⑲
車が目前に迫ってきた。わたしはえいっと気合いを入れて、車の屋根に飛び込んだ。
その車は、叶夢君の家の前から走り去ったあの車だった。
「叶夢、よくやったな。次はお母さんに合わせてやるよ」
叶夢君の隣にいた男がそう言った。
運転席には別の男。助手席には母と同じくらいの年の女性。
「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出るわ」
その女性が恐ろしい言葉を放った。
この人たちはいったい何をしようとしているのだろう。
あまりの恐ろしさに、何をどうしていいのか分からない。
わたしは叶夢君にぴったりとくっついて、車の行く先を見守った。
やがて見覚えのある駐車場に車が停る。叶夢君のお母さんと燿子《わたし》が入院している病院だ。
叶夢君が連れ出され、引き摺られるようにして連れていかれる。
叶夢君に、何をさせようとしているの?
叶夢君の背中にぴたりと張り付いたわたしの姿に目を向ける人はいない。
それをいいことに、わたしは堂々と叶夢君について行く。
エレベーターに乗って向かった先は叶夢君のお母さんの病室だった。
病室には叶夢君のお母さんが一人だけだった。
ベッドの背中の部分を起こしているところを見ると、回復してきているのだろう。
少しほっとして叶夢君の頭を撫でようとしたら、腕がスルッとすり抜けた。
「ああ、この間は悪かったな。ちょっと量がいき過ぎちまったみたいだな」
男は言葉では謝っているように聞こえるが、その下卑た笑いには誠意の欠片も見えない。
「何しにきたの? もうあなたとは関わりたくないの。帰って」
叶夢君のお母さんは男を睨む。
「ひでぇな。この間のアレ。いくらすると思ってんだ? まぁアレは初回サービスだ。そんなことより今日は頼みがあって来たんだ」
男は気にとめる風もなく、ニヤニヤと笑って叶夢君のお母さんに話しかける。
この人が叶夢君の言っていたおじさん、叶夢君のお母さんに麻薬を持ってきた人物に違いない。
男は叶夢君の襟首を掴んでどんと前に突き出す。
「叶夢!」
お母さんがベッドから身を乗り出して叶夢君に両腕を伸ばした。
叶夢君がお母さんに駆け寄ろうとした瞬間、男が叶夢君を持ち上げる。
叶夢君が足をばたつかせても、男は叶夢君をお母さんに渡すつもりは無いようだ。
「子どもが心配だよなぁ。母親が薬中なんて、なぁ?」
男はわざとらしく叶夢君の頭を撫でる。
「俺の頼み聞いてくれたら、悪いようにはしないぜ」
後から来ていた運転席の男が扉の前で見張っているのか、そうしている間も誰も部屋に入ってこない。
「ちょっと騒いでくれたらいいんだ。今日学校で大変なことがあったんだよなぁ、叶夢?」
叶夢君がぴくんと身を強ばらせた。
「学校給食に大量の農薬が混入したんだ。有機栽培なんて嘘っぱちだな、ありゃ」
男は肩を揺すって笑う。
「明野農園を潰す。協力、してくれるよな?」
低く抑えた男の声が嘘や冗談でないことを物語っている。大変だ。大変なことになる。
星さんが、星さんの御家族がみんなで作ってる野菜が、農園が……!
星さんに早く知らせないと。
でもどうやって?
星さんには魂の状態のわたしは見えない。サトシさんの体に一度戻るしか……。
そこでわたしは閃いた。
そうだ。
燿子だ。
燿子の体を使えれば……。
締め切られたスライドドアは、今のわたしには触れることさえできない。
でも、さっきだって車の屋根を通り抜けた。薄いドアの一枚や二枚、今のわたしには何の障害にもならない。
一瞬で燿子の病室までたどり着いた。
今だに目を覚まさないのか、燿子は目を閉じて静かな呼吸を繰り返している。
その傍らには母の姿があった。
「お母さん……。ごめんね」
わたしの声は母に届かない。ベッドに肘をついて祈るように手を組み合わせ、その手を額に押し当てている。
触れることはできないけれど、母の背中をそっと撫でるように手を動かす。
感じるはずはないのに、その手に母の温かさが伝わってきたような気がした。
わたしはここにいるよ。気付いて!
そう叫んでみても伝わらない。
髪の毛の一本すら動かすことができない。
――燿子、あなたの体を貸して。わたしを受け入れて!
わたしは天井近くに浮き上がって、真下に燿子の体を見下ろした。
どうやって体に入ろうかと昨夜イメージした方法を試してみる。
まずは燿子の体に並行になって重なる。
魂のわたしと肉体の燿子《わたし》が溶け合うイメージで沈んでみる。
背中に反発を感じて、うまく入れない。
しばらく体の上を微妙に位置をずらしたりしながら頑張ってみたけど、ベッドは通り抜けるのに、燿子の体だけは一ミリも入ることができない。わたしだけが触れることのできない魔法でもかかっているみたいだ。
再び天井付近まで浮き上がると、今度は勢いよく飛び込んでみる。
けれど、体に触れた途端弾かれてしまった。
そうやって何度も何度も試したけれど、ことごとく失敗だった。
時折窓から駐車場を見下ろして、さっきの車が移動していないか確認していたけれど、何度目かに見た時、車がいなくなっていた。
ああ、時間がない。
気持ちは焦るばかりだ。
その時、母がふっとわたしの方に目を向けた。
「……燿子?」
見えていないはずなのに、目が合っている気がする。
「お母さん!」
「燿子!」
母がわたしに向かって手を伸ばす。その手首で見慣れたローズクオーツのブレスレットが揺れた。
魂《わたし》に母の手が触れた途端、そのブレスレットの糸が切れたのか、珠が弾け飛んだ。
いくつものローズクオーツが飛び散り、床の上を跳ねる。
次の瞬間、時が止まったようにそれらが動きを止めた。
空中に浮いたまま静止する薄紅色の珠が、窓から差し込んできた光を吸い込んで輝く。
白い光が散らばった珠から溢れ出して病室を真っ白に染めた。
「燿子!」
お母さんの声が部屋中からこだまして聞こえる。
目の前を色んな景色が流れ去った。
覚えている過去の景色。
忘れていた記憶。
苦しくて、悲しくて、優しい思い出の数々。
その中に星さんの姿があった。
そうだ。早く星さんに伝えなきゃいけないことがある。
記憶の中で笑う星さんはこの病室のベッドの上にいた。
だんだんと眩しさを増す光に目を開けていられず、腕をかざして目を閉じた。
数秒後、光が弱まり始めると、空中に静止していた珠がバラバラと音を立てて床に落ちる。
ぐるんと世界が回った。
車が目前に迫ってきた。わたしはえいっと気合いを入れて、車の屋根に飛び込んだ。
その車は、叶夢君の家の前から走り去ったあの車だった。
「叶夢、よくやったな。次はお母さんに合わせてやるよ」
叶夢君の隣にいた男がそう言った。
運転席には別の男。助手席には母と同じくらいの年の女性。
「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出るわ」
その女性が恐ろしい言葉を放った。
この人たちはいったい何をしようとしているのだろう。
あまりの恐ろしさに、何をどうしていいのか分からない。
わたしは叶夢君にぴったりとくっついて、車の行く先を見守った。
やがて見覚えのある駐車場に車が停る。叶夢君のお母さんと燿子《わたし》が入院している病院だ。
叶夢君が連れ出され、引き摺られるようにして連れていかれる。
叶夢君に、何をさせようとしているの?
叶夢君の背中にぴたりと張り付いたわたしの姿に目を向ける人はいない。
それをいいことに、わたしは堂々と叶夢君について行く。
エレベーターに乗って向かった先は叶夢君のお母さんの病室だった。
病室には叶夢君のお母さんが一人だけだった。
ベッドの背中の部分を起こしているところを見ると、回復してきているのだろう。
少しほっとして叶夢君の頭を撫でようとしたら、腕がスルッとすり抜けた。
「ああ、この間は悪かったな。ちょっと量がいき過ぎちまったみたいだな」
男は言葉では謝っているように聞こえるが、その下卑た笑いには誠意の欠片も見えない。
「何しにきたの? もうあなたとは関わりたくないの。帰って」
叶夢君のお母さんは男を睨む。
「ひでぇな。この間のアレ。いくらすると思ってんだ? まぁアレは初回サービスだ。そんなことより今日は頼みがあって来たんだ」
男は気にとめる風もなく、ニヤニヤと笑って叶夢君のお母さんに話しかける。
この人が叶夢君の言っていたおじさん、叶夢君のお母さんに麻薬を持ってきた人物に違いない。
男は叶夢君の襟首を掴んでどんと前に突き出す。
「叶夢!」
お母さんがベッドから身を乗り出して叶夢君に両腕を伸ばした。
叶夢君がお母さんに駆け寄ろうとした瞬間、男が叶夢君を持ち上げる。
叶夢君が足をばたつかせても、男は叶夢君をお母さんに渡すつもりは無いようだ。
「子どもが心配だよなぁ。母親が薬中なんて、なぁ?」
男はわざとらしく叶夢君の頭を撫でる。
「俺の頼み聞いてくれたら、悪いようにはしないぜ」
後から来ていた運転席の男が扉の前で見張っているのか、そうしている間も誰も部屋に入ってこない。
「ちょっと騒いでくれたらいいんだ。今日学校で大変なことがあったんだよなぁ、叶夢?」
叶夢君がぴくんと身を強ばらせた。
「学校給食に大量の農薬が混入したんだ。有機栽培なんて嘘っぱちだな、ありゃ」
男は肩を揺すって笑う。
「明野農園を潰す。協力、してくれるよな?」
低く抑えた男の声が嘘や冗談でないことを物語っている。大変だ。大変なことになる。
星さんが、星さんの御家族がみんなで作ってる野菜が、農園が……!
星さんに早く知らせないと。
でもどうやって?
星さんには魂の状態のわたしは見えない。サトシさんの体に一度戻るしか……。
そこでわたしは閃いた。
そうだ。
燿子だ。
燿子の体を使えれば……。
締め切られたスライドドアは、今のわたしには触れることさえできない。
でも、さっきだって車の屋根を通り抜けた。薄いドアの一枚や二枚、今のわたしには何の障害にもならない。
一瞬で燿子の病室までたどり着いた。
今だに目を覚まさないのか、燿子は目を閉じて静かな呼吸を繰り返している。
その傍らには母の姿があった。
「お母さん……。ごめんね」
わたしの声は母に届かない。ベッドに肘をついて祈るように手を組み合わせ、その手を額に押し当てている。
触れることはできないけれど、母の背中をそっと撫でるように手を動かす。
感じるはずはないのに、その手に母の温かさが伝わってきたような気がした。
わたしはここにいるよ。気付いて!
そう叫んでみても伝わらない。
髪の毛の一本すら動かすことができない。
――燿子、あなたの体を貸して。わたしを受け入れて!
わたしは天井近くに浮き上がって、真下に燿子の体を見下ろした。
どうやって体に入ろうかと昨夜イメージした方法を試してみる。
まずは燿子の体に並行になって重なる。
魂のわたしと肉体の燿子《わたし》が溶け合うイメージで沈んでみる。
背中に反発を感じて、うまく入れない。
しばらく体の上を微妙に位置をずらしたりしながら頑張ってみたけど、ベッドは通り抜けるのに、燿子の体だけは一ミリも入ることができない。わたしだけが触れることのできない魔法でもかかっているみたいだ。
再び天井付近まで浮き上がると、今度は勢いよく飛び込んでみる。
けれど、体に触れた途端弾かれてしまった。
そうやって何度も何度も試したけれど、ことごとく失敗だった。
時折窓から駐車場を見下ろして、さっきの車が移動していないか確認していたけれど、何度目かに見た時、車がいなくなっていた。
ああ、時間がない。
気持ちは焦るばかりだ。
その時、母がふっとわたしの方に目を向けた。
「……燿子?」
見えていないはずなのに、目が合っている気がする。
「お母さん!」
「燿子!」
母がわたしに向かって手を伸ばす。その手首で見慣れたローズクオーツのブレスレットが揺れた。
魂《わたし》に母の手が触れた途端、そのブレスレットの糸が切れたのか、珠が弾け飛んだ。
いくつものローズクオーツが飛び散り、床の上を跳ねる。
次の瞬間、時が止まったようにそれらが動きを止めた。
空中に浮いたまま静止する薄紅色の珠が、窓から差し込んできた光を吸い込んで輝く。
白い光が散らばった珠から溢れ出して病室を真っ白に染めた。
「燿子!」
お母さんの声が部屋中からこだまして聞こえる。
目の前を色んな景色が流れ去った。
覚えている過去の景色。
忘れていた記憶。
苦しくて、悲しくて、優しい思い出の数々。
その中に星さんの姿があった。
そうだ。早く星さんに伝えなきゃいけないことがある。
記憶の中で笑う星さんはこの病室のベッドの上にいた。
だんだんと眩しさを増す光に目を開けていられず、腕をかざして目を閉じた。
数秒後、光が弱まり始めると、空中に静止していた珠がバラバラと音を立てて床に落ちる。
ぐるんと世界が回った。