールに来てたよな」
「星さん、もしかしてファン、なんですか?」
「違う違う。ハニーレモンズは松本議員の鳴り物入りでデビューしたんだ。何か関係あるかもしれない」
星さんは腕を組んで考え込んでいる。ご当地アイドルと麻薬密売、県会議員に尚也さんの復讐。一見関係の無さそうな事柄だけれど、少しずつ繋がっている。偶然かもしれないけれど。
「松本はこの辺りの土地を買いあさってる。選挙資金にしてもいったいその金がどこから入ってきてるのかって黒い噂が絶えない」
その時、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
「なんか面白そうな話してるじゃねえか」
振り返るとそこに立っていたのは南署の松崎刑事さんだった。
星さんにツンと袖を引っ張られて、まだベンチに座ったままの星さんを見下ろす。星さんの表情が何か言いたげに歪んでいる。
不思議に思うわたしの横をすり抜けた松崎刑事が、星さんの隣にドカリと腰を下ろした。
「タレコミがあった。今、下で騒ぎになってる事件、お前んとこの農園が絡んでるって」
今、このタイミングで星さんの所に刑事さんが来るってそういうことなんだ……。
わたしは刑事さんに本当のことを分かって貰いたくて声を上げた。
「それ、デタラメです!」
刑事さんは分かっていると言うように、手を上げてわたしの声を遮る。
「知ってるよ。だが、俺は仕事上、お前たちに任意同行を求めなきゃならない」
「この子は関係ない!」
それを聞いた星さんが慌てたように叫ぶ。
刑事さんはそれには返事をせず、片眉を上げただけだった。
「任意ってことは、拒否できますよね? 俺、今忙しいんで」
星さんはそう言って立ち上がるとわたしの手を掴んで歩き出す。
その背中を松崎刑事の声が追ってきた。
「一旦記事が出たら厳しいぞ。それと、畑に注意しとけ」
畑に注意しろってどういう意味?
星さんは振り返らず片手を上げただけでドアをくぐる。
「燿子ちゃん、俺尚也の家に行ってみるよ。燿子ちゃんはやっぱりサトシについててやって」
「でもっ」
「大丈夫。後でうちの母さんにもサトシのこと頼んどくから、それまで頼むよ」
「さっきの畑って……」
「ああ、大丈夫。そっちは親父に連絡しとくから」
「星さん……」
「大丈夫だって。そんなに心配しないで待っててよ」
――あとで燿子ちゃんに話したいことあるんだ
星さんは片手を上げて非常階段を駆け下りて行く。
耳を掠めた星さんの言葉に、わたしはその場に立ち尽くしていた。