目眩(めまい)、だろうか。
恐る恐る目を開けると、見えたのは天井の模様。
何度か瞬きして横に目を向けると、母がいた。
「燿子……。燿ちゃん!」
「お母さん……」
声が、わたしの声が母に届いた。
腕を持ち上げてみる。透明でなく、ちゃんと色と熱、体積を持ったそれは、サトシさんのものより小さく頼りない。
それでも魂だけの状態よりずっといい。
母がナースコールに伸ばした手を掴んで止める。
「お母さん、わたしの携帯電話……」
そう言ったわたしに向けられた母の目は、今にも溢れそうな涙に潤んでいる。それでも三日も眠っていた娘に、戸惑いながら物入れから携帯電話を取り出してくれる。
わたしは自分の携帯電話を手に、震える指で画面をタップする。
星さんに電話をかけようとして、番号が分からないことに気付いた。
サトシさんの携帯の番号も分からない。
どうやって連絡を取ればいいの?
こうしている間にも恐ろしいことが起ころうとしているのに。
わたしは必死に頭を働かせた。そうだ、明野農園を調べればいいんだ。
検索アプリを開いて「あけのん」と打ちこむ。
表示されたサイトの番号をタップすれば、コール音が鳴り始めた。
「はい、明野農園でございます」
繋がった!
この声は星さんのお母さんだ。心臓が驚いたのか、急激に血液が体を巡り始めたような気がる。
「あのっ」
その先をなんと続けていいか分からず一瞬言葉につまる。
花巻燿子という存在は、星さんと面識がないのだ。繋いで貰えるだろうか。怪しい人と思われないだろうか。
「あの、花巻燿子と言います。星さんはいらっしゃいますか?」
上ずった声で一息にそう告げる。小学校の時、初めて友達の家に電話を架けた時のような緊張感。
「あらまあ! ようこちゃん?」
電話の向こうからは予想外な声が返ってきた。
お母さんのわたしを知っているような口ぶり、その後に電話の奥で星さんを呼ぶ声がした。
「星、彼女から電話よー」
か、彼女?
「彼女なんかいないけど?」
星さんの不審そうな声。
「隠さなくったっていいじゃない。今朝、ようこちゃんっ、て叫んで飛び起きてたじゃない」
お母さんと星さんの会話が電話を通して筒抜けだ。
「もしもし」
星さんの声がダイレクトに耳に飛び込んできた。
その瞬間、何故だか分からないけれど、涙が溢れて止まらなくなった。
「星さん……、星さん、大変なんです。農園が、……サトシさんも、叶夢君も、みんな大変なことになってるんです。わたし、どうしたら……」
早く伝えなきゃいけないのに。焦るほどに上手く言葉にできなくて、込み上げてきた涙で声が詰まった。
「……燿子ちゃん、なの?」
「……はい」
「その声、元に戻れたってこと?」
「…………」
これにはなんと答えたらいいのか分からなかった。それよりも、今は伝えなきゃならないことがある。何から伝えたらいい? 泣いてる場合じゃないのに。
「今、どこ?」
「病院です」
「分かった。すぐそっち行くから、待ってて。あ、それと燿子ちゃんの携帯番号教えて」
星さんが電話の向こうで慌ただしく足踏みする音が聞こえた。
星さんとの通話を切った後、折り返しかかってきた番号を携帯に登録する。
それから腕に刺さったままの点滴の針を、意を決して引き抜いた。
こんなドラマみたいなことを自分がする日が来るとは思わなかった。
着替えてすぐに叶夢君のお母さんの病室へ向かう。わたしを心配する母に、今は後で説明するからと謝ることしかできない。
しばらく寝ていたせいか足元がふらついたけれど、病院の廊下には手摺があって助かった。
叶夢君がまだ病室にいるといい。祈るような気持ちで開けたドアの向こうには、空のベッドがあるだけだった。
叶夢君も、叶夢君のお母さんもいない病室。さっきの男たちが二人を連れて行ったのだろうか。
わたしは大変な失敗をしてしまった。
まだ二人から目を離すべきじゃなかった。
もう二人を追いかけることもできない。
さっきまであんなに欲していた体が今では足枷に思える。
あの人たちは明野農園を潰そうとしていた。そのために、学校の給食に農薬を混入させ、罪もない子どもたちを……。
犯人に対する怒りと、自分に対する怒りで目の前が真っ赤になりそうなほどだった。
今日、もし子どもたちと給食を食べたのがサトシさんだったら、異変にもっと早く気付けたかもしれない。
子どもたちがあんな苦しみを味わう前にどうにかできていたかもしれない。
わたしは酷い考え違いをしていた。
一日くらいならサトシさんの代わりができると、思い上がっていたんだ。
この世界に存在すること自体間違っているわたしが、この一日で犯した罪はどれほどだろう。
子どもたちを危険に晒したばかりか、わたしの存在がみんなの運命を狂わせている。
わたしは立っていられずに、ベッドに顔を伏せて泣きじゃくった。
そんなことをしていても何の解決にもならないことは分かっている。
それでもこれまで気付かない振りをしていた不安や疲れが、堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
この世界に一人放り出されたわたしが、帰る場所も方法も分からないのに、サトシさんや星さんの優しさに甘えて欲を出した。
いつもそうだった。
大人しくしているつもりが周りに気を遣わせ、目立たないように控えめにしていることで周囲の負担を増やしていた。
嫌なことから目を背け、厳しい言葉には耳を塞いでいた。
自分は悪くない。
悪気があってやってるわけじゃない。
そんな言い訳で自分を正当化しようとしていた。そして自分のやったことの結果を見ずに逃げだしていた。
あの、尚也さんの事故の時も。
泣いている場合じゃない。泣くな、泣くな!今度こそ、自分にできることをするんだ。それがこの世界からいなくなることだとしても。
「ちょっと、勝手に点滴外すとか、ありえないんだけど」
唇を噛んで立ち上がったわたしの前に佳織さんが立っていた。
そうだ。佳織さんに聞けばサトシさんや星さんの連絡先が分かったのに。
「……すみません」
慌てて涙を拭うわたしに、佳織さんがポケットティッシュを渡してくれた。
「何があったか知らないけど、星からあなたを見てて欲しいってさっき頼まれたの。あなた、昨日サトシの……」
わたしは佳織さんの言いたいことを察して頷いた。
「元に戻ったってこと?」
「分かりません。わたしはこの世界にいるべきじゃないのに……」
そう口にした途端、止まっていた涙がまた込み上げてくる。
「…………。馬鹿ね。自分の体に戻ったんでしょ? 良かったのよ、それで。そんな難しく考える必要ある?」
佳織さんは少しの沈黙の後、うじうじと悩むわたしの考えを吹き飛ばすようなサバサバした調子でそう言った。
「…………」
良かった、のかな。何をどう考えていいのか分からなくなる。
「自分のことは自分で認めてあげないと。少なくとも、サトシの中にいるよりはずっといいじゃない? 女の子にあの図体はダメでしょ」
佳織さんの言葉がわたしの気持ちを引き上げる。1八0度見方がひっくり返ったような気がした。
佳織さんに促されて、二人で並んでベッドに腰を下ろした。
子どもみたいに大泣きしていたことが恥ずかしくて、それでいて佳織さんに話を聞いて欲しいような気もした。
「サトシさんの体が居心地良くて、だから、有り得ない状況でも落ち着いていられたし、すごく前向きでいられたんです。自分の体に戻った途端に泣いてばっかりで……」
「サトシ、体だけは鍛えてあるしね。感情が肉体に影響受けるっていうのは本当なのかしらね」
「不思議です。あんなに早く走れて、たくさん食べることができて」
「サトシのこと、気になる?」
「えっ?!」
佳織さんは真っ直ぐな眼差しでわたしを見ていた。佳織さんはどう思ってるんだろう、サトシさんのこと。
その時、複数の救急車のサイレンが聞こえてきた。
わたしははっとなって窓に駆け寄った。
もしかして、子どもたちが運ばれてきたのかもしれない。
学校で起きたことを佳織さんにも話すべきだろうか。
悩んでいる間に、佳織さんにも呼び出しがかかったのか、ポケットからPHSを取り出して少し話した後、
「ごめんね、行かなくちゃ」
そう言って病室を出て行く。
思わずその背中を呼び止めていた。
「佳織さん」
余計なお世話かもしれない。それでも言っておきたかった。
「ありがとうございます。それと、サトシさんと佳織さん、お似合いだと思います」
わたしの存在が佳織さんを不安にさせてしまったかもしれない。そう思うと、それだけでは足りない気がした。でも、それ以上言葉が浮かばない。
ふわりとした笑顔を残して、佳織さんは部屋を出て行った。