⑱
あっという間に午前中が終わり、次は給食の時間だった。
星さんのお母さんからお弁当をもらったものの、先生も給食を一緒に食べるらしい。
どちらにしても使われているのは星さんちの野菜だ。
白いエプロンと白い帽子、小さな顔に大きなマスクを着けた当番の子たちが、給食室から運ばれてきたお鍋からおかずを取り分けていく。
ちゃんと人数分に分配できるのか、こぼしたりしないかとハラハラしながら見守っていたけれど、どうにか全員に給食が行き渡った。
最後に当番の子がわたしの席に給食の乗ったトレーを持ってきてくれる。
サトシさんのメモ通りに、「では、お当番さん」と声をかけると、号令にあわせて「いただきます」の声が元気に響き渡った。
今朝は星さんの御家族に囲まれた朝ごはん、そしてお昼は子どもたちと一緒に給食を食べる。
こんな体験は二度とないかもしれない。
緊張と失敗の連続でも、子どもたちの元気に引っ張られるように一日が進んでいく。
誰もが経験してきたはずの時間が、サトシさんの目を通して見ると、まるで初めて見る世界にいるような二度とない貴重な時間だと思えた。
それは美術館にいる時に少し似ているかもしれない。
飾られた作品をさっと見て通り過ぎることもできるけれど、ひとつひとつを問いかけるように見ていくと、そこに知らなかった世界が広がっていることに気付く。
絵の中にそれぞれ違った世界があるように、子どもたちの中にもそれぞれ違う世界がある。
もし、自分の体に戻ることができたなら、先生にはなれなくても、子どもたちと関わる仕事がしてみたい。
昼休み、子どもたちが提出した日記帳を読みながらそんなことを考えていた。
そしてこの日最後の授業は体育だった。
「運動場でドッジボールをする」と書かれたメモ。ボールは体育係の子が準備してくれる。
わたしはタイムを測って笛を吹くだけだ。
二つのチームに別れて試合開始の合図。
ボールは何故かわたしの顔面に向かって飛んできた。
サトシさんならきっとうまく避けたに違いない。
だけど……。
「今日の先生、変!」
「先生、なんかあったのー?」
「失恋とか!?」
鼻が潰れそうな痛みを堪えながら、子どもたちがいつもと違う「サトシ先生」の秘密を暴こうとする声を聞いていた。
自分ではサトシさんになりきってうまくやれてるつもりだったけれど、子どもたちにはお見通しだったようだ。
――騙してごめんね。
舞い上がっていたわたしは、一転罪悪感に苛まれ始めた。
その時、異変は始まった。
「先生、あおいちゃんがお腹が痛いって……」
「なんか気持ち悪い……」
「先生! ヒロトがゲロ吐いた!」
女の子たちの悲鳴。ドサリと音がした方を見れば、地面に倒れている子がいた。
そして次々に不調を訴える子どもたち。
いきなりの事態に、わたしは何をしていいか分からず右往左往するばかりだった。
「だ、誰か保健の先生を……」
保健室に向かって走ったのは叶夢君だった。
近くで地面に嘔吐し続ける子の背中を擦りながら周りを見渡せば、半数の子が倒れたりうずくまっている。
一体何が起こってるのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは三十分程前に食べた給食だ。
わたしも同じ物を食べている。
そう考えた時、ふと胃のあたりがおかしいような気がした。
「先生、あおいちゃんが!」
女の子に腕を引かれて見れば、あおいちゃんがビクンビクンと体を震わせている。
もしかして痙攣?
今すぐ救急車を呼ばなくては。学校内でどうにかできるような状況じゃない。頭ではそう考えているのに、わたしの足が歩き方を忘れたみたいに動かない。
泣き出す子どもたち。
空からもポタリと雨の雫が落ちてきた。
地響きのような遠雷の音に、辺りが急速に影に包まれて行く。
――生死の理を犯して存在するわたしに、神様が怒っている
そんな考えが、降り出した雨と共に心の中へ染み込んできた。
けど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
わたしはあおいちゃんに駆け寄って、その体を抱き上げた。
「動ける子たちは他の先生を呼びに行って!」
そう指示して、一番近い校舎の入口へ走る。
出てきていた先生にあおいちゃんを託し、救急車を呼んでくれるよう伝えて、すぐさま運動場へ引き返す。
倒れている子を何度か往復して、校舎ではなく体育館へ運んだ。
保健室のベッドでは足りない。
体育の授業に使うマットの上に子どもたちを寝かせていく。
次第に集まり始めた先生方に状況を説明し、他のクラスの様子を調べてもらう。
もし、給食が原因だったとしたら――。
絶対にないと思いながらも、星さんの顔が脳裏を掠める。
救急車のサイレンが聞こえ始めた頃、外は本格的な雨になっていた。
体育館の屋根を打つ雨音が、外の世界との繋がりを絶とうとしているかのようで、子どもたちの姿を見るのが怖い。
わたしはサトシさんの代わりにこの子たちを守らなければいけない。
怯えている場合じゃない。
何度も何度も一人一人に声をかける。
半数以上の子どもたちが腹痛や吐き気を訴えている。被害は今のところこのクラスだけだった。
一番最初に動いてくれた叶夢君は、体育館の隅で青い顔で立っていた。
「叶夢君、大丈夫? さっきはありがとう」
近寄って声をかけると、その目からポタリと涙が落ちた。
不調を訴えていない子たちも、突然の騒ぎにみんな不安になっている。
叶夢君はお母さんのことがあってすぐだから、尚更かもしれない。
叶夢君の肩に手をかけようとしたその時、叶夢君はくるりと踵を返して駆け出した。
体育館に入ってくる救急隊員の人達の間をすり抜けて、外へ飛び出していってしまう。
振り返れば、何人かの先生方が救急隊員の方を症状の重い子の元へ案内してくれている。
一瞬躊躇ったものの、叶夢君がこの後具合が悪くならないとも限らない。
わたしは急いで叶夢君のあとを追いかけた。
運動場の端を走っていく人影を見つけて飛び出した。
ザーザーと降りしきる雨。
ぬかるむ土に足をとられる。
目を開けているのもやっとで、必死に叶夢君の姿を追うものの、ついに叶夢君は学校の外へと出てしまった。
車に轢かれたりしたら大変だ。
「叶夢君、待って」
呼び声は雨音に掻き消されて、叶夢君に届かない。
車道にどこかで見たような車が止まっているのが見えた。
胸の奥がざわりと逆撫でされたような不安。
車のスライドドアが開いて、叶夢君がその横に立ち止まった。
車内から伸びてきた手が叶夢君を車に引き込むと、ドアが閉まるのも待たずに走り出す。
この時にはもう全速力で車に向かって駆け出していた。
体を操っているのが、自分なのかサトシさんなのか分からない。
車はどんどんスピードを上げ遠ざかっていく。
このまま見失ってしまったら……。
その時、ふっと視界がぼやけた。刺すような痛みが腹部に走る。
足が縺れて転びかけ、それでもどうにか叶夢君を連れ去った車を見失わないよう、またすぐに走り出す。
田舎町ではタクシーがタイミングよく通るなんてことはまず期待できない。
携帯で警察に電話しようにも、学校に置いてきてしまった。
このまま何もできないんだろうか。
全身をぐっしょりと濡らす雨のせいで、体力はどんどん奪われていく。
ついに、車は見えなくなった。
――叶夢君……!
もう、これ以上走れない。
そう思った時、背中からずるんと何かが剥がれ落ちるような感触。
それまでの苦しい呼吸もお腹の痛さも消え、わたしの体は透明になった。
はっと振り返ると、前髪から雨の雫を滴らせたサトシさんの紙のような白い顔がそこにあった。
前かがみに、両手を膝について肩で息をしている。
それでも、震える唇が「行け」と声を絞り出す。
「行ってくれ。……叶夢を、……はぁ、はぁ、……頼む」
今にも倒れそうな顔で、わたしに行けと言う。今、私だけが叶夢君を追うことができる。
けど、さっきまで感じていた腹痛や吐き気を思うと、サトシさんが学校まで無事に帰れるのかどうかも分からない。
魂だけのわたしには、誰かに何かを伝えることさえできない。
――せめて星さんに連絡できたら。
けれど、迷っている暇はない。
「行きます」
今、優先すべきは叶夢君を追いかけること。叶夢君の連れ去られた先が分かったら、またサトシさんに知らせに戻るんだ。
――それまで、サトシさん無事でいて。
あとは振り返らずに、車の走り去った方向に意識を集中させる。
わたしの意識は高く舞い上がり、叶夢君を追って飛んだ。
肉体を持たないわたしに何ができるかなんて分からない。
でも、叶夢君の側へ。
あっという間に午前中が終わり、次は給食の時間だった。
星さんのお母さんからお弁当をもらったものの、先生も給食を一緒に食べるらしい。
どちらにしても使われているのは星さんちの野菜だ。
白いエプロンと白い帽子、小さな顔に大きなマスクを着けた当番の子たちが、給食室から運ばれてきたお鍋からおかずを取り分けていく。
ちゃんと人数分に分配できるのか、こぼしたりしないかとハラハラしながら見守っていたけれど、どうにか全員に給食が行き渡った。
最後に当番の子がわたしの席に給食の乗ったトレーを持ってきてくれる。
サトシさんのメモ通りに、「では、お当番さん」と声をかけると、号令にあわせて「いただきます」の声が元気に響き渡った。
今朝は星さんの御家族に囲まれた朝ごはん、そしてお昼は子どもたちと一緒に給食を食べる。
こんな体験は二度とないかもしれない。
緊張と失敗の連続でも、子どもたちの元気に引っ張られるように一日が進んでいく。
誰もが経験してきたはずの時間が、サトシさんの目を通して見ると、まるで初めて見る世界にいるような二度とない貴重な時間だと思えた。
それは美術館にいる時に少し似ているかもしれない。
飾られた作品をさっと見て通り過ぎることもできるけれど、ひとつひとつを問いかけるように見ていくと、そこに知らなかった世界が広がっていることに気付く。
絵の中にそれぞれ違った世界があるように、子どもたちの中にもそれぞれ違う世界がある。
もし、自分の体に戻ることができたなら、先生にはなれなくても、子どもたちと関わる仕事がしてみたい。
昼休み、子どもたちが提出した日記帳を読みながらそんなことを考えていた。
そしてこの日最後の授業は体育だった。
「運動場でドッジボールをする」と書かれたメモ。ボールは体育係の子が準備してくれる。
わたしはタイムを測って笛を吹くだけだ。
二つのチームに別れて試合開始の合図。
ボールは何故かわたしの顔面に向かって飛んできた。
サトシさんならきっとうまく避けたに違いない。
だけど……。
「今日の先生、変!」
「先生、なんかあったのー?」
「失恋とか!?」
鼻が潰れそうな痛みを堪えながら、子どもたちがいつもと違う「サトシ先生」の秘密を暴こうとする声を聞いていた。
自分ではサトシさんになりきってうまくやれてるつもりだったけれど、子どもたちにはお見通しだったようだ。
――騙してごめんね。
舞い上がっていたわたしは、一転罪悪感に苛まれ始めた。
その時、異変は始まった。
「先生、あおいちゃんがお腹が痛いって……」
「なんか気持ち悪い……」
「先生! ヒロトがゲロ吐いた!」
女の子たちの悲鳴。ドサリと音がした方を見れば、地面に倒れている子がいた。
そして次々に不調を訴える子どもたち。
いきなりの事態に、わたしは何をしていいか分からず右往左往するばかりだった。
「だ、誰か保健の先生を……」
保健室に向かって走ったのは叶夢君だった。
近くで地面に嘔吐し続ける子の背中を擦りながら周りを見渡せば、半数の子が倒れたりうずくまっている。
一体何が起こってるのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは三十分程前に食べた給食だ。
わたしも同じ物を食べている。
そう考えた時、ふと胃のあたりがおかしいような気がした。
「先生、あおいちゃんが!」
女の子に腕を引かれて見れば、あおいちゃんがビクンビクンと体を震わせている。
もしかして痙攣?
今すぐ救急車を呼ばなくては。学校内でどうにかできるような状況じゃない。頭ではそう考えているのに、わたしの足が歩き方を忘れたみたいに動かない。
泣き出す子どもたち。
空からもポタリと雨の雫が落ちてきた。
地響きのような遠雷の音に、辺りが急速に影に包まれて行く。
――生死の理を犯して存在するわたしに、神様が怒っている
そんな考えが、降り出した雨と共に心の中へ染み込んできた。
けど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
わたしはあおいちゃんに駆け寄って、その体を抱き上げた。
「動ける子たちは他の先生を呼びに行って!」
そう指示して、一番近い校舎の入口へ走る。
出てきていた先生にあおいちゃんを託し、救急車を呼んでくれるよう伝えて、すぐさま運動場へ引き返す。
倒れている子を何度か往復して、校舎ではなく体育館へ運んだ。
保健室のベッドでは足りない。
体育の授業に使うマットの上に子どもたちを寝かせていく。
次第に集まり始めた先生方に状況を説明し、他のクラスの様子を調べてもらう。
もし、給食が原因だったとしたら――。
絶対にないと思いながらも、星さんの顔が脳裏を掠める。
救急車のサイレンが聞こえ始めた頃、外は本格的な雨になっていた。
体育館の屋根を打つ雨音が、外の世界との繋がりを絶とうとしているかのようで、子どもたちの姿を見るのが怖い。
わたしはサトシさんの代わりにこの子たちを守らなければいけない。
怯えている場合じゃない。
何度も何度も一人一人に声をかける。
半数以上の子どもたちが腹痛や吐き気を訴えている。被害は今のところこのクラスだけだった。
一番最初に動いてくれた叶夢君は、体育館の隅で青い顔で立っていた。
「叶夢君、大丈夫? さっきはありがとう」
近寄って声をかけると、その目からポタリと涙が落ちた。
不調を訴えていない子たちも、突然の騒ぎにみんな不安になっている。
叶夢君はお母さんのことがあってすぐだから、尚更かもしれない。
叶夢君の肩に手をかけようとしたその時、叶夢君はくるりと踵を返して駆け出した。
体育館に入ってくる救急隊員の人達の間をすり抜けて、外へ飛び出していってしまう。
振り返れば、何人かの先生方が救急隊員の方を症状の重い子の元へ案内してくれている。
一瞬躊躇ったものの、叶夢君がこの後具合が悪くならないとも限らない。
わたしは急いで叶夢君のあとを追いかけた。
運動場の端を走っていく人影を見つけて飛び出した。
ザーザーと降りしきる雨。
ぬかるむ土に足をとられる。
目を開けているのもやっとで、必死に叶夢君の姿を追うものの、ついに叶夢君は学校の外へと出てしまった。
車に轢かれたりしたら大変だ。
「叶夢君、待って」
呼び声は雨音に掻き消されて、叶夢君に届かない。
車道にどこかで見たような車が止まっているのが見えた。
胸の奥がざわりと逆撫でされたような不安。
車のスライドドアが開いて、叶夢君がその横に立ち止まった。
車内から伸びてきた手が叶夢君を車に引き込むと、ドアが閉まるのも待たずに走り出す。
この時にはもう全速力で車に向かって駆け出していた。
体を操っているのが、自分なのかサトシさんなのか分からない。
車はどんどんスピードを上げ遠ざかっていく。
このまま見失ってしまったら……。
その時、ふっと視界がぼやけた。刺すような痛みが腹部に走る。
足が縺れて転びかけ、それでもどうにか叶夢君を連れ去った車を見失わないよう、またすぐに走り出す。
田舎町ではタクシーがタイミングよく通るなんてことはまず期待できない。
携帯で警察に電話しようにも、学校に置いてきてしまった。
このまま何もできないんだろうか。
全身をぐっしょりと濡らす雨のせいで、体力はどんどん奪われていく。
ついに、車は見えなくなった。
――叶夢君……!
もう、これ以上走れない。
そう思った時、背中からずるんと何かが剥がれ落ちるような感触。
それまでの苦しい呼吸もお腹の痛さも消え、わたしの体は透明になった。
はっと振り返ると、前髪から雨の雫を滴らせたサトシさんの紙のような白い顔がそこにあった。
前かがみに、両手を膝について肩で息をしている。
それでも、震える唇が「行け」と声を絞り出す。
「行ってくれ。……叶夢を、……はぁ、はぁ、……頼む」
今にも倒れそうな顔で、わたしに行けと言う。今、私だけが叶夢君を追うことができる。
けど、さっきまで感じていた腹痛や吐き気を思うと、サトシさんが学校まで無事に帰れるのかどうかも分からない。
魂だけのわたしには、誰かに何かを伝えることさえできない。
――せめて星さんに連絡できたら。
けれど、迷っている暇はない。
「行きます」
今、優先すべきは叶夢君を追いかけること。叶夢君の連れ去られた先が分かったら、またサトシさんに知らせに戻るんだ。
――それまで、サトシさん無事でいて。
あとは振り返らずに、車の走り去った方向に意識を集中させる。
わたしの意識は高く舞い上がり、叶夢君を追って飛んだ。
肉体を持たないわたしに何ができるかなんて分からない。
でも、叶夢君の側へ。