㉑
その背中を見送っていると、入れ違いに星さんが飛び込んできた。
「あ、……星さん」
「燿、……子ちゃん?」
「はい」
佳織さんのおかげで落ち着きを取り戻したわたしは、星さんの目を見て大きく頷いた。
初めまして、なんて挨拶をしている時間はない。
「星さん、誰かが明野農園を潰そうとしてます。サトシさんの小学校で給食に農薬が入れられて、明日には記事が出るって」
「ま、待って燿子ちゃん。それ、どこで聞いた?」
「叶夢君を連れ去った犯人からです。男性二人と女性が一人。叶夢君のお母さんに騒いで欲しいって、二人とも連れていかれたみたいなんです」
星さんが目を見開いて言葉を失っている。
「燿子……、どちら様?」
部屋の外にいた母に、今の話が聞こえてしまったかもしれない。
心配そうにわたしの隣に近寄ってきた母が、星さんに目を向ける。
この三日間のことを母に説明している時間はない。それに言ったところで信じられないだろう。もしわたしが母の立場なら、夢を見ていたか、詐欺にでもあったんじゃないかと思うはずだ。
「お母さん、あのね、上手く説明できないけど、わたし行かなくちゃ……」
「どこに行くの? さっきまで意識が無かったのに、急にどうしちゃったの?」
母は今にも泣きだしそうな顔でわたしを見ている。すごく心配をかけたことは分かっているつもりなのに、わたしは今すぐに学校に駆け戻りたい気持ちでいっぱいだった。
焦る気持ちがどうしても苛立ちに変わってしまいそうになる。それが母に対する甘えだと分かっていても、今はどうしようもなかった。
「あの、初めまして。明野 星と言います」
星さんの少し緊張した感じの声がして、母とわたしが同時に星さんを振り返る。
「あなた、あの時燿子を助けてくださった方と一緒にいた……」
お母さん、星さんを覚えていたんだ……。
「はい。燿子さんとは以前から知り合いで」
星さんがわたしに同意を求めるようにこっちを見たので、慌てて頷いた。
「燿子ちゃん、一旦病室に戻って、先生の診察を受けた方がいい」
星さんだってわたしの話を聞いて、いても立っても居られないはずなのに、そんなふうに言って先に立って病室を出ていく。
星さんの言葉に母は少し安心したようにわたしの背中を擦りながら歩く。
けど今は、どうやって叶夢君を探し出すか、星さん家の農園を守るか、そのことでいっぱいだった。自分のことも母のことも考えている余裕はない。
母を安心させたい気持ちがないわけじゃない。だけどそれは全てが解決してからだ。
「お母さん、友達が今危険なの。わたしやっぱり行かなきゃ」
病室の一歩手前で足が止まる。
「体は? もう平気なの? 無理してない?」
母の方がきっと無理してる。それでも必死にわたしを理解しようとしてくれているのが分かる。
いつもそうだったから。
「大丈夫。たっぷり寝たから! それに、星さんが一緒だから大丈夫」
星さんが驚いたように少し目を見開いた。迷惑だったかな。
思わず言ってしまった言葉に顔がひきつりそうになったけど、星さんはにっと笑って母に向き直った。
「燿子ちゃん、意外と頑固っすよね。俺が面倒見ますんで、ちょっとだけお借りしていいですか? すいません、今、どうしても燿子ちゃんが必要なんです」
今度はわたしが目を見開く番だった。
星さんの言葉がわたしに力をくれる。
「あ、そうだ。燿子ちゃんのお母さん、携帯ってスマホですか?」
星さん、突然何を言い出すんだろう。星さんはわたしにも携帯電話を出すように言って、両手に持ったそれを器用に操作する。
「俺の番号です。それからスマホのGPS機能をオンにしておけば、このアプリで……ほら、俺と燿子ちゃんが今どこにいるか確認できる」
母に画面が見えるように身を寄せて、使い方をレクチャーしている。
凄い。母が安心できるように考えてくれたんだ。しかも、誰に対しても気取らず優しい空気で接することのできる星さんをわたしは尊敬せずにはいられない。
わたしも星さんのようになりたいと思う。
母に携帯電話を返すと、星さんはピシッと背筋を伸ばして言った。
「夕方には必ず燿子ちゃんをここに連れて帰ります」
母は携帯電話と星さんを見比べながらしばらく考えこんでいた。
それから小さなため息を吐いて、わたしの手を握った。
「検査の結果ではどこにも異常はないって。目が覚めないのは、精神的なものかもしれないって先生は仰ってたけど……。今の耀ちゃんの顔を見たら心配要らなさそうね」
わたしにそう言って、星さんに向き直る。
「燿子はまだ入院中なんです。絶対に無理はさせないって約束して」
「もちろんです。燿子ちゃんも、少しでも変だなって思ったら俺に隠したりせず正直に言って」
頷いたわたしの頭に、ぽんと大きな手が乗せられた。
三日間シャンプーしてないのに、そんなことを思って首を竦めるわたしに、行こうと星さんが手を差し出す。
「お母さん、後でちゃんと話すから」
母が笑顔で頷くのを見て、わたしは星さんに歩み寄る。
手を握るのは少し恥ずかしい。
そんなわたしの気持ちなどお構い無しに、星さんの手がわたしの手を迎えにきた。
「先ずはサトシと合流しよう」
そうだ。今は明野農園を守ることに専念しなきゃ。
駐車場に向かう途中、星さんの携帯電話が鳴った。
何事かを話していた星さんの表情が曇る。
通話を終えると、星さんは踵を返す。
「学校からだった。サトシがこの病院に救急搬送されたって」
「えっ……」
「サトシは身寄りがなくてさ、緊急連絡先が俺になってるだ」
「サトシさんの容態は……」
「まだ分からない。燿子ちゃん、給食に農薬が混入されたって言ったよね?」
「う、うん。叶夢君をここまで連れて来る途中の車内で女の人が、「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出る」って」
「うちを狙い撃ちか……」
星さん家が誰かに恨まれてるってこと?
「その女の人ってどんな人だった?」
歩きながらわたしは覚えている限りの情報を星さんに伝えた。
星さんの顔が次第に強ばっていく。もしかして心当たりがあるのだろうか。
「その女性が狙ってるのはもしかしたら俺とサトシ、佳織、それに燿子ちゃんの四人かもしれない」
「え……」
星さんはまだ決まったわけじゃないからと、それ以上のことは話してくれなかった。
でも星さんの言うようにわたしたち四人に恨みがある人がこんなことをしているのだとしても、罪もない子どもたちを巻き込むなんて許せない。
「星さん、警察に通報しましょう。犯人の車を探してもらえるかも」
「大丈夫。それはもう先輩に頼んであるから」
昨日サトシさんちに来た刑事さんのことかな。
「一昨日叶夢の家の前に止まってた車なら携帯に写真撮ってあったから。ナンバーもバッチリ」
「じゃあ昨日のうちに……?」
やっぱり星さんは凄い。わたしなんか何も考えてなかった。
「叶夢は例のおじさんて奴の顔を知ってる。犯人からしたら放っておけないはずだ。
ただ、燿子ちゃんが車の中で見た三人、昨日病院で暴れた奴、犯人は他にもいるかもしれない」
抑えられた星さんの声に背中がゾクリと震えた。
その背中を見送っていると、入れ違いに星さんが飛び込んできた。
「あ、……星さん」
「燿、……子ちゃん?」
「はい」
佳織さんのおかげで落ち着きを取り戻したわたしは、星さんの目を見て大きく頷いた。
初めまして、なんて挨拶をしている時間はない。
「星さん、誰かが明野農園を潰そうとしてます。サトシさんの小学校で給食に農薬が入れられて、明日には記事が出るって」
「ま、待って燿子ちゃん。それ、どこで聞いた?」
「叶夢君を連れ去った犯人からです。男性二人と女性が一人。叶夢君のお母さんに騒いで欲しいって、二人とも連れていかれたみたいなんです」
星さんが目を見開いて言葉を失っている。
「燿子……、どちら様?」
部屋の外にいた母に、今の話が聞こえてしまったかもしれない。
心配そうにわたしの隣に近寄ってきた母が、星さんに目を向ける。
この三日間のことを母に説明している時間はない。それに言ったところで信じられないだろう。もしわたしが母の立場なら、夢を見ていたか、詐欺にでもあったんじゃないかと思うはずだ。
「お母さん、あのね、上手く説明できないけど、わたし行かなくちゃ……」
「どこに行くの? さっきまで意識が無かったのに、急にどうしちゃったの?」
母は今にも泣きだしそうな顔でわたしを見ている。すごく心配をかけたことは分かっているつもりなのに、わたしは今すぐに学校に駆け戻りたい気持ちでいっぱいだった。
焦る気持ちがどうしても苛立ちに変わってしまいそうになる。それが母に対する甘えだと分かっていても、今はどうしようもなかった。
「あの、初めまして。明野 星と言います」
星さんの少し緊張した感じの声がして、母とわたしが同時に星さんを振り返る。
「あなた、あの時燿子を助けてくださった方と一緒にいた……」
お母さん、星さんを覚えていたんだ……。
「はい。燿子さんとは以前から知り合いで」
星さんがわたしに同意を求めるようにこっちを見たので、慌てて頷いた。
「燿子ちゃん、一旦病室に戻って、先生の診察を受けた方がいい」
星さんだってわたしの話を聞いて、いても立っても居られないはずなのに、そんなふうに言って先に立って病室を出ていく。
星さんの言葉に母は少し安心したようにわたしの背中を擦りながら歩く。
けど今は、どうやって叶夢君を探し出すか、星さん家の農園を守るか、そのことでいっぱいだった。自分のことも母のことも考えている余裕はない。
母を安心させたい気持ちがないわけじゃない。だけどそれは全てが解決してからだ。
「お母さん、友達が今危険なの。わたしやっぱり行かなきゃ」
病室の一歩手前で足が止まる。
「体は? もう平気なの? 無理してない?」
母の方がきっと無理してる。それでも必死にわたしを理解しようとしてくれているのが分かる。
いつもそうだったから。
「大丈夫。たっぷり寝たから! それに、星さんが一緒だから大丈夫」
星さんが驚いたように少し目を見開いた。迷惑だったかな。
思わず言ってしまった言葉に顔がひきつりそうになったけど、星さんはにっと笑って母に向き直った。
「燿子ちゃん、意外と頑固っすよね。俺が面倒見ますんで、ちょっとだけお借りしていいですか? すいません、今、どうしても燿子ちゃんが必要なんです」
今度はわたしが目を見開く番だった。
星さんの言葉がわたしに力をくれる。
「あ、そうだ。燿子ちゃんのお母さん、携帯ってスマホですか?」
星さん、突然何を言い出すんだろう。星さんはわたしにも携帯電話を出すように言って、両手に持ったそれを器用に操作する。
「俺の番号です。それからスマホのGPS機能をオンにしておけば、このアプリで……ほら、俺と燿子ちゃんが今どこにいるか確認できる」
母に画面が見えるように身を寄せて、使い方をレクチャーしている。
凄い。母が安心できるように考えてくれたんだ。しかも、誰に対しても気取らず優しい空気で接することのできる星さんをわたしは尊敬せずにはいられない。
わたしも星さんのようになりたいと思う。
母に携帯電話を返すと、星さんはピシッと背筋を伸ばして言った。
「夕方には必ず燿子ちゃんをここに連れて帰ります」
母は携帯電話と星さんを見比べながらしばらく考えこんでいた。
それから小さなため息を吐いて、わたしの手を握った。
「検査の結果ではどこにも異常はないって。目が覚めないのは、精神的なものかもしれないって先生は仰ってたけど……。今の耀ちゃんの顔を見たら心配要らなさそうね」
わたしにそう言って、星さんに向き直る。
「燿子はまだ入院中なんです。絶対に無理はさせないって約束して」
「もちろんです。燿子ちゃんも、少しでも変だなって思ったら俺に隠したりせず正直に言って」
頷いたわたしの頭に、ぽんと大きな手が乗せられた。
三日間シャンプーしてないのに、そんなことを思って首を竦めるわたしに、行こうと星さんが手を差し出す。
「お母さん、後でちゃんと話すから」
母が笑顔で頷くのを見て、わたしは星さんに歩み寄る。
手を握るのは少し恥ずかしい。
そんなわたしの気持ちなどお構い無しに、星さんの手がわたしの手を迎えにきた。
「先ずはサトシと合流しよう」
そうだ。今は明野農園を守ることに専念しなきゃ。
駐車場に向かう途中、星さんの携帯電話が鳴った。
何事かを話していた星さんの表情が曇る。
通話を終えると、星さんは踵を返す。
「学校からだった。サトシがこの病院に救急搬送されたって」
「えっ……」
「サトシは身寄りがなくてさ、緊急連絡先が俺になってるだ」
「サトシさんの容態は……」
「まだ分からない。燿子ちゃん、給食に農薬が混入されたって言ったよね?」
「う、うん。叶夢君をここまで連れて来る途中の車内で女の人が、「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出る」って」
「うちを狙い撃ちか……」
星さん家が誰かに恨まれてるってこと?
「その女の人ってどんな人だった?」
歩きながらわたしは覚えている限りの情報を星さんに伝えた。
星さんの顔が次第に強ばっていく。もしかして心当たりがあるのだろうか。
「その女性が狙ってるのはもしかしたら俺とサトシ、佳織、それに燿子ちゃんの四人かもしれない」
「え……」
星さんはまだ決まったわけじゃないからと、それ以上のことは話してくれなかった。
でも星さんの言うようにわたしたち四人に恨みがある人がこんなことをしているのだとしても、罪もない子どもたちを巻き込むなんて許せない。
「星さん、警察に通報しましょう。犯人の車を探してもらえるかも」
「大丈夫。それはもう先輩に頼んであるから」
昨日サトシさんちに来た刑事さんのことかな。
「一昨日叶夢の家の前に止まってた車なら携帯に写真撮ってあったから。ナンバーもバッチリ」
「じゃあ昨日のうちに……?」
やっぱり星さんは凄い。わたしなんか何も考えてなかった。
「叶夢は例のおじさんて奴の顔を知ってる。犯人からしたら放っておけないはずだ。
ただ、燿子ちゃんが車の中で見た三人、昨日病院で暴れた奴、犯人は他にもいるかもしれない」
抑えられた星さんの声に背中がゾクリと震えた。